小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

聖戦としての第九 東フィル×尾高忠明

2020-12-20 02:40:06 | クラシック音楽
東フィルの今年の第九は途轍もない名演だった。ベートーヴェン・イヤーでありベートーヴェンの誕生日の三日後である12月19日、196年前に初演されたこの曲が異様なまでのリアリティをもって演奏された。指揮は尾高忠明さん、コンサートマスターは三浦彰宏さん。一楽章は素朴な雰囲気で始まった。わざと艶消しにしている地味な音楽作りにも感じられた。平凡な民たちが、圧政に苦しめられながらも何とか善良に生きながらえる術を探しているような…そんな無防備さがあった。しかし、何かに気づいている。この閉塞状況を打破しなければ。丸腰でこの場をやり過ごすのか、相手からナメられたままでいいのか。「闘いの前夜」のような一楽章だった。

毎年第九を聴いていて、指揮者がこの曲に創意工夫を盛り込もうとしたり、していなかったり、オーケストラのトレンド的なものを取り入れて、無茶苦茶に早かったりピリオド的にしたりするのを見てきた。日本のオケは同時期にこの曲を取り上げるので、どうしても聴き比べとなる。何か冴えた創意工夫がなければ、やはりオーソドックスな演奏になってしまう。

前日に同じサントリーホールで聴いた読響とセバスティアン・ヴァイグレの第九は、不自然さがなく優美であったが、東フィルほどのインパクトはなかった。ヴァイグレがドイツ人で、大戦後のドイツが大きな傷跡を癒すためにあらゆる人間的営為を文化に注いできたからだと思う。第九が人間の過ちや愚かさを照らし出す音楽だというアイロニーを認識し、時間をかけて反省し続けてきたので、1961年生まれのヴァイグレはその感覚を強く持つ必要がないのだ。日本の戦後はどうであったか。我々の戦後の歴史の一時的な豊かさ、繁栄はまやかしで、世界の最も病んだ闇とつながっていたのではなかったか。その歪みを、この十年で段階的に気づかされてきたはずなのだが、大方はまだ眠っている。古い何かに騙されている。西洋文化に対して最もスピーディな受容を果たしたのが日本だと日本人は思っているが、他国の進化を知らない。テクノロジーも何もかも、下に見てきた国々に追いこれさている。

第九に関して、曲をもっと内側から感じなければならない…という切迫感が尾高先生の解釈にはあったのではないか。奇矯さはないが、鋭い音楽だった。「ここでもっと鳴るはず」と思う箇所で、そのパートが意外なほどの弱音となる。そうなると、フレーズの意味を深く考えずにはいられなくなる。ベートーヴェンは何を暗示し、何を望んでこれを書いたのか。
二楽章の始まりは、プレイヤー全員の呼吸の音が聴こえるような勢いだった。細かい音が無駄なく緻密に演奏され、そのことで聴いたことのない清冽さがホール全体を満たした。弦からも管からも注意深い呼吸が感じられる。高度な知性を想像した。第一楽章で無力な無辜の民であった人間が、様々な工夫を凝らして敵と闘うための武器を製造しているイメージだった。強弱は自由自在で、指揮者の意図が通じていない箇所はひとつもないように聴こえる。時折訪れる全パートの空白が、刃物のように鋭利だった。

三楽章の美しさには息を呑んだ。ベートーヴェンがこの曲を書いたとき難聴はかなり進んでいたはずで、この響きがほぼ「内観」によって書かれていたことに改めて驚愕した。肉体的な条件を、精神的な志向性が凌駕している。ある意味、肉体を置き去りにしているから出来る芸当で、そうして自死の誘惑を断ち切った精神のアクロバットがある。肉体が「目に見え、具体的に感じることのできる現実の領域」を担当しているとしたら、精神は「目に見える世界のその上をいく」無限の可能性を請け負っている。
 ベートーヴェンが確信していたのは、認識は現実に先立つという、およそ凡人には考えつかない可能性で、どんな悲惨な状況にあっても精神の光明が、新しい現実を創り出すという真実である。
 イメージが現実を作る、というと何かの啓発セミナーみたいにも聞こえるが、このどん詰まりの2020年、楽観的であるか悲観的であるかは運命の明暗を分ける選択だ。我々はもっと真実を知りたいし、自分を愚かなままであるとは認めたくないし、善良さと正義が勝つという「結果」が見たい。尾高さんの音楽作りには、「未完成のままではなく、最後の結論まで到達しよう」という気概が感じられた。

