小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団(11/7)

2023-11-14 17:14:10 | クラシック音楽
ファビオ・ルイージ指揮ロイヤル・コンセルトヘボウ管の来日公演、サントリーホールでのBプログラムを聴く。チケットは高価だが客席はほぼ満員と思われるほど埋まっており、在京オケの定期会員より若い聴衆が多い印象。開演前のアナウンスはルイージの声で、マエストロからのもてなしの挨拶の言葉に和んだ気分になる。
ウェーバー オペラ『オベロン』序曲は薫るようにエレガントな響きで、ドタドタしたところがない(!)軽やかな演奏。Bプロは謎めいた曲並びで、前半の二曲目はリストの『ピアノ協奏曲第2番 イ短調』がイェフム・ブロンフマンのソロで演奏された。楽章の区切りがなく、ひとつらなりの幻想曲のようなつくりのコンチェルトだが、リストのエッセンスが凝縮された個人的に大好きな曲。体格のいいブロンフマンは身体をびくりともさせず、指先だけが鍵盤の上を煌びやかに踊った。秘密の扉を開けて別次元に吸い込まれるような導入部から夢心地に誘われるが、いつしかオケもピアノもクレイジーなほど勇壮な展開に入り、「いったい何を聴いていたのか」よくわからない面白い余韻が残る。この曲はルイージとブロンフマンが1988年に初めて共演した曲で、今回はブロンフマンからこの曲をやりたいというリクエストがあったという。重苦しさの全くないクリアなオーケストラと、魔術師のようなピアニストのパフォーマンスが、金糸銀糸の糸で織られた絨毯のような時間を作りだした。アンコールはショパンのノクターンop.27-2で、サントリーホールでショパンを聴くのは(奇妙なことに)久々で、宝石の響きに陶然となる。夜が長い11月に相応しい、星空のような夜想曲だった。

後半はチャイコフスキー『交響曲第5番 ホ短調』。前日がチャイコフスキーの命日だったこともあり、面白い偶然が重なるものだと思ったが、130回目の作曲家の命日の週は4回もサントリーでチャイコフスキーを聴くことになった。チェコフィル弦楽アンサンブルでの弦楽セレナーデ、東フィルと高関健さんの3大コンチェルト、東フィルとバッティストーニのオール・チャイコフスキー・プログラム、オケ公演ではないが上野では東京バレエ団の『眠れる森の美女』でもチャイコフスキーを浴びた。高関さんのロックでソリッドな煽り、バッティストーニの煮込みが効いた激情、それぞれの指揮者がチャイコフスキーに魅了され、一部憑依されるような表情を見せていたのが面白く、完璧に対象化された冷たいチャイコフスキーの指揮というのもあるのだろうかと思った。作曲家のほうでそれを許さないような魔性を放っている。
ルイージは指揮棒なしでこの5番を振り、ベテラン奏者も多いコンセルトヘボウ管のメンバーが、何かを思い出すように滋味深い音を奏でた。「指揮とは錬金術である」という言葉を聞くたびに思い出すのはヤンソンスのことで、私がこれまで見た中でオケを完全に魅惑する指揮者の一人がヤンソンスだったが、11年の在任期間の間に彼がこのオーケストラに遺していったアウラのようなものを感じずにはいられなかった。僅か2年で終わってしまったガッティの在任時にも来日公演を聴いているが、オケが(印象として)ほとんど鳴っていなかった。楽員全員がヤンソンスを懐かしんでいるようで、思うままにならないガッティの焦りが伝わってくるようで気の毒だった。
ルイージとコンセルトヘボウ管の相性は、お互いの繊細な部分で和解しているような調和があり、そこにチャイコフスキーの霊魂が加わって、彫りの深い豊かな響きが流れ出した。ルイージは自分自身のことを毒々しく語るタイプの芸術家ではなく、演奏会の数日前に行われた記者会見でも、次期首席のマケラを賞賛したり、軽くプログラムの解説をしたり淡々として、こちらも何かを深く詮索しようという気にはならないのだった。
チャイコフスキーとルイージがつながることで、ルイージの秘められた感情が爆発した。「ここでしか私は本当のことを語らないのです」という指揮者の声が聴こえたような気がし、そういう微妙なものに反応するコンセルトヘボウ管のセンスが活きていた。指揮者はふだん隠していることも、オケの前では「ただそこにいる」ことで開示しているのだと思う。
チャイコフスキーの5番も6番も不幸の只中で書かれたが、そこには悲劇を美化するような色合いもあって、誘惑的で瞬時に人の心を奪う生身のチャイコフスキーの個性というか、媚態というものも感じられた。人間は矛盾に満ちていて、ひとつの側面からだけでは語り尽くせない。チャイコフスキーは明らかにマザコンだったと思うが、実母は14歳のときに亡くなっている。その埋められない寂しさも音楽には書かれていると思った。混沌へダイブするような激しい指揮も見られ、いつもと違うルイージの姿を見た。

