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小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

東京・春・音楽祭 プッチーニ・シリーズ『蝶々夫人』(4/10)

2025-04-14 00:46:14 | オペラ
東京春祭プッチーニ・シリーズ、2025年は『蝶々夫人』。バイロイトで初めてピットに入った女性指揮者として注目を集めているオクサーナ・リーニフが読響を率いた。タイトルロールはラナ・コス、ピンカートンはピエロ・プレッティ、シャープレス甲斐栄次郎さん、スズキ清水華澄さん。合唱は東京オペラシンガーズ。
演奏会形式といっても先日の『パルジファル』が譜面台つきだったのに対して、こちらはほぼ芝居付きオペラ。冒頭から糸賀修平さんのゴローとピンカートンのプレッティのやり取りが愉快なムードを醸し出した。プレッティは代役だが、素晴らしく勇敢なピンカートンで、声量も演劇性もバッチリ。1968年生まれで今年57歳なので実年齢的にはシャープレスの年だが、ものの分かった年頃の歌手が無茶で自分勝手な若者を演じる様子が味わい深かった。高音も迷いがなく、朗々として伸びやか。タイプとしては地味で堅実な歌手という印象だが、磨かれた職人肌の芸を聴かせてくれる。蝶々さんが登場するまでの15分間が個人的に最も泣けるシーンで、恋に浮かれるピンカートンに「よせよ。彼女は本気だぜ」とたしなめるシャープレスのフレーズが、オペラの悲劇性を先取りしている。とりあえずウイスキーで乾杯する二人。この時点ではまだピンカートンは罪人ではなく、夢見がちな無辜の青年なのだ。甲斐栄次郎さんのシャープレスには説得力があり、改めてこのオペラの鍵を握る役だと思った。

蝶々さん登場。ラナ・コスのピンクがかったホワイトのドレスがゴージャスで「これで蝶々さんを歌うのか!」と一瞬ひるんだが、堂々とした歌声の威力に飲み込まれ、「主役はわたしよ!」という気合に降伏した。スズキの清水華澄さんの着物風ドレスが妖艶だったのも、ラナ・コスに合わせたのかも知れない。髪型もディーバ仕様のまとめ髪で、次から次へと迷いなくお芝居を進めていく。蝶々さんのパートは確かにこうしたタフネスがないと聞きごたえがない。ピンカートンとの愛の二重唱は、トリスタンとイゾルデのようで、二人の大きな重唱がホール全体を埋め尽くした後、当然キスシーンがあると思い込んでいたが、プレッティのキャラクター的に無理だったのだろう。ピンカートンが若妻に敬意を表するようなポーズで一幕が閉じた。

オクサーナ・リーニフの後ろ姿は女版トスカニーニといった風情で、きびきびと凛々しく、細かいところまで妥協がない。リーニフはボローニャ歌劇場のシェフとしても来日しているが、祖国のオデッサの歌劇場で共演が長かったグレギーナが、自分よりだいぶ若いリーニフにしがみつくようにして信頼の情を表していたのが印象深かった。ボローニャ歌劇場の会見は、なぜかリーニフだけドイツ語で行われたが、最新の彼女はドイツ語で思考しているのかも知れない。
読響は素晴らしいのだが、先日の沖澤カルメンやヴァイグレのヴォツェックでは聴くことのなかった管楽器のミスや、分数が怪しくなる箇所があった。リーニフは既に色々なところで蝶々さんを振っているはずだが、もしかしたら指揮者のコントロールがきつすぎるのではないかとも思った。完璧主義者なのだろう。プッチーニのダイナミズムはプレイヤーの生命潮流に任せたほうがうまく着地する。それでも、蝶々さんが教会で改宗したことを告白する場面のエクスタシーに溢れた表現は見事だった。輝かしいプッチーニのオーケストレーションの中でも、さらに甘やかなシーンを何か所か際立てて鳴らしていた。

