小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

読響×ルドヴィク・モルロー、ガーシュウィン&ドビュッシー&ラヴェル

2018-07-30 05:11:14 | クラシック音楽
台風一過の晴天となった日曜日、池袋の東京芸術劇場で読響のマチネ公演を聴いた。連日の不安定な天候のせいか体調が悪く、コンサートをキャンセルしようかと迷ったが、読響を聴いて運気を上げたいと思い遅刻ぎりぎりに着いた。指揮は初共演のルドヴィク・モルロー。コンサートマスターは日下紗矢子さん。
その日の明け方まで、ミュンヘン・フィルの短い原稿を書くためにチェリビダッケ指揮のブルックナーをずっと聴いていた。崇高でシリアスで、身が細るような名演で、こんなクラシックを聴いていると間違いなく厭世的な気分になるのは分かっていた。巨匠が誘う特別な音楽は、自分を信じられないほど驕慢にし、男性的な気分にさせた。
そんな音楽の後に聴いたガーシュウィンの「キューバ序曲」は全身の関節が脱臼するような音楽だった。陽気でユーモラスで、ダンサブルな躍動感に溢れている。ステージ後方にずらりと並ぶ読響のブラス・セクションがかっこよく、いつぞやミシェル・ルグランのバレエ音楽を演奏するためにハンブルク・バレエ団のステージに乗った北ドイツ放送響のブラス軍団を思い出した。
モルローは見るからに陽気な雰囲気の指揮者で、大編成で乗った読響を痛快にドライヴさせていく。享楽精神を装ったガーシュウィンのアグレッシヴな知性を感じる曲だった。

続く『ラプソディ・イン・ブルー』では小曽根真さんが登場。スリリングで冒険的なソロだった。冒頭のおどけたクラリネットとピアノは、仲良しの叔父と甥のような「冗談関係」で、ピアノもオケを挑発するように意外なフレージングを次々と放っていく。
小曽根さんに以前インタビューしたとき、クラシックのコンサートで協奏曲を弾くようになってもジャズ・ピアニストであることには変わりない、ということを話していただいた。そういう定義の上でソリストを務めるせいか、小曽根さんとオーケストラは毎回真剣な闘いの場となる。ガーシュウィンの場合は特に、どちらがアウェイでどちらがホームか…という問答がソリストとオケの間で展開される。
この「闘い」には余裕があり、ユーモアがあり、優雅さがある。毎回の演奏会をル―ティンにしない、何かが生まれる場にしたい、というのは小曽根さんのジャズ精神だろう。同時に、素晴らしく高貴な騎士道精神も感じる。相手を尊重した上で、ピアニストとしての見事な剣さばきを披露する。
モルローはこうしたピアニストからの挑戦をたのもしく受け止めていて、ぎりぎりのバランスでパスを返さないピアニストを引き立てながら、オケを鼓舞していた。後半の長いソロでは、小曽根さんのピアノからストラヴィンスキーとシェーンベルクの「二人のS」の断片が聴こえてきた。シェーンベルクのロサンゼルスでの亡命先の家はガーシュウィン家の隣りで、二人はテニスをしたりお互いのポートレイトを描きあったりしていたのだ。20世紀のアヴァンギャルドとシンクロして、ガーシュウィンは存在していた。

長めのラプソディ…のあとピアノのふたを一旦閉じた小曽根さんは、そのあと再びふたを開けて首席コントラバスの石川滋さんとブルージーなアンコール曲『バグス・グルーヴ』を演奏した。ジャズ奏者とは、野生のカンが特別に発達した人なのかも知れないと「以心伝心」の二人のキャッチボールを聴いていたが、クラシックでも室内楽好きのピアニストは、こうしたぞくぞくする共鳴が好きでやっているのかも知れない。石川さんのダブルベースが渋いいい音を出していた。
プロの見せる「闘い」は面白い。スポーツも、ただ点数を稼ぐのはつまらない。どんなふうに勝つか、いかに面白く誇り高く勝つかを見せてほしいと思う。存在の切っ先の鋭さを見せるには、やはり「闘い」という土俵は必要なのだ。そこを諦めない覚悟とか、面白味といったものを前半の演奏から受け取った。