思い出したのは、何年か前の松本での『エフゲニー・オネーギン』で、恐らく譜読みをする前のルイージに色々質問したところ「オペラについてはまだ質問を受けたくない」という不機嫌な反応で、大いに当惑したのだった。松本でのオペラは素晴らしい出来栄えで、歌手たちも大健闘。あのオネーギンがきっかけで、ルイージの中でもチャイコスキーへの共感が高まったのではないか。オネーギンに恋文を渡したタチヤーナと、現実に現れた若きアントニーナの影が重なって、間違った結婚をしたチャイコフスキーが傷心の中で書いたのが交響曲第5番だった。
「すべては私の妄想なのかも知れない」と思いつつ、「妄想以外の聴き方があるだろうか、妄想がなければ、歴史の授業のレポート提出と同じではないか」とも思った。音楽は妄想を加えて聴くべきで、小学校の鑑賞教室でももっとイマジネーションで聴くことを推奨すべきなのだ。そう声を上げなくても、自然とそういう時代がやってくる。
アンコールに『エフゲニー・オネーギン』のポロネーズが演奏されたので、「あっ」と少し嬉しくなった。



チャイコフスキー 3大協奏曲の饗宴 (11/6)

2023-11-09 00:50:08 | クラシック音楽
「チャイコフスキー130年目の命日に捧ぐ」とサブタイトルがつけられたオール・チャイコフスキー・プログラム。前半に『ロココの主題による変奏曲 イ長調』『ヴァイオリン協奏曲 ニ長調』、後半に『ピアノ協奏曲第1番 変ロ短調』が演奏された。高関健さん指揮 東京フィルハーモニー管弦楽団。
『ロココの主題』でソロを弾いたスペイン人チェリスト、パブロ・フェランデスの演奏が大変魅力的。素晴らしい音感で音程を取り、ひとつひとつのフレーズを有機的につなげていくので、ソロパートがひとつの生き物のように感じられる。地味でおっとりしているようで、秘められた情熱があり、オケとの対話も繊細だった。プロフィールを見ると、大変人気の演奏家でスター並みの注目度の人らしい。演奏は堅実で、むしろ禁欲的な雰囲気さえある。しかしながら音楽の輪郭は魅惑的で、聴き手をくつろいだ気分にもさせてくれる。一言では語り切れない、何層もの神秘的な資質をもったチェリスト。チェコフィルの来日公演にも参加して協奏曲を弾いたらしい。謙虚さを感じさせるステージマナーも好感が持てた。コンサートマスターの三浦さんが賞賛するように握手していた姿が印象的だった。