第四楽章では、歓喜の歌のモティーフを奏でるコントラバスが意外なほどの弱音で、別の曲を聴いているような感覚に見舞われた。遅い早いではなく、弱音は時間を引き延ばす。感覚と意識の不思議なサイエンスで、秘められたものの価値を見つけようと聴衆はその旋律の真意について考察を始めるのだ。「おお友よ…」のバリトンの歌い出しが最高だった。勇敢で高潔で、それまで慎重に積み上げられてきた音楽の価値が爆発的に増殖した。歌手の伊藤貴之さんとは、2014年の藤原歌劇団の『ラ・ボエーム』の終演後のパーティで少しだけお話したことがある。そのときのマエストロの感想や、歌手が置かれている現実について素晴らしく率直に語ってくれた。音楽家が正直であることに感動し、伊藤さんの誤魔化しのない生き方に共感した…そういうことを一気に思い出し、緊張を強いられる場面で迷いなく大きな力を発揮している姿を眩しく見つめた。テノールの清水徹太郎さん、ソプラノの吉田珠代さん、アルトの中島郁子さんも神々の国からの使者のようだった。新国立劇場合唱団のパワフルな合唱が加わって、尋常でないほどの幸福感が押し寄せてきた。ラストに向かってオーケストラも祝祭感を高めていく。

ベートーヴェンの音楽は星空を連想させる。すべての楽器が堰を切ったようにボリュームを上げていったとき、星空がパヴェダイヤのジュエリーのように「星づくめ」になった。すべてのパートが混濁せず、同時に固有の音を発し、共存していた。この感覚を正確に描写するにはどうしたらいいか。不幸をもたらす不可視の力に対し、最初は武器で抵抗しようとしていた平凡な人間が、今や敵よりはるかに知的な存在となり「我々は丸腰で、ただここに存在して勝利する」と宣言しているようでもあった。
 尾高さんの指揮なのだから、このタイミングでの第九は凄いものになると予想はしていたが、遥か頭上にある世界を見せられた。マエストロの視点をクリアに表現する東フィルは本当に凄いオーケストラで、裏方スタッフも含めこの演奏会を成就させたすべての人々の意志の強さにも胸打たれた。「この時だからこそ」という底力が伝わってきて、ここから先は本気で幸福であることを目指して生きなければならない…と気づかされた。第九は確かに永遠の名曲なのだ。










東京ニューシティ管弦楽団×矢崎彦太郎(12/17)

2020-12-19 03:24:04 | クラシック音楽
12/17はいくつかの重要なコンサートがあったが、池袋の東京芸術劇場で東京ニューシティ管弦楽団を聴いた。矢崎彦太郎さんは9月に新日フィルとの共演を聴いてから「あ、理想の指揮者だ」と思っていた方。フランスを始め多くの国で活躍されてきたマエストロのことをもっと知りたくて、チケットを購入した。
オーケストラを聴き始めてしばらくして、指揮者というのは同じことをやっているように見えて全く別のことをやっているのだと知った。オケをどのように鳴らしているか、その共同作業のやり方が矢崎先生は理想的なのだ。リハーサルを聴いたわけではない。聴こえてくる音楽が平和で、サウンドを裏側から支えているものが他の指揮者とは違う感じがする。ドビュッシー『組曲《子供の領分》』(アンドレ・カプレ編曲)は、凍った地面から春が湧きだすような音に感じられた。自然な響きで、何と何をミックスして、どう遠近感をつければあんな素敵な音が出るのか見当がつかない。強制的なことは何一つ行われず、ひとつの神秘に包まれて皆が軽い催眠術にかかっているような雰囲気だ。
「指揮」は本当に錬金術だと思う。矢崎先生の持つ色彩感はあまりに見事過ぎて、変化していく響きのグラデーションがとても柔らかい。ピアノ曲のオーケストラ編曲版はラヴェルがよく書いているが、カプレが編曲したドビュッシーは何だかユーモラスで可愛らしく、威張ったところがまったくない。『小さな羊飼い』はピアノでは簡単な曲で、よく子供の頃に弾いていたが、なぜあんなに寂しい気持ちになるのか不思議だった。オーケストラ版でも少しセンティメンタルな気分になった。「ゴリウォーグのケークウォーク」は管弦楽版で聴くとほぼ外山雄三先生の曲だ。魅惑的な6曲があっという間に終わってしまった。

