小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

上原彩子 ピアノ・リサイタル

2020-03-28 22:32:24 | クラシック音楽

3/25にオペラシティで行われた上原彩子さんのピアノ・リサイタル。モーツァルトとチャイコフスキーで構成されたプログラムで「キラキラ星変奏曲」から夜空の星屑のような輝かしい音が飛び出し、オペラシティの三角屋根に反響した。無垢であどけない主題…というには、とても危ういものを孕んだメロディが、時間とともに回転しながら壮麗に増幅していく。こんな「キラキラ星」を聴いたことはなかった。悠久の「無」から微かな歪みが生まれ、その歪みから万物が生まれたという宇宙論を思い出した。モーツァルトがただの「可愛い曲」を書くはずがない。ピアニストが譜面から発見したいくつもの和声やリズムが、星空の不思議を連想させた。星空はロマンティックだと多くの人は言う。しかし、厳密に考えてみると星空は現実そのもので、遥か彼方の恒星たちと比較的近くにいる太陽系の惑星たちが、重力も時間も違う世界とともに存在している。目を閉じればキラキラ星たちは消える。宇宙の実体とは実存だ。再び星空はロマンティックなものとして目の前に現れる。

チャイコフスキー「創作主題と変奏」は、モーツァルトと一つらなりの曲に聴こえた。チャイコフスキーはモーツァルトを愛していた。バランシンが振り付けた「モーツァルティアーナ」(組曲第4番)を思い出す。モーツァルトもチャイコフスキーもあまりに美しすぎる。上原さんが奏でる音の美しさが、おかしな言い方だが…人間の可聴領域を超えた果てしないものに思えた。作曲家という役割を超えて、二人とも過激な美意識を書き残し、それは人間としての精神の大きな空隙を埋めるための何かであったようにも感じられた。続くチャイコフスキー「四季」からの3月「ひばりの歌」と6月「舟歌」は、どちらもメランコリックで悲しげな旋律で、他の作曲家が喉から手が出るほど欲しいと思っていたはずの「歌」を呼吸のように自然に湧き立たせたチャイコフスキーの天才に感動した。

モーツァルトの『ピアノ・ソナタ第12番』は、子供心にも懐かしい曲だったが、こんなにも妖艶な演奏は初めてだった。ピアノ・ブームの最中に生まれた昭和の子供たちは、近所の家からこの曲が風に乗って流れてくるのを聴いていたものだが、本質にあるのはもっと怖い世界で、作曲家が知っていた大きな宇宙と死生観がオルゴール箱のような小さくて綺麗なものに封じ込められている。子供っぽさなど微塵もない音楽だった。

 リサイタルは演奏家と聴衆の対話の時間だ。この日の上原さんもまた、オペラシティに集った聴衆の声なき声や鼓動を感じ取って、特別な演奏をされたのだと思う。自分自身もまた、いよいよ「特別な聴衆でなければならない」という義務感が消えた。仕事柄、体裁のいいことを書かなければならないとか、そうしたことを普段あまり考えているわけではないが、音楽とともにある一体感や、眠りと覚醒のどちらにいるのかわからないような感覚の方を強く感じたいと思った。

 後半のラストに演奏されたチャイコフスキー『グランド・ソナタ』は驚異的なタッチで、一音一音が力強く、運命の鐘の連打のような一楽章からピアニストの強い指に釘付けになった。強いのは指ではなく、精神だ。ドラマティックなフォルテシモの表現は、寂寥感やメランコリズムを振り切るような潔さがあり、上原さんはところどころ腰を浮かせて思い切り鍵盤に体重を乗せて弾いていた。チャイコフスキーの強さ、どん詰まりの逆境を乗り越えていく力を受け取り、それでも53歳で早逝するしかなかった運命を思った。モーツァルトも35歳で死んだ。それから比べればチャイコフスキーは長く生きたが、それぞれの時代精神の中で最も危険な意識を持ち、過激な美意識ゆえに短い生涯を閉じたのだと思う。宇宙の歪みとともに優雅に遊んでみせた天才の足跡を聴き取った。