 『ヴァイオリン協奏曲』では長身のヤン・ムチェクがスマートに現れ、ヴァイオリンがとても小さく見えたが、弾き始めると楽器と身体が完全に一体化して、情熱的な音楽が溢れ出した。この曲は数えきれないほど聴いているはずなのだが、こんなにも凄い技巧が詰まっている曲だということに改めて驚愕した。ソリストの集中力が並大抵でなく、ピッチも正確なので、旋律のピュアさが瞬間瞬間に飛んできて「一体こんなものを書いたチャイコフスキーは、演奏家に何をさせようとしたのだろう」と思ってしまう。オーケストラはこの曲では大変野性的で、高関さんが引き出すサウンドはロックのようで、一楽章のアッチェレランドはソリストの情熱とシンクロしたのだと思うが、型破りなほどだった。こんなに密度の濃いヴァイオリンコンチェルトは聴いたことがない。

後半の『ピアノ協奏曲第1番』ではキリル・ゲルシュタインが登場し、オケがソリストが囲むように配置された前半の2曲と、全体から隔絶された前方に楽器が置かれるピアノ協奏曲とはやはり違うものだなと思った。ゲルシュタインの大きな手が、冒頭の和音を分散和音で弾いていたのが鮮烈だった。力強い打鍵というより、雅やかで女性的な雰囲気になる。サンクトペデルブルクの優雅な街並み、オペラ『エフゲニー・オネーギン』の3幕の舞踏会の場面を連想した。しかしすぐさま男性的な低音が押し寄せるように鍵盤から唸り出し、大きなグルーヴを生み出していく。ゲルシュタインはもうひとりの指揮者のようにチェロや管楽器を目で制し、オケをコントロールしているように見えた。この協奏曲では、指揮者が二人いたように見えたのだ。否定的な意味ではなく、それが素晴らしい効果を上げていた。ゲルシュタインはカリスマ的で、チャイコフスキーの音楽から人間の矛盾や苦悩まで引き出して、聴き手の心臓に触れてくる音楽を創り上げていく。演奏家の知性と霊性によって、未知の印象が膨大に引き出されていた。ところどころ新鮮に聴こえる箇所があり、プログラムを見ると「1879年版 チャイコフスキーが所有していたスコアに基づく」と記載されている。

ソリスト3人の莫大な才能と精神性が、異様なほどの幸福感をもたらしてくれたコンサート。ただの幸福感ではなく、作曲家が抱えていた苦痛や悲哀こそが人間の貴重な感覚なのだということも教えてくれた。チャイコフスキーの130回目の命日を偲ぶのに、サントリーホールは確かに相応しい場所で、シャンパンの泡を模した素敵な照明のあたりに、作曲家の霊魂が飛来してきたようにも感じられた。イタリアオペラのピットに入るときはイタリアのオーケストラの音を出し、チャイコフスキーでは完全なるロシアのオケに変身する東フィルのサウンドにも、改めて感動した晩だった。





東京二期会『ドン・カルロ』(10/13)

2023-10-23 16:29:50 | オペラ
ロッテ・デ・ベア演出、二期会『ドン・カルロ』(シュツットガルト州立歌劇場との提携公演)の初日。カーテンコール時に凄まじいブーイングが起こり、日本で上演されたオペラで(恐らく)最も過激なブーがホールに響き渡ったことでも記憶に残る公演となった。演出家に対する非難であったのだが、すぐ側でブーイングしている客を睨みつけながら、自分はこのプロダクションが最も優れたもののひとつであると確信していた。型破りなようでいて、中途半端な演劇的知性では届かない、ある「人間性の本質」に到達しているという感触があったからだ。

過去にライヴで観たドン・カルロで記憶に残っているのは、2011年のMETの来日公演(ジョン・デクスター演出 ファビオ・ルイージ指揮)、2016年マリインスキー歌劇場来日公演(ジョルジオ・バルビエロ・コルセッティ演出 ワレリー・ゲルギエフ指揮)、2013年に二期会で上演されたデイヴィッド・マクヴィカー演出・ガブリエーレ・フェッロ指揮のプロダクションも鮮明に覚えている(こちらは稽古から見学していたため)。2023年の上演では、ヴェルディのこの4時間半近いオペラが、オーケストラ・ソロ・合唱ともに名旋律のオンパレードであることを改めて実感した。聴きどころが多く、音楽の流れにも強烈なグルーヴがあるため、長丁場でもそれほど疲労感を感じない。