プロコフィエフ『ピアノ協奏曲第2番』は、務川慧悟さんがソロを弾いた。予定していたピアニストが来日できず、結構急な代役だったが、短期間で難曲をマスターして凄味のある演奏を聴かせた。ウィーン・フィルとマツ―エフで聴いたばかりだが、ゲルギエフとマツ―エフが零下50度の厳冬の世界を表現していたのに対し、務川さんは悲観よりも強烈な力で、春の戦士のようにこの曲の扉を開いていた。どれだけ「正確な」演奏だったのかということより、アブストラクトのような旋律を次から次へと勢いよく響かせていくピアニストの迫力に圧倒された。プロコフィエフは、メロディを憎みながら愛しているようなグロテスクな曲を書き、聴く方も3番の躍動感に比べて荒涼とした気持ちになることが多いが、これは名演だった。

フランクの『交響曲ニ短調』は、ブルックナーに通じる宇宙的な広がりを感じさせた。一楽章からこんこんと湧き出す響きの美しさが凄まじく、ステージの上で合奏しているプレイヤーの幸福感はいかばかりかと溜息が出た。プロコフィエフに比較すると臆面もないほど「歌」が溢れ出す。歓喜の合唱のように楽器が昂揚する。その歌が垢抜けないものだったら、さぞ退屈なシンフォニーになっていただろう。美意識が卓越している。ピツィカートとハープの組み合わせが、エレガントな香水のように香っていた。快楽的というのとも違う。素晴らしい道徳観が底にある。人はなぜ絵を描いたり映画を撮ったり音楽を演奏したりするのか…命をどのように使って世界に証を見せるのか…その決意と極意を考えさせる音楽だった。
 音楽の中の歌とは何か…バーンスタインは「自分がなぜ調性音楽を作るのか」言語学を引用してまで長々と説明していたが、メロディとは命そのもので、どんな皮肉も冷笑的な考えも、これを死滅させることは出来ない。死ぬ間際に脳裏をよぎるのはシェエラザードや悲愴のような音楽で、無調の現代音楽的ではないと思った。

 フランクのニ短調はこのひどい2020年に様々な答えを与えてくれる奇跡のシンフォニーで、変わりゆく世界と、太古から変わらぬ不変の世界が、同時に矛盾なく描かれている。変わらぬものは人の情や優しさで、変わっていくものは…あまりに未知だ。何億光年先にあったとしても、芸術家は遠くにある星を諦めない。巨大な問い。「人間性とは何か」。哲学書を読まずとも、こういうコンサートを二時間聞けば答えが出る。人は生まれて死ぬ。運命を受け入れるのだ。他人を傷つけず、この世界を明るくして「ありがとう、さようなら」と去っていく人生こそ最高だ。そんな者に私はなりたい。矢崎先生がフィナーレ楽章で、人差し指を天に向かって振り上げた時、音楽は宿命のままに死に向かい、間髪入れず天国が現れた。よりよく生きるために、哲学書なんか要らない。指揮者とオーケストラは凄い問いと答えを見せてくれる。
実際に、素晴らしいリハーサルの後であの本番だったのだろう。楽員さんの様子を見ていれば分かる。そういうときほど、喝采は手短にさせて袖に隠れようとするマエストロの姿が微笑ましかった。生きている人間が神様のようなことをすると、こんな風に照れてしまうものなのだな、と納得した。




 


 

ゲルハルト・オピッツ 最後の3つのソナタ&バガテル(12/11) 

2020-12-12 11:32:13 | クラシック音楽
久々の海外のピアニストのリサイタル。金曜日のオペラシティは予想以上に埋まっていて、熱心なファンも多いのだろうか、最近のリサイタルでは珍しいほどの熱気が漂っていた、
オピッツは穏やかな笑顔で登場。ベートーヴェン『ピアノ・ソナタ第30番』のはじまりは、いつも秋の枯れ葉が舞い散る景色を思い出す。デスクで書き物をする人のような背中で、オピッツは淡々と弾き進めた。内省的で虚飾のないタッチ。2楽章のプレスティッシモも激昂しすぎず、抑制感がある。よくコントロールされているが、物凄い強靭な左手の持ち主だ。数々の招聘公演が中止となった2020年、「生粋のドイツ精神」とはどのようなものかを考えた。