 上原さんはミモザかたんぽぽの花を思わせる黄色いドレスで、最初それを見た瞬間に「あ、太陽だ」と思った。宇宙は容赦なく善悪の彼岸で猛威を振るっているが、地球は太陽の善意に守られている。岩石や地層に刻まれた、生命絶命の痕跡と、そのあとの再生を記した縞模様を思い出し、太陽の癒しの力について考えたのだ。久々に外に出ると昼間の陽光が、遠くから人類の回復を見守っているのが感じられる。上原さんのピアノには、そうした太陽意識が感じられた。三人のお子さんの母である彼女が、日々の心の動きの中から素晴らしい直観を受け取り、巨大な音楽を作り出していることが有難く思われた。こうした感想はまったく評論家的ではないが、モーツァルトもチャイコフスキーも別世界からの手紙のような音楽書き残したのだと実感した。混沌の最中にあってその光はいっそう眩しく感じられたのだ。


Ⓒ武藤章


佐藤美枝子&西村悟 デュオ・リサイタル (3/20)

2020-03-22 11:48:39 | クラシック音楽

みなとみらいホールで行われたソプラノ歌手・佐藤美枝子さんとテノール歌手・西村悟さんのデュオ・リサイタルを聴く。13時30分スタートだったが、時間を間違えて13時50分頃にホールに到着してしまい、冒頭の日本の歌4曲は聴くことができなかった。武満徹「小さな空」は今聴きたい曲だったので無念。トークと歌による構成で、佐藤さんがコンクールで西村さんの審査をしたエピソードなどが楽しく語られた。佐藤さんも西村さんもテンポよくお話がとてもうまい。
リサイタルで歌手の伴奏をされるのは初めてだというピアニストの松本和将さんが、ブラームスの間奏曲op.118-2を弾かれたが、その前日にオペラシティでアンドラーシュ・シフが弾いた同じ曲だったので「あっ」と思った。声楽家の表現する音楽と、ピアニストが表現する音楽は、同じ音楽でありながらコミュニケーションの「性質」が違う。松本さんのブラームスが内省的で哲学的で、シフと通じるものがあったから気づいた。「身体が楽器」である歌手の方々は、内に秘めた力を客席にむかって太陽のように放つ。佐藤さんが歌うカンツォーネ「勿忘草」が、ホールの大きさを超えて空間の外側にまで拡がっていく凄い感覚があった。西村さんの「グラナダ」も、誠実で明るいエネルギーに溢れていて「そういえば、西村さんもパヴァロッティも天秤座のアーティストだな」と愛されるテノールの共通点を考えたりした。「オー・ソレ・ミオ」はお二人のデュエットで、輝かしいソプラノとテノールの歌声が空間を満たした。

 政府から外出自粛のアナウンスがあった休日だったため、客席は「オペラのゲネプロより少し多いくらい」。この状況で渾身のパフォーマンスを披露してくれるお二人が有難く思われた。歌手の生命力、ポジティヴな精神、どんなときもブレない強い信念を感じたリサイタルでもあった。客席がステージの音を吸わないので、サウンドのひとつひとつが異様なほどはっきりと聴こえた。後半一曲目は『椿姫』から「乾杯の歌」と、ヴィオレッタの1幕の長尺のアリアで、佐藤さんの一音も粗末にしないドラマティックで透明な声に改めて度肝を抜かれた。歌手は、その日のリサイタルがどういう条件であれ、24時間自分の人生に責任を持って生きている。この事態になって、歌う人、踊る人から毎回凄い活力をもらっているが、歌もダンスも、伝統に対して敬意をもって厳密に演じなければならない厳しい世界だ。プロになる過程で、さまざまなダメ出しや、悪意すれすれの凹む言葉を浴びる。「それでも」自分を信じて舞台を勝ち取った人の音楽には、決して消えない炎のようなまぶしさを感じる。パフォーマーの内側の魂が輝いている。佐藤さんの声が、正統派でありながら「個性的だ」とも思った。過去に聴いた佐藤さんのルチアやジルダもそうだったが、迷いなく危険に向かって飛び込んでいく勇敢さと鋭さがある。「何も怖いものはない!」というパワーの根源には、芸術と自分の生き方への信頼があるのだ。

「生きる!」という一途で真剣な思いを持たなければ負けなのかも知れない。自分や自分をめぐる状況に不満をもって、嘆いてばかりいても時間の無駄だ。「あなたはどう生きたいの?」と問われている気がした。もうだいぶ前から佐藤さんは、佐藤さんの生きる道を選んで、引き返せないその道を真剣に進んできた。
厳しい生き方だが、声が与えてくれるものはとても優しく温かい。バーンスタインの「キャンディード」からクネゴンデが歌う「着飾ってきらびやかに」は予想外のハイライトで、朱赤の花のようなゴージャスなミニ丈のドレスをお召しになり、難しい音程のクレイジーな歌を聴かせた。佐藤さんのクネゴンデは初めて聴いたが、以前リリースされたCDには収録されていたそうである。崇高さとサービス精神が共存しているのが、歌手という人たちの面白いところだ。

