新日本フィルと上岡さんのブルックナー7番。過去にもすみだでこの曲を上岡&新日本フィルで聴いていたような気がするが、ミューザでの2025年のブル7はさらにアップデートされていた。弱音へのこだわり、ゆったりと引き延ばされたテンポ、壁画のように巨大な交響曲の構図…「ブル7とはこういう曲」というアベレージな印象を塗り替える解釈で、プログラムには「65分」と記されていた演奏時間が、実際は90分近くに及んだ。
じっくりゆっくり演奏されることによって際立ったのは、ブルックナーが書いた響きの超絶的な美しさで、一節一節すみずみまで光が行き届いている。1楽章のアレグロ・モデラートだけで濃密なストーリーがあった。私が感じたイメージは、ただひとつの神を信じる者の恐怖と歓喜で、神に帰依することは一種の視野狭窄にも通づるが、そこには巨大な愛があり、天にも昇る境地があって、一方には罪悪感や戒律への恐怖もある。それが自然の美と光に溢れた音楽によって饒舌に描かれ、生きていたときのブルックナーが見ていた景色と心象につながっていく。
2楽章のアダージョは朝から急に日没へ時が進んだようで、「夜の歌」と名付けたい紫色の世界だった。2楽章が終わったとき、開始から1時間が経過していた。
上岡さんのブルックナーはつねに、指揮者と作曲家の距離の近さを感じさせる。バーンスタインは「マーラーの曲は自分が書いたような共感を覚える」と語っていたが、上岡さんにとってのブルックナーも同じなのではないか。総譜というものは、神聖で無限大な「書物」であり、上岡さんはスコアの不動の書物としての性格を尊重しているように見えた。多くの指揮者が様々なオーケストラとともにこの曲を演奏し、その記録に触れることは簡単な時代になったが、「書物として鎮座する楽譜」と孤独に向き合わなければ指揮者の仕事ははじまらない。「どの部分も、念入りに書かれているのです」と言われているような気がした。オーケストラの渾身の弱音というのは、ものすごく力がいるはずだ。このブル7で幾度も聴かれたぎりぎりの弱音は、楽員の大変な献身から鳴っているのだと認識した。
こうした指揮者の強い理念が込められた演奏に対して、違和感を感じる愛好家もいるのだろう。途中で二人ほど客席から退出するのが見えたが、内心「ブルックナーが好きなら最後までこの解釈を聞き届ければいいのに」と思った。しかし個人の自由ではある。自分はといえば、この巨大化したブルックナーにひどく心を奪われていた。「通常の」65分で収まる演奏では聴けない、ブルックナーの精神のコアな部分を感じることが出来た。世事に疎く、不器用で無作法なエピソードに事欠かない作曲家が、想像界では万能の王として君臨していた。ワーグナーのトリスタンの破片が幾度も聴こえてくるが、ワーグナー以上に甘美で深遠に感じられる。そこにはブルックナーの宗教者としての態度も顕れているような気がした。官能的なものが節度をもって、抽象化されて表現されている。
3楽章スケルツォのテンポは比較的ノーマルだったが、4楽章フィナーレははっとするような間隙の殺気がいくつもあり、血で書いた「命の証」のような世界だと思った。ブルックナーはマーラーと比べて自傷的なところがないと思っていたが、作曲は滝行のような作業だったのだろう。現世では語りえないさまざまのことが音楽という次元では饒舌に語られている。上岡さんと新日本フィルのこの日の演奏で、聖なる不動の書物たる楽譜からたくさんのものが溶け出して流れた。こんなブルックナーを聴いたのは初めてだ。
最初にステージに上岡さんが登場した時、暗いオーラをまとって指揮台まで歩いてきたので、お具合が大変悪いのではないかと思った。この酷暑だし、休憩なしの大曲だし…もしかしたら、大変ストレスフルなリハーサルだったのかも知れない。90分の演奏の後、万雷の拍手で迎えられたとき、上岡さんがものすごく明るい存在になった。まるで別人のようで、ブルックナー好きにこの解釈を受け入れてもらったことが「本当に? 信じられない!」と言っているようだった。私も立ち上がって拍手した。指揮者にとって理念ほど大事なものはなく、リスクを負ってでも信念を貫くのが本物だと思うからだ。自らの内なる聴衆と対話し、実際の聴衆は想像を裏切るかも知れないが、内なる存在を信じて指揮台に立つほかはない。音楽も現実に起こっていることも、大変ドラマティックだった。