後半はドビュッシーの『牧神の午後への前奏曲』から始まった。首席フルート奏者のフリスト・ドブリノヴさんが風のように軽やかな演奏を聴かせ、陶然とした気分になった。東フィルとヴィオッティに続き、一週間に二度も牧神を聴けるのは幸福なことだ。読響では日下さんのヴァイオリン・ソロが格別に美しく、打楽器セクションも神妙でしめやかな音を聴かせてくれた。続くエネスコの『ルーマニア狂詩曲』も熱演で、ラヴェルとドビュッシーの箸休め的なインターミッションと思いきや、とても熱い演奏となった。ヴィオラ・ソロがぞくぞくするいい音だった。
とりとめもないことだが、後半の3曲には、強烈に「夏」という季節を感じた。穏やかな春と秋に比べて、夏には何かコントロールが効かなくなるような恐ろしさが隠れている。狂奔する神秘的なエネルギーが脈打っている脅威的な季節が夏なのだ。音楽を聴きながらこの7月に列島を襲った水害や酷暑のことを思い出し、発狂した自然界の獰猛さの前では無力である人間の小ささを感じた。
ラヴェルの『ダフニスとクロエ』第2組曲は時間・空間のゲージの取り方が大きく、ラヴェルが遊ぼうとした神話時間のイマジネーションにはアンモラル的な感覚さえ感じられた。モルローはフランス人らしく、ラヴェルの官能性とファンタジーを色彩豊かに描き出していく。
夏は果物や野菜を膨張させる…雨と陽光は水分と甘さを蓄え、自らの成熟に耐えられなくなったスイカは傷口を開けるように爆発して赤い中身を見せる。端正な演奏から、コントロール不可能な夏の奔流が聴こえてきた。それは善でも悪でもなく、ただ人間のスケールを超えた「自然」なのだ。自然の狂気を捉え、巨大な絵画のような豊饒な音のタペストリーを完成したラヴェルは天才だった。

人間の自意識を高揚させ、驕慢さを煽り立てる「魔力」がクラシックにはある。この日のプログラムはそうした顕在意識の裏をかく、潜在意識の巨大さを思わせるものだった。謙虚で透明な読響のサウンドにますます愛着が湧いたコンサート。
















第15回世界バレエフェスティバル『ドン・キホーテ』(7/28)

2018-07-30 02:29:46 | バレエ
7/27に開幕した第15回世界バレエフェスティバル。二日間の全幕プログラムに始まって8月中旬までAプロ、Bプロ各5公演(と8/15のSasaki Gala)の文字通りの「バレエの祝祭マラソン」が続く。
観客のみならず参加するバレエダンサーたちも楽しみにしているこのバレエフェス、改めてプログラムを見てため息が出た。各国の駐日大使が挨拶のコメントを寄せているのだが、その数が凄い。アルゼンチン、ブラジル、カナダ、キューバ、デンマーク、フランス、ドイツ、イギリス、イタリア、ラトビア、メキシコ、オランダ、ノルウェー、ルーマニア、ロシア、スペイン、スイス、アメリカの18か国。プログラムを編集するスタッフも大変だったことだろう。各国の大使の誠意のあるメッセージは読みごたえがあった。参加するダンサーもスーパースター級の顔ぶれである。

今年の全幕プログラムは『ドン・キホーテ』(ウラジーミル・ワシーリエフ版)で、二日間とも大入り。アリーナ・コジョカルとレオニード・サラファーノフがキトリとバジルを踊る二日目の公演を観た。指揮はワレリー・オブジャニコフ、オーケストラは東京フィルハーモニー交響楽団。
ワシーリエフ版のドンキは老騎士ドン・キホーテの描写がコミカルで、ベテランの木村和夫さんが好演した。タイトル・ロールのわりに脇役扱いされるドン・キホーテだが、舞台に出づっぱりで演技をしなければならず気が抜けない。サンチョ・パンサの海田一成さんも好演。人力トランポリン(!)で宙に放り出されるシーンなどもあり大変な役だが、詰め物をした衣装で機敏に楽しいキャラクターを演じていた。

