小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

東京都交響楽団×アラン・ギルバート(7/25)

2022-07-26 16:52:26 | クラシック音楽
先週の都響スペシャルに続いて、アラン・ギルバート指揮・都響の定期演奏会をサントリーホールで聴く。モーツァルトの交響曲第39番・第40番、休憩をはさんで第41番《ジュピター》。コンサートマスターは矢部達哉さん。
マケラ指揮のマーラーで都響の大編成に痺れた後だったが、モーツァルトで小編成となったオケは逆に新鮮に感じられた。指揮台もなし。アラン・ギルバートも黒いシャツ姿でくつろいだ雰囲気で登場し、顔を見るたびに「この人は気難しいのだろうか、優しい人なのだろうか」と色々考えてしまうが、この日は哲学者のようなオーラが感じられた。
「交響曲第39番」のアダージョは音量控え目で、シックで上品な質感の、高級糸で織り上げられた服地を思わせる音楽だった。木管が物凄く丁寧に塗り重ねられていて、打楽器も脅かすようなところが一切なく、とても秘められたものを感じさせた。特に面白味を引き出そうとしているような力みは一切なく、雫が自然に落下するように雅やかで美しいことが次々と起こる。

「アラン・ギルバートは正統派だし」と咄嗟につまらないことを言いそうになったが、聴けば聴くほど保守的な音楽などではなかった。真面目なモーツァルトほどつまらないものはない。真面目にやらなければ古典派の謹厳な様式感は出ないのかも知れないが、例えば『コジ・ファン・トゥッテ』のようなおかしな話を、歌手もオケも200%真面目にやっている舞台は、今の自分には堅苦しすぎて見続けることは出来ないのだ。
真面目なモーツァルトを何故聞きたくないのかというと、「生きねばならぬ」という古い時代の重力が、音楽の艶や輝きを殺してしまうから。都響とアランのモーツァルトは、淡々としているようで、哄笑的な何か、きわどいほど艶麗で危険な何かを孕んでいた。そもそもなぜモーツァルトの、ある時代にさらさらと書かれた3つのシンフォニーを一夜で演奏しようとしたのか。

39番、40番、41番の交響曲は、何かが異常だ。天才の中の霊感が電気のように疼いている時期に、人間の力だけではない、突然降ってきた宇宙感覚とともに書かれたとしか思えない。なぜこの持続が、次の位相へつながっていくのか…ぼうっとして聴いていれば心地よい「流れ」に身を任せられるが、ひしめているエネルギーは不穏だ。

40番はほぼ狂気から出来上がっている。誰もが知る名曲で、こんないたずらを残していったモーツァルトは正真正銘の宇宙人だと思う。噓泣きのようなセレナーデ風のメロディから始まって、音楽はどんどん不可解になっていく。この曲が女性なら、こんな相手を愛した男性は水中にいるみたいに息が出来なくなってしまうだろう。わけがわからない。その微笑みはなんなのか、媚態なのか拒絶なのか、答えのない問いのような音楽で、精巧な音の細工の全体が表しているのは、まさに高度な「遊び」なのだ。

個人的に好みの曲のせいもあるが、指揮者は特に40番で楽しそうに見えた。しかじかの瞬間に起こる狂気を、とても理性的に推進させていた。都響は指揮者の最も知的でユーモラスな部分と通じ合っていたと思う。ギルバートと都響なのだから、細かなディスカッションというよりテレパシーで作っていたのかも知れない。