ロッテ・デ・ベアの演出では、オペラの芯にある性的な情熱と、とことん腐敗した宗教的支配、暴力が子細に描かれる。
ドン・カルロが婚約者エリザベッタと出会うフォンテーヌ・ブローのシーンからエロティックな暗示が提示され、森の中に設置されたダブルベッドで、お互いの中に永遠の愛を読み取った若い男女が官能を貪ろうとする。エリザベッタが慌てて身体に巻いた白いシーツが、そのまま老いたフィリッポの花嫁衣裳にすりかわる。この描写は、その後の引き裂かれた男女の心の傷を印象づける暗示となり、同じベッドが後半にも登場するが、こちらではフィリッポとエボリが不義の愛で睦み合う。

フィリッポⅡ世のフィギュアの作り方が完璧すぎて、いつも素敵なジョン・ハオが、女性の最も嫌悪するタイプの初老男性に変身していたのが凄かった。頭髪は枯れ、容色は衰えつつも男性機能はまだあり、エゴイストで支配的で、加齢臭が漂ってきそうな風貌をしている。フィリッポは現世における生殺与奪の神で、息子に対しても容赦なく権力を揮う。そんな男を裏で支配する宗教裁判長が、グロテスクの限りを尽くしいてた。フィリッポと宗教裁判長の長い接吻シーンは衝撃的で、ここから最後までこのオペラにおける宗教裁判長の存在感が月並みでなかった。

ところで、二期会の『ドン・カルロ』の上演の1か月前に引っ越し公演を行ったローマ歌劇場のゲネプロと本公演を鑑賞して、スタティックで伝統的な演出の良さというものを個人的に強く感じていた。具象絵画の良さをしみじみと味わい、イタリア・オペラのあり方のひとつの完成形を認めたのだが、全く正反対のアプローチである二期会の公演に嫌悪感を感じることは全くなかった。コンヴィチュニー、グルーバー、ミキエレット、『魔笛』『パルジファル』での宮本亞門さんなど、レジーテアター的な演出を採用している二期会の攻めの姿勢には、一筋縄ではいかないプライドを感じる。「ヴェルディは神である」という視点も正しく「ヴェルディはマッチョ主義で、女性の本質を見落としている」という視点もまた正しい。後者においては、オペラの既成の枠組みを超えた人間的洞察が介入する。ロッテ・デ・ベアの冒険は徹底していた。

4幕から5幕にかけて、エリザベッタの孤独は深刻なものになり、フィリッポを拒絶しながらも、カルロへの愛も諦観へと化石化していく。エリザベッタは芯の強い女性で、カルロを愛しながらも肖像の中の彼になぐさめを求め、現実ではどうしようもないことを宿命として受け入れる。5幕のエリザベッタの至高のアリアは彼女の愛そのものだが、それを舞台下手で聴いているカルロは酔いどれたような態度で、やけくその拍手で嘲笑する。ブーイングの多くはこのカルロの所作によるものではなかったかと想像するが、樋口達哉さんのカルロが、『ホフマン物語』の絶望の淵にあるホフマンに見えて、これは明らかに名場面だと思った。愛の成就を諦めたエリザベッタと、諦められないカルロは、物語の設定の通り「母と息子」なのであり、それに続く歌詞の字幕を見て、演出家は天才以外の何者でもないと確信した。

