小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

全国共同制作プロジェクト『ドン・ジョヴァンニ』(1/27)

2019-01-29 11:43:02 | オペラ
毎回型破りのアイデアで観客を驚かせてくれる全国共同制作プロジェクトオペラ、今年はモーツァルト『ドン・ジョヴァンニ』の日本語上演、演出にダンサー/振付家の森山開次さんを迎えての上演となった。総監督・指揮は井上道義さん。オーケストラは読響、合唱は東響コーラス。
東京芸術劇場の舞台前方にオーケストラが配置され、オケの両脇と前方にも舞台が続いている。こういうスタイルを「エプロン型」というのだと休憩時間にお話した二期会の山口さんからお聞きしたが、オケが床の下に埋まっていないので大きくていい音が聴こえるし、歌手や合唱も声量があるのでバランスがよかった。黒く光る舞台の床は、ヴェネツィアの運河にも見える。舞台の緊張感のある美しさは、このプロジェクトが入念な吟味によって準備されていることをうかがわせた。

歌手たちは冒頭から素晴らしい歌と台詞を勢いよく聴かせた。レチタティーボ部分も日本語に変えられていて、どこか翻訳調のかぐわしい雰囲気も感じられるのだが、とにかくたくさんのことを喋り、歌う。レポレロを演じた三戸大久さんは飄々とコミカルで、膨大な言葉で状況説明をし、手品のように鮮やかな日本語の魔力を示した。ドン・ジョヴァンニ役のロシア出身のバリトン、ヴィタリ・ユシュマノフも流暢な日本語を語り歌う。ヴィタリは2015年から日本在住の親日家の歌手なのだそうだが、ネイティヴでもあれだけの尺の台詞をものにするのは大変だと思う。
日本語歌詞=日本語の歌手は歌いやすい、という思い込みは素人的なもので、イタリア語で書かれた曲はどの歌手もイタリア語で勉強したのだから、日本語に変わった時点で新しい課題が与えられる。一単語一音符のイタリア語が、文法も発音も全く違う日本語に変わるのだから、自然な歌唱を創り上げていくには高いハードルが設けられる。なおかつ、今はほとんどすたれてしまった日本語上演には「高級でない」という意見を述べる人々もいる。
そうしたハンディをすべて背負って日本語上演を行うことは、明らかに危険な冒険なのだ。怪我も覚悟だし、死も覚悟。
その心意気が、意外にも楽観的に「なんとでもしてやるさ!」という高笑いに聴こえた。なんと、日本語はドン・ジョヴァンニにぴったりの言語で、ロシア人歌手もウクライナ人歌手も日本人歌手も、堂々と輝かしく、美学的にもハイレベルにこのヴァージョンを歌う。聴き手にもすんなり伝わってくる。そして何より母国語なので…このオペラのユーモアも辛辣さも直接「ハートに」響いてきた。演劇としてオペラとして、かつてないほどエモーショナルに胸に迫ってくる物語だった。

コスチュームは息を飲むほど美しいデザインで、赤いドレスを着たドンナ・エルヴィーラ鷲尾麻衣さんは、このオペラに登場する女性たちの「怒」のパートを溌溂とパワフルに演じた。声楽的にも安定していて、日本語のディクションにも上品さとエスプリがある。演劇面では「いくらでもはみ出してみよう」という勢いがあり、ドン・ジョヴァンニやレポレロとの絡みも大胆だった。演出の意図かこちらの思い込みか判然としないのだが、鷲尾さんのエルヴィーラはほぼこのオペラの主役に思えるほどのインパクトだった。
同じくらい強烈な印象を残したのが三戸大久さんのレポレロで、シャイで誠実な東北人である(恐らく)三戸さんが、スペインのお調子者に見えた。バッソ・ブッフォとしての貫禄十分で、アドリブは入っていたのか不明だが、とても自由に物語の中で暴れまわっていた。語学的な面では積極的にヴィタリさんを支えていたのではないか。舞台ではご主人に蹴ったり踏まれたりするが、レポレロでいるときも東北人は献身的なのだ。

髙橋絵理さんのドンナ・アンナは目が覚める思いがした。2012年の二期会「道化師」でネッダを演じられた頃から凄い逸材だと思っていたが、全身で哀しみをふるわせて、内圧された感情を霊感に溢れた超-ソプラノで歌う。木霊のような天からの声のような…髙橋さんのこれまでの演技にはひとつも外れがなかったが(ホフマン物語のアントニアも絶品だった)今回のドンナ・アンナでは度肝を抜かれた。ドン・オッターヴィオ金山京介さんも高貴な演技で、ドン・ジョヴァンニの対極にある「究極の善」をモーツァルト独特の木管の響きとともに歌い上げた。聖なるドン・オッターヴィオだった。こういう立派な役作りは、主役以外でも大事なのである。この役について初めて理解した気持ちになった。