束の間のなぐさめのような、子供の隠れん坊みたいなアンダンテと。ドンナ・エルヴィーラのヒステリーのような四角張ったメヌエットの後、再び狂気が爆発する。
遊ぶことや駆け引きが苦しくなって、死ぬのは馬鹿げている。モーツァルトも死んでしまったし、人は誰でも死ぬのだから、本気で遊んで狂うべきで、そこに生きることの新しい可能性がある。
第4楽章の構造的な「とんでもなさ」は、バーンスタインが1973年に収録したハーバード大学のレクチャーで何度も反芻していた。53歳のマエストロは、エリート学生たちを前にして、この4楽章がいかに無意味なモティーフの乱入によって活き活きとするかを説いていた。
 アラン・ギルバートは、ときどきバーンスタインとイメージが重なることがある。ニューヨーク・フィルというオーケストラは、何か特別な人を引き付ける場所なのかも知れない。
 バーンスタインが、うぶな娘のようにキャッキャと驚愕していた箇所も、ギルバートは日常茶飯事のように見事に、平然と振る。バーンスタインは実際、マーラー悲劇的を泣きながら振ったりして、とてもうぶな人なのだ。ギルバートのほうが魂的に「悪女」なのである。

なぜだろう。先日の都響スペシャルの「チック・クリアに捧ぐ」でも、バーンスタインのことを思い出した。全く違うけれど、何かが似ている。バーンスタインも、アラン・ギルバートのように音楽をしたかったのかも知れない。素敵なミュージカルも書いたけれど、何かを証明するために晦渋な曲も残した。バーンスタインが生きた時代は「生きねばならない」時代であり、強く生きるためにウイスキーと煙草の力を借りて無茶な創作をし、もっと生きられたかも知れない命を縮めてしまった。

休憩の後の『ジュピター』も名演だったが、客席にいて、40番にすべて搾り取られてしまった。あんな魔性のシンフォニーってあるだろうか…。それでもやはり『ジュピター』も名曲で、好色な木星王が金の雨になって女神の寝室に行くような、風船のように膨張していくカラフルなストーリーが目に浮かんだ。木星はガスの惑星で、占星術では歓喜と楽観のシンボルで、射手座と魚座の守護星。メシアンは自分が射手座であることを気に入って「射手座」という曲を書いた。アラン・ギルバートは魚座で、彼にとっても木星は頭の上がらない天体…と、クラシックファンにとってはどうでもいいことなども考える。
「生きねばならない」重苦しい時代から、遊ぶようにただ輝く時代へと進むトンネルのような、7月下旬のコンサートだった。
















二期会『パルジファル』(7/13)

2022-07-15 16:37:39 | オペラ
二期会『パルジファル』のプレミエを東京文化会館で鑑賞。宮本亞門演出・フランス国立ラン歌劇場との共同制作。
歌手、合唱、演出、オーケストラすべてが最初から最後まで完璧で、奇跡的な上演だった。不安定な天候のせいで体調が今一つだったこの日、パルジファル全幕を最後まで観られるかどうか不安もあったが、歌と音楽と演劇に全細胞を癒され、涙し、浄化されてホールを後にした。この酷い現実に平気なふりをして生きていかなければならない現代人は、すべて今回の『パルジファル』を観るべきだと思う。

亞門さんの最近のオペラ演出では定番の、登場人物の分身としての黙役が登場し、パルジファルの(さらに若い)少年時代を演じる子役がたくさんのことを演じる。7/13のパルジファルは福井敬さんで、福井さんも10代の少年のように若く見えた。ワーグナーを歌うとは、威嚇的に張り上げて歌うことではなく、演劇的な内容をともなった歌唱を聴かせることだと福井さんからまたしても学ぶ。美術館を思わせる装置、たくさんのキリストやマグダラのマリアの絵画、類人猿の大きな標本など、最初は「これらは何を示しているの?」と違和感があったものの、すぐに心が納得した。パルジファルは、どこかの秘密結社のやばいオペラなんかではない。頭で理解しようとすればするほど、本筋から外れる。心で感じるべき楽劇なのだと思った。

アムフォルタス黒田博さんは、10年前の二期会の上演でも同役で、10年前にもこんな痛々しい「存在」がオペラの世界にはあるのかと驚愕したが、亞門演出ではいよいよ殉教者かいまわの際の重病人のようで、元々美しい面立ちの方なので、本物のキリストのように見えた。先日の「フィルスタッフ」はヴェルディの最後の作だが、「パルジファル」はワーグナーの最後の作。想像界の最終的な姿を演じることが出来るすごい歌手であり役者であると再認識した。そこにいるだけで、深い。歌手としての器が果てしなく大きいのだ。

