小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

東京二期会『ドン・カルロ』(10/13)

2023-10-23 16:29:50 | オペラ
ロッテ・デ・ベア演出、二期会『ドン・カルロ』(シュツットガルト州立歌劇場との提携公演)の初日。カーテンコール時に凄まじいブーイングが起こり、日本で上演されたオペラで(恐らく)最も過激なブーがホールに響き渡ったことでも記憶に残る公演となった。演出家に対する非難であったのだが、すぐ側でブーイングしている客を睨みつけながら、自分はこのプロダクションが最も優れたもののひとつであると確信していた。型破りなようでいて、中途半端な演劇的知性では届かない、ある「人間性の本質」に到達しているという感触があったからだ。

過去にライヴで観たドン・カルロで記憶に残っているのは、2011年のMETの来日公演(ジョン・デクスター演出 ファビオ・ルイージ指揮)、2016年マリインスキー歌劇場来日公演(ジョルジオ・バルビエロ・コルセッティ演出 ワレリー・ゲルギエフ指揮)、2013年に二期会で上演されたデイヴィッド・マクヴィカー演出・ガブリエーレ・フェッロ指揮のプロダクションも鮮明に覚えている(こちらは稽古から見学していたため)。2023年の上演では、ヴェルディのこの4時間半近いオペラが、オーケストラ・ソロ・合唱ともに名旋律のオンパレードであることを改めて実感した。聴きどころが多く、音楽の流れにも強烈なグルーヴがあるため、長丁場でもそれほど疲労感を感じない。

ロッテ・デ・ベアの演出では、オペラの芯にある性的な情熱と、とことん腐敗した宗教的支配、暴力が子細に描かれる。
ドン・カルロが婚約者エリザベッタと出会うフォンテーヌ・ブローのシーンからエロティックな暗示が提示され、森の中に設置されたダブルベッドで、お互いの中に永遠の愛を読み取った若い男女が官能を貪ろうとする。エリザベッタが慌てて身体に巻いた白いシーツが、そのまま老いたフィリッポの花嫁衣裳にすりかわる。この描写は、その後の引き裂かれた男女の心の傷を印象づける暗示となり、同じベッドが後半にも登場するが、こちらではフィリッポとエボリが不義の愛で睦み合う。

フィリッポⅡ世のフィギュアの作り方が完璧すぎて、いつも素敵なジョン・ハオが、女性の最も嫌悪するタイプの初老男性に変身していたのが凄かった。頭髪は枯れ、容色は衰えつつも男性機能はまだあり、エゴイストで支配的で、加齢臭が漂ってきそうな風貌をしている。フィリッポは現世における生殺与奪の神で、息子に対しても容赦なく権力を揮う。そんな男を裏で支配する宗教裁判長が、グロテスクの限りを尽くしいてた。フィリッポと宗教裁判長の長い接吻シーンは衝撃的で、ここから最後までこのオペラにおける宗教裁判長の存在感が月並みでなかった。

ところで、二期会の『ドン・カルロ』の上演の1か月前に引っ越し公演を行ったローマ歌劇場のゲネプロと本公演を鑑賞して、スタティックで伝統的な演出の良さというものを個人的に強く感じていた。具象絵画の良さをしみじみと味わい、イタリア・オペラのあり方のひとつの完成形を認めたのだが、全く正反対のアプローチである二期会の公演に嫌悪感を感じることは全くなかった。コンヴィチュニー、グルーバー、ミキエレット、『魔笛』『パルジファル』での宮本亞門さんなど、レジーテアター的な演出を採用している二期会の攻めの姿勢には、一筋縄ではいかないプライドを感じる。「ヴェルディは神である」という視点も正しく「ヴェルディはマッチョ主義で、女性の本質を見落としている」という視点もまた正しい。後者においては、オペラの既成の枠組みを超えた人間的洞察が介入する。ロッテ・デ・ベアの冒険は徹底していた。