同じ感慨を得たのは、マゼット近藤圭さんの演技で、このマゼットもとても誇り高い…ドン・ジョヴァンニは確かに身分の高い男だが、彼より下の階級の男たちも、自分の女を大切に守り平和に暮らしたいと願っている。その真剣さが既に、悪党ドン・ジョヴァンニに対するアンチテーゼになっていた。ツェルリーナ藤井玲南さんは「百戦錬磨の生娘」を妖艶に演じ、オペラを見ている男性全員を虜にしたと思う。藤井さんもとても声が美しい。ツェルリーナはどこか疑わしい娘だが、歌は聖女そのものなのだ。

ダンサーは10人。全身女性ダンサーで、レビューダンサーのような動きをしたり、ドゥミ・ポワントでほぼバレエの踊りをしたり、家具のように人柱(?)になったり、たくさんの効果を上げていた。二回観ていたら、もっと細部を観察できたと思うが、かなりの稽古を重ねないと出来ないことをいくつもやっていた。愛知トリエンナーレで勅使川原三郎さんが「魔笛」を演出されたときは、東京バレエ団の大勢のダンサーが参加していたが、それよりかなり少ない人数でも『ドン・ジョヴァンニ」は成功していた。

主役のヴィタリは骨のあるバリトンで、演技も暴君の迫力があった。早口の日本語も噛まないでちゃんとやっていて、ユーモアセンスも嫌味がない。「シャンパンの歌」はクレイジーで威厳があり、地獄堕ちまでひとつのテンションをキープしていたと思う。この日本語上演が画期的なのは、キャストに外国人歌手が二人いたことで、彼らは日本語をきっちりとマスターして役作りを完成させた。騎士長のデニス・ビシュニャはウクライナ出身だが、落武者のようにも見える石像の姿で歌う「おまえが晩餐に招いたので…」のくだりは大迫力だった。この人の日本語も素晴らしかったのだ。

大々的な永遠の命題として「オペラは誰のものか」という問いがある。
私がオペラについて書き始めた頃、日本ではイタリア歌手とイタリア指揮者が一番偉く、その頃台頭しはじめていた東欧やロシアの歌手は田舎者扱いされている風潮があった。ヴェルディがプッチーニより偉く(ムーティの受け売りか?)、ウィーンで成功してもスカラ座に乗れないネトレプコ(当時)は三流だと言われていた。オペラは声楽のアートなのだから演出家は要らない、とまで言われていた。そういう「専門的見地」を尊重しなければならないと思いつつ、実はまったくそんなことは考えていない自分がいた。

「オペラはみんなのものだ」

とんちの一休が将軍様に「月をとってこい」と言われて、水を張ったオケに月を映して運んできた話…あれがオペラだ。
ドン・ジョヴァンニという月を、いくつもの水桶や洗面器に映して見せることが出来る。オペラはそれくらい軽やかだ。どこても行けるし、簡単に運べる。小説より演劇より軽い魔法のじゅうたんのようなもので「ドン・ジョヴァンニ」と言っただけで、彼が何者で、どんなことをしでかしてしまった人かわかる。
みんなの無意識に住みついているドン・ジョヴァンニについて、似たようなことを繰り返していても仕方ないのだ。ラストのドン・ジョヴァンニ奈落落ちの後、遺された六人は六重唱を大幅にカットしてスピーディに突っ走った。「楽譜は作曲家の遺書なのだからカットはいけない」なんて、モーツァルトは言わないだろう。自分のオペラが面白く上演されること、新しい命が注がれることのほうがどれだけ喜ばしいか。

人間は積み重ねを大切にする生き物だから、予定調和ではないことが起こると激昂する人もいる。それを承知で冒険する人がいる。
当たり前だと思われてきたことを「更地に戻して」新しく始めることは、勇気がいる。苦労もいる。
「こんなに大変なこと、歌手の皆さんはよくやりましたね」と芸劇の方に話したら「みなさん楽しみながら取り組まれていて、稽古場はいつもすごい活気でした」とのお答え。高山病のリスクを負いながら激しいダンスをしたりホーミーを歌ったりするチベット高地の人々を思い出した。