オピッツはドイツ音楽の伝統の正統的な継承者だと言われる。この夜のベートーヴェンは、ドイツの伝統のど真ん中にいるとも思えるし、同時に国籍関係なくユニヴァーサルなピアニズムにも思えた。オピッツはベートーヴェンの「個」としての性質や、時折理念の裏をかくような作曲家の衝動性も浮き彫りにしていたと思う。演奏にはメソッドが息づいているが、ベートーヴェンは「規律」のみに閉じ込められるような表現者ではない。天にも届く創造性をもつ人間の、「地に根付きたい」「安らかに生きたい」と思う心も伝わってきた。

30番のソナタの静かな終わり方は、ベートーヴェンのシンフォニーやコンチェルトとは対蹠的で、階段をゆっくり登り切った先にたどり着いた地のような、不思議な静けさに満ちている。そこが具体的にどんな場所であったかは、聴き手に想像させるのだ。オピッツの終わり方はどこか宗教的な余韻があった。
31番は30番の続きのような世界だ。幻想的な色彩が燈篭流しのようにちかちかと点滅し、ひとつの命のような息の長い旋律が何かの終わりに向かって一途に流れていく。「ピアニストはその日の聴衆が何を考えているかを感じて音を出す」とポゴレリッチは語っていたが、すべてのピアニストがそうなのかも知れない。客席の意識は水のようにひとつになり、オピッツはその水面に向かって美しい波紋を与えていた。コンサートという空間の貴重さを改めて思った。
「アレグロ・モルト」は師匠のルドルフ・ケンプとはだいぶ違っていて、スタッカートを強調して不器用なダンスのような弾き方をしていたケンプのようには弾かない。何かが現代風だ。「ドイツピアニズムの伝統」を守るということと、「ベートーヴェンを探求する」ということは、イコールであると同時に個別の作業であるに違いない。ベートーヴェンは強烈な個人であり、同時に世界精神でもあり、未来のための作曲家なのだ。

 2000年代に入って、世界はグローバル化が進んだが、2008年頃から「グローバル化は害だ」という風潮が出始め、近年の英国のEU離脱につながるような流れが出始めた。クラシックでも「オーケストラの音がグローバル化するのは由々しい」と言われ、個別のルーツを持つローカルな音を求める趨勢があった。甚だもっともなことだが「世界はひとつ」であってはいけないという意図にも感じられ、複雑な思いだった。歴史に裏付けられたアイデンティティは必要だが、「その国らしさ」を永遠に求めるというのは、女性がいつまでも「外側から観察される性」であるのと少し似ている。

ベートーヴェンはドイツ的であり、グローバルである。オピッツはそんなダブルスタンダードを、とうの昔に認識していたのだろう。後半の「6つのバガテル」は妖艶なほどの高貴さに溢れ、2曲目のアレグロからは鋭く強い香気が感じられた。この曲には、どんなピアニストも魅了されるという。アンデルシェフスキがドキュメンタリー映画で夢見るような表情で曲の魅力を語っていたのを思い出した。オピッツは気品を保ちながら、バガテルのもつあどけなさ、包み隠さぬ情熱や秘められた官能性も聴かせてくれた。余韻には手品のように呆気にとられる不思議さもあった。

素晴らしい演奏会とは光のようなもので、その瞬間の光について正確に言葉で再現することは難しい。何故だか2020年という年は、極端なほど基本に戻って保守的なことを言わなくてはならないような無言の圧力を感じさせる年だった。光を再現することは出来ない。光を浴びていたとき、自分がどんなふうにびっくりした顔をしていたかを再現することは出来る。最後の32番のソナタでは、ベートーヴェンの知性と野生、理念と衝動性が表裏一体となり、オピッツは長年の経験で築いた不動の芸術性を発揮し、同時に「今このとき」に生まれる予測不可能な何かも歓迎してリサイタルに奇跡をもたらした。穏健なピアニスト…という印象だったが、音楽を通じて遥か未来まで見通しているラディカルな哲学者なのだ。ベートーヴェンはどんどん若返る。演歌的な情念とは反対の、爽やかな「軽さ」も感じられたリサイタルだった。


