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小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

フェスタサマーミューザ(8/2)新日本フィル×上岡敏之

2025-08-07 03:11:00 | クラシック音楽
新日本フィルと上岡さんのブルックナー7番。過去にもすみだでこの曲を上岡&新日本フィルで聴いていたような気がするが、ミューザでの2025年のブル7はさらにアップデートされていた。弱音へのこだわり、ゆったりと引き延ばされたテンポ、壁画のように巨大な交響曲の構図…「ブル7とはこういう曲」というアベレージな印象を塗り替える解釈で、プログラムには「65分」と記されていた演奏時間が、実際は90分近くに及んだ。
じっくりゆっくり演奏されることによって際立ったのは、ブルックナーが書いた響きの超絶的な美しさで、一節一節すみずみまで光が行き届いている。1楽章のアレグロ・モデラートだけで濃密なストーリーがあった。私が感じたイメージは、ただひとつの神を信じる者の恐怖と歓喜で、神に帰依することは一種の視野狭窄にも通づるが、そこには巨大な愛があり、天にも昇る境地があって、一方には罪悪感や戒律への恐怖もある。それが自然の美と光に溢れた音楽によって饒舌に描かれ、生きていたときのブルックナーが見ていた景色と心象につながっていく。
2楽章のアダージョは朝から急に日没へ時が進んだようで、「夜の歌」と名付けたい紫色の世界だった。2楽章が終わったとき、開始から1時間が経過していた。

上岡さんのブルックナーはつねに、指揮者と作曲家の距離の近さを感じさせる。バーンスタインは「マーラーの曲は自分が書いたような共感を覚える」と語っていたが、上岡さんにとってのブルックナーも同じなのではないか。総譜というものは、神聖で無限大な「書物」であり、上岡さんはスコアの不動の書物としての性格を尊重しているように見えた。多くの指揮者が様々なオーケストラとともにこの曲を演奏し、その記録に触れることは簡単な時代になったが、「書物として鎮座する楽譜」と孤独に向き合わなければ指揮者の仕事ははじまらない。「どの部分も、念入りに書かれているのです」と言われているような気がした。オーケストラの渾身の弱音というのは、ものすごく力がいるはずだ。このブル7で幾度も聴かれたぎりぎりの弱音は、楽員の大変な献身から鳴っているのだと認識した。

こうした指揮者の強い理念が込められた演奏に対して、違和感を感じる愛好家もいるのだろう。途中で二人ほど客席から退出するのが見えたが、内心「ブルックナーが好きなら最後までこの解釈を聞き届ければいいのに」と思った。しかし個人の自由ではある。自分はといえば、この巨大化したブルックナーにひどく心を奪われていた。「通常の」65分で収まる演奏では聴けない、ブルックナーの精神のコアな部分を感じることが出来た。世事に疎く、不器用で無作法なエピソードに事欠かない作曲家が、想像界では万能の王として君臨していた。ワーグナーのトリスタンの破片が幾度も聴こえてくるが、ワーグナー以上に甘美で深遠に感じられる。そこにはブルックナーの宗教者としての態度も顕れているような気がした。官能的なものが節度をもって、抽象化されて表現されている。

3楽章スケルツォのテンポは比較的ノーマルだったが、4楽章フィナーレははっとするような間隙の殺気がいくつもあり、血で書いた「命の証」のような世界だと思った。ブルックナーはマーラーと比べて自傷的なところがないと思っていたが、作曲は滝行のような作業だったのだろう。現世では語りえないさまざまのことが音楽という次元では饒舌に語られている。上岡さんと新日本フィルのこの日の演奏で、聖なる不動の書物たる楽譜からたくさんのものが溶け出して流れた。こんなブルックナーを聴いたのは初めてだ。