全編歌いっぱなしのラナ・コスは微塵の疲れも見せず、「ある晴れた日に」もオペラの一場面として自然に歌って聴かせた。ドレスは派手だが声は癖がなく、歌えば歌うほど聴き手の心を引き付けていく。生まれながらに大きな才能の持ち主だが、それに溺れず謙虚に積み上げてきた痕跡が見えた。無邪気な少女である蝶々さんを、声を自在に駆使して表現し、どの場面でもオケを味方につけていく。スズキとの花の二重唱は改めて音程の取り方が独特の歌だと思ったが、印象派的な響きが眩暈するほど麗しい。壮大な間奏曲の後に、つかの間の眠りをとる蝶々さんの子守歌が悲しく「可哀そうな蝶々さん…!」のスズキの声にも涙が溢れる。

自分の好きなオペラは『トスカ』『ボエーム』『蝶々さん』と即答できるほどで、『トゥーランドット』はやや特殊とはいえ、最高峰はやはり『トスカ』だと思っていた。しかしながら『蝶々夫人』を改めて聴くと、『トスカ』の構築性の見事さとは別の、繊細な織物のようなテクスチャーがパッチワークされている音楽の至芸に驚く。それは主に、年若い蝶々さんから見た世界で、玩具のような結婚式も、寄ってくるお大尽の滑稽さも、ピンカートンへの思慕も、ヒロインの主観から編み上げられている。『トスカ』とは全く違う作り方なのだ。日本の工芸細工のような意匠も盛り込まれている。アイデアの宝庫であり、愛の発明であり、間違いなくオペラの最高傑作で、この日ばかりはトップ・オブ・ザ・トップの作品だと崇拝せずにはいられなかった。蝶々さん不在の中で歌われるシャープレス、スズキ、ピンカートンの三重唱は、どの宗教曲より胸かきむしられる痛恨のレクイエムだ。

子役は登場せず、「可愛い坊や…!」もラナ・コスは子供を抱く仕草で歌いあげたが、「あなたは海をわたっていくこともできる」という字幕が殊更に心に響き、蝶々夫人の続編が書かれたり、二期会の亞門演出のようなプロダクションが作られることも自然だと思われた。ピンカートンはラストシーンまで悪役設定だが、現実として考えた場合、蝶々さんのような女性が全力で自分を愛してくれたことを生涯忘れるはずはない。どこまで行ってもこれはラブストーリーなのだ。

歌い損だなどと思わず200%の誠実さでピンカートンを歌ってくれたプレッティは、本当に信頼できる。ラナ・コスも伝説のバタフライだった。出番は短いが、圧倒するような存在感でオペラを切り裂いたボンゾの三戸大久さん、悪役ではなく良識ある年長者として温かいヤマドリを演じた畠山茂さんにも感謝は尽きない。ミュージカル・ファンが『レ・ミゼラブル』を数えきれないくらい観てしまうように、自分も『蝶々夫人』をマニアックに愛していて、残りの人生あと100回は無理でも、50回くらいは観たい。ドレスの両端を広げたラナ・コスのシルエットが「バタフライ」だったのに気づき、改めて大喝采。
























東京春祭 子どものためのワーグナー《パルジファル》

2025-04-02 21:06:57 | オペラ
東京・春・音楽祭恒例の「子どものためのワーグナー」、今年の『パルジファル』は2023年に上演されたものの再演出版となるが、前回は観ていなかったか記憶が飛んでいるかで、感触としては初めての鑑賞。リヒャルト・ワーグナーの曾孫で演出家のカタリーナ・ワーグナーが演出する子供向けの舞台(バイロイト音楽祭との提携)だが、先日演奏会形式で観た5時間の『パルジファル』が、休憩なし約85分ではこんなふうに再編集されてしまうのか…と大笑いしつつ大いに感動しながら観た。
会場の三井住友銀行東館ライジングスクエアでは、冷たい雨の中集まった子供と父兄たちが座布団が敷かれた階段状の席に座っている。上演が始まる前に、オリジナルの楽劇には登場しない緑の髪の魔法使い~助演の渡部みかさんが、客席の子供たちと色々打ち合わせをする。ハーブを差し出す役の子が二人選ばれ、パルジファルに危機が迫ったシーンではみんなで「ゆだんをしてはならない!」とコールする約束がなされた。