コジョカルは可憐なキトリで、きつい性格を強調して踊るバレリーナもいるが、やはりコジョカルはコジョカルの良さがある。回転もバランスも完璧だが、どんなムーヴメントの後にも優しさや透明感が余韻として残る。サラファーノフも少年の面影を残したバジルで、このペアは新鮮だった。コジョカルが小柄なので、サラファーノフが結構長身のダンサーだったことに気づく。マリインスキー時代から彼を観ているが、ある時期から年齢が止まってしまったように若々しい。身体を後ろに反らせて回転するバジル独特のシルエットも柔軟で美しく、キトリとの小芝居もエスプリが効いていた。テクニック的には過酷だが、バレリーナにとってこれほど楽しい演目もないのではないか。オペラの「愛の妙薬」もそうだが、このバレエでは誰も死なず、キトリは3人の男性から求愛される。バジルとドン・キホーテと、婚約者の富豪ガマーシュが彼女を追いかける。

ガマーシュ役の岡崎隼也さんがこの役に成りきっていた。オペラグラスで観ていて笑いが止まらなかった。老騎士がキトリと恭しげにメヌエットを踊る場面は個人的にとても好きなのだが、ここでガマーシュは別の女性と踊りつつ、ずっこけたりふられたり、驚くほど細かい演技をしていた。ガマーシュは情けない役だが、これほど面白くやられるとダンサーに敬意を表したくなる。本物のプロの踊りで、その後ろでソーセージを持って踊っているサンチョ・パンサの可笑しさにも打ちのめされた。こういうサブリミナルな演劇要素が積み重なって、舞台の感動は出来上がる。

東京バレエ団は有難いバレエ団で、エスパーダの秋元康臣さんが闘牛士たちをともなって踊るシーンでは、プリンシパル級のダンサーが切れ味のある群舞を披露した。この闘牛士たちの踊りは見た目にも華やかで難しく、あのマントさばきには毎回度肝を抜かれる。秋元さんはパーフェクトなエスパーダで、川島麻実子さんのメルセデスとも息が合っていた。このペアは今の東京バレエ団の中で一番面白いのではないかと思う。二人ともとことん妥協せず、貪欲に究極の表現にチャレンジしていく。アーティスティックな「攻めの姿勢」が感じられるのだ。

東フィルがピットから最高の音楽を鳴らしていた。観客が舞台に完璧に集中できる音楽を作るというのは見事なシャドウ・ワークだが、東フィルのデラックスなサウンドはプティパが創造したバレエのユーモアや幻想性を最大限に引き出し、満点以上の出来栄えだったと思う。確実なリハーサルを重ねたのだろう。ダンサーとの信頼関係が伝わってきた。カーテンコール時にコジョカルは指揮のオブジャニコフを抱擁していたが、ダンサーにとっても最高の演奏だったのだろう。クオリティの高いオケがピットにいることを考えれば、全幕プロのチケット代は驚くほどリーズナブルに感じられる。

ドゥルネシア姫になってからのコジョカルは、より彼女らしさが際立っていた。あの泣きそうな(!)可愛らしい顔で、キューピッドたちと幻想の世界へ誘うシーンでは、夢うつつのドン・キホーテの気持ちになった。真っ直ぐな足と可憐な甲は、何か「歌声」のようなものも感じさせた。コジョカルは全身で歌うバレリーナなのだ。若いジプシーの娘を踊った奈良春夏さんはカリスマティックな妖艶さを解き放ち、キューピッド足立真里亜さん、子役の東京バレエ学校の生徒たちが愛らしく優しい表情で夢の世界を作り上げた。