最初にステージに上岡さんが登場した時、暗いオーラをまとって指揮台まで歩いてきたので、お具合が大変悪いのではないかと思った。この酷暑だし、休憩なしの大曲だし…もしかしたら、大変ストレスフルなリハーサルだったのかも知れない。90分の演奏の後、万雷の拍手で迎えられたとき、上岡さんがものすごく明るい存在になった。まるで別人のようで、ブルックナー好きにこの解釈を受け入れてもらったことが「本当に? 信じられない!」と言っているようだった。私も立ち上がって拍手した。指揮者にとって理念ほど大事なものはなく、リスクを負ってでも信念を貫くのが本物だと思うからだ。自らの内なる聴衆と対話し、実際の聴衆は想像を裏切るかも知れないが、内なる存在を信じて指揮台に立つほかはない。音楽も現実に起こっていることも、大変ドラマティックだった。
フェスタサマーミューザは「夏祭り」らしく華やかで賑やかさを強調するプログラムも多いが、オケの定期公演をそのまま聴けたようなこの日の演奏が、初日から聞いた中でのベストだった。ブルックナーを聴くために遠方からやってきたお客さんもいたという。カーテンコールに呼ばれた上岡さんはコンマスのチェさんをともなってオーディエンスに感謝を示した。聴衆もまたコンサートを作り上げる。素晴らしい聴衆だった。



山田和樹指揮 バーミンガム市交響楽団(7/6)

2025-07-08 01:32:15 | クラシック音楽
バーミンガム市交響楽団の日本ツアーの最終日(7/6)みなとみらいホールでの公演を鑑賞。開演前に音楽監督の山田和樹さんのプレトークがあり、飄々と登場した山田さんの第一声が「バーミンガム市交響楽団は破産しています! バーミンガム市からの補助金はゼロです!」続いて「でもみんなすごく頑張っています! 演奏が終わると雄叫びが起こります。おとなしかった1stヴァイオリンも最近はすごいです」とユーモア満載。山田さんの単独の記者会見のときにもこの話題があったが、実のところ笑い話ではなく本当に深刻で大変な状況なのだろう。企業や個人のスポンサーで成り立っているのだろうか。日本ツアーを実現してくれた日本のスポンサーには頭が上がらない。

登場したオーケストラのメンバーは全員が役者のようで、美女とかハンサムとかいうことではなく、みんな昨日今日のことではない(?)音楽家のオーラをまとっていて「先祖代々からのDNAは濃い!」という雰囲気。飲み会は100%参加で、山田さんが「オーケストラが望むことは?」と楽員さんたちに聞いたときに「more party!(もっと宴会を!)」と返ってきたそうだが、そうした陽気さの裏側に、おそらく凄いプロ意識と誇りを持っている。
マエストロ18番のラヴェル『ラ・ヴァルス』からスタート。何が始まったんだ…? と一瞬道に迷いこんだかのような感覚。管楽器や色々な楽器が野蛮で動物のいななきのような音を鳴らし、てんでばらばらな音のパズルが宙を舞ったが、弦とハープが夢のように上品なパッセージを奏で始めると、全員がそれに染まってエレガントに変身し、一気にオーロラ色のボールルームが現れた。ラヴェルの奇想、お洒落さ、無限のすべてが脈打っている。一筋縄ではいかない企みをもったサウンドは、終盤近くではカオスそのものになり、世にも奇妙な終わり方で息絶える。山田さんの魔術師ぶりにオケもすっかり魅了されているといった感じだ。「今まで我々をそんなところへ連れて行ってくれた指揮者はいなかったよ!」という驚嘆の声が聞こえてくるよう。宇宙発生の瞬間を聴いているような、果てしないところからやってきて去って行ったラ・ヴァルスだった。