衣裳も装置も中世風に作ってあるため、ヴィジュアルからとても入っていきやすい。奥の席が詰まっていたので子供たちと一緒に前方席で鑑賞してしまったが、山下浩司さんのグルネマンツの温かい声が、稽古場でも聴いたことのない近い距離から飛んできて、有難くて胸が熱くなった。日本語の芝居はわかりやすく、子供向けのギャグなど満載だが、ドイツ語の歌唱シーンでは歌手たちはプロの本気を出し合う。アムフォルタス近藤圭さんは胸にかすり傷のような傷跡を受けた巻き毛の王様で、父王ティトゥレル(狩野賢一さん)から失態を叱られてしょんぼりし、ゴムボールが入った浴槽にねそべって傷を癒そうとする。聖杯をめぐるアムフォルタスの状況説明も簡潔かつぶっ飛んでいるが、難解さを排した演出は見るもの聴くものすべてが刺激的で面白く、パンク(ハードロック)ヘアのクンドリ田崎直美さんと黒塗りロングヘアのクリングゾル後藤春馬さんはマクベス夫人とマクベスといった悪役カップルの仕上がり。眉毛と唇が暗闇の中で蛍光色に浮かび上がる面白いメイクをしていた。

伊藤達人さんの降板で急遽代役を演じることになったパルジファル片寄純也さんは、二期会の上演でも何度も素晴らしいパルジファルを演じたテノール。カタリーナ版ではパルジファルであると同時に、ジークフリートやローエングリンの属性も併せ持ち、『魔笛』のタミーノのようでもあった。子供たちのヒーローとして戦い、クリングゾルの魔法の乙女たち(花の乙女たち)の誘惑~おもちゃやダーツやさくらんぼのケーキ~に負けそうになると、緑の魔女の導きで「ゆだんしてはならない!」というコールが沸き起こる。子供たちもパルジファルと一緒に戦っているのだ。
乙女たちは誘惑されないパルジファルにぷんぷん怒り、パンクな花魁のようなクンドリがいよいよ現れると、田崎さんの豊かな美声が朗々と空間を埋め尽くす。「わたしはあなたのお・かーさんを知ってるのよ。クラブで知り合ったの」「さくらんぼのケーキを作ってきてくれたわ」と日本語の台詞もたくさん語り、すぐにドイツ語の歌唱に戻るのだが、実に楽しそうに演じられていた。田崎さんは今や日本のワーグナー上演に欠かせないヒロインで、今まで舞台で観たイゾルデやゼンタ、亞門版クンドリなどを思い出し、ロックな姿でも美声はそのままなので有難すぎて涙が止まらなかった。パルジファルに飛びついて「むむむむむ~~~」とキスするシーンは刺激的。覚醒したバルジファルに怒ってクンドリが突き飛ばすシーンでの「すごい力だ!」というパルジファルの台詞が可笑しすぎた。

音は聞こえど姿は見えぬ…東京春祭オーケストラの豪華で物語るサウンドが、先日のN響に全く劣らないデラックスな名演で、近い距離で聴いていたせいかワーグナーの聖なる音風呂に浸かっているような心地がした。ゴングの音も楽劇の神聖さを引き立て、視覚的にも大きな鐘が装置の中にしつらえてあった。人間は崇高なものと面白いものが同時に脳に飛び込んでくると、パニックを起こしてしまうのかも知れない。カタリーナの破壊的なギャグ仕立ての『パルジファル』は、真面目な上演では流すことのない発作的な涙を誘発してきた。クリングゾルもアムフォルタスも常軌を逸したキャラクターで、歌手たちはサイケデリックな存在に次元上昇していて、これを見たワーグナーおたくが「由々しい」なんて言うのを絶対に許したくない気分になった。パルジファルは破壊され、楽しい劇になり、ラストでは敵対する登場人物が「ええじゃないか音頭」とばかりに抱き合って和解する。涙だけでなく鼻水も決壊した。2025年の正しい『パルジファル』だった。