この演出が空恐ろしいのは、登場人物の性格づけが正確で、それぞれの個性がステレオの音量のつまみのように「強」に回されている。それだけで、様々なことがいよいよ破壊的になり、愛とエロスの本質が露骨になり、見る人によってはある種の拒絶反応を引き起こされる。愛=官能であり、肉体を持って現世を生きる者にとって、それを引き裂かれることは死と同じ意味をもつ。カルロの苦悩の本質は性欲と引き離すことが出来ず(ウェルテル、ホフマンと同様)、エリザベッタの苦痛はフィリッポへの性的嫌悪によって拡大される。
「モダンとは何か」という闘いに挑んでいる演出で、オペラという「神聖世界」にも破壊と再生が必須であることを伝えてきた。ラストシーンは特に、ショッキングで挑発的だった(死ぬべき人物が死なない)。撮影スタッフから「舞台が暗い」という苦情も聞いたが、一階席で見る限り繊細な照明デザインがなされていいて、ドラマに集中することを助けてくれた。劇中で歌手たちが行うアクションは、稽古場でケガ人が出ても不思議ではないと思われるほど激しく、振付のラン・アーサー・ブラウンが指導を行った。この振付家は自身も演出を手掛ける人物だという。

若手指揮者のレオナルド・シーニは演出のドラマ作りに協力的な指揮で、東京フィルから重層的なサウンドを引き出していた。10年前にインタビューしたダニエーレ・ルスティオーニは「自分が出世したら、わけのわからない演出家を全員クビにしたい」と冗談交じりに語っていたが、さらに若い世代の指揮者であるシーニは別の考えを持っているのかも知れない。ピットから溢れ出す音楽の力が強靭だった。
歌手陣はパーフェクトで、二期会のスターであるカルロ役の樋口達哉さんのタフな演技、神聖でスケールの大きなエリザベッタを演じた竹田倫子さん、悪役の毒が徹底していたフィリッポⅡ世役のジョン・ハオさん、そして劇中唯一英雄的なロドリーゴを輝かしく歌った小林啓倫さんが素晴らしかった。小林さんは日本のオペラの至宝である。10年前にエボリを演じた清水華澄さんも素晴らしく、10年前より妖艶にこの役を演じていたのに驚かされた。二期会合唱団はある意味このオペラの主役でもあり、霊力のある合唱には、ヴェルディが描こうとした「目に見えぬものの威力」が確かに感じられた。




サー・アンドラーシュ・シフ ピアノ・リサイタル(9/29)

2023-10-02 23:38:27 | クラシック音楽
「事前にプログラムを発表せず、当日にピアニストの選んだ曲が解説とともに演奏される」最近のアンドラーシュ・シフのスタイル。2022年にもこの様式でリサイタルが行われたが、前半だけで100分近いボリュームで、トータルでは180分を超えるという内容は今年も同じ。聴衆もそのことをよく分かっていて、充分に体力を蓄えて集まってきているのが伝わってきた。開場のアナウンスもシフ自身によるもので、自然な日本語でお客様を迎えるピアニストのもてなしの心が嬉しかった。

去年は奥様でヴァイオリニストの塩川悠子さんが通訳としてステージに着席していたが、今年はシフの若い友人でピアニストのトモキ・パーク(?)さんが訳してくれた。シフの英語はゆっくりとして分かりやすかったが、通訳を介することで理知的な解釈が出来たと思う。9/29はバッハの「平均律クラヴィーア曲集第一巻」から前奏曲とフーガ第一番が最初に演奏され、ベーゼンドルファーの艶やかな響きがホールに拡がった。オペラシティが出来たときに、シフが選んだピアノは非常にいい状態なそうで、調律スタッフへの感謝も伝えられた。
「バッハは世界で一番偉大な作曲家です」と、実感を込めて語られ、バッハが兄に向けて書いた「カプリッチョ『最愛の兄の旅立ちに寄せて』」が、ユーモラスに演奏された。いくつの細かいモティーフがパズルのように組み合わさった、バッハの小宇宙を感じさせる曲で、個人的に初めて聴く曲でもあった。