ラフマニノフ『ピアノ協奏曲第4番』では21歳のピアニスト、イム・ユンチャンが登場。東京公演では韓国から彼のファンが大勢来ていたらしいが、みなとみらいではだいぶ落ち着いていた。それでも山田さんが振るBBCプロムスのチケット7千枚は、ユンチャンが出演することもあってあっという間に売り切れたという。ユンチャンは前回見たときより前髪が重そうで、鍵盤がちゃんと見えるか心配したが、タッチは深遠で技術も相変わらず凄い。4番のコンチェルトはラフマニノフ自身が長年の沈黙を破って書いた曲で、最初の稿が完成したのが1926年。ヨーロッパでは無調が主流だった頃に、ラフマニノフは調性はなくさず、冒険的な和声をふんだんに使いつつも、主にリズムの面で前衛的な冒険をしている。ラフマニノフの作曲には「ダンス」と「飛行」の感覚が潜在的にある、というのは自分の自論だが、Pコン4番の飛行感覚は一番現代的でスタイリッシュなのだ。いくつもの扉を開けて次の世界へ進んでいくような曲で、位相が変わる時にポイントとなっていく踊り場のような音があるのだが、その音が神秘的で、奏者にどのように指定して、どのように楽器と楽器でブレンドしているのか客席にいる自分には分からないのだ。
「映画音楽だ」というのが昔からラフマニノフのアンチが言う台詞だが、「ピアノ協奏曲第4番」は21世紀の映画音楽を先取りしていたと思う。スピーディに楽想やリズムが変わり、ある種のコラージュ感覚やデジタル感覚も有している。
ラフマニノフの曲は音が多いということで、何人かのピアニストはわざわざ譜面にいくつ音符が書かれているのか数えてみたりするが、イム・ユンチャンが少し考えこんでからアンコールに選んだのは、「とても音が少ない」バッハの『ゴルトベルク変奏曲』の13変奏曲だった。ぽつりぽつりと雨だれのような無垢な音が鍵盤から響き、似た音形が何度も繰り返されるのでオルゴールを聴いているような感じ。楽員たちがしみじみと尊敬の目でピアニストのアンコールを聞いている顔が忘れられない。

休憩をはさんでのチャイコフスキー『交響曲第5番』。話題になっていた別プロの『展覧会の絵』も聴きたかったが、チャイ5も充分に素晴らしく、最後の交響曲である6番と同じくらい死の気配がした。アンダンテ楽章の陰気なパッセージが、いきなり蘇生して木管と弦の生き生きとした春の情景になっていくくだり、そこから決起して戦闘的に展開していくところなど、大変悲劇的で臓腑に沁みる。
山田さんはこの曲にどんな「理想」の指揮を思い描いていたのか。指揮者一人の理想よりも、このオーケストラのメンバーがどのように自発的でクリエイティヴな合奏をしてくれるか、無限の自由を与えた上で一緒に作っていこうとしたのではないか。楽員のみんなは全員、マエストロから「おはよう◎◎◎!!」と名前を呼ばれているはずで、一人一人の演奏の特徴もマエストロは恐らく完璧に把握している。そこで各々に曲にふさわしい音を探させる。あるいは合奏で自然にそういう音が出る。そう想像した。
楽員は百戦錬磨で、歴代の首席からゲストまで色々な指揮者のスタイルを知っているし、過去の指揮者のスタイルも現代では簡単に映像で見ることが出来る。
ヤマカズのチャイコは、どこかのオケでもやってきた使いまわしでもなければ、誰かの真似でもない。バーミンガムのオケのためのオーダーメイドなスタイルで、生きた楽員が参加して初めて成立する。
そうした「自分たちのためのオリジナル指揮」に対して、プレイヤーが嬉しく思わないはずがない。一曲目からオケ全員が「あなたと演奏できるのが嬉しい!」というまぶしい「気」を放っていた。

オケが歓喜の状態で演奏している様子は、「嗅覚」のようなもので分かる。もっとも嗅覚とは比喩で、実際は聴覚なのだが、一節の音が消えていく余韻の中に、楽器奏者の気分やマエストロへの感情が正直に聞こえてくる。世界の一流オケだから必ず聴こえてくるというわけでもなく、その場の状況次第で、まったく心がひとつになっていない時のウィーン・フィルの来日公演というのもかつて聴いたことがあるが(指揮者のティーレマンがコンマスの機嫌ばかりとり、2ndヴァイオリン側は冷めきっていた)、ほとんど感動できなかった。
「財政難でもみんな元気」というオケの気分を作り出しているのは救世主が現れたからで、山田さんはメシアでありアイドルなのだと思った。世界的に多忙な指揮者であることは皆知っている。そんなカリスマが、自分たちの現場では自分たちのオケでしか鳴らせない最高の音楽作りをしてくれる。まず人間ありきの指揮。ここまで徹底しているのは、「発明」といつていいレベルだ。コペルニクス的転回である。