しょんぼりと首をもたげていたコーデュロイのクッションの花々は生き返り、光がさして、アムフォルタスは「もう痛くなくなった!」と快癒を喜ぶすごい楽劇。カーテンコールにカタリーナが出てくるのを楽しみにしていたが、もう帰国してしまったのだろう。新国での『フィデリオ』は賛否両論だったが、あれも卓越した演出で、細部まで強い理念で埋め尽くされていた。演出家は嫌われる覚悟ですべてを変えてしまう権利をもつ。演出嫌いのマエストロ・ヤノフスキ―の完璧な楽劇の後で、この涅槃的なカタリーナの世界を味わえたことは有難かった。二つのパルジファルをこのように上演することの、その全体の豊かさに眩暈を感じ、子供たちとともにたくさんの拍手を送った。4/5.4/6にも上演あり。









東京二期会『カルメン』(2/20)

2025-02-22 12:02:34 | オペラ
イリーナ・ブルック演出『カルメン』世界初演を鑑賞。カルメンに加藤のぞみさん、ドン・ホセに城宏憲さん、エスカミーリョに今井俊輔さん、ミカエラに宮地江奈さんと二期会のオールスターが揃った初日、東京文化会館のピットに入った読響と沖澤のどかさんのオーケストラ・サウンドも水準が高く、最近の二期会のプロダクションの中でも熱狂度が高い上演となった。
ゲネプロでも前奏曲から「今まで聞いたどのカルメンとも違う」美しい絵が見えるような、風や香りまで感じられるような音にはっとしたが、沖澤さんが作り出すフランスオペラの色彩感はすべての場面で素晴らしく、新しい登場人物が登場するたびに空気が変わる鮮烈なサウンドを放っていた。沖澤さんはメジャーな(?)デビュー以前にも自主制作オペラを振られていて「『椿姫』を作ったときは色々大変で、それで壊れてしまった人間関係もあった」と語ってくれたことがあった。今回のプロダクションでは演出家としっかり協調体制を作って、指揮者の理念を音楽に組み込んでいったのだろう。カルメンは自然の一部であり、野性的な人々が登場するオペラは音楽が表徴する「大自然」の荒々しさだと認識した。

イリーナ・ブルックの演出ノートによると、新演出では「スペイン」と場を特定せず、「ジプシー」も現代的ではないということで、その二つの設定を外したドラマを制作したという。「世界のどこかの荒涼とした場所」が金属片のガラクタによって固められた装置で表されており、黙役やダンサーたちは中南米の人々にも見える。合唱の衣裳は下北沢チックなストリートファッションで、人数分の衣裳にそれぞれ細かい工夫がなされていた。衣裳デザインはあれだけのバリエーションを作るのは大変だったと思う。NHK東京児童合唱団の子供たちも色とりどりのコスチュームに身を包んで活発に演技していた。あれだけのフランス語の歌を歌うのは、いつものことながら凄いと感心する。大人でも難しいことを、児童合唱は喜びに溢れた表情でこなしていた。
ミカエラもパステルカラーの冬山登りファッション(?)で登場する。宮地江奈さんが透き通った美しい声でホセを案じる歌を歌った。ミカエラは衛兵たちにからかわれ、パワフルなアクションで抵抗したり芝居も多い。ビゼーが生きていた頃の初演では、カルメンよりミカエラに共感が集まったという逸話があるが、それだけミカエラのパートが胸を打つものだったからだろう。

ホセ役の城さんは表情もよく、何度かこの役をこなされているせいか演劇的な迫真性があり、ご存知のように元々が大変な二枚目なのでカルメンが一目ぼれするのも納得がいった。カルメン加藤のぞみさんは、今まで国内外の上演で見たどのカルメンより完成度が高く、声に色も香りもあり、スモークに包まれて登場するシーンでは天女様か観音様のようだった。カルメンもまたジャージ風のファッションなのだが、不思議と似合っていて、踊りにも妖艶さがある。「ハバネラ」は完璧な音程で、余裕しゃくしゃくの表情で、ところどころユーモアも感じられた。カルメンというキャラクターがすっかり身体に入っていて、ここまでチャーミングに魅せる方も珍しい。「セギディーリャ」はカルメン自身が、次のホセとの逢瀬を想像して、未来の官能の時間を思いながらくらくらしているような歌だった。