4幕から5幕にかけて、エリザベッタの孤独は深刻なものになり、フィリッポを拒絶しながらも、カルロへの愛も諦観へと化石化していく。エリザベッタは芯の強い女性で、カルロを愛しながらも肖像の中の彼になぐさめを求め、現実ではどうしようもないことを宿命として受け入れる。5幕のエリザベッタの至高のアリアは彼女の愛そのものだが、それを舞台下手で聴いているカルロは酔いどれたような態度で、やけくその拍手で嘲笑する。ブーイングの多くはこのカルロの所作によるものではなかったかと想像するが、樋口達哉さんのカルロが、『ホフマン物語』の絶望の淵にあるホフマンに見えて、これは明らかに名場面だと思った。愛の成就を諦めたエリザベッタと、諦められないカルロは、物語の設定の通り「母と息子」なのであり、それに続く歌詞の字幕を見て、演出家は天才以外の何者でもないと確信した。

この演出が空恐ろしいのは、登場人物の性格づけが正確で、それぞれの個性がステレオの音量のつまみのように「強」に回されている。それだけで、様々なことがいよいよ破壊的になり、愛とエロスの本質が露骨になり、見る人によってはある種の拒絶反応を引き起こされる。愛=官能であり、肉体を持って現世を生きる者にとって、それを引き裂かれることは死と同じ意味をもつ。カルロの苦悩の本質は性欲と引き離すことが出来ず(ウェルテル、ホフマンと同様)、エリザベッタの苦痛はフィリッポへの性的嫌悪によって拡大される。
「モダンとは何か」という闘いに挑んでいる演出で、オペラという「神聖世界」にも破壊と再生が必須であることを伝えてきた。ラストシーンは特に、ショッキングで挑発的だった(死ぬべき人物が死なない)。撮影スタッフから「舞台が暗い」という苦情も聞いたが、一階席で見る限り繊細な照明デザインがなされていいて、ドラマに集中することを助けてくれた。劇中で歌手たちが行うアクションは、稽古場でケガ人が出ても不思議ではないと思われるほど激しく、振付のラン・アーサー・ブラウンが指導を行った。この振付家は自身も演出を手掛ける人物だという。

若手指揮者のレオナルド・シーニは演出のドラマ作りに協力的な指揮で、東京フィルから重層的なサウンドを引き出していた。10年前にインタビューしたダニエーレ・ルスティオーニは「自分が出世したら、わけのわからない演出家を全員クビにしたい」と冗談交じりに語っていたが、さらに若い世代の指揮者であるシーニは別の考えを持っているのかも知れない。ピットから溢れ出す音楽の力が強靭だった。
歌手陣はパーフェクトで、二期会のスターであるカルロ役の樋口達哉さんのタフな演技、神聖でスケールの大きなエリザベッタを演じた竹田倫子さん、悪役の毒が徹底していたフィリッポⅡ世役のジョン・ハオさん、そして劇中唯一英雄的なロドリーゴを輝かしく歌った小林啓倫さんが素晴らしかった。小林さんは日本のオペラの至宝である。10年前にエボリを演じた清水華澄さんも素晴らしく、10年前より妖艶にこの役を演じていたのに驚かされた。二期会合唱団はある意味このオペラの主役でもあり、霊力のある合唱には、ヴェルディが描こうとした「目に見えぬものの威力」が確かに感じられた。




サー・アンドラーシュ・シフ ピアノ・リサイタル(9/29)

2023-10-02 23:38:27 | クラシック音楽
「事前にプログラムを発表せず、当日にピアニストの選んだ曲が解説とともに演奏される」最近のアンドラーシュ・シフのスタイル。2022年にもこの様式でリサイタルが行われたが、前半だけで100分近いボリュームで、トータルでは180分を超えるという内容は今年も同じ。聴衆もそのことをよく分かっていて、充分に体力を蓄えて集まってきているのが伝わってきた。開場のアナウンスもシフ自身によるもので、自然な日本語でお客様を迎えるピアニストのもてなしの心が嬉しかった。