ラストのキトリのバジルのグラン・パ・ド・ドゥは見事で、ダンサーが怪我の恐怖と闘いながら際どい美を体現していることが改めて理解できた。主役の二人に危なげないところなどなかったが、連続リフトは男性の肩に負担をかけ、女性のダイブをキャッチするサポートは信頼関係がなければ出来ない。それを笑顔でやる…最高に楽しそうなコジョカルとサラファーノフを見て、計り知れない人たちだと今更ながら思った。観客の喝采はクレイジーなほどで、数え切れないほどのカーテンコールが続いた。東京バレエ団の凄い集中力と献身、東フィルの職人技もふくめて「プロの清々しさ」を痛感せずにはいられない。真剣に完璧にやるべきことをやって、それが毎日続いてく…彼らの日常に溢れている清潔感に、眩しさを感じたステージだった。





















ロレンツォ・ヴィオッティ×東京フィルハーモニー交響楽団(7/24)

2018-07-26 02:44:48 | クラシック音楽
ロレンツォ・ヴィオッティと東フィルのフレンチ・プログラムをミューザ川崎で聴く。同じ内容のコンサートを19日のサントリーでも聴いたばかりだったが、今のヴィオッティの演奏を強く耳に焼き付けたくて川崎へ向かった。高校生の鑑賞教室も含む新国とびわ湖での『トスカ』を終えて、ヴィオッティと東フィルの相性の良さは決定的になったように思う。最初に彼を呼んだ東響は寂しい想いをしているかも知れないが、来年1月にはヴェルディのレクイエムで再び東響とも共演する。まだ28歳の、棒のように細いこの美青年指揮者の何が特別なのか…ミューザではそれを確かめたかった。

ラヴェル『道化師の朝の歌』は、冒頭のピツィカートからミューザの空間に鮮烈に響き渡った。でん六豆が一粒転がっても正直に響くこのホールで、ヴィオッティのアプローチははっきりと浮き彫りになった。この曲では各パートのソロにひやりとするような一瞬の見せ場があり、クラリネットやチェロが秒単位でカラフルな表情を聴かせなければならない。パートとパートのダイアローグが積極的で、赤・青・黄色という原色がその都度並びあって新しい色を次々と生み出していくようだった。こういうときに、オーケストラの誰一人として消極的であったり及び腰であったりしてはならないはずだ。ヴィオッティは別段、強引に煽るわけでもなく、自然に立体的なサウンドを引き出していた。短い曲だが、オケの積極的な性格がよく出たいい演奏だった。

もう一曲のラヴェルは『ピアノ協奏曲ト長調』で、サントリーでも素晴らしい演奏をした小山実稚恵さんがソロを弾いた。コミカルな(?)1楽章と3楽章もいいが、この夜は2楽章のアレグロ・アッサイが美しすぎた。フルート、クラリネット、オーポエの木管トップ奏者たちが正確で安定した演奏を披露し、この楽章でフルートとオーボエがこんなふうに重なっていたことに改めて驚いた。指揮者の耳が恐ろしく鋭敏なのだろう。それぞれのパートのキャラクターが明快で、合奏では素敵な色彩のコントラストの花束のようなハーモニーになった。小山さんも愛情を込めて弾く。この聴いていて胸が震えるような感覚は、どこから生まれるのだろうか…プレイヤーたちも心の奥底から感動して演奏していたのではないかと思う。

このコンチェルトが終わった後、嬉しいサプライズがあった。椅子がもう一台運ばれ、ピアノに譜面も載せられて、小山さんとヴィオッティによる『マ・メール・ロワ』の「Le jardin feerique」の連弾が始まったのだ。ヴィオッティ家の居間に招かれたようなアットホームな雰囲気で、小山さんはヴィオッティを助けながら愛らしいラヴェルの曲を一緒に弾いた。シンプルな中にラヴェルの魔法がふんだんに詰まった曲で、子供が夜眠るときにみる夢のような無邪気なファンタジーが繰り広げられた。コンチェルトの余韻がこのアンコールによって、さらに薫り高いものになった印象だった。