最終日はスペシャルアンコールで2曲。一曲目をアシスタント指揮者の伊東新之助さんが振り、ウォルトンの戴冠行進曲「宝玉と王のつえ」が演奏されたが、輝くような笑顔で大きく振っている伊東君は鳥のように躍動していて、そのまま天井に向かって飛翔していくのではないかと思われた。楽員のみんなも彼に負けずニコニコしている。続いてヤマカズによる大ラスト、エルガー『威風堂々』では、涙が止まらず溢れてきて、あの陽気なメロディを聴いて顔中が大洪水になっている自分が可笑しかった。
確かに、オケのメンバーは叫んでいた。マエストロがセクションごとに起立させると、拍手の渦の中に叫んでいるような声が聞こえる。あの声はきっと、子孫が幸せな様子を見に来たご先祖たちが一緒に叫んでいるのだ。何千もの英国の魂が「うおー」と叫んでいるようだった。このような感想はだいたい馬鹿にされるが、あと30年か100年経ったら理解してもらえると思う。
「日本人は他の国の指揮者と違って体つきからして体力がない。繊細さや機知で勝負していくしかない」とかつて語っていた山田さん。なんの、すごい体力で最後のチャイコフスキーまで振っていたし、オケの勢いを牽引するパワーも大柄な西洋人に全く劣らない。
「最高の指揮者とは、オーケストラのアイドルであることだ」それを確信したツアー最終日のコンサートだった。





ラハフ・シャニ指揮 ロッテルダム・フィルハーモニー管弦楽団(6/23)

2025-06-30 08:47:29 | クラシック音楽
全4回の来日コンサートを終えたロッテルダム・フィルの初日のミューザ川崎での公演。ラハフ・シャニは2016年の読響との共演を聴いているが、当時の記憶は薄れてしまった。ロッテルダム・フィルは2013年のヤニック・ネゼ=セガンとの来日公演が印象に残っており、その後間もなくフィラデルフィア管との来日公演で魅了されたネゼ=セガンの輝かしい手腕を、このオケで先取りして実感していた。

1989年生まれのラハフ・シャニは2018年からロッテルダム・フィルの首席指揮者を務めている。史上最年少でのシェフ就任(当時29歳)だったというが、2025年の来日公演では2008年から10年間首席を務めたネぜ=セガンに劣ることのない統率力(オケからの真の信頼)をみせた。最近はオーケストラ公演でもオペラグラスを使ってステージを観察しているのだが、見えてくるものは面白いものばかり。楽員はベテランが多く、ネゼ=セガンの前任のゲルギエフ時代から活躍している奏者も多いと思われた。その中で、若々しい風貌のラハフ・シャニは、信じられないほど洞察的な音楽をオーケストラから引き出した。

ワーヘナール:序曲『シラノ・ド・ベルジュラック』は金管奏者11名がずらりと並ぶ華やかな曲で、ラハフ・シャニにはオペラ指揮者の才能があるのではないかと直観した。シャニのプロフィールにはオペラのキャリアは記されていないが、15分間のこの曲でプッチーニ風の響きや描写的な面白いサウンドが雨あられと飛んできて、指揮者の劇音楽への好奇心や音色への研究心が伝わってきたのだ。このオケで修業を積んだネゼ=セガンがMETの音楽監督のポストを得たことも、そうした連想を引き起こした原因かも知れない。