読響はバロック的な典雅を感じさせるハイクオリティの演奏をし、井上道義さんの音楽作りは確信的だった。作詞家の仕事に換算したら印税生活を送れそうな対訳を作られたのも井上さんだったという。野田フィガロに続いて、道義先生の勝利の声が聴こえたような気がした…「これでいいのだ!」
2月3日には熊本公演が行われる。














東京交響楽団×ロレンツォ・ヴィオッティ ヴェルディ『レクイエム』

2019-01-15 16:38:57 | クラシック音楽
東京交響楽団とイタリアの若手指揮者ロレンツォ・ヴィオッティによるヴェルディ『レクイエム』をサントリーホールとミューザ川崎シンフォニーホールで二日間聴いた。いずれも卓越した名演だったが、初日と二日目では少しばかり違う感想を抱いた。サントリーでは衝撃と陶酔を味わい、一方ミューザは(オケにとってより理想の空間だったが…)オーケストラと指揮者、合唱と指揮者、歌手と指揮者の理想の関係とは何か、ということを強く考えた。

声楽ソリストはソプラノの森谷真理さん、メゾ・ソプラノの清水華澄さん、テノール福井敬さん、バスのジョン・ハオさん。バリトンのリアン・リさんが降板となったためハオさんが加わり、すべて二期会の歌手になった。壇上の東響コーラスは壮観で、これだけの数が上ったのは初めて見る。164名の歌手たちがいたという。
冒頭の超弱音から始まる合唱の木霊のような声に心を奪われた。pからpppppまでのグラデーションが繊細な起伏を作り、ステレオのつまみを回すように完璧にコントロールされている。死者の行く暗い道を暗示しているようでもあり、遺された人間の喪の感情を表しているようでもある。それが「怒りの日」の爆音的表現と強烈なコントラストをなし、バロック絵画のようなドラマ効果を醸し出していた。

ソリストの歌手四人はいずれも全力投球で、お尻だけ歌えばよいベートーヴェンの第九と違って85分間最初から最後まで気が抜けない。全員がヴェルディの名手であり、清水さん、福井さん、ハオさんは二期会での『ドン・カルロ』でもメインの役どころを歌っている。歌手陣の磨き上げられた劇的表現は見事で、特に森谷さん、清水さんの歌唱にはヴェルディのこの曲に対するオリジナルな解釈があったように思う。ヴェルディは作家マンゾーニを悼んでこの曲を書いたのだが、現世で死を経験するすべての人間の苦痛、自分自身の苦痛を重ね合わせ、それをどうにか解決しようとしてこのクレイジーな曲を作ったのではないだろうか。死者と引きはがされた生者の「この生にはどんな意味があるのか?」という悲痛な嘆きが女性歌手の声からは感じられた。

オーケストラは、ノットさんと一緒の東響とは別のオケのようだった。激越で戦闘的で張り詰めていて、初日には大太鼓が破れた。サントリーではちょうど前方左側で聴いていたので、大太鼓が交換される様子までよく見ていたのだが…あの雅やかな東響でこんなことが起こるのは珍しい。オーボエの最上さんのTwitterによると、リハーサルのときも大太鼓は破けてしまったらしい。コンマスとセカンドの方が、爆風に飛ばされるように大きくのけぞって演奏する姿も初めて見た。巨大な音と弱音とのコントラストは最大限に強調され、雷が落ちてくるような効果をもたらしていたが、サントリーではそれが新鮮で面白く感じられたものの、ミューザでは少しばかり気の毒に感じられた。あの戦闘的な音はどうしても「東響らしくない」感じがしたからだ。

ヴィオッティはまだ20代で、夭折した偉大な指揮者を父にもつサラブレッドで、今まさに世界を掴もうとしている野心的な若獅子だ。セスナを操縦するようにオケと合唱を思いのままに指揮し、理想の世界を創り上げる。彼が最初に登場した在京オケも東響で、このオケに大切にされて音楽家としてのステップを上がっていった。
奇妙な譬えだが、指揮者には「親目線」のタイプと「子供目線」のタイプがいると思う。親は、子供がどんな我儘を言っても笑って耐え、自分が死んだ後に放蕩息子も分かってくれるだろうと諦観とともに生きる。子供は、青天井の万能感とともに暴君となり、鬼となることが自分の役割だと思っている。くだくだしく語るのも何だが…二日目のヴィオッティは「親の心、子知らず」に見えた。
そのオケの土壌が大切にしているもの、唯一無二の個性を見抜いて、そこに自分の音楽愛を重ね合わせていくのが「達人」の指揮者だが、ヴィオッティはまだ若すぎる。結果的に音楽が面白いものになっても、オケの内側が幸福でないと私は嫌なのだ。破れてしまった太鼓は、舞台から見えない不調和を表しているようにも感じられた。