後半のドビュッシーは『牧神の午後への前奏曲』から始まり、フルートのトップの方が一瞬緊張した表情を見せたが、この曲でフルートにプレッシャーがかからない方がおかしい。木管セクションが力を合わせ、特にオーボエのトップの方が最初から最後まで冷静で豊饒な音を出していたのが良かった。「ドビュッシーは好色な男で、彼の半径何メートルかに暮らす女性たちは皆注意が必要だった」と何かの本で読んだが、なるほど脳内がつねに恋愛状態にあったような音楽だ。ニジンスキーの「牧神の午後」の牛柄のエロティックな全身タイツ姿を思い出す。「悪魔の3和音」で過激に始まっておきながら、最後は「アーメン」というフレーズで終わる…というバーンスタインのこの曲についての講義も思い出した。
ヴィオッティの指揮では、この曲はひとつの円環を描いているようにも聞こえた。始原から終末まで、神話の中の永遠の時間が音楽の中に息づいているような「輪」の感覚があった。

交響詩『海』は、ヴィオッティのもつ音楽の潮流の大きさを感じさせた。このプログラムの中で強弱と緩急も最も激しい演奏となったが、その呼吸感に不自然なところはなく、指揮者が曲に対して行うことの凄さを様々な瞬間に体感した。大胆かつ繊細であり、微妙な感覚がたくさん集まっていて、奇跡的なバランスを保っている。ヴィオッティはピアノと打楽器を学んでいたというが、ピアノの響きがペダリングによってくどくなったり野暮ったくなったりする感覚をよく知っているのだと思った。大胆でありながら、つねに上品で優美な響きが保たれ、「風と海との対話」ではサウンドの中に真空のような静けさが息づいているのを感じた。
そうしているうちに、28歳のヴィオッティが若者に見えなくなってきた。実は彼の内面はとても成熟していて、外から見るのと違う時間が流れているのかも知れない。人生のどの段階で、こんなふうに外の世界が自分自身と親密になったのだろう…指揮者の精神が作品と融合し、その確信は揺らぎようもなかった。指揮者である亡くなった父上のことも思い出し、20代のロレンツォがこの世界で引き受けた使命を考えてしまった。彼が宿命的に抱えている底なしの愛情が、音楽から透けて見えたのだ。



東京都交響楽団×アラン・ギルバート 首席客演指揮者就任披露公演

2018-07-18 01:34:36 | クラシック音楽
都響の新しい首席客演指揮者に就任したアラン・ギルバートのお披露目公演をサントリーホールで聴いた(7/15)。プログラムは前半がシューベルト『交響曲第2番 変ロ長調』後半がマーラー『交響曲第1番 ニ長調《巨人》』。カジュアルな黒のシャツ姿で登場したギルバートは、前半のシューベルトでは指揮台なしで演奏し、譜面台も置かれていなかった。体格のいいギルバートに指揮台は不要という感じで、編成が少し大きくなった後半のマーラーでは指揮台が用意されたが、譜面台はなし。二曲とも暗譜だった。
シューベルト17歳の作『交響曲第2番』は細かいパッセージが寄木のように積み重なった楽譜で、実際に聴いているとモーツァルトを思い出した。典雅で華麗で、木管の朗らかさにパステルトーンを感じた。思春期のどきどきいう鼓動のようにテンポが加速していく第1楽章では、音楽の中に恋愛のような微発砲する感覚を感じた。ギルバートの指揮には、いつも具体的に感じられる心理的な快楽があり、2014年のNYフィル来日公演のアメリカン・プロにも過去の都響の客演のときにも実感した。フレーズが生き物のように息を吹き出し、勢いよく泳ぎだしたり飛翔したり駆け巡ったりする。快楽主義者の音楽というのもとは違うが、プレイヤーたちの呼吸や動きがとても自然で喜びに溢れ、高揚した身体感覚の上に精神的なものが乗っかっているという印象。
シューベルトは無窮動的なヴァイオリンが忙しそうで、奏者たちは真剣に演奏していたが、全体としてオペラ・ブッファ的なユーモアや「お洒落さ」も感じられた。ギルバートが就任披露公演でこの曲を選んだ理由は何だろう。都響とのパートナーシップの起点となる記念すべき曲がこのシューベルトの10代の無邪気な曲だった。

