新国『サロメ』はアウグスト・エファーディング(1928-1999)演出の7回目の再演。2000年の初演から続いている同演出を観たのは2016年3月、7年前になる。同時期にヴォータンも演じたグリア・グリムスレイのかっこよすぎるヨハナーンにクラクラした記憶があるが、装置やディティールに関してはかなり曖昧にしか覚えていなかった。ヘロデ王の宴が催されているのはニンニクのような(!)形状の屋根の下に張られたテント状の空間で、ヘロディアスを侮辱したヨハナーンは大きなマンホール(?)の下に監禁されている。コサック兵のような装束の兵士と、その脇には機動隊のような兵士たちが構えており、視覚的に古代と現代の時間がミックスしたような感覚。一時期のベジャール・バレエを思い出した。
サロメ役のアレックス・ペンダ(アレクサンドリーナ・ペンダチャンスカ)は可憐で小柄、ノットと東響との『パルジファル』ハイライトで聴いたときはもっと大柄な印象があったが、プロの舞台人はオーラを切り替えることが出来るので、サロメ役では少女になり切っていたのかも知れない。華美な宮殿の中でサロメだけ黒い衣裳をつけて、まだ俗悪なものを知らない幼い修道女にも見える。歌唱は気迫に満ち、高音が厳しそうな箇所もあったが、ほとんど気にならなかった。
大きな発見は、この演出ではサロメとヨハナーンが「実は最初から心が通じ合っている」ように見えることだった。サロメの求愛に対してヨハナーンは理性を必死に保ちながら呪詛の言葉で立ち向かう。歌手によって見え方が違うのかも知れない。前回のグリア・グリムスレイは屈強だったが、今回のヨハナーンは一瞬でも気を緩ませたらサロメに呑み込まれそうな繊細さがあった。プロフィール写真ではスキンヘッドのアイスランド出身のバリトン、トマス・トマソンが黒い蓬髪の洗礼者を演じた。
サロメはヨハナーンの「龍が住む洞窟のような黒い瞳」「葡萄のような黒髪」「象牙の柱のように細くて白く美しい体躯」に一目惚れして「私は美しいお前にキスしたい」と歌う。これに対してヨハナーンは「ソドムの娘。汚らわしい淫売」とサロメを追い払う。お互いの言い分がかみ合わない、どこまでいっても平行線のやり取りを、オーケストラが全く異なる響きの音楽でアンダーラインする。サロメは陶酔し、ヨハナーンは呪う。しかしここでは裏腹なものが通底している。コンスタンティン・トリンクス指揮の東フィルが今回も奇跡的な音を奏でていた。
リヒャルト・シュトラウスは素晴らしい思想家で、どうにもならない二つのパワーの相克を、オペラの力で結末へと運んでいく。『エレクトラ』と『サロメ』をこの5月に立て続けに聴いて、作曲家は巨大な思想を残した偉人なのだと痛感した。男女は分かり合えず、理念の違うも者同士は殺し合い、どちらが悪人かも判然としない。サロメは愛を求め、ヨハナーンは信条=自己にとっての正義を貫く。ディスカッション不可能な者同士の対峙は、宗教戦争そのものだ。しかし、背き合うもの同士は、その過程でどんどん似てくるのだ。
5人のユダヤ人たちは与儀巧さん、青地英幸さん、加茂下稔さん、糸賀修平さん、畠山茂さんが演じたが、旧約聖書の登場人物であるはずが皆16世紀頃の宣教師に見える。演出家が意図したのは、かなり宗教的な含蓄のあるメッセージだと思う。「どちらが異教徒か」という現代まで続く議論が、100分のオペラの中に(恐らく)詰め込まれている。上演される土地によって、リアリティの度合いが異なるかも知れない。
サロメを淫蕩だと非難するヨハナーンは、実はサロメに魅了されている…と強く感じたのは、自分の容姿を誉めそやす少女の言い分が、初めて気づかされた自分の女性的な部分なのではないかと思われたから。お前の目が素敵、髪が豊か、肌が白くて美しい…ぞっとするほど魅了される、と迫られる。女の側が一目惚れをして、「金色のアイシャドウの下の金色の瞳で」男の自分に触れたがってくる。官能の相互作用が、微粒子のように空間に漂い始める。