クンドリ田崎尚美さんは、こんなに美しいクンドリがいるのだろうかと世界中の歌劇場に自慢したくなるような輝かしさで、重く沈痛な役を観たことのない妖艶な姿で歌った。以前演じられたゼンタやエリーザベトの面影をクンドリに投影してしまうという、不思議な見方をしてしまったが、田崎さんがクンドリを演じることは、運命にセットされていたことだと思う。ものすごく「選ばれて」舞台の上にいた。クンドリという存在は謎であり、自然霊の一部のようでもあり、クリングゾルの傀儡として登場するが、アムフォルタスの分身のようでもある。
クンドリがパルジファルに母を思い出せつつ、誘惑に失敗する場面は、観ていてかつてないほど滂沱の涙に溢れた。「お前に逃げ道はない。すべての道を封じてやる」というクンドリの歌詞が、呪詛というより自己崩壊すれすれの嘆きに聴こえたのは衝撃的だった。

現代の子供のようなパルジファルの姿と、タロットカードの図案のような古代の人々との装束が不思議と自然に共存していた。
3幕はもう、目を開けていることが出来なかった。荒地のような姿で現れたパルジファルの足をクンドリが洗う。アロマの精油を垂らすような仕草。歌手のマドンナが「本名のミドルネームのヴェロニクは、キリストの足を洗った女性の名前」と語っていたことを思い出した。救世主として選ばれたパルジファルの背後には、ゴリラがいる。黙ってゴリラがそこにいるだけで、涙腺が決壊した。何が嘘で何が茶番なのか、ゴリラがすべてを語っていて、このゴリラは天に指をさして洗礼者ヨハネのポーズまでとる。着ぐるみの中の人にお礼を言いたくなった。

クンドリは宙に浮かんで消えていくのだが、この場面は演出の離れ業で、ワーグナーのスコアをただ崇拝しているだけでは出てこない。
亞門さんは、ワーグナーを友達のように感じ、生きてオペラに関係している人たちの痛みや苦しみと、ワーグナーの生きた苦しみをつなげてループにする。オペラは人間の痛みで、愛の痛みで、その傷口を押し広げることで価値が生まれる。演出の正解とは、自分の愛を信じることにのみよって出せるものではないのだろうか。知識や知恵の力比べを超えて、巨大な愛は立ち現れる。

福井さん、田崎さん、黒田さん、全員が「これは果たして演じているということなのだろうか」と思えるほど、破壊的で衝撃的な歌声を聴かせる箇所があり、それぞれが抱えている人生の痛みのようなものを感じた。自分は奇跡を見ているのだ。大きく映し出される地球の映像に飲み込まれるように、彼らと同じ星にいる一体感に包まれた。
ワーグナーの音楽が、これほどまでに魅力的であることも驚きで、一秒一秒の響きに溺れそうなほど陶酔的だった。
ヴァイグレと読響は、夏至の前に二回の素晴らしいコンサートを聴かせ、ドヴォルザークの『交響曲第8番』の最終楽章では、愛のような恋のような祝福の響きに「夏の夜の夢のようだ」と思わずにはいられなかった。歌劇場のマスターであるヴァイグレは、自分の評価や建前なんかどうでもいい、オペラとシンフォニーの愛を伝えることこそが指揮者の使命だと知っている。
パルジファルが宇宙的な愛のオペラであり、未来に向かって開かれている物語だと知った貴重な初日だった。

グルネマンツ役の加藤宏隆さんの実力を改めて知る上演でもあった。バス・バリトンでいくつもの上演を拝見してきたが、貴重な屋台骨であり、根強い存在感がある。『パルジファル』の濃い登場人物の中で、渋い優しさを発揮されていて、初日組のアンサンブルを完璧なものにしていたと思う。16日にも同キャストで公演が行われる。