「レクイエム」のオケには規律があり、木管とチェロはふだんの東響より緊張感のある演奏をしていたと思う。体脂肪の少ない、若い指揮者の身体のラインのような音楽で、独特の美意識が感じられた。でも、もっと豊饒で共感的なサウンドでもよかったかも知れない。

テノールにとって二日間、ヴェルディのレクイエムを歌うのは過酷なことだろう。二日目の福井さんが、中盤で苦しそうな表情をされたのを見て心配になった。歌手とはまったく、過酷な仕事である。ヴィオッティは自分の理想郷を作るために働いてくれる歌手たちのことをどう思っているだろうか…福井さんが苦しそうだったのは、指揮者にも経験不足なところがあったからではないか。この部分を置き去りにして、どんどんキャリアを重ねてしまうと、私の嫌いなタイプの指揮者になってしまうかも知れない。

この二日間のコンサートの主役はコーラスと声楽ソリストで、清水華澄さんの「ルクス・エテルナ」と森谷真理さんの「リベラ・メ」はオペラを超えた宗教的オペラティック世界で、森谷さんの声はもうそれが「声」と呼べるものなのか判別しがたいほど、幽玄な波動そのものになっていた。こうしたクオリティの歌手は世界の宝で、映像配信などでもっと知って欲しいと願ってしまう。東響コーラスも、2013年に聴いたトリノ王立歌劇場合唱団の同演目より、はるかに優れていた。

集中力凄まじく、求心的で真剣な『レクイエム』は間違いなく成功した。若い自分の理想郷を献身的に実現し、命を削るように音を出してくれたすべての奏者と歌手たちに、指揮者が心から感謝し、何倍にも成熟した心で再び共演することを願う。一風変わった後味の、砂の塔のような名演だった。
































読売交響楽団 ベートーヴェン『交響曲第9番《合唱つき》』(12/19)

2019-01-03 12:31:31 | クラシック音楽
師走の第九は読響の初日(12/19サントリーホール)を聴いた。もうしばらく経っているが、不思議と印象に残る公演で、日々考えている「オーケストラとは何者か」という問いに答えてくれる良質のコンサートだった。指揮は、読響初登場となるイタリア人指揮者マッシモ・ザネッティ氏。ベルリン、ミラノ、パリ、バルセロナ他欧州の有名歌劇場でオペラを振り、パルマのヴェルディ音楽祭にもたびたび出演している歌心に溢れたマエストロだという。
第九の指揮者というのは毎年どのようにキャスティングされるのか分からないが、そのオーケストラの常任指揮者や首席客演指揮者、桂冠指揮者以外の人が突然日本にやってくるというケースも多く、期待以上の演奏を聴かせてくれたり、呆気ないほどビジネスライク(!)に終わってしまったり、結果は蓋を開けてみるまで分からない。
読響とマッシモ・ザネッティはどうであったか…彼は忘れえぬ表情をいくつも見せてくれた。客席からは顔は見えないが、彼の背中が語るものはとても大きかった。

この日は前半に新国立劇場合唱団がバッハのモテット第1番「新しき歌を主に向かって歌え」を演奏した。初日と25日のみのスペシャル・プログラムで、約15分ほどのア・カペラが心に深く響いた。温かく親密な歌声で、年末のクリスマスの季節が家族の絆を思い出す時間であることを改めて思った。新国立劇場合唱団とマエストロ三澤も、読響とは強い絆をもつ。あのとんでもない『アッシジの聖フランチェスコ』をともに成功させた。この冒頭のバッハが演奏される日を聴けて幸運だった。人の声の聖なる温かさと、神とともにいることの祝福、音楽の謙虚な美しさと誇りを芯まで味わった。