二つの光 読響×ヴァイグレ(12/9)

2020-12-10 04:46:36 | クラシック音楽
読響と常任指揮者セバスティアン・ヴァイグレの1年3か月ぶりの共演。指揮者の2週間待機を経ての再会リハーサルは充実したものだったのだろう。前半のモーツァルト『ピアノ協奏曲第25番』から天上的なサウンドがサントリーホールを埋め尽くした。
モーツァルトの25番というのは、実はあまり数を聴いてこなかった。オペラの断片がたくさん詰まった楽しいコンチェルトで、『フィガロの結婚』の登場人物のアリアや重唱のフレーズが雨あられと降ってくる。岡田奏さんのピアノのタッチが、雲の上で鳴っているような「神の世界の音」だった。作曲家の溢れ出るままの霊感が、素晴らしいユーモアと優雅さで絵巻物のように綴られていて、ソロとオーケストラの掛け合いが宝石のきらめきのように優美だ。ウィーンつながりか、先日鑑賞したばかりの『こうもり』を思い出す。アデーレの嘘泣きと、バルバリーナのかしましさはどこか似ていて、オーケストラは歌手が歌っていないときも、彼女たちの面白さを表現する。一楽章はブッファのようなオペレッタのような世界だった。

岡田さんの白いドレスが夢のようなふわふわのデザインだったので、音楽からも薄絹とか繭とか、産着を連想する瞬間があった。2楽章では無垢で無邪気なピアノをオーケストラが着心地のいいガーゼかコットンのように包み込み、何とも言えない幸福な色合いの響きが生まれた。フルートとオーボエとピアノが重なり合うフレーズからは神の子の誕生を祝福するようなイメージを得た。ふと「魂はどこからやってくるのだろう」と考える。この厳しい時代に地上に舞い降りてくる魂は、不安ではないのだろうか。3楽章は、よちよち歩きの子供がありとあらゆるものから守護されて、健やかに育っていく音楽に感じられた。神が「地上は楽しい場所だから、遊んでおいで」と送り出してきた魂は、このように朗らかに歌い踊るのではないか…そう思えるピアノ・ソロだった。地球は地獄のような場所ではない…人の意識がスピーディに洗練され、社会全体の美意識が高まっていく「新しい世界」をオーケストラが表しているように感じられた。

休憩時間には、後半のブルックナーに備えての定番のトイレ行列(!)がいつものように見られたが、そんな中で今日も、あまり共有されることのない孤独な感想を抱くことになる自分自身のことを鬱々と考えていた。前半のモーツァルトが素敵すぎたせいか。そもそもクラシックを聴くのは「この世界に生まれたくなかった自分」と折り合いをつけるためだったことを、思い出さずにはいられなかったのだ。有り余るほどの愛情を得て育ったが、子供の頃からこの世界が嫌で嫌でしようがなかった。自分は野蛮さが足りていない。そのせいで、外の色々なものに傷つけられる。前の晩に、40歳で夭折した雨宮まみさんの『東京を生きる』を読んでいたせいで、自分と同じように感情が揺れやすく、脆くて正しい自己評価が持てない彼女のことを思い出していた。自分や彼女のような人には、心細やかな優しい空気や、社会が必要なのだ。

ヴァイグレが読響から引き出す音には、繊細さと温かさがあり、低弦は主張し過ぎず、管楽器にもしなやかさがある。どこか懐かしい感じがするのは、アナログレコードで聴いた70年代の名録音と響きが似ているからだ。読響も普段から、そういうデリカシーを表現している。本質的に相性がいいのだと思う。読響は先週、井上道義さんと鬼気迫るブルックナーの7番を演奏したばかりだが、マエストロの「個」に凝縮していった7番とは違う、ヨーロッパ文化を俯瞰するような「ウィーンの音」がこの夜の6番からは聴こえた。複数の文化の結節点として機能しているウィーンという都市の「香り」が漂ってくるようだった。