大勢の合唱に交じってカルメンの友人フラスキータとメルセデスも存在感を表していく。三井清夏さんと杉山由紀さんが活躍し、杉山さんのメルセデスがまさかの「メガネちゃん」で、深夜ドラマのエキセントリックな女優のようで、思わずずっとオペラグラスで追ってしまった。フィギュア的に一番視覚的に残っているのがメルセデスだったりする。「カルタの歌」も楽し気だった。

嵐のような伴奏をまとって登場するエスカミーリョは、大スター今井俊輔さんで、今井さんは闘牛士をイメージしたすごい発声で歌い始めた。バリトンでああいう一声を聴いたのは初めてだと思う。「生きるか、死ぬか」といった丁半博打を生きているギャンブラーの声で、どう出しているのか想像もつかないが、リスクをとって成功させていた声だと直観で思った。イリーナ・ブルックはカリスマ的なエスカミーリョを少しばかり戯画的に演出し、退場シーンでは何度もポーズをとって歓声を浴びながら舞台奥に消えていく。「ホセは内容空疎な役だから歌うのは嫌」と言っていた海外の歌手がいたが、やり切った者勝ちなのだ。「闘牛士の歌」は実際には物凄く難しい歌で、破綻せず華やかに歌い上げる歌手には尊敬の念しかない。
同じ意味で、ホセの「お前が投げたこの花は…」の歌い出しも驚異的だと思った。ほぼテノールいじめなのではないか。城さんは果敢に完璧に歌っていて、オーケストラも殊更繊細な音楽を聞かせ、心に響いた。

1.2幕と3.4幕が続けて上演され、休憩は一回だったため、平均的な上演より短めだったが、凝縮度がありラストまでぐいぐい引っ張られていくスピード感があった。
現代演出でも読み替えというほどの違和感はなく、黙役やダンサーの振付も示唆に富んでいて、一場面ごとに大変丁寧に作られてた。イリーナ・ブルック版は成功だと思う。沖澤さんは指揮コンで優勝されたとき「自分はこつこつ型」と語っておられたが、イリーナ・ブルックも忍耐強くこつこつ積み上げていくタイプ。指揮者と演出家の協力体制が素晴らしい。
最終的に歌手がドラマの鍵を握ると思わせたのはラストシーンで、イリーナは「カルメンの物語は男性のDVも扱っている」と解釈していたが、城さんのホセの切ない演技は、もっと男女の根源的な心のバトルで、罠をしかけられて水の合わない場所に連れてこられた上、人間としての未来をすべて奪われたホセが、愛ゆえにカルメンを殺す場面には「DV」という言葉が介入しようもなかった。あんなに強かったカルメンが一瞬で抜け殻になってしまう様子を見て「これこそがオペラなんだ」と思った。
全キャスト申し分なく、一階席前方で聴く限り、メイン歌手たちの飛び出してくるような歌声に圧倒された。
初日キャストはあと1回、Bキャストはあと2回の公演がある。





新国立劇場『フィレンツェの悲劇』/『ジャンニ・スキッキ』(2/4)

2025-02-05 11:28:35 | オペラ
「中世フィレンツェ」が舞台のユニークなダブルビル。2019年の初演が見事だったことを昨日のように覚えているが、もう6年も前のことで、その間にコロナがあり、不思議な時間が過ぎていたことを実感する。ピットは東京交響楽団、指揮は初演と同じく沼尻竜典氏。幕が開いた瞬間に幻想的な美術とツェムリンスキーのきらびやかな音楽に引き込まれ、夢心地になった。

オスカー・ワイルドの未完の戯曲がもとになっている『フィレンツェの悲劇』は登場人物が3人で、商人シモーネ(バリトン)とその妻ビアンカ(ソプラノ)、彼女の不倫相手であるフィレンツェ大公の跡継ぎグイード(テノール)が登場するが、ほとんどが「寝取られ夫」であるシモーネの独断場。あとの二人はいちゃついたり状況説明のようなセリフを歌ったりするが、物語の芯にあるのは、現代から見ると時代錯誤なほど亭主関白で男性優位的思想を持ったシモーネなのである。妻をモノ扱いし、小間使いのように働かせ、人権を認めていない。物語はビアンカと貴族のグイードの不倫のシーンから始まるが、多くの観客はこの二人が睦み合うのも当然に感じられ、横暴なシモーネには共感しがたい違和感を感じる。その上、暴君夫は目の前にいるのが大公の息子だとわかると、色々な商品(豪華な織物など)を相手におべっかを使って売りつけようとする。その媚びた様子に、今はやりの「上納」という単語がチラついたりする。