西村さんもバーンスタインを歌われた。『ウエストサイドストーリー』からの「マリア」はロマンティックで、西村さんは「愛し愛される才能」に優れたアイドル体質の男性なのではないかと思われた。レパートリーはベルカントから「ラインの黄金」のローゲまで幅広く、「今度はどんな表情を見せてくれるのか」と楽しみになる。性格は芸術家の力だ。無口で意地悪な歌手を…そんな歌手は少ないと思うが…応援しようとするのは正直なところ努力がいる。みなとみらいは遠いが、1月のジャパン・アーツさんの新年会でこのコンサートへの抱負を語ってくれた西村さんが、本番の舞台で頑張っている姿を見たくてやってきた。

アンコールの『メリー・ウィドウ』のデュエットのあとに、佐藤さんが歌われた「見上げてごらん夜の星を」は聖母マリアの祈りの歌だった。佐藤さんがこの世界にいることが有難く、この特殊な状況下で多くの人々が聞くことのできなかったこのリサイタルの大きな価値を思った。いずれ、通常のコンサートが行われるようになっても、今日と同じように楽しむと思うが、「内側から生きる」「今あるものを材料に何とか生きる」というアイデアをこれほど感じることはなかったと思う。西村さんと佐藤さんという新鮮な組み合わせも最高だった。



 


サー・アンドラーシュ・シフ ピアノリサイタル(3/12)

2020-03-19 12:00:00 | クラシック音楽

サー・アンドラーシュ・シフのオペラシティでの3/12のリサイタル。ピアノリサイタルを聴くこと自体が、2/16のサントリーホールでのポゴレリッチ以来だった。あれから1カ月もたたないうちに、世界はずいぶん変わってしまったが、そんな中でも会場は3階席まで結構埋まっている。2階からは一階席のいくつかの空席が見えた。
シフが登場するまでの数分間、水を打ったような沈黙で、ポゴレリッチの「リサイタル前の沈黙にはその時々のクオリティがある」という言葉を思い出した。特別な拍手で迎えられたシフは、ジレとジャケットの正装。彼の「ザ・ピアニスト」なスタイルは久しぶりに見たような気がする。わずかに斜めに配置されたベーゼンドルファーが、ヒストリカル・ピアノのように厳かな音を放ち始めた。

前半はメンデルスゾーンの幻想曲 嬰ヘ短調op.28『スコットランド・ソナタ』とベートーヴェンのピアノ・ソナタ第24番 嬰ヘ長調op.78『テレーゼ』、ブラームス『8つのピアノ小品』op.76。衛生面からの配慮かプログラムは配布されず、そのこともあってか、その夜の聴衆のために用意された「白紙」のリサイタルのように感じられた。メンデルスゾーンのスコットランド・ソナタが精神の深い領域を癒し、乾いた砂のようだった心が潤っていくような感覚があった。ピアニストの魔法のようなアルペジオが大きな黒い箱から次々と飛び出す。、微塵のストレスもなく呼吸するように自然に鍵盤の上を走る指を、子供のように見つめていた。音楽は「命の水だ」と思った。ベートーヴェンの『テレーゼ』はメンデルスゾーンからのひとつらなりの曲にも聴こえ(嬰ヘ短調から嬰ヘ長調へ)、歌曲のようにシンプルなメロディが、万華鏡の如く光を反射していく。澄んだ水のようなペダルは若々しく、真珠や宝石を思わせる響きに陶然とした。2楽章は楽観に包まれた恐れを知らぬ愛情の表現で、こんな曲を書いたベートーヴェンを愛さずにいられるだろうかと思ってしまった。これは本当にロマンティックなソナタなのだ。