プロコフィエフ『ピアノ協奏曲第3番』では人気のピアニスト、ブルース・リウが登場。この日の聴衆の何割かは彼のファンだったように見えた。ピアノはファツィオリだが、この楽器特有のきゃぴきゃぴした(?)音は飛んでこず、やや地味な印象。ブルース・リウの技術は完璧だが、普段若き日のアルゲリッチの爆演(?)をCDで聴いているせいか、随分控えめな演奏に感じられた。途中から、ソリストがあえて目立つことを避け、オケのアンサンブルに溶け込むタッチを選んでいるのだと理解。プロコフィエフのPコン3番は個人的に大好きな曲だが、3楽章のコロコロ変わる調整やムードなど、随分エキセントリックな世界観だなと印象が新たになった。大自然を連想させるオーケストラの合奏は全楽章が素晴らしく、指揮者から最も遠い場所にいる管楽器の真剣さに心を打たれた。アンコールは指揮者とソリストによるブラームス「ハンガリー狂詩曲第5番」の連弾で、会場は和やかな雰囲気に包まれた。

圧巻だったのは後半のブラームス『交響曲第4番』で、聴き慣れたはずのこの曲が、まったく手垢のついていない深遠で神聖な音楽に聴こえた。ブラームスが生涯独身を貫き、孤独な日常の中で作曲を続けていた、特異な生き様が何より感じられた。1楽章から4楽章に向かった積み上げられていく貴重な音の重なりが、まるで神との対話のようで、ルネサンスから近代までの音楽を研究し、図書館学的な知識の中で創作を行っていたブラームスの「生きていた時間」をともに体験する心地だった。すべてが作曲家のオリジナルで、剽窃などひとつもない。現代という時代は歴史までもが手軽でカジュアルな情報となり、大阪万博のマークのような由々しいものが歓迎される。
ブラームスの時代は今より「光学的に」暗かった。24時間蛍光灯がついているコンビニもなければ、インターネットもなく、高速の移動手段もなかった…そんな中学生のようなことを考えつつ呆然とした。知識情報が安易なものとなった現在、指揮者がヒントとするものも容易に手に入る。
ラハフ・シャニの指揮は神秘的というより他なく、彼の音楽への着想はブラームスの精神の聖性とダイレクトに繋っていた。俗世と一線を引いていた作曲家の諦めの境地や、言葉ではなく譜面という暗号じみたものでしか語り得なかった迂遠な愛が、一秒一秒心に突き刺さった。
木管奏者の見事な演奏を聴きながら、その前の列のグレイヘアのチェロ奏者がじわじわと仲間のいい音を受け取っている表情をしていた。全員がお互いの音をよく聴き、神的な音塊の中にいる自分たちを幸せだと感じている。現実はそんな生易しいものではないと言われるかも知れない。最近では、音楽家がステージで感じている幸福感こそが、客席にいる自分の感動とつながっていると感じる。
ラハフ・シャニは特別な指揮者で、ブラームスの神の次元を聴かせた。指揮者の才能とは経験や訓練にも増して、生まれ持った魂に由来するものなのかも知れない。一種の運命論的なものも感じずにはいられなかった。



東京バレエ団『ザ・カブキ』(6/27)

2025-06-29 15:47:46 | バレエ
新国立劇場オペラパレスで三日間行われる東京バレエ団『ザ・カブキ』の初日を鑑賞。大入りの札が出たこの日の会場は、普段のオペラハウスとも違い、いつものバレエの客層だけでもないように見える若い人たちも多く訪れ、和装や袴のお客様もちらほら見えた。このバレエは今はなき五反田のゆうぽうとでも観ている。初演から約40年、過去の東京バレエ団の色々なダンサーが一生懸命に踊ってきた。前回の上演は2024年10月だったので短い間隔での再演となったが、由良之助役の柄本弾さんが芸術選奨文部科学大臣賞を受賞されたタイミングも重なって、祝祭的な雰囲気があった。