演出は巧みで、粟國淳さんのプロダクションではいつも装置の美しさに魅了されるが、本作でも現実と幻想世界が織り交ぜられたような美術と照明が素晴らしく、この舞台で歌う歌手たちが自然と物語に入っていける素地を用意していた。衣裳も美しい。「織物」がキーとなる物語なのだから、歌手たちのコスチュームが美しくあることは必須だ。ビアンカ役は長身のナンシー・ヴァイスバッハで、二人の男たちより背が高く、女神のような存在感。声にも気品がある。そういえば初演の齊藤純子さんもとても美しい方だった。前回は意識して観ていなかったが、歌手の立ち位置や芝居も緻密に作られていて、男と女の様々な深層心理が彼らの所作や視線によって視覚化されている。ここまできっちりプランニングされている方が、歌手にとっても歌いやすいと思う。

シモーネ役のトーマス・ヨハネス・マイヤーは新国『ニュルンベルクのマイスタージンガー』でのハンス・ザックスの名演が鮮烈な記憶だが、この短いオペラでも素晴らしい存在感だった。寝取られた男の苛立ちと怒り、相手の男に媚びるふりをして最後は短剣で容赦なく殺してしまう。この意識の流れが物語の核をなすもので、ほとんど一人芝居のような印象が残った。大公の息子を歌ったテノール歌手のデヴィッド・ポロメイもいい声で死にっぷりもなかなかだったが、バリトンがあれだけ魅せる演技をしては、テノールは「歌い損」のうちに入るのかも知れない。ラストはビアンカが悪どいほどの女の狡猾さを見せるが、それも「大人の御伽噺」として納得できるのは、演出とオーケストラの「異次元の美」あってのことだった。

プッチーニの『ジャンニ・スキッキ』では登場人物がどっと増える。個人的にこのオペラが好きで、三部作で上演されるときは、『修道女アンジェリカ』の後で、こうも教会権力はコテンパンに揶揄されるのかとびっくりするのだが、最後はよくできた喜劇に「わっ」と涙が出る。新国には8年ぶりの登場となるピエトロ・スパニョーリが題名役を歌い、稽古写真より20歳くらい若返っていてびっくり。すごい美中年に変身していて、なるほどジャンニ・スキッキは21歳の娘をもつ50歳という設定だから、61歳の白髪のスパニョーリが「微妙な若作り」をするのは演劇的に辻褄が合う。それにしても、このオペラの装置は下手側にむかって結構な傾斜がついており、デスクの上のペンや小物よりも人間たちが小さい、という設定なので、デスクの坂道を行ったり来たりする歌手は大変。大きな天秤には死人のブオーゾ(黙役が名演)をはじめ様々なものが乗るのも面白く、あれが稽古場にあったとは考えづらいから、どういう緊張感で本番を迎えたのか想像してしまった。

ラウレッタと結婚したいリヌッチョが歌う『フィレンツェは花咲く樹のように』は、村上公太さんがギターを抱えて朗々と歌い、高音も勇敢。この曲もひとつのハイライトであり、旋律はその後にもライトモティーフ的に繰り返される。50年代から70年代のレトロなファッションに身を包んだ遺産相続人たちは贅沢なキャスティングで、日本が誇るバッソ・ブッフォ、志村文彦さん、畠山茂さんも大活躍。シモーネ河野鉄平さんは本作のリハーサルを縫って『さまよえるオランダ人』の代役をこなしていた。おじいちゃんの所作でよろけながら歌う河野さんの姿が、観ていて有難かった。
真のハイライトである「私のお父さん」を歌ったラウレッタ役の砂田愛梨さんはイタリア在住のソプラノ歌手で、今回初めて聴いたが、力んだところのない伸びやかでクリアな歌声で、とにかく自然なラウレッタだった。日々の研鑽もあると思うが、イタリア女性を演じるということにわざとらしさが皆無で、ジャンニと本当の親子に見えたのが良かった。