 演奏家に対してレッテルを貼るというのは便利な行為で、ある固定化したイメージがあるとそれを叩き台に「想定通り」「想定外」などのジャッジが可能になる。プロフィール・データや国籍などもその助けをする。しかし、そのやり方ではどうにも本質は捕らえられないと最近強く思う。音楽家の精神とは蝶のようにつかまえるのが難しい。演奏によって何が明らかになったのか、ある瞬間の響き、テンポや強弱から類推したり、小さなミスや不調和から判定しようと聞き手は工夫を重ねる。
アラン・ギルバートは一言で言い表すのが容易ではない「逃げ去る」指揮者だと思う。生粋のニューヨーカーでドイツでも活躍し、自由と厳密さをあわせもつ音楽家。ジャズの愛好家でもあり、ピアニストの小曽根真さんと表参道のジャズ・クラブにドラマーとして出没したこともあった。それらの情報の断片を積み重ねても、彼の実体は現れない。

都響のサウンドが本当に冴えていた。都響に対して漠然と抱いているイメージというのも、とても頼りないものなのだと実感した。このオーケストラも「逃げ去る」オーケストラで、理知的でノーブルで格別に演奏能力が高いということだけにとらわれていると、つまらない聴き方になってしまう。この演奏会では、過激にアナーキックな反骨精神と、子供のような無邪気さと、何にでも変身できる柔軟性を感じた。猫のようだが犬のようでもあり、女性性と男性性を併せ持つ。そしてつねに何か巨大なものがやってくるのを待っているオケだと感じた。指揮者が型にはまっていたり、臆病だったり、冒険心に欠いていたら、誇り高い彼らは納得しないのだ。

アラン・ギルバートと都響はとても相性がいい。マーラーは過去にやった5番もよかったが、「巨人」はさらに深い次元でのパートナーシップを感じた。何かを一緒に乗り越えたとか、苦労をともにしたという形で深まる絆もあるのだろうが、指揮者とオケとは恋愛しかないとも思う。魂がひかれあう、理屈を超えた感覚でお互いを好きだと思う。あまり多くの言葉は要らないというテレパシーの次元が存在するのだ。
ツィクルスを重ねてきた都響にとってマーラーがどのような意味をもつか、第1番から始めるのには何か挑戦的な意味があるのか、色々邪推していたが、演奏を聴いてみると面倒なことは一切頭から消えた。音楽の生理というか、生命潮流にぴったりと沿った緩急で、意外性もふくめて官能的で壮麗であった。
マーラーはなんのために交響曲を書いたのか、ということが直観で伝わってくる演奏で、身体・感情・思考という三つの次元からはみ出してしまう過剰な存在がマーラーだった。はみ出していくマーラーは、永遠の命を求める。霊感や着想を作品にしたことで、マーラーは無限の分身を作ることを達成したのだ。指揮者の数だけマーラーがいる。
ギルバートのマーラーには違和感がまったくない。違和感だけで卓越したものを完成させてしまうインバルとは正反対の指揮者だ。土臭さも崇高さも矛盾なく同居し、狂気も分裂症も「まったく自然なこと」と丸呑みにしている。ギルバートの巨大な才能のひとつが天才的な直観力だろう。雷に打たれるように本質をキャッチする。アプローチを「簡単に完結しない」という未来志向も感じられた。安住したり古いものに寄り添ったりせず、毎秒アップデイトされる感覚を信頼しているのだ。素晴らしい宇宙感覚をもっていて、彼を見ていると指揮者の役目は「オーケストラを変身させること」ではないかと思ってしまう。