リヒャルト・シュトラウスのオーケストラは、香りであり気配であり、理念の網を潜り抜けて感覚に触れてくる。嗅覚的であり触覚的であり、第六感的な魔法だ。理念という鉄骨の間から沁み出す湧水のようなもので、聴いている側は知らぬうちに催眠術にかけられる。交響詩とオペラでこの技を駆使した作曲家が、交響曲にはそれほど食指を動かされなかったのは、自らの資質を自覚していたからだろう。
ヘロデ王にヨハナーンの首をとらせるためにサロメが舞う「七つのヴェールの踊り」は、ふだん舞うことのない多くの歌手にとって大変な場面だが、最初シルエットとして、そのあとすぐに照明を浴びて踊り続けたアレックス・ペンダは魅惑的だった。昔METライブ・ビューイングでカリタ・マッティラが苦渋に満ちた表情で踊ったときは「大人の拍手」が沸き起こっていたが、相応しい振付と衣裳と照明を味方につければ、歌手にとっても遣り甲斐のあるシーンだと思う。
ヨハナーンの斬首を仄めかす弦の擦過音は恐ろしく、その後のサロメの陶酔の歌も凄味があった。10年くらい前、ピアニストのニコライ・ホジャイノフが「先日『トスカ』と『サロメ』を観たんだけど、女性って恐ろしいんだね」とインタビューで語ってくれたことを思い出した。トスカもサロメも恐ろしい女性ではなく、純真で素直なだけなのだ。ただ、愛が強すぎる。幼いサロメが抱いていたのは肉欲というよりも、「一目惚れをした魅惑的な異性との未来の夢」で、それを本人から断たれたことで、自分なりの一体化をはかった。それを別の男の肉欲によって果たすところは、老獪かも知れない。
オペラは衒学的なものではなく、それほど知識は必要ないのではないかと思わされた公演でもあった。サロメの歌詞のところどころが身につまされ、ただ生きているだけでオペラを理解するのは容易なことだと実感したそう言い。切るには、時間がかかったことも確かである。
ヘロディアスを演じたジェニファー・ラーモアはロッシーニの名手で、前回新国で演じた『イェヌーファ』のコステルニチカの葛藤のある演技も素晴らしかった。歌声も本当に素晴らしいが、舞台にいてサロメの様子をじっと見つめているだけでも存在感がある。ヘロデ王のイアン・ストーレイの威厳と滑稽の入り混じる演技も心に残る。前半でサロメのヨハナーンへの愛に失望して自害してしまうナラボート役の鈴木准さんも大きな貢献を果たしていた。
6/1 6/4にも上演される。
(プログラムの画像)
サロメ役のアレックス・ペンダ(アレクサンドリーナ・ペンダチャンスカ)は可憐で小柄、ノットと東響との『パルジファル』ハイライトで聴いたときはもっと大柄な印象があったが、プロの舞台人はオーラを切り替えることが出来るので、サロメ役では少女になり切っていたのかも知れない。華美な宮殿の中でサロメだけ黒い衣裳をつけて、まだ俗悪なものを知らない幼い修道女にも見える。歌唱は気迫に満ち、高音が厳しそうな箇所もあったが、ほとんど気にならなかった。
大きな発見は、この演出ではサロメとヨハナーンが「実は最初から心が通じ合っている」ように見えることだった。サロメの求愛に対してヨハナーンは理性を必死に保ちながら呪詛の言葉で立ち向かう。歌手によって見え方が違うのかも知れない。前回のグリア・グリムスレイは屈強だったが、今回のヨハナーンは一瞬でも気を緩ませたらサロメに呑み込まれそうな繊細さがあった。プロフィール写真ではスキンヘッドのアイスランド出身のバリトン、トマス・トマソンが黒い蓬髪の洗礼者を演じた。
サロメはヨハナーンの「龍が住む洞窟のような黒い瞳」「葡萄のような黒髪」「象牙の柱のように細くて白く美しい体躯」に一目惚れして「私は美しいお前にキスしたい」と歌う。これに対してヨハナーンは「ソドムの娘。汚らわしい淫売」とサロメを追い払う。お互いの言い分がかみ合わない、どこまでいっても平行線のやり取りを、オーケストラが全く異なる響きの音楽でアンダーラインする。サロメは陶酔し、ヨハナーンは呪う。しかしここでは裏腹なものが通底している。コンスタンティン・トリンクス指揮の東フィルが今回も奇跡的な音を奏でていた。