ブルックナー愛好家は男性が多いという。トイレジョークが生まれるほどだが、男性は論理的に突き詰めることを愛するので、きっと自分とは別の聴き方をしていると思う。ブルックナーを聴くたびに思うのは、彼がもてない男で、頓珍漢なプロポーズをしては女性から振られ、もしかしたら童貞のまま亡くなっていたかも知れないという伝記である。美しい音楽を書いたリストは美しい女性たちから愛されたが、同じように美しい音楽を書いたブルックナーはそうではなかった。多くの作曲家はミューズを必要とするが、ブルックナーは生身の女性からではなく、自然や信仰の美から霊感を得ていたのだ。
 同じフレーズの執拗な繰り返しは、判で押したラブレターを何通も書いてくるもてない男の性格を表しているが、音楽のどの瞬間を切り取っても奇跡的な「美」が息づいている。この特殊な時間の持続は何なのだろう。うまい比喩が見つからない。朝の透明な空気のように、健やかで清々しいものをオーケストラは運んでくる。

 これほどすべてが自然に流れていく音楽があるだろうか…とブルックナーの天才に感謝したくなった。五感の快楽は泡のように消える。譜面とは石に刻まれた碑のようなもので、この先1000年はもつだろう。ブルックナーの肉体が1000年生きたとして、そこに何の意味があるだろうか。限られた時間に「天国にある美」を掴んだからブルックナーは偉大だったのだ。チャイコフスキーの最も崇高な部分は、ブルックナーに通じている。チャイコフスキーは快楽主義者だったので、53歳までしか生きられなかったのかも知れない。ブルックナーは妖精と精霊に守られて純潔を貫き70代まで生きた。
 読響とヴァイグレのブル6を聴いて森の中で霧を浴びているような神聖な心地になり、ブルックナーが信じていた神の国が地上に近づいているような予感がした。オーケストラは社会を先取りしている。この世界はこれからどんどん審美的になり、暴力が生き続けられなくなり、闇の力に民の心が勝つ。生まれたくなかったけれど、ここまで生きてきてよかった。自分の魂が期待していた地球が、もうすぐ顕れるかも知れない。バーンスタインが言うようにマーラーは20世紀の預言者だったが、ブルックナーは21世紀の預言者だと思う。

 岡田奏さんのモーツァルトを聴いて「生まれることは怖くない」と思い、ブルックナー6番で「死ぬことは怖くない」と思った。二つの光が反対方向から差し込んでいるのを感じ、このような世界をオーケストラと作り上げるヴァイグレは、心から信頼できる人物だと確信した。彼のドイツの歌劇場での日常、今まで出会った人々、数々の素晴らしい経験を想像した。ソロ・カーテンコールに登場したヴァイグレは、深いお辞儀をしてスタンディングで喝采する客席に応えた。私にとって大切な指揮者は、大きな愛を持っている指揮者だ。ヤンソンスが特別だったのは、特別に巨大な愛を持っていたからで、こうした感想を「散文的」とだけ断じられるのは嫌だ。命についての貴重な認識と、大きな癒しを得た夜だった。




読響×マキシム・パスカル 東京芸術劇場

2020-12-05 10:29:31 | クラシック音楽
読響と85年生まれのフランス人指揮者マキシム・パスカルの共演。東京芸術劇場開館30周年記念公演で、客席は最近の在京オケのコンサートでは珍しいほど埋まっている。
2週間の隔離待機中は、静かに楽譜を読みながら日本茶を楽しんでいたというマキシム君。いつもピットにいるイメージなので、「陸に上がった」彼がこんなに背が高いことにあっと驚いた。栗色のくせ毛が耳の後ろで葡萄の房のようになっていて、癒しの大天使ラファエルのような雰囲気。望月京さん(1969~)の「むすび」から始まった。初めて聴く曲だが、ラストにプログラミングされているラヴェルの『ラ・ヴァルス』と鏡像関係にある曲だと直観で思った。前衛的だが、温かい「情」が息づいていて、和洋の感覚を面白く往来し、古代的な時間ともつながっている。何より、最初と最後の二つの曲はダンスとの関連を感じさせる。指揮棒なしのマキシムは地面から空へ何かを吸い上げるようなジェスチャーを繰り返し、読響と呆気なく一体化していた。