ベジャールが異文化の伝統を取り込むとき、それはリスペクトから入るのだが、バレエと融合させる「力技」は大胆で、奇跡としか言いようのないものがある。目の前で見ているのはバレエなのに歌舞伎で(忠臣蔵のストーリーがベースになっている)、歌舞伎のすり足や重心が下にある動きは、天に向かって飛翔していくバレエの動きとは正反対のはずなのだ。ベジャールは相当歌舞伎を研究したと思う。クラシックの「マイム」のようなものも歌舞伎にはないし、ダンサーは声を発しない。しかしながら、すべての瞬間で「歌舞伎を観ていた」という感覚があった。鍛錬されたダンサーたちの身体は、いくつものクラシックの型を見せていたが、それはすべて歌舞伎の印象に変形されていたのだ。

冒頭の80年代の東京の映像や若者たちの群像は、毎回見るたびに驚く。衣裳は少しずつ変化しているが、昔はもっと通俗的な(!)装いだった記憶。現代の青年(柄本弾さん)が黒子によって剣を託され、そこから忠臣蔵の世界が始まるというのもベジャール的だが、黒子にもスポットライトが当たるこのシーンは天才的だと再認識した。ベジャールは自分を賢そうに見せることはしないし、日本の伝統芸能を「理解した」ふりもしない。わざと、西洋の人間がエキゾチックなものに触れている様子を擬態しさえする。もちろん、本当は本質的なものを理解しているし、伝統芸能の神髄部分でバレエと歌舞伎は結婚できることを確信している。トレーナーを着た若者が陣羽織を羽織って急に歌舞伎の登場人物になるシーンを筆頭に、「ザ・カブキ」には垢抜けないシーンがひとつもない。背景に布の浮世絵や平仮名の幕が出てくる場面では、毎回痺れるようなかっこよさに武者震いする。

1986年当時の東京バレエ団のダンサーたちは、凄まじい身体的鍛錬とともにこの作品を完成させていったのだ。ベジャール作品ではクラシックの基礎をより厳しく行う必要があり、一方で誰もやったことのない歌舞伎とバレエのミックスの動き、義太夫に合わせて拍を取る音感覚、着物の早変わりなどをマスターしなければならない。何より、ベジャールは歌舞伎の「スピリット」を求めていたはずで、一人一人の演じ手が背負わされた責任の重さはとんでもないものだったはず。本当に信じられないことだが、若い彼らは完璧にやり遂げた。初演の年には二か月かけてヨーロッパ各都市を巡るツアーを行っている。日本のカンパニーが世界に討ち入りし、大成功を果たしたのだ。

由良之助を演じた柄本弾さんは2010年からこの役を踊っているから、15年のキャリアがある。集中力と観客を巻き込むカリスマ性、男性群舞を率いるリーダーシップには磨きがかかり、初日も見事だった。柄本さんは生前のベジャールには会っていない。ベジャールはこの由良助を観て喜んだだろう。塩治判官の樋口祐輝さん、高師直の鳥海創さん、直義の中嶋智哉さんも見事で、勘平の池本祥真さんとおかるの沖香菜子さんの恋人同士の踊りも見ごたえがあった。おかる役にはベジャールは相当の思い入れがあったのだろう。道化的な装束で八面六臂の活躍をする伴内の岡﨑隼也さんには、ゲッツ・フリードリヒ演出の『ラインの黄金』の登場人物を連想したが、どちらも作られたのは80年代。オペラとバレエの演出の当時の趨勢というものがあったのだろう。「ザ・カブキ」の中では現代劇的な異化効果を果たしていた。

顔世御前の上野水香さんは異次元的で、この役に相応しい幻のような抽象性を演じ切っていた。一切の無駄がなく、四肢の柔軟な動きは奇跡のようで、理想のベジャール・ダンサーがそこに現れたという有難さで胸が詰まった。ベジャールは上野さんを高く評価していた。美しい姿だけでなく、自分の精神や創造性を高い水準で理解している友人として、信頼していたのだと思う。ギエムや元BBLダンサーのシャルキナの幻影が一瞬よぎったが、上野さんしか演じられないベジャール精神の化身だった。