休憩を経て本編の第九がはじまる。コンサートマスターは日下紗矢子さん。ザネッティ氏は写真と同じ少し気難しい表情で登場し、第一楽章がはじまった。宇宙の始まりのような独特なイントロが特に新鮮に感じられた。セカンド・ヴァイオリンの外園さんが「(第九のイントロは)何調なのか、これから何が始まるのか期待でわくわくする」と語ってくださったことを思い出す。この森のざわめきのような、波のさざめきのような冒頭が、熱狂的な終幕へつながっていく流れは本当に天才的だ。彼方から何かがやってきて、ひとしきり光を放ち、爆発して去っていく…まるで天体の一生のようで、音楽とはそのような無限な時間を凝縮して経験させてくれる特殊な芸術だと感心する。ザネッティと読響のベートーヴェンにはごく自然な呼吸感があり、音楽が時間とともに拡大発展していく健康な感覚があった。
この数日前には、ハーディング指揮パリ管のベートーヴェン「田園」を聴いたばかりで、こちらは全く消化することのできないベートーヴェンだった。指揮者と自分の相性の悪さを重ねて実感する演奏で、それでもどういうことをやるのか知りたくて足を運ばずにはいられなかったのだが…一言でいうと音楽の「全体」(ホール)が実感できない、矯正的でコンセプチュアルな演奏だった。パリ管の管楽器の技術は確かに圧倒的だが、それが音楽にとって調和的ではなく断片的に聞こえ、どことなく冷たく感じられた。

ザネッティと読響の第九には、実際どのようなコンセプトがあったのか…初日を聴いただけではよく分からないところもあったが、音楽は時系列で発展し、この曲に期待するさまざまな歌が朗々と聴こえてきて、オケから森のような全体が立ち現れる感覚があった。実験室(ラボ)ではなく、大自然の音楽だった。ベートーヴェンの難聴はこの頃だいぶ進行していて、精神的にもかなり追い詰められていたはずだが、音楽には絶体絶命の境地から反転した太陽のような明るさが溢れている。第九には「太陽精神」のようなものを感じるのだ。寛大で無限なる太陽が、息子である地球へとさんさんとエネルギーを注ぎ、その繁栄を祝福する。寛大さと肯定の音楽で、それが未来永劫のメロディとなるためには、ひと工夫することが必要だった。第4楽章のあのシンボリックなメロディは、ポップ・ミュージックにほとんど近い。ベートーヴェンにはフレディ・マーキュリーと同じセンスがある、と言ったら音楽学者は激昂するだろうか。彼らには「単純化」への驚異的な編集能力がある。

その演奏会が最終的に「誰のもの」であったか、ということを論じる人はあまりいないし、評論としてどうでもいいことなのかも知れない。オーケストラに近づけは近づくほど、演奏会は指揮者が100%掌握しているものではないと知る。聴衆の沈黙も演奏会を作る。コンサートの出来栄えについて指揮者は大きな責任をもつが、よい演奏会を創り上げているのが、一見判別しがたい、微妙なものであることはとても多い。ここでは、指揮者が音楽に感じている「感動」が、聴衆へ波及していく感覚があった。
3楽章のアダージョで、ザネッティの背中に羽が生えて、飛んでいくのではないかと思われた。読響とともにいる指揮者の幸福な背中というのは何度も見てきたが、初共演のザネッティもオケから次々と幸福をもらい、それは彼が過去に経験したことのない種類のものであるように見て取れた。すべてのパートが自然な呼吸で指揮者の背中を押し、指揮者自身にとっても「未知のもの」だった至福を気づかせてくれているようだった。
読響は森のように賢い。地下茎でしっかり繋がり、危機やアクシデントを目に見えないネットワークで伝達し、力を合わせてひとつのものを創り上げる。読響のこの性格は日本のオケならではの美質だと思っていたが、2018年のいくつかの印象的な演奏会を聴いて、世界でも格別にユニークで優れた性質を持っていると確信した。ザネッティの少年のような背中が、教えてくれた。

ソプラノのアガ・ミコライ、メゾ・ソプラノの清水華澄さん、テノールのトム・ランドル、バスの妻屋秀和さんは全員初日から絶好調で、新国立劇場合唱団とともに盛大なフィナーレに向かっていった。指揮者は目を白黒させて、「第九とはこういうものなのか…」と驚いていたようだった。彼はコマンダーではなく、素晴らしいコンダクターとしてこの初日をこなし、カーテンコールで二人のマエストロ(三澤氏)が並んで喝采を受ける様子はとても平和で喜ばしかった。読響は「与える」オーケストラで、その性格がさまざまなミラクルを生んでいる。演奏会ごとに好きになったり嫌いになったりする聴き方もあるのかも知れないが、近づけは近づくほどそのオケを手放したくないと思ってもいいのではないか。演奏会は「消えもの」ではあるが、この第九の爽やかな余韻は自分の中では忘れることができない、死んだ後にも誰かに覚えていてほしい演奏会だった。