5楽章の最後のあっけない二つの音を、ひどく即物的に演奏する人もいるが、ギルバートの音は何とも言えない真理に溢れていて「天国と、地獄」と言い放っているかのような確信に満ちていた。
マーラー『巨人』は2014年クービク新校丁版が使われ、ハンブルク稿をもとにした「花の章」が演奏されたが、このトランペットの哀しげなメロディが吹き荒れる章には大きな魅惑を感じる。曲の由来には諸説あるが、マーラーの2楽章には素朴な花やノスタルジーが溢れているのが相応しいと思う。フルシャのパンベルクでの3番を聴いたばかりだからそう思うのかも知れない。ヘンゲルブロックや山田和樹さんも花の章を復活させていたことを思い出した。

音楽が逃げ去るもので、小さな籠に閉じ込めておけないものだという認識を与えてくれるアラン・ギルバートは、都響とめざましい蜜月時代を築いていくような予感がする。人生は不可知なもので、予定調和にはならない…彼自身が人生に託したいと思っている冒険も、このパートナーシップでは見ることが出来ると思う。強い印象を残した就任披露公演だった。
























東京交響楽団×ジョナサン・ノット『ゲロンティアスの夢』

2018-07-15 05:50:14 | クラシック音楽
東響×ノットによるエルガー『ゲロンティアスの夢』をサントリーホールで聴く。遅咲きの作曲家エルガーが才能を爆発的に開花させた40代の作品で、32歳のときに結婚した8歳年上の作家の妻キャロライン・アリス・ロバーツの結婚祝いにカトリックの枢機卿ジョン・ヘンリー・ニューマンから贈られた長編詩を音楽化したもの。初演された1900年当時のイギリスではカトリックは異端視されていたが、バーナード・ショーやR・シュトラウスが高く評価したため『ゲロンティアス…』は英国ではヘンデルの『メサイア』やメンデルスゾーンの『エリヤ』と並ぶ三大オラトリオと呼ばれるようになった。
ノットがこの作品を振るのは今回が初めてだという。冒頭のサウンドから震えるほど美しく、その美は二時間近い公演の最後の瞬間まで持続した。ひたすら優美で陶酔的で、これまで聴いた東響の演奏の中でも特殊な雰囲気が感じられた。

第一部では、死に瀕したゲロンティアスが燃え尽きていく自分の命を惜しみながら、これから向かう先への恐怖を歌う。テノール歌手のマクシミリアン・シュミットが闇を切り裂く光のような声で歌った。「友よ私のために祈ってください、私にはもう祈る力もないのです」というソロのあとに、友人たちによる「キリエ」がはじまる。この繋ぎ目の見事さにため息が出た。P席を埋め尽くした東響コーラスが清冽な合唱を聴かせ、サントリーホールの天井に美しい壁化が浮かび上がったような心地がした。
ゲロンティアスは虫の息で、今まさに個体を失おうとしている。内部と外部を隔ててきた鉱物のように堅牢な肉体が崩れ去り、大いなる全体が表れようとしている…それにふさわしい合唱であり、オーケストラだった。まったくオーケストラがこんな霊力に溢れたサウンドを出すなんて信じられない。各パートが溶け合って、一枚のシルクのようにゆらめいている。よくお互いの音を聴いて、歌手の歌声を引き立てることを第一の役目として奏でられていた。コントラバスとハープと打楽器が姉妹のような音を出し、弦楽器は洗練された響きを次から次へと解き放った。
これは死の恐怖の音楽なのだろうか…天国の揺り籠のような音楽であり、人間が想像する死の世界を超えた大いなる全体性を暗示するハーモニーだった。

エルガーは19世紀の終わりに、とても個性的なオラトリオを書いたのだ。まずゲロンティアスという人間の「個」が強調され、彼の葛藤や恐怖が描かれる。その間に典礼的な音楽が挟み込まれ、なおかつ合唱は「友人たち」になったり天使になったり悪魔になったりする。ゲロンティアスも第二部では固有名詞を失い「魂」となる。ソロと合唱がこれだけ変幻自在に関係性を変え、異なるネットワークを表現するのはミステリアスとしか言いようがない。ゲロンティアスは死によって形という緊張を失うが、「存在」はそのまま魂として持続していくのだ。
不安げに彷徨うゲロンティアスの魂に「死を迎えよ!」と雄々しい声で語りかけるのは司祭役のバリトン、クリストファー・モルトマンで、最初から聴く者を麻酔にかけるような高次元の声だった。この作品を熟知した歌手で、包容力のある洗練された低音でそれまでの時間にはなかった新しい質感を作り出した。彼の声が合唱と溶け合う瞬間も心が震えた。