場面と場面の間に、「何も起こらない」真空のような空白があることも、今回初めて気づいた。何度も観ているのに、つくづく自分の目は節穴である。あの殺気に満ちた空隙は、西洋にはない「間」の感覚であり、「無」の時間でもあった。巨大な混沌を抱えて、ベジャールがこの劇でどこに行こうとしているのか、ともに考えるような感覚がもたらされ、記憶にある限りどんな舞台でもそんなことを考えたことはなかった。

ラストの四十七士と由良之助の群舞は、何度見ても何が起こっているのか全体を追いきれない。それでも今回は必死に凝視したが…一瞬のように感じられる結構な長丁場で、人のようで鳥の群れのようなめくるめく男性群舞は世界中のどのカンパニーも真似出来ないだろう。祈りを奉げた後の全員の割腹場面は、ベジャール本人も涙したという圧巻のクライマックスで、バレエでのみ観られる歌舞伎のドラマだった。「歌舞伎」という本物があるのに、バレエにしてしまったベジャールの大胆さ、それが的に刺さった矢のように正確であったことに今更ながら青ざめてしまった。

黛敏郎氏の『涅槃交響曲』は最近では今年4月に下野竜也氏指揮・東京都交響楽団で上演され、生音で聴いて作曲家の底なしの胆力に改めて驚いた。黛敏郎には粘り強い洋の魂があり、ベジャールには洞察的な和の魂があり、共作は自然なことだったと思う。39年前に創られた『ザ・カブキ』は213回上演を重ね、2025年の現在まで,強い衝撃や香りが失われることなく踊り継がれてきた。
ベジャール作品の炎を絶やさぬよう次世代に教え伝え、全力で献身してきた大勢の人々…亡くなった人も含めて…に深く感謝したくなった。軽薄な言葉にはしたくないが、これはバレエにとっても歌舞伎にとっても「国宝」と呼べる宝なのだ。


英国バーミンガム・ロイヤル・バレエ団『眠れる森の美女』(6/21)

2025-06-22 11:55:11 | バレエ
現在来日中の英国バーミンガム・ロイヤル・バレエ団の『眠れる森の美女』の21日マチネ公演。1984年初演のピーター・ライト版はクラシカルな魅力満載で、幕が開いた瞬間フィリップ・ブラウズによる厳かな美術と衣裳に圧倒される。ペローがこの物語を書いた17世紀のバロック様式を意識してか、黄金色の装置は豪奢な城の内部を再現し、歴史画のように重厚で、紳士たちはラモーやヘンデルのような巻き毛のウィッグをつけている。その毛量の凄さも本格的だ。先日からこの演目の上演が続いたせいか、個性の違うプロダクションが面白く映る。ギャヴィン・サザーランド指揮の東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団の演奏も、ピットを深く掘って音風呂効果(?)を演出した幻想的なもので、男性群舞が勇壮に踊るシーンでは英国の軍隊を連想させる厳しい音を出していたのが印象的。
オーロラ誕生に城中が湧くプロローグでは、妖精たちがそれぞれのキャラクターを強調したソロを踊る。「美しさの精」を踊ったシャン・ヤオキアンはバレエ団のプリンシパルダンサーで、明るい表情で観客を魅了した。他の妖精たちのソロは少しばかり仕上がりにばらつきがあったが、群舞はこのカンパニーならではのおっとりとした雰囲気が好ましく、騎士たちの踊りには英国紳士の気品が感じられた。カラボスは美しい魔女として描かれ、城の祝祭の雰囲気を一気に変える。アイリッシュ・スモールという名前のダンサーがハリウッド・スターのオーラでゴシック・ファンタジーな悪役を演じ、対する「善」の象徴であるリラの精をイザベラ・ハワードが毅然として優雅に演じた。