バッハの次はモーツァルト。「モーツァルトのソナタは非常にオペラ的なのです」と「ピアノ・ソナタ第17(16)番」変ロ長調を弾き始めたが、本当に複数のキャラクターが追いかけっこをしたり、ディスカッションをしたり、愛をささやきあっているような様子が伝わって来て、音楽の形式は謹厳なのに、何かとても妖艶な世界を見ているようだった。
前半ラストの二曲はハイドン。「アンダンテと変奏曲 ヘ短調」と「ピアノ・ソナタ変ホ長調」は、シフの言葉通りとても洗練されていて、偉大な様式美と豊かな構造によって、音楽のひとつの「究極形」に到達しているといった印象を抱いた。
ここまでの曲は情動性が比較的希薄で、ある種の「システマティックな構造」が優位にある作品が選ばれていた。バッハは声部の弾き分けが鮮やかで、モーツァルト、ハイドンも小さな細部が大きな全体を作り上げていくという作品だった。バロックと古典を弾くシフのピアニズムは「鉱物的」な印象。ぶよぶよした表現がまったく存在しなかった。

休憩後のベートーヴェン二曲は、モーツァルトから一世紀が経ってしまったかのような音楽だった。ベートーヴェンのペダル指定は新しい和音がやってきても踏み変えず、そのまま混濁させて響きを重ね、色々な帯が揺れているような独自のサウンド環境を創り出していく。ペダル指定の例を片手で弾き「私はクレイジーではないですよ」と微笑む。作曲家の厳密なペダル指定を反映した『ピアノ・ソナタ第21番『ワルトシュタイン』」は、幻想的で、聴いているとサイケデリックな気分になり、軽い変性意識に囚われてしまったような心地にもなる。
ベートーヴェンは、病弱で頭痛持ちで、下痢を病み、精神状態も不安定だった。ゲイリー・オールドマンが演じたベートーヴェンは酒浸りで、路上に行き倒れていたが、難聴の絶望はそれほど辛く、一方で音楽の中ではまったく別の高みを目指していたのだ。チベット高地の人々が高山病にも負けず激しい踊りと歌でハイテンションに人生を祝福している様子が思い浮かんだ。
シフ自身も逆境の人で、2014年頃に来日したときは、ハンガリー国内での演奏会を禁じられ、大変不自由な境涯にあった。一歳年上のゾルダン・コチシュは同じ年にハンガリー国立フィルハーモニー管弦楽団を率いて、首席指揮者として演奏会を行ったので、生き方の違いが明暗を見せているような印象もあった。この2年後の2016年にコチシュは病死する。

本編最後のベートーヴェンは『ソナタ30番』涅槃に吸い込まれていくような幻想性があり、ピアノのタッチは硬質で緻密だった。

オペラシティはバロック、古典、ベートーヴェンという選曲で、改めて「気まぐれシェフのフルコース」といった感じのプログラムではないなと思った。語りがあることで、シフが作曲家の作品を演奏するに当たって「何が最も重要であるか」を伝えてくる。長いリサイタルの終了後、聴衆は皆上気していて、現代最高のピアニストであるシフへの感謝を、長い長い喝采で表した。
「シフの気分で、いい雰囲気で弾かれた寛いだリサイタル」というのでは全くなく、聴衆は自分の心をピュアにして、シフ先生の歩んできた求道の人生を学んでいった。この学びこそが、リサイタルの醍醐味だ。アンコールはゴルトベルク変奏曲のアリア。
オペラシティが聖堂になり、より高きもののために心が宙に吸い込まれていった200分間だった。
そしてて二日後のミューザ川崎では、さらに凄い深遠なことが起こったのだった。




読響×上岡敏之 ブルックナー交響曲第8番(ハース版)

2023-09-03 22:27:03 | クラシック音楽
読響と上岡さんの相性の良さを感じさせる神懸かり的な名演。出演予定だったローター・ツァグロゼクの来日が叶わず、急遽「代役」として上岡さんが指揮台に立った(コンサートマスター長原幸太さん)。チケットは売り切れ。
熱い拍手に迎えられて上岡さんが登場したとき、以前より足取りが重く見えたのが一瞬気になったが、指揮者もオケも最初からまで凄い集中力だった(約90分)。各楽章間に長めの間隔を置いていたのが印象的。ホール前方に多数のマイクが設置され、サウンド的な設計には緻密なこだわりが感じられた。
1楽章から、音が「遥か彼方から」やってくる感じが素晴らしく感じられた。ブル8はたくさんの渦巻きから成り立っている曲という印象が個人的にあって、それは無数の銀河が共存する映像のように無限大で、大宇宙ような巨大な概念と対峙するのもまた「個人」という単位なのだということを毎回考える。人は亡くなると星になるという。この夏に亡くなった多くの人のことを思い出さずにはいられない。弦楽器の起伏が精妙で、木管は優しく、金管は何か迫りくる「運命」のようなものを暗示しているようだった。下手には三台のハープが神的な儀式のように並んでいる。