第二部で天使役のメゾ、サーシャ・クックが現れた瞬間「彼女の名は『救済』!」と思った。薄いブルーのラメのドレスをまとい、優しい眼差しで、立っているだけで天使の気配を漂わせている。魂の存在となったゲロンティアスにこれから行われる審判についての説明をし、悪魔の声に耳を傾けないでとガイドする。このやり取りが、不思議なことにとても現世的に感じられた。オラトリオというよりオペラの感触で、ところどころ「トリスタンとイゾルデ」を思わせるオーケストレーションも人肌のドラマティックを放っている。天使と魂になったゲロンティアスの間には、不思議な愛の成立している。おそらく生きていたときの男性が経験しなかったような霊力に溢れた愛の形だ。

人間は生きている間は、横軸の世界にとらわれている。外敵から身を守り、名誉や財を追究し、異性の愛を貪ろうとする。虚しいアイデンティティの格闘である。その横軸の世俗の愛に対して、神との愛は縦軸の愛だ。生きているうちにこの愛をとらえられる人々は幸福だ。凡庸な悪魔にならずに済む。日本というほぼ無宗教の国に生まれて、芸術から宗教の次元を学ぶことは枢要だ…と重ねて思った。宗教ということを理解しないと、何も始まらないのだ。エルガーの審美的なオラトリオは、飽きっぽい横軸の世界の愛ではなく、縦軸の神の愛を覚醒させてくれるもので、目先の利益に翻弄されて本質的な軸を持たない日本人には必要なアートだ。美というものが介在してこれを理解できる。美よりも重要なものはないのだ…という発想をつきつめると神性や聖なるものにつながる。このラインには百のシニシズムを持ってしても抗えないのだ。

エルガーの『ゲロンティアスの夢』はさまざまなドラマが描かれるが、テンポはほぼ変わらず、メトロノーム指定は人間の心臓の鼓動と同じBPMらしい。そのために、二時間のあいだ長い長い夢を見ていたような気がする。オラトリオなのに東洋的な時間が流れていた。それは東響がそう感じさせてくれたのかもしれないし、ノットがそういう時間軸を引き出していたのかもしれない。飛び降りて亡くなる人は、数秒の間に一生のすべてを見るというが、私もこの音楽を聴いて自分の一生を振り返っていた。子供時代の夏の日の、ポプラの木のざわめきや冷たいぶどうのことが懐かしくて泣きたい気分になった。自分が生きてきた様々な四季の彩が蘇った。

半円だと思っていた世界が、死によって完璧な球体であることが明らかになる…というエンディングだったと思う。カトリック信者だったエルガーが作品で行ったことはとても洗練されていて、カトリシズムの死生観について熱弁を揮うのではなく、「すべての福音書記者」「すべての罪なき異端殉教者」「すべての修道士たちと聖なる乙女たち」に祈りを求めるユニヴァーサルなメッセージを放っていた。融合すること、個体の外の意識に出て、壁を超えることがこのオラトリオの存在意義なのだ。
ノットは新たな挑戦で、さらに初々しく精妙な音楽を創り上げることに成功した。英国人である彼がエルガーを振ることには、ルーツ回帰の意味もあるだろう。ラトルもロンドン響に帰ってくる。スピリチュアル的にはすべてそのサイクルの説明がつくが、遠慮しておこう。
エルガーはホルストのような神秘家でもあったはずで、英国という国には不可視のものに対する独自のコンセンサスがある。現世も天国も夢のようなものなのかも知れない。ユニークな「軽やかさ」もこの演奏会にはあったのである。