フェスタサマーミューザは「夏祭り」らしく華やかで賑やかさを強調するプログラムも多いが、オケの定期公演をそのまま聴けたようなこの日の演奏が、初日から聞いた中でのベストだった。ブルックナーを聴くために遠方からやってきたお客さんもいたという。カーテンコールに呼ばれた上岡さんはコンマスのチェさんをともなってオーディエンスに感謝を示した。聴衆もまたコンサートを作り上げる。素晴らしい聴衆だった。

じっくりゆっくり演奏されることによって際立ったのは、ブルックナーが書いた響きの超絶的な美しさで、一節一節すみずみまで光が行き届いている。1楽章のアレグロ・モデラートだけで濃密なストーリーがあった。私が感じたイメージは、ただひとつの神を信じる者の恐怖と歓喜で、神に帰依することは一種の視野狭窄にも通づるが、そこには巨大な愛があり、天にも昇る境地があって、一方には罪悪感や戒律への恐怖もある。それが自然の美と光に溢れた音楽によって饒舌に描かれ、生きていたときのブルックナーが見ていた景色と心象につながっていく。
2楽章のアダージョは朝から急に日没へ時が進んだようで、「夜の歌」と名付けたい紫色の世界だった。2楽章が終わったとき、開始から1時間が経過していた。
上岡さんのブルックナーはつねに、指揮者と作曲家の距離の近さを感じさせる。バーンスタインは「マーラーの曲は自分が書いたような共感を覚える」と語っていたが、上岡さんにとってのブルックナーも同じなのではないか。総譜というものは、神聖で無限大な「書物」であり、上岡さんはスコアの不動の書物としての性格を尊重しているように見えた。多くの指揮者が様々なオーケストラとともにこの曲を演奏し、その記録に触れることは簡単な時代になったが、「書物として鎮座する楽譜」と孤独に向き合わなければ指揮者の仕事ははじまらない。「どの部分も、念入りに書かれているのです」と言われているような気がした。オーケストラの渾身の弱音というのは、ものすごく力がいるはずだ。このブル7で幾度も聴かれたぎりぎりの弱音は、楽員の大変な献身から鳴っているのだと認識した。
こうした指揮者の強い理念が込められた演奏に対して、違和感を感じる愛好家もいるのだろう。途中で二人ほど客席から退出するのが見えたが、内心「ブルックナーが好きなら最後までこの解釈を聞き届ければいいのに」と思った。しかし個人の自由ではある。自分はといえば、この巨大化したブルックナーにひどく心を奪われていた。「通常の」65分で収まる演奏では聴けない、ブルックナーの精神のコアな部分を感じることが出来た。世事に疎く、不器用で無作法なエピソードに事欠かない作曲家が、想像界では万能の王として君臨していた。ワーグナーのトリスタンの破片が幾度も聴こえてくるが、ワーグナー以上に甘美で深遠に感じられる。そこにはブルックナーの宗教者としての態度も顕れているような気がした。官能的なものが節度をもって、抽象化されて表現されている。
3楽章スケルツォのテンポは比較的ノーマルだったが、4楽章フィナーレははっとするような間隙の殺気がいくつもあり、血で書いた「命の証」のような世界だと思った。ブルックナーはマーラーと比べて自傷的なところがないと思っていたが、作曲は滝行のような作業だったのだろう。現世では語りえないさまざまのことが音楽という次元では饒舌に語られている。上岡さんと新日本フィルのこの日の演奏で、聖なる不動の書物たる楽譜からたくさんのものが溶け出して流れた。こんなブルックナーを聴いたのは初めてだ。
最初にステージに上岡さんが登場した時、暗いオーラをまとって指揮台まで歩いてきたので、お具合が大変悪いのではないかと思った。この酷暑だし、休憩なしの大曲だし…もしかしたら、大変ストレスフルなリハーサルだったのかも知れない。90分の演奏の後、万雷の拍手で迎えられたとき、上岡さんがものすごく明るい存在になった。まるで別人のようで、ブルックナー好きにこの解釈を受け入れてもらったことが「本当に? 信じられない!」と言っているようだった。私も立ち上がって拍手した。指揮者にとって理念ほど大事なものはなく、リスクを負ってでも信念を貫くのが本物だと思うからだ。自らの内なる聴衆と対話し、実際の聴衆は想像を裏切るかも知れないが、内なる存在を信じて指揮台に立つほかはない。音楽も現実に起こっていることも、大変ドラマティックだった。
フェスタサマーミューザは「夏祭り」らしく華やかで賑やかさを強調するプログラムも多いが、オケの定期公演をそのまま聴けたようなこの日の演奏が、初日から聞いた中でのベストだった。ブルックナーを聴くために遠方からやってきたお客さんもいたという。カーテンコールに呼ばれた上岡さんはコンマスのチェさんをともなってオーディエンスに感謝を示した。聴衆もまたコンサートを作り上げる。素晴らしい聴衆だった。