ブルックナーは自然界や、朝昼晩と移り変わる光の不思議な変化から霊感を受け、そこに神の秩序を見出していた作曲家だと思う。人間にとっての一年、一か月、一日、一時間という単位に神の呼吸のリズムを感じ、音楽にその神秘を投影していた(小さな動機の繰り返し)。ブルックナーのシンフォニーに朝の光を感じない曲はない。夜明けは、生き生きとした光の粒子のインフレーションで、R・シュトラウスの『アルプス交響曲』の日の出の衝撃が、ブルックナーにはふんだんに詰め込まれている。
「美しい…」と改めて一楽章の響きに陶酔した。しかし、これは一体何の隠喩で、何の持続なのだろうか。指揮者は楽譜からさまざまな暗示を読み解くが、上岡さんとブルックナーのつながりには特別な絆を感じる。指揮者は「現実の音」という「実績」を作らなければ使命を果たしたことにならないが、そこに至るまでにどれだけのエネルギーが注がれているのか想像もつかなかった。

パワフルな1楽章のあとの2楽章は、注意深く、より遠く彼方からせまってくるように始まった。ブル8の2楽章からは毎回曼荼羅の画像を思い出す。執拗な音型の繰り返しが、この晩はただの「繰り返し」に聴こえなかった。低弦の不吉なうなりから始まって、反転したり変形したりして各パートにひとつの何かが転がっていくのだが、そこに断絶はなく、上流から流れ落ちてくる石が削り取られ、下流で丸くなっていくような長い旅路を想像した。音楽の息が信じがたいほど長く、その粘り強さがまるで、ひとつの魂の輪廻転生に思われてならないのだった。可視的なものだけで世界は成り立っておらず、人間存在には過去世と来世がある、と信じている自分のような者にとっては、霊感が新たになる音楽だった。救済のために来世を信じるのではなく、「来世があることが現実」なのであり、クラシック音楽のような広大なジャンルにおいては、そうしたスケールを視野に入れたほうが色々なことに納得がいく。

ブル8がこの上なく懐かしい音楽に感じられたのも、過去にはないことだった。誕生のとき誰もが通っていく母の産道と、死の入り口が音楽の中にあった。果てしない宇宙の存在を見聞きしつつ、そこに意識が届かないまま気を失うように命は終わっていく。心臓の無窮動の動きのような2楽章は、人間の無力を自覚させ、同時にすべてが再びめぐり逢う次の宇宙への期待を抱かせてくれた。3楽章の弦楽器の美しいアンサンブルが子守歌のように快い。この日は8月の最後の日で、月は満月で、ここから月は欠けてゆき、ますます昼も短くなっていく秋のはじまりだった。

読響の良さがじわじわくるブル8で、世界一ロマンティックな響きがサントリーホールに溢れていた。4楽章では、縦並びだったり横に長かったりするばらばらの銀河が、いっせいに同じ方向に、同じ速度で回り出したようなヴィジョンが浮かんだ。宇宙が発狂している。祈りの力で、膨大な星々がシンクロダンスを始めたかのようだった。オーケストラがこのような世界を表現するのは、一種の超常現象にも感じられる。
「自分よりオケに喝采を」という仕草を続け、それでも鳴りやまない拍手に呼び出された上岡さんはなかなかステージ中央にやって来ない。深々と頭を下げられ、その姿に強く心打たれた。マエストロにとっても感慨深い演奏会だったのだと思う。