プッチーニはオペラ作曲家としては寡作で、書かれたものほぼ全てが名作なので文句は言えないが、60歳で書いた『三部作』の『ジャンニ・スキッキ』は、長生きしていたら喜劇でも大いに才能を振るっただろうなと思わせる凄い作品だ。ジャンニが遺書の改竄に成功し、身内の者どもが怒り狂って家の中のものを強奪して散り散りになるシーンなど、オーケストラはかなり前衛的でサイケデリック。演劇の可能性を知り尽くし、映画の時代も先取りしていた。同時に、ラストで主人公が物語作家と同化(?)して観客に物申すところは、『ファルスタッフ』を思い出さずにはいられない。私はどうかしているのか、二つのオペラのラストシーンのどちらを観ても涙を流してしまう。「この嵐は何だったのか」と、その意味を、あらゆる負荷から突然抜け出してきた人間が、真顔で問いかけてくる。

ピエトロ・スパニョーリは今回がこのオペラのロール・デビューとなった。生き生きと役を生き、特に『コジ』のデスピーナばりに変声でにせの遺言書を作らせる芝居が大変愉快だった。沼尻さんと東響の最高の音楽、破格に面白い粟國さんの演出、カーテンコールに現れた主役が素晴らしい気持ちでそこに立っているのが分かり、『フィレンツェの悲劇』のトーマス・ヨハネス・マイヤーもこの舞台で役を歌えたことに感動している様子だったので、新しい気持ちでオペラに感動している自分に気づいた。オペラ歌手が幸せを感じていることが、自分にとっての一番の幸せ。それ以外にはない。二人の主役の爆発的な「気分」が客席にまで飛んできて、いつまでも拍手していたくなった。2/6、2/8にも公演あり。




コンヴィチュニーの『影のない女』

2024-10-27 11:41:55 | オペラ
二期会のペーター・コンヴィチュニー演出『影のない女』(ボン歌劇場との共同制作)の上演が連日熱い議論を呼んでいる。事前に「皆さんは死んだオペラを観ている」といったコンヴィチュニーの発言の一部が非難され、カーテンコールの映像では初日から激しいブーイングが飛んだ様子。プロの歌手や批評家からも、主に3幕の大幅カットについて批判が起こり、その他にもしかじかの性的表現や、歌詞や設定への変更が一種のアレルギー的な反応を引き起こしていた。

Bキャストのゲネプロを見たとき、最初は何が語られているのか分からなかった。前回このオペラを観たのは2011年のマリインスキー劇場の来日公演で、指揮はゲルギエフ、演出はジョナサン・ケントで、同じプロダクションを2010年にサンクトペテルブルクの白夜祭でも観ていた。霊界のカップルと地上のカップルが交差する幻想的な物語という印象だったが、コンヴィチュニー版ではバラクはそもそも染物屋でもないし、皇后と乳母は清掃スタッフの恰好をして現実に舞い降りる。皇帝はギャングのボスで、たくさんのシーンでピストルの暴発が起こる。
ゲネプロでは前半の100分がチンプンカンプンで、後半の45分で急に色々なことが覚醒した。皇后の腹から取り出された嬰児が「アナタノ子供ダヨー! ドウカ死ナセテ! モウタクサン!」と語り出す場面で、頭が真っ白になった。観る人によっては由々しい印象を得たかも知れない。この世界に生まれてくることが、子供にとって幸せなのか? ガザ地区やウクライナで殺されたり手足を失ったりしている小さな子供たちを思い出し、何よりいい年をしてこの世に存在している実感が湧かない自分のことを思った。