歌劇『400歳のカストラート』 

2022-06-29 16:07:03 | 演劇
カウンターテナー歌手の藤木大地さんが主演する歌劇『400歳のカストラート』を東京文化会館小ホールで鑑賞。2020年2月初演の再演で、上野の小ホールの649席は完売(感染症対策で前方席の一部は開放せず)。400年のときを生きる虚勢歌手「ダイチ」を演じる藤木さんは、ルネサンスから現代までの歌曲やオペラアリアを20数曲披露する。企画原案と選曲は藤木さん自身、脚本・演出・美術は平常(たいらじょう)さん。2年前と大きく変えたところはないというが、コロナや戦争が起こった後の世界では、通底する主題である「命」ということがより真に迫って感じられた。
藤木さんは台詞は語らず、大和田獏さん大和田美穂さんの朗読によって4世紀の物語のあらましが語られる。朗読の二人は時々飛び出すように、物語の登場人物になったりする。この作り方が、改めてうまいと思った。「ダイチ」は貧しい家に生まれ、歌の女神に導かれ、カストラートとしてスター歌手になる。そこでは色々な人々に会う。初恋の女性、辣腕マネージャー、裕福なパトロン…永遠の命をもたない彼らはつねに先に死んでいく。前半のラストのラフマニノフ『ヴォカリーズ』は、胸掻きむしられた。

藤木さんには平常さんとの対談の司会と、対面インタビューと2回お話を聞いたことがある。とても現実的で客観的にご自身を見られている方で、そのことを考えるとカストラートの「ダイチ」は、フィクショナルな創造物なのかなとも思うが、舞台では藤木さん自身も存分に投影されていたように思う。「歌手は孤独に強くなければならないと欧州での最初のマネージャーに言われた」と藤木さん。ダイチも絶望の淵に沈んでは蘇り、次の時代のステージで軽やかに歌う。声の限りに歌うカストラートが、声を失う場面は見ていて辛かった。あれほど研ぎ澄まされた歌を歌う藤木さんだから、つねに「余計な時間などどこにもないのだ」と思いながら、磨いているのだろう。ある日声が出なくなる恐怖、というのもご本人が深層心理で感じていることなのではないかと思った。

面白いのは、美声の持ち主であるダイチは色々な人から愛され、物語中では男性の恋人がいたり女性の恋人がいたりするのだが、そこに加えて歌手の才能をプロデュースしようとする黒幕的な存在も、性的なこと以上に執拗に関わってくるのである。「その才能を、粘土のように自分が形作りたい」という欲望は、何なのだろう? 余計なおせっかいのようで、強烈な愛でもあり、支配欲や金銭欲とも関わり合いがある。恋愛よりある意味、危険な香りがする。平常さんの脚本は、このあたりの執着も巧みに匂わせていた。

音楽監督の加藤昌則さん(ピアノ)率いる弦楽アンサンブルも素晴らしく、ヴァイオリンには成田達輝さん、周防亮介さん、ヴィオラに東条慧さん、チェロに上村文乃さんが名演を聴かせた。初演からこの作品に関わる成田さんは遊び心たっぷりのジャブも飛ばし、魅力いっぱいだった。加藤さんは今年の「虫めづる姫」でもハイセンスな演奏と楽曲提供に驚かされたが、この小ホールのシリーズに登場する人は皆、芸に色気があるのだ。平常さんも凄く、色っぽい人。演劇・音楽はこれがなければダメだ。プロとはそういうことなのだろう。藤木さんの色気も、このチームでは最高に発揮される。ゲネプロと本公演、両方観たけれど、どちらも本気の演技で、本番はさらに最高だった。

歌の合間にマーラー『交響曲第6番』の3楽章のピアノ五重奏版が演奏される件では、溺れるような幸福感にとらわれた。永遠の命を与えられたカストラートの物語は、逆説的に、死すべき運命の自分や他の人々の儚さと、その合間に蜃気楼のように見える幸福の強烈さを想起させた。芸術家たちのすごい芸が、刹那の命のように燃え、それが客席に伝播する…649席があっという間に満員になるという「魔」は、そういう芸がなくてはダメなのだ。今後行われる地方公演も見たくなった。