休憩後の第1幕ではオーロラ姫の栗原ゆうさんが、登場の瞬間から空気を一変させた。完璧な姫で、彼女がいるだけで空間全体が優美で平和なオーラで満たされる。プロローグで聞こえた夥しい足音が、オーロラの踊りでは少しも聴こえない。甲の美しさは姫の心映えを表しているようで、16歳のオーロラは城の中が平和であること、自分への愛と祝福で満たされていることを喜ばしく思っている。栗原さんの視線の演技が素晴らしかった。主役として自分だけの追い込み方をして、日々鍛錬していることが伺えた。
緊張を強いられるローズ・アダージョでも冷静で、4人の王子たちを相手にバランスを取り続ける間中、湖面のように静かでぐらつかず、安定感がキープされていた。ロイヤル・スクールの特徴なのか、ただ技術を燃焼させて踊るのではなく、要所要所に抑制が感じられる。足は上げ過ぎてもいけないし、作品によっては感情表現も控えめになる。
オーロラ姫の「役作り」というのは、オデットやジゼルやジュリエットより抽象的なのではないだろうか。劇的な演技は求められないが、祝福された姫として、プロローグで踊った妖精たち全員の美徳が、息のように魂に吹き込まれている。妖精たちの善き特性が結晶化したのがオーロラという存在で、善を憎む闇の女王であるカラボスが姫を憎むのは当然なのだ。

2幕ではオーロラは幻影となり、まぼろしの姿でフロリムンド王子と踊る。王子役のラクラン・モナハンは2012年に入団したプリンシパル3年目のダンサーで、ノーブルな気品に溢れていたが、そうした空気感もこのオーロラとの共演でさらに磨かれたものではないかと思われた。ピーター・ライト版では100年の眠りについたオーロラの前で、リラの精と王子、カラボスが姫救出のための闘い(?)を繰り広げるという場面があり、王子は姫を救うためにキスをするのが通常の段取りだが、「僕は一体何をすればいいの?」と天に問いかけてから、「わかった!」と微笑んでオーロラに近づいていくモナハンがあまりに可愛かった。「寝ている人にキスしていいのか」と奇妙なコンプライアンス問題が浮上してきた現在、とてもデリケートで爽やかなキスまでの道のりだった。

3幕の結婚式のシーンでは、お馴染みペロー童話の登場人物がキュートな踊りを披露し、バーミンガム・ロイヤルの衣裳のクラシカルな魅力、ダンサーのコケティッシュな表情が見事だった。オーロラはますます美しさと輝きを増し、自分の王国のすべての民の平和と幸せを願い、王子とのグラン・パ・ド・ドゥを踊る。子供っぽくなりがちなオーロラのヴァリエーションも、ダンサーの美意識が投影された洗練された表現で、「舞台の上で何をどう見せるか」という研究と、内観を深く静かに掘り下げていく心の作業が同時に見えた。ただ一度のインタビューで、栗原ゆうさんは凄い芸術家なのではないかと直観で思ったが、初めて観る舞台でこれほどまでに感動させてくれるとは予想していなかったので、驚きつつも涙が止まらないのだった。

チャイコフスキーは6曲の交響曲を書き、三大バレエ音楽を書いたが、実存の問いとしての交響曲を書く作曲家は多くとも、バレエへの溢れる愛を渾身の情熱で書き上げた音楽家は少ない。『眠れる森の美女』は子供向けの御伽噺ではなく、もっと宇宙的で哲学的な愛の議論なのではないか。チャイコフスキーはそれを疑わなかった。バレエそのものが、もうとんでもなく青天井な愛のアートであり、先日のオーストラリア・バレエ団の『ドン・キホーテ』でも「ある時代を生きた若者たちの眩しい青春群像」が見えたが、バーミンガム・ロイヤルの『眠れる森の美女』も、ドレスやかつらに彩られた古き良き時代の人々の優雅な群像劇なのだと認識した。

カーテンコール時には、芸術監督のカルロス・アコスタが登壇し、栗原ゆうさんのプリンシパル昇格を発表。ハッピーエンドのバレエにさらに光彩が加わり、舞台がますますまぶしくなった。夏至の日の午後に上演された『眠れる森の美女』は、夏の夜の夢のようなひとときとなった。


ⒸTristram Kenton