去年は奥様でヴァイオリニストの塩川悠子さんが通訳としてステージに着席していたが、今年はシフの若い友人でピアニストのトモキ・パーク(?)さんが訳してくれた。シフの英語はゆっくりとして分かりやすかったが、通訳を介することで理知的な解釈が出来たと思う。9/29はバッハの「平均律クラヴィーア曲集第一巻」から前奏曲とフーガ第一番が最初に演奏され、ベーゼンドルファーの艶やかな響きがホールに拡がった。オペラシティが出来たときに、シフが選んだピアノは非常にいい状態なそうで、調律スタッフへの感謝も伝えられた。
「バッハは世界で一番偉大な作曲家です」と、実感を込めて語られ、バッハが兄に向けて書いた「カプリッチョ『最愛の兄の旅立ちに寄せて』」が、ユーモラスに演奏された。いくつの細かいモティーフがパズルのように組み合わさった、バッハの小宇宙を感じさせる曲で、個人的に初めて聴く曲でもあった。

バッハの次はモーツァルト。「モーツァルトのソナタは非常にオペラ的なのです」と「ピアノ・ソナタ第17(16)番」変ロ長調を弾き始めたが、本当に複数のキャラクターが追いかけっこをしたり、ディスカッションをしたり、愛をささやきあっているような様子が伝わって来て、音楽の形式は謹厳なのに、何かとても妖艶な世界を見ているようだった。
前半ラストの二曲はハイドン。「アンダンテと変奏曲 ヘ短調」と「ピアノ・ソナタ変ホ長調」は、シフの言葉通りとても洗練されていて、偉大な様式美と豊かな構造によって、音楽のひとつの「究極形」に到達しているといった印象を抱いた。
ここまでの曲は情動性が比較的希薄で、ある種の「システマティックな構造」が優位にある作品が選ばれていた。バッハは声部の弾き分けが鮮やかで、モーツァルト、ハイドンも小さな細部が大きな全体を作り上げていくという作品だった。バロックと古典を弾くシフのピアニズムは「鉱物的」な印象。ぶよぶよした表現がまったく存在しなかった。

休憩後のベートーヴェン二曲は、モーツァルトから一世紀が経ってしまったかのような音楽だった。ベートーヴェンのペダル指定は新しい和音がやってきても踏み変えず、そのまま混濁させて響きを重ね、色々な帯が揺れているような独自のサウンド環境を創り出していく。ペダル指定の例を片手で弾き「私はクレイジーではないですよ」と微笑む。作曲家の厳密なペダル指定を反映した『ピアノ・ソナタ第21番『ワルトシュタイン』」は、幻想的で、聴いているとサイケデリックな気分になり、軽い変性意識に囚われてしまったような心地にもなる。
ベートーヴェンは、病弱で頭痛持ちで、下痢を病み、精神状態も不安定だった。ゲイリー・オールドマンが演じたベートーヴェンは酒浸りで、路上に行き倒れていたが、難聴の絶望はそれほど辛く、一方で音楽の中ではまったく別の高みを目指していたのだ。チベット高地の人々が高山病にも負けず激しい踊りと歌でハイテンションに人生を祝福している様子が思い浮かんだ。
シフ自身も逆境の人で、2014年頃に来日したときは、ハンガリー国内での演奏会を禁じられ、大変不自由な境涯にあった。一歳年上のゾルダン・コチシュは同じ年にハンガリー国立フィルハーモニー管弦楽団を率いて、首席指揮者として演奏会を行ったので、生き方の違いが明暗を見せているような印象もあった。この2年後の2016年にコチシュは病死する。

本編最後のベートーヴェンは『ソナタ30番』涅槃に吸い込まれていくような幻想性があり、ピアノのタッチは硬質で緻密だった。

オペラシティはバロック、古典、ベートーヴェンという選曲で、改めて「気まぐれシェフのフルコース」といった感じのプログラムではないなと思った。語りがあることで、シフが作曲家の作品を演奏するに当たって「何が最も重要であるか」を伝えてくる。長いリサイタルの終了後、聴衆は皆上気していて、現代最高のピアニストであるシフへの感謝を、長い長い喝采で表した。
「シフの気分で、いい雰囲気で弾かれた寛いだリサイタル」というのでは全くなく、聴衆は自分の心をピュアにして、シフ先生の歩んできた求道の人生を学んでいった。この学びこそが、リサイタルの醍醐味だ。アンコールはゴルトベルク変奏曲のアリア。
オペラシティが聖堂になり、より高きもののために心が宙に吸い込まれていった200分間だった。
そしてて二日後のミューザ川崎では、さらに凄い深遠なことが起こったのだった。