 ブラームスの『8つのピアノ小品』は深いメランコリーに包まれた楽想が、究極のリラックスを与えてくれた。音楽が与える「悲しみ」の感覚には、センティメンタルな意味合い以上のものがある。ショパンやチャイコフスキー、プッチーニのオペラの悲しい美は、陳腐なものとは対極の位置にある。人間を人間たらしめている洗練された感覚がロマン派の音楽にはあり、音楽の進歩史観はそれを乗り越えなければならなかったが、いつでも回帰していける普遍的な精神の宝物として存在している。シフの演奏からは、逆境を乗り越えた殉教者のような厳しさを感じることが多かったが、この夜のリサイタルは大部分が優しさから出来ていた。変イ長調のインテルメッツォは、海中に沈んだオルゴールのようで、こんなに無垢で綺麗な音楽はこの世にないように思えた。どんなに苛酷な人生も、こんな音楽が側にいれば生き延びられるのではないか。シフ自身が、孤独な時間の中で一人ブラームスと向き合っていた姿を想像した。前半だけでかなりのボリュームだったが(非常時でもあるので、ここで終わってしまうのかと一瞬思った)、後半も聖なる音楽が続いた。

 ブラームス『7つの幻想曲集』は『8つのピアノ小品』と地続きの世界だったが、激昂するカプリッチョの楽想は心に深く突き刺さり、ピアニストの放つ強靭な「言葉」を感じ取った。音楽の言葉は崇高だ。言葉と言葉の戦いは、簡単なことで品位を失いつたない暴力に転じるが、音楽の「内観」はそれを超越する。別の方法で高みに上り詰める。そういう言葉を自分も欲しいと思った。重々しいはずのブラームスは軽やかですらあり、7つの曲は色とりどりの花のように薫っていた。派手な赤や黄色ではない、青銅色のようなハイセンスな色彩だ。知性とは多分そんな色をしている。物理的な恐怖にさらされ、昔ながらの古い醜態を演じつつある世界に対して、芸術は十分に反省された「美」を提示することが出来る。

バッハの『イギリス組曲第6番』は、聖堂の中で聴いている心地だった。スカルラッティのソナタに頻繁に現れる小鳥の存在をここでも感じた。小鳥に説教するアッシジの聖フランチェスコの裸足の足と、ピエロ・デラ・フランチェスカのフレスコ画に描かれた繊細な草花を連想し、春の香りを嗅いだ心地になった。シフは深い瞑想の境地にいて、指は心のままに鍵盤を漂っていた。何かの不条理に対する答えとは、まったく別のところから降ってくる。現実に見えるものだけを素材にして解決をはかろうとしても、ますます複雑な混迷に足を突っ込んでしまいそうになる。青い空から飛んでくる「思いがけない答え」が芸術なのではないか。こうした自分の言葉遣いにはつねに避難が浴びせられるが、少なくともわずかな美の可能性があると信じている。

オペラシティの二階席から、ずっとオペラグラスでシフを見ていたが、最後はもうピアニストがすぐそばにいた。存在を近くに感じられた。芸術家として高潔な生き方を選び、政治的な苦境も受け入れてきたシフは本物の「騎士」で、この日このときのために信じられない数のアンコールを弾き、終演時間は9時47分を回っていた。そうした出来事のすべてが、聴衆との共同作業で、ピアノリサイタルの本質に触れた特別な時間だった。

 


パリ・オペラ座バレエ団『オネーギン』(3/6)

2020-03-08 11:11:38 | バレエ

パリ・オペラ座バレエ団来日公演、Bプログラム『オネーギン』ユーゴ・マルシャン&ドロテ・ジルベール組を鑑賞。決定版だと思っていた「本家」シュツットガルト・バレエ団のフリーデマン・フォーゲル&アリシア・アマトリアンに匹敵する素晴らしい上演で、新しいドラマが見えてくる鮮烈な内容だった。ドロテ・ジルベールのタチヤーナの解釈が深く、踊りも細部に至るまで卓越していた。今のドロテを観られることは奇跡で、10年前から素晴らしいバレリーナだったが、こんなふうに成長するとは予想していなかった。バレエの女神のようなオーラを放っていた。

ジョン・クランコの『オネーギン』は、振付家が64年にボリショイ・オペラが上演したチャイコフスキーのオペラ映画を観たことに触発されて作られたもので、当初はオペラの編曲をそのまま各場面に当てはめて振付が行われる予定だった。このアイデアを却下したのは劇場側で(ロイヤル・オペラハウスとシュツットガルト歌劇場)、既存のチャイコフスキーの楽曲をクルト=ハインツ・シュトルツェが編曲・再構成して作られた。物語はオペラの台本がそのままバレエに移し替えられていて、冒頭の女性の抒情的な三重唱は、テーブルを囲むラーリナ夫人・乳母・オリガによって視覚化されている。