東京二期会 プッチーニ『エドガール』(セミ・ステージ形式)

2022-04-25 01:08:44 | オペラ
プッチーニのオペラ『エドガール』(セミ・ステージ形式)をオーチャードホールで観る。二期会と指揮者のアンドレア・バッティストーニは、ヴェルディ『ナブッコ』以来共演を重ねているが、ヴェルディはバッティストーニと東フィル、プッチーニはルスティオーニと都響、という暗黙のローテーション(?)が、前回の『蝶々夫人』から変わってきていて、ヴェルディ担当(!)だったバッティストーニも、プッチーニを続けて振っている。2012年頃、バッティストーニに「本当はどっちの作曲家が好きなの?」と聞いたことがあり「プッチーニは昔から大好きで、ヴェルディは学びながら好きになってきている」という返事だった。今回の『エドガール』は指揮する姿から、心底プッチーニが好きなのだと実感した。

2008年にプッチーニのメモリアルイヤー(生誕150周年)を記念してリリースされたBOXでも、『エドガール』は音源だけではよく分からないところが多かった。出世作『マノン・レスコー』の4年前、30歳のときに完成している。フォンターナの台本はミュッセの詩劇をもとにしたもので、あらすじを読んでもわかりづらい。プッチーニは何度も改訂を繰り返し、3幕版が決定稿となったが、2008年にはトリノ王立歌劇場で初演4幕版がホセ・クーラ主演で初めて上演されている。イタリアでも上演機会が少ないので、日本ではバッティストーニとの縁がなければ聴くチャンスがなかったかも知れない。

始まってすぐ、先日の春祭のモランディ指揮・読響で聴いたばかりの『トゥーランドット』を思い出した。二つの作品の間には36年の開きがあるが、合唱とオーケストラの響きには既に『トゥーランドット』のすべての要素があり、音楽的には劣ったところがなかった。もしかしたら、プッチーニは遺作で先祖帰りをしたのかも知れない。『エドガール』は14世紀のフランドルが舞台で、既に異国の物語に素材を得ようとするプッチーニの姿勢が反映されている。ドニゼッティ=ヴェルディの流れを汲もうとする視点は一切なく、むしろ音楽の流れはビゼーを強く思い出させた。妖艶なメゾ・ソプラノが活躍するところなど、『カルメン』を意識しているのではないか。聖歌を思わせる荘厳な合唱から、突然エキゾティックなメゾの歌が始まる強烈さからも、『カルメン』を思い出さずにはいられなかった。『エドガール』の完成は1888年で、『カルメン』の初演が1875年。

誘惑に弱く、情動的に不安定な主人公エドガールを福井敬さんが演じた。酔いどれの役として登場するが、福井さんの誠実なオーラは隠しようもなく、それが表面的ではないエドガールの「魂」を表しているように感じられた。エドガールの清楚な恋人フィデーリアを髙橋絵理さんが演じ、プッチーニのライバルだったレオンカヴァッロの『道化師』で高橋さんが素晴らしいネッダを歌ったときから、10年が経っていることに気づき、光陰矢の如しと思った。どこまでも澄み切った美声で、全身から清らかな光を放っている。プッチーニは生涯、フィデーリアのような女性を理想としていたのではないか。一方で、実生活では清楚な小間使いの娘を自殺に追い込んだエルヴィーラを妻にしている。『エドガール』では、ムーア人の娘・ティグラーナが妖艶な悪女として登場し、中島郁子さんが圧倒的な歌唱と演技で魅了してきた。とても強い女性の役で、ティグラーナの音楽には平和を乱すような性格が感じられた。