リヒャルト・シュトラウスは素晴らしい思想家で、どうにもならない二つのパワーの相克を、オペラの力で結末へと運んでいく。『エレクトラ』と『サロメ』をこの5月に立て続けに聴いて、作曲家は巨大な思想を残した偉人なのだと痛感した。男女は分かり合えず、理念の違うも者同士は殺し合い、どちらが悪人かも判然としない。サロメは愛を求め、ヨハナーンは信条=自己にとっての正義を貫く。ディスカッション不可能な者同士の対峙は、宗教戦争そのものだ。しかし、背き合うもの同士は、その過程でどんどん似てくるのだ。
5人のユダヤ人たちは与儀巧さん、青地英幸さん、加茂下稔さん、糸賀修平さん、畠山茂さんが演じたが、旧約聖書の登場人物であるはずが皆16世紀頃の宣教師に見える。演出家が意図したのは、かなり宗教的な含蓄のあるメッセージだと思う。「どちらが異教徒か」という現代まで続く議論が、100分のオペラの中に(恐らく)詰め込まれている。上演される土地によって、リアリティの度合いが異なるかも知れない。
サロメを淫蕩だと非難するヨハナーンは、実はサロメに魅了されている…と強く感じたのは、自分の容姿を誉めそやす少女の言い分が、初めて気づかされた自分の女性的な部分なのではないかと思われたから。お前の目が素敵、髪が豊か、肌が白くて美しい…ぞっとするほど魅了される、と迫られる。女の側が一目惚れをして、「金色のアイシャドウの下の金色の瞳で」男の自分に触れたがってくる。官能の相互作用が、微粒子のように空間に漂い始める。
リヒャルト・シュトラウスのオーケストラは、香りであり気配であり、理念の網を潜り抜けて感覚に触れてくる。嗅覚的であり触覚的であり、第六感的な魔法だ。理念という鉄骨の間から沁み出す湧水のようなもので、聴いている側は知らぬうちに催眠術にかけられる。交響詩とオペラでこの技を駆使した作曲家が、交響曲にはそれほど食指を動かされなかったのは、自らの資質を自覚していたからだろう。
ヘロデ王にヨハナーンの首をとらせるためにサロメが舞う「七つのヴェールの踊り」は、ふだん舞うことのない多くの歌手にとって大変な場面だが、最初シルエットとして、そのあとすぐに照明を浴びて踊り続けたアレックス・ペンダは魅惑的だった。昔METライブ・ビューイングでカリタ・マッティラが苦渋に満ちた表情で踊ったときは「大人の拍手」が沸き起こっていたが、相応しい振付と衣裳と照明を味方につければ、歌手にとっても遣り甲斐のあるシーンだと思う。
ヨハナーンの斬首を仄めかす弦の擦過音は恐ろしく、その後のサロメの陶酔の歌も凄味があった。10年くらい前、ピアニストのニコライ・ホジャイノフが「先日『トスカ』と『サロメ』を観たんだけど、女性って恐ろしいんだね」とインタビューで語ってくれたことを思い出した。トスカもサロメも恐ろしい女性ではなく、純真で素直なだけなのだ。ただ、愛が強すぎる。幼いサロメが抱いていたのは肉欲というよりも、「一目惚れをした魅惑的な異性との未来の夢」で、それを本人から断たれたことで、自分なりの一体化をはかった。それを別の男の肉欲によって果たすところは、老獪かも知れない。
オペラは衒学的なものではなく、それほど知識は必要ないのではないかと思わされた公演でもあった。サロメの歌詞のところどころが身につまされ、ただ生きているだけでオペラを理解するのは容易なことだと実感したそう言い。切るには、時間がかかったことも確かである。
ヘロディアスを演じたジェニファー・ラーモアはロッシーニの名手で、前回新国で演じた『イェヌーファ』のコステルニチカの葛藤のある演技も素晴らしかった。歌声も本当に素晴らしいが、舞台にいてサロメの様子をじっと見つめているだけでも存在感がある。ヘロデ王のイアン・ストーレイの威厳と滑稽の入り混じる演技も心に残る。前半でサロメのヨハナーンへの愛に失望して自害してしまうナラボート役の鈴木准さんも大きな貢献を果たしていた。
6/1 6/4にも上演される。
(プログラムの画像)