オペラでもバレエでも、同じ演出・振付のもとで演じ手が自らの采配で決定する事柄に一番興味がある。ドロテ・ジルベールのタチヤーナはシュツットガルトのアマトリアンとも、前日に踊ったアルビッソンとも全く違っていて、とても落ち着いていて大人びていた。その様子を見て、彼女がこのバレエでやろうとしていることが何となく分かりかけて興奮した。タチヤーナは陽気な人の輪に入らず、ずっと本を読んでいるが、夢見がちなのではなく、形而上学的なのであり、田舎の村の人々が踊ったり集ったりして「重力のままに」生きていることを退屈に思っている。

 そこにオネーギンが現れる。身長190センチのユーゴ・マルシャンは颯爽としていて、恐らく本人も似た性格をしているのだろう。理想が高く、ちょっとしたことに苛立ち、いつも最高のものを探している若者といった風情だ。タチヤーナがオネーギンを最初に見つめる場面でも、ドロテは冷静で「ずっと待っていたものが現実に現れた」ということを嬉しそうに認識していた。素晴らしいのは、オネーギンが散歩の途中にタチヤーナの読んでいる本を手に取ったあと踊り出す長いソロを見つめる場面で、「この世界で自分を満足させるものなど何もないのだ」ということを語る若い男に対して、微かな憐憫の表情を浮かべていたことだった。これは、初恋の衝撃に全身が砕けそうになる「本家」のアマトリアンと対照的だ。その憐憫ゆえに、タチヤーナは「自分の分身である」オネーギンを支えてあげたいと思い、将来の伴侶としての未来を思い描くのだ。

レンスキー役のポール・マルクは次期エトワール候補と噂の高いダンサーだが、これが初来日。丁寧な踊りで、オネーギンと対照的な牧歌的なムードもよく出ていて、ナイス・デュボスクの若々しいオリガとも好相性だった。華やかさにおいては、3/5のエトワール・カップル(ジェルマン・ルーヴェ&レオノール・ボラック)が勝っていたが、こちらのキャストも難しい振付をよくこなしていた。デュボスクは婚約者をからかってオネーギンとはしゃいで踊る場面も良かった。

タチヤーナが寝室の鏡から現れるオネーギンの幻影とともに踊る1幕の最後は、息を呑む出来栄えで、ドロテの身体表現は今まで観たことのないレベルに達していた。マクミラン版のバルコニーのシーンも凄いが、オネーギンの鏡のシーンはさらに官能的で危険な領域に踏み込んでいる。パ・ド・ドゥの奇跡を立て続けに見せられ、ダンサーの肉体の神秘に度肝を抜かれた。バレリーナの二本の脚が空間を断ち切る鋏の刃のように思えたのは初めてのことだった。オネーギンの色気も凄まじく、踊り終えた後に冷酷に鏡から抜け出していく様子は「薔薇の精」を思い起こさせた。

ドロテの演劇プランでいくと、タチヤーナがオネーギンに手紙をびりびりに破かれる場面ではどういう芝居になるのか興味があったが、ここも個性的だった。手紙を突き返そうとするオネーギンに対して、冷静に「これは受け取るべきだ」という表情を見せる。「若いあなたがどう思おうと、私はあなたの不完全な心も愛している」という意志に思えた。ユーゴのオネーギンは自信に溢れたタチヤーナに、反抗期の子供のような反応を見せる。手紙を破かれたタチヤーナは振付通りに両手で顔を覆って泣くが、同じ所作なのに前後が異なるとやはり違う意味に見えるのだ。ドロテの解釈は最後までスリリングだった。

ポール・マルクが決闘前に踊るソロは、オペラでいうレンスキーのアリア「青春は遠く過ぎ去り」だ。若くして自分は死んでしまうのだ…という未練と無念を、ダンサーは踊りで顕す。テノールの詩情をまとって身体で歌うのだが、ポール・マルクは真剣な表情で「辞世の舞」を踊った。追いかけてくるタチヤーナ&オリガ姉妹が、どちらがどちらか分からないコスチュームで決闘前の男二人に絡む振付は何度見ても素晴らしい。クランコは本当に天才だったのだ(彼もまたレンスキーのように「夭折」した芸術家だった)。