東フィルはバッティストーニの歌心とプッチーニへの愛を汲み取り、粘り強くハイセンスな熱演を繰り広げた。エドガールは愛の矛先がコロコロ変わり、兵役に出て戦死したかと思うと実は生きていたりして、台本から一つらなりのドラマを感じようとするのは難しいところが多かったが、未完成なドラマの内側で、作曲家のマグマのようなパッションは猛威を揮っていた。バッティストーニも作曲家だから、プッチーニのフラストレーションがよくわかるのだ。『エドガール』の初演は、スカラ座で三回で打ち切りになった。以後プッチーニが台本のクオリティにこだわり、結果的に極端な寡作になってしまったのはこのオペラが原因だと推測する。『マノン・レスコー』はすべてがうまくいった。台本が良かったからだ(それでも極端な場面転換は多い)。

二期会合唱団とTOKYO FM合唱団が素晴らしかった。プッチーニは合唱に多くを語らせ、彼の家系が18世紀から続く宗教音楽家の一族であることを思い出させた。オルガンも効果的に使われ、見事なミサ曲に聴こえるくだりが多くあった。連綿と続く家系のDNAの突然変異として、ただ一人のオペラ作曲家となったプッチーニには、血族の宿命のままに宗教音楽の作曲家になる道もあったのだ。イタリアのカトリック権力に対する疑念は、『エドガール』での少年合唱団と同じ装束の合唱隊が登場する『トスカ』ではっきりと描かれている。

福井さんをはじめ歌手たちには、もしかしたらこの先上演機会がないかも知れない『エドガール』という作品への責任感もあったかも知れない。ティグラーナを愛するフランク役の清水勇麿さん、フィデーリアの父グァルティエーロ役の北川辰彦さんも真摯な歌唱と演技で舞台を特別なものにしていた。バッティストーニは貴重な「大使」であり、東フィルは見事な友情で応えた。物語のカタルシスは、リニアな時間軸の先にあるものではなく、あらゆる瞬間に、唐突に何度も訪れた。

演出面では、少年合唱がエドガールの(空の)棺にウクライナ国旗色の旗を掲げる場面があり、その「祈り」の部分はスライド映像とともに現在の世界の異様な状況を反映していた。歌手たちが演技をする空間には余裕があり、オーケストラはだいぶ後ろに引っ込んでいたように見えた。段差がなくオケは後方に退いているので、音響のバランスを取るのに試行錯誤したのではないか。
プッチーニに駄作なし…と強く思う。コンチェルタンテ形式での上演は冒険的な試みであり、貴重な時間を経験した。作曲家の宗教的な魂が、オペラという「毒」に飛び込んでいく、変身の瞬間の奇跡が詰め込まれていた。


1幕の冒頭の歌詞に現れる「アーモンドの木」








































東京交響楽団×リオネル・ブランギエ(4/23)

2022-04-24 23:02:54 | クラシック音楽
東響とリオネル・ブランギエの3年ぶりの共演。オペラシティが宝石の輝きに満たされた土曜日のマチネ公演だった。コンサートマスターはグレブ・ニキティンさん。
サロネン作曲『ヘリックス』(2005)は9分ほどの曲で、サロネン自身がかつて振った自作曲よりも、サロネン作品の魅力を実感できた。恐らく作曲年代によっても微妙に作風が変わるが、ロサンゼルス・フィルでサロネンのアシスタントを務めていたブランギエは、作曲家自身によるこの曲の実演にも立ち会ってきて、作曲家の意図することを熟知している。管楽器が和風の音色を奏で、多彩な打楽器群が暗号めいたサウンドを鳴らす現代曲を、ブランギエは自らの視点で美しく構成し、長めの指揮棒がオーケストラから引き出す響きには、音同士のオーガニックなつながりがあった。ヘリックスとは「螺旋」の意味だが、宇宙的・天体的なスケール感も感じられる。サロネンは「ジェミニ」(双子座)という曲も書いているが、その中の「カストル」と「ポルックス」は双子座の「双子の」星である。サロネン自身が指揮した宇宙的な演奏の記憶も蘇った。自作自演が絶対的な名演とは限らない。『ヘリックス』からはホルストやラヴェルの破片も聴こえ、全体としては精緻にカットされたダイヤモンドのような残像が浮き彫りになった。