コンヴィチュニーの精神の内奥には、癒し難い厭世観があると思う。プログラムではドラマトゥルクのべッティーナ・バルツの長大なコンセプトが掲載されているが、そうしたアイデアに反応してしまうコンヴィチュニーは、「生存している」という当たり前のことに暗い気持ちを抱いているからなのではないか。今まで観てきたオペラにもそれを感じた。
R・シュトラウスが『影のない女』を完成させたのは1919年で、最初の世界大戦が始まった5年後で、その後の20世紀は戦争の時代となり、「産めよ増やせよ」の富国強兵のスローガンが欧州にも蔓延した。「女はまるで軍用道路!」と叫ぶ妻。それまで対立していたバラクとその妻が、急に和解する3幕が大幅にカットされたが、劇中最も甘美で豊饒な部分を「抜いた」ことに大きな意味がある。作品を愛する人々にとっては多大なフラストレーションだが、演出家はそこに嘘があると確信し、メスを入れた。

版権が切れているのだから、演出家は自由にカットする権利がある。一方で「オペラはみんなのもの」だから勝手なことはするな、という一般論がある。演出家は劇場と外の世界を交流させ、人間全体の意識を覚醒させたいと思っているが、一部の(多くの?)鑑賞者はそれを「要らない」という。このままではコンヴィチュニーが時代錯誤のエゴイストになってしまう。そんなことはあってはならないと思う。

本公演は26日の初日キャストを10列目で観た。ゲネは一階の最後列で観たので、その景色はずいぶん違っていた。本番3回目で上演として円熟していたということもあったが、間近で見る歌手たちが、愛と生命と性の本質を、暴力ぎりぎりになる局面も含めて真剣に演じていて、困難なはずの歌唱も全くそれを感じさせず、演劇的な迫力だけが横溢していたのが驚異だった。
女性歌手たちが特に凄い。バラクの妻の板波利加さんはコンヴィチュニーの愛弟子といっていいほどの歌手で、皇后の冨平安希子さんは2018年のコンヴィチュニー版『魔弾の射手』で好演し、乳母の藤井麻美さんは今回が初めてのコンヴィチュニー作品となる。その3人が、演出家の巨大な愛を受け取り、無限の可能性を舞台で花開かせ、嘘のない女性像を表現した。皇后はバラクとの性交を暗示させる長いシーンを演じなければならず、露骨ではないが大変な精神力を要すると思われた。個人的には最も素晴らしい場面だと胸打たれた。

最後列で観ていたものをステージ近くで観て印象が変わったことは、オペラ全体に精神的に近づく必然を感じさせた。バックステージツアーにも参加したが、ボンで制作された装置はハイテクで美しく、照明も回転する床も最新の機構が使われている。あの清潔なラボやカウンセリングルーム、夜景レストランの美術について、ほとんど指摘されないのが不思議である。装置の贅沢さには見るべきものがある。
近くに寄らないと見えないものがあるのに、見ようとしないのは何故なのか。性的表現も、自分自身に近づいて考えてみれば、拒絶反応以外の何かが起こるはず。バックステージツアーの後には、コンヴィチュニーによる『コジ・ファン・トゥッテ』のマスタークラスも見学した。2時間の間に若い歌手たちが驚くべき成長を遂げていた。演出家は真の天才であり、そのインスピレーションはエゴを超えた人間全体の洞察から来ていると確信した。

これだけ炎上してしまっては、もはや演出家を賞賛することは盲目的信奉者と同一視されかねないが、視野を広げれば、そもそもこうした刺激的上演を日本で観られるということ自体が凄いのである。あの巨大な装置は今日の夕刻には全部撤収され、ボンに送り返されてしまう(ほとんどの装置はボンで制作されていた)。跡形もなく消え去ってしまうあの世界が、まもなく虹のように感じられる。

アレホ・ペレスと東響の音楽は驚異的で、ペレスは演劇に寄り添った音楽を積極的に作り、ノットとの『サロメ』や『エレクトラ』が素晴らしかった東響も神業的なサウンドを聴かせた。歌手たちは全員エンジンを唸らせて、オーケストラと一心同体になっていた。

人間はショックなことが起こらないと眠ったままでいる、と言ったのはベジャールだった。眠ったままでいいはずがない。揺り起こそうとするコンヴィチュニーに「嫌だ!」とブーイングした観客まで、演出家が予測したアートの一部だったのかも知れない。黙示録的な上演だった。