オーケストラは『ジゼル』に続いてこちらも東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団がピットに入ったが、シュトルツェの編曲はプレイヤーへの負担が大きく、立て続けに演奏すると管楽器の息がもたなくなってしまう。巨匠ジェームズ・タグルの指揮も、バレエのドラマにあわせて思い切り煽るので、クラシックの演奏会とは違う表現になる。ミシェル・ルグランの映画音楽のような、少しばかり通俗的な「濃さ」がバレエの振付を面白くするのだが、弦はともかく金管にとっては針の筵だっただろう。これを録音でやってしまっては味気ない。オーケストラには心から感謝するしかない。

 3幕のサンクトペテルブルクのシーンでは、幕が開いた瞬間にパリ・オペラ座バレエ団のダンサーの見事な静止ポーズに大きな拍手が湧いた。バレエが素晴らしいことと、この公演で特別感じる感動というものがあった。全員、この特殊な状況下で全力を出し切って献身的に取り組んでいる。面白いことに、『ジゼル』と『オネーギン』には類似した美しいシーンが何度か出てきて、一幕の村人たちが横列になって棒状に回転するように踊る群舞や、オネーギンが腕を輪にしてタチヤーナの頭からつま先まで包み込むマイムなどがそれだ。この来日プログラムにはとても粋な意味があるような気がした。

タチヤーナの夫グレーミンは、『ジゼル』でヒラリオンを踊ったプルミエ・ダンスールのオドリック・ベザールが好演し、オペラのバス・バリトンの渋いアリアを思わせる落ち着いた存在感を見せた。聞いたところによると、パリではベザールもオネーギンを踊っているらしい。シュツットガルトのロマン・ノヴィツキーも二度の来日公演でオネーギンとグレーミンの二役を見せてくれて大変良かったが、演劇的に大いに深まる経験なのだろう。ドロテは、1幕から3幕にかけて「田舎娘から貴婦人への大変身」はせず、衣装や設定は変わるが、最初から一貫して変わらないタチヤーナの内面を見せた。やはり、途轍もなく独自で画期的な役作りだ。タチヤーナがオネーギンに向けて書いた手紙の内容を知っているからだろう。プーシキンの原作によれば、それは決して夢見る乙女のものではなく、同質の魂をもつ「同志への」呼びかけで、勇ましく高潔なものだった。

 みじめに追いかけてくるオネーギンと踊る最後のパ・ド・ドゥは一幕の幻想シーンにも増して官能的で、未成年には見せられないと思うほどだが、「過去に振り切った男を必死で拒絶する」踊りではなく、ドロテの解釈ではここで新たな愛が、爆発的に生まれているはずなのである。最初の出会いのとき、微かに感じていたこの男への「憐み」が今やすべてとなり、自分自身のどうしようもなさ、閉じ込められた内面の逃げ道のなさと溶け合って、水爆級の情熱となって燃え盛っている。「私の直観は正しかったのだ…!」というタチヤーナの心の叫びが、ひとつタイミングを間違うとダンサーを大怪我させてしまうようなあのアクロバティックなパ・ド・ドゥから聴こえてきた。オペラでは「オネーギン、あなたを愛しています」という明確な歌詞によって歌われ「幸せはすぐそばにありましたのに」という言葉が続く。この二人は紛れもなくソウル・メイトで、生きるために時計の針を進めた女と、時計の針が止まったままの男の「ズレ」が悲劇的なラストに雪崩れ込む。あんなことやこんなことを舞台でやりながら、見事オネーギンを「撃退」するタチヤーナの最後の表情は、ダンサーによって見事に違う。もうあそこでは、何も隠せないのだろう。泣き崩れる寸前の心で、ドロテは「この世界では理性が勝つ!」という演技をしていたように思う。

    隣の席にいらしたダンスマガジンの編集部の方に聞いたところ、パリに残ったカンパニーは現在ストライキ中なのだそうだ。ルーヴル美術館の職員もストライキを起しているらしいし、観光都市としての機能の何割かはストップしている。東京もさらに酷い状況にあるが、現実には二種類あるのではないかとも思う。ダンサーの選択に「演出された役」と「内面から演じる役」の二つがあるように、社会と実存の異なる次元が存在する。『ジゼル』上演期間中に芸術監督のオレリー・デュポンに取材をしたとき、なぜ2017年に東京公演でユーゴ・マルシャンのエトワールに指名したかを聞いた。彼女は凛として「オペラ座が尊敬する、最も大切な観客がいる国だから」と答えてくれた。両者が重ねてきた歴史が実現させたこの奇跡的なツアーは、大成功に終わろうとしている。


photo:Julien Benhamou/Opera National de Paris