2曲目のラヴェル『ピアノ協奏曲 ト長調』では、リーズ・ドゥ・ラ・サールが白いジャケットと黒いシガーパンツというスタイリッシュな衣装で登場。豪華な光る素材で、地味な雰囲気ではない。10年くらい前に取材したときは、ロックTシャツを着ていて、反抗期中の育ちのいいお嬢様といった感じだったが、あれからさらにストイックに芸術性を磨いてきた。エレーヌ・グリモーにも感じる、正面から岩を砕いていくような生真面目なタッチで、一音も胡麻化さず真剣に弾き切る。もっと音数が少なく感じられる演奏もあるが、ピアニストがスコアを厳密に捉えているためか、膨大な音が雨あられと降ってきた。
東響はこの上なく雅やかな演奏を聴かせ、コーラングレの郷愁的な旋律が導く2楽章のアダージョ・アッサイではプレイヤー全員が神の国の住人に見えた。オーケストラの中の人々が地上とは別世界の聖なる人々に感じられ、このような境地に連れて行くブランギエの指揮には、力量とか技術とかといった言葉よりも「魔法」がふさわしいように思えた。指揮をする後ろ姿が、最近見たどんな指揮者よりも美しかった。コミカルな3楽章のプレストでは、ファゴットのぶくぶくいう音が面白く、短いコンチェルトながらソリストにもオケにもハイカロリーな熱量を要求する曲だなと再認識した。ブランギエはコンチェルトも相当うまい。

2016年にオール・ラヴェルの4枚組のCDを聴いたのがブランギエを初めて知る機会だったが、2022年4月現在まだ35歳。南仏のニース出身ということが関係しているのか、芸術の中の地中海性をDNAレベルで受け継いでいる人だと音楽を聴いていて思う。とても古い文明の、始原の純粋さを感じさせる質感があるのだ。ギリシア音楽や地中海の伝統音楽には、日時計や象形文字を連想させる単調さがあるが、ブランギエはその感覚も直観的に把握している。積みあがっているものの基礎が、日本人にはない感じだ。

後半のラヴェル『高雅で感傷的なワルツ』は、どっしりと遅いリズムで始まった。その優雅さと、音全体が含む面白さに眩暈がした。ユーモラスで古めかしく、タイトルの通り大袈裟な感傷をわざと着込んでいる。何層のもの諧謔と、命の無邪気さと、呆れかえるような楽観があった。香るようで、おしゃれな音楽でもあり、東響の典雅な響きが有難かった。

ストラヴィンスキー『火の鳥』(1919年版)は、バレエ・リュスの初演を思わせるパリ風味のカラフルなサウンドで、最後の曲で信じられないほど幻惑的な世界が立ち現れた。幻想的だがグロテスクさや凶暴さはない。打楽器も鳴らし過ぎず、勢いに余って進むような乱暴な箇所はひとつもなかった。指揮者が「指揮をする」ということの理念が、ブランギエの中には厳密にあるのだと思う。瞬間瞬間にオーケストラを触発しつつ、支配とは別の形で全体の絵を鮮やかに現出させる。理知的でデリケートであり、厳密なサイエンスが息づいているが、堅苦しさは皆無なのだ。
ホルンの火の鳥が舞い降りるまでの、弦の超弱音のトレモロが神秘的だった。指揮者はこのオーケストラを心から信頼している。素晴らしいケミカルが生起したコンサートで、出会うべくして出会った指揮者とオケの引力を祝福せずにはいられなかった。オペラシティの音響はこのプログラムにとって理想的なキャンバスで、ありきたりな言い方だが「ホールが楽器となる」ことの素晴らしさに感動した。最初から最後まで、宝石箱のような空間だったのだ。


ⒸN.Ikegami