2017年のパリ・オペラ座バレエ団の来日公演では東フィルとの共演だったし(これが途轍もない名演だった)、昨年の二期会の『金閣寺』は東響とだったから、読響とは初共演のはずなのだが何かすべてを分かり合っているような感じだ。カンブルランとの最後の年は、現代音楽の知られざる名曲・珍曲のオンパレードをマエストロとともに繰り広げた読響だが、そこで得たボキャブラリーの豊かさは奇跡的で、忘れられることなくオケに蓄積されていた。同じフランス人であるマキシム・パスカルも驚いたのではないかと思う。宿命のオケと指揮者が「ついに出会ってしまった」感があった。
反田恭平さんがソロを弾いたラヴェル『左手のためのピアノ協奏曲』では、ラヴェルのオーケストレーションの魔力に陶酔した。反田さんもこうした巨大なスケールの音楽にはいい反応をする。反田さんの魅力はアルゲリッチに似ていると思う。器用であるとか派手であるとかというより、生命力が破格なので、人が寄ってこずにはいられないのだ。とりすました「一流」には、これほどたくさんの聴衆は反応しない。枝ぶりの見事な幹の太い樹木のような音楽で、聴いていると臓腑からダメージが修復されていく感じがする。左手だけの超絶技巧はピアニストにとっても過酷なはずだが、熱量を保ったままラストまで見事に弾き切った。

後半のドビュッシー『海』は、先日ゲルギエフとウィーン・フィルで2回聴いたばかり。ウィーン・フィルも良かったが、読響パスカルの演奏に上書きされてしまった印象だ。こちらのほうが北斎っぽい。輪郭線にクールさがあってスタイリッシュなドビュッシーだ。ラヴェルとドビュッシーが並ぶと、どうしてもクラシックの歴史観の中でのドビュッシーの優位性ということを思い出す。バーンスタインも矢野顕子さんも「ドビュッシーの発明に比べたら、ラヴェルのやったことなんて」と言う。しかし「カブトとクワガタはどちらが強いか」ではないが、オーケストレーションではラヴェルも相当「強い」。 ドビュッシーはラヴェルよりある意味ほっとする。太陽のもとで正しく書いている印象があり、『海』は勇壮で英雄的でさえある。悪魔の三音階(トライアド)を使ってもなおアポロン的なドビュッシーに比べると、ラヴェルはあまりに妖しい。バッカス神というよりウラヌス神やネプチューン神的で、無意識をジャックされる。考古学的で神秘主義的で、天地東西南北のゲージの取り方が巨大なのだ。

マキシム・パスカルのユニークさは、やはりラヴェルで爆発した。最初に彼の才能に驚いたのも『ダフニスとクロエ』だったが…。恐らくラヴェルはいくつもの水準で演奏されている作曲家で、どんな指揮者でもいい気分にさせてもらえるが、精度においては100ほどの階層があり「ラヴェルのチャンネル」に正確に波長を合わせられる指揮者は一握りなのではないかと思われた。『ラ・ヴァルス』は読響とカンブルランの妖気ぷんぷんのオカルト的な名演が忘れられないが、あのヴァルスを知っているオケが若いフランス人指揮者と再び奏でる音楽は、ちょっとセンセーショナルすぎた。
ラヴェルは毎回「そこから始めるの!?」というところから書き始める。「ラ・ヴァルス」は太古の宇宙発生の0地点から音楽が始まる。何もない…まったくなんにもないところにひとつの風が吹き、微かな歪みから時間と空間が生まれ、微生物や生命の兆しのようなものが現れて、それが一気に巨大化してロココの応接間になる。豪華な三拍子。それをクレイジーと呼ばずに何というか。ディアギレフの委嘱で書かれたが、バレエの上演を拒否されたというのも理解できる。
 哲学者マキシムは、何か得体が知れないほど強烈な渇望感をもってラヴェルの世界を掘り起こしていた。掘れば掘るほど、土器や骨や勾玉のようなものが出てくる。「これ以上掘っても仕方ないですよ。近所は住宅地だから掘るのはもうやめましょう」と言われても、考古学者は掘りたいのだ。
 この好奇心はどこかで見たことがあるぞ…読響の楽員たちの表情がそう言っている気がして、マキシム=読響のさらなる共演が楽しみで仕方なくなった。