小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

読響×飯守泰次郎 (7/21)

2021-07-23 14:32:36 | クラシック音楽

読響と飯守泰次郎先生の46年ぶりとなる定期。サントリーホールは予想以上の客入りで、マエストロの登場から盛大な拍手が起こった。先日の東響よりもお足元がしっかりされていて、背筋もまっすぐ。いつものように正装で、客席に向かって上品にお辞儀をされた。なぜか「今日の飯守先生は美少年のようだ」と思ってしまった。コンサートマスターは日下紗矢子さん。

モーツァルト『交響曲第35番《ハフナー》』から歓喜に溢れた大きな音量で、そういえば天井からいつもよりたくさんマイクが下がっているような気がするが、オケそのものがリミッターを外したような印象のヴィヴィッドな演奏だった。半世紀近いブランクを経て読響に「帰ってきた」飯守先生を祝福する音楽なのか、弦も管もとてもハイテンションで、花火のように爆発的だった。勢いがいいと、いつも聴こえない新しいフレーズが炙られた絵のようにいくつも浮き上がる。影絵と影絵が追いかけっこをしているような面白い旋律が聞こえてきた。

 モーツァルトの遊戯精神がぴちぴちと飛び跳ねていて、ロココな装束をまとった男女の恋の鞘当てを見ているようだった。ダ・ポンテ・オペラの登場人物のように、みんな心臓がドキドキソワソワしていて、暇なので恋することがすべてなのだが、建前も大事で、姑息だったり滑稽だったりする様子を、モーツァルトは「笑っちゃうよね」と活写する。小さなマリー・アントワネットに求婚された神童は、宮殿の女たちの意地悪さや、女の楽屋裏もよく知っていたのだろう。

 最後まで聴いて、この「ハフナー」がとても「日本離れした」演奏だと感じた。科学的に証明できることなどひとつもないが、日本の湿気や味噌汁の味が皆無で、サントリーホールのアコースティックが何百年も経た欧州の古い劇場の壁のような質感だった。凛とした強さと、ノーブルな香気も感じられる。お子様味覚の自分は、フォアグラも青かびチーズもロクに食べられない情けない舌をしているが、もしかしたらもっと強靭な味覚と胃袋を持っていなければ西洋芸術と対峙できないのかも知れない。時間差でモーツァルトの「妖艶」に当てられてクラクラした。短い前半のこの曲のあと、両手を大きく上げて「万歳」のポーズで袖に入られた飯守先生の姿が忘れられない。

 飯守先生のブルックナーは先日の東響との7番で感銘を受け、この日のブル4も半ば予定調和的に「感動する」はずだったが、感動どころではない衝撃の連続だった。

壇上には椅子と譜面台が用意されていたが、譜面台には何も置かれていない。椅子も、楽章間に少し座るだけ。ほぼ立ち通しで70分の「ロマンティック」を暗譜で振った。1楽章から、何か「昇天するのが偉く早いな」と感じ、振り上げた指揮者の腕が忽ち神の光に届くのが見えた気がした。起承転結の段取りをを待たずに、冒頭からもう結末のカタルシスが溢れ出している。

 ホルンを筆頭に金管のパワーが素晴らしく、攻め攻めで勇敢で、雄々しすぎて途中から「怖い」と感じた。スイスとフランスの国境近くのラ・ショー=ド=フォンを訪れたとき、雄々しい岩山が空を塞ぐように聳え立っているのに感動し、見続けているうちに急に恐れを感じたが、その感覚と似ていた。セクシーな岩の山々があんなふうに視界に迫ってきたことはなかった。弦楽器も今まで聴いたことのない呼吸感で、雷に打たれたように「急に」激昂する。何もかもが、予想外の瞬間に巨大化し、予告もなく迫ってくる。

 「これは男だ」と直観で思った。黒田博さん演じるファルスタッフに畏れを感じたように、飯守先生のブル4にも自分には把握できないほど危険で巨大なパワーを感じたのだ。ブルックナーは教会音楽のようなシンフォニーを作っていたわけではない。半音階の渦巻きに巻き込んでくる酩酊感はリストに近い。リストは無数の女性を知っていたが、ブルックナーは正反対。しかしながら根底に渦巻いている「わけがわからないもの」は同じで、それはすべての創造の根幹にあるマグマのようなエネルギーだった。

 森を駆けるジークフリートやパルジファルを思った。そのような存在が秘めている生命の力を、普段人間の男性はしまっておくのだろう。「ブルックナーには男性の愛好家が多い」のは真実だ。ブルックナーの神髄をこのような鮮烈な形で体験しなければ、異性の「異質さ」を再認識することもなかっただろう。ファルスタッフの前に見たカルメンも思い出した。「一直線にしか進めない」男の神聖な情熱を愚弄したカルメンは、やはり無事で生きて帰るわけにはいかなかった。

3楽章の、管楽器が森の鳥獣が一度に息を吹き返したような件は心臓が高鳴った。木霊のように少しずつズレていたが、演奏家の迫力は削がれることはなかった。急に訪れる間隙からは、凄まじい孤独感が溢れ出す。そしてまた咆哮が始まる…コンサートマスターは日下さんだが、この「男っぽさ」をどのように伝達したのかとても興味が湧いた。

飯守さんは素晴らしいバランス感覚を持っていると思う。聴き手の誰もが文句を言わない「アカデミズム」タイプのブルックナーだって朝飯前だ。しかし、これが今、飯守先生が振ってみたかったブルックナーなのだろう。

十分に尊敬され、評価された人が、その境地にあってやりたいと思う音楽があるはずなのだ。「ここにいるのはブルックナーと自分だけ」という、ノーブレーキのすごい演奏をした。「ブレーキを外す」という言葉は、全楽章を聴いて何度も頭に浮かんできた言葉であった。飯守さんは、もちろん酒浸りの太ったファルスタッフではない。しかし、潮満ちていよいよ我儘になる権利を得て「枠からはみ出した自由な世界」へ行こうとしているのではないか。翼をもつ者はどこにも飛んでいける。次のブルックナーはまた全然違うものになるかも知れないが、この夜の読響とのブルックナー4番は間違いなく歴史的な名演だった。

                              Ⓒ読響

 


東京二期会『ファルスタッフ』(7/17)

2021-07-17 21:33:04 | オペラ

出演者の一人に感染症の陽性反応が見られたため、初日(7/16)の公演が中止となり、二日目のキャストが実際の初日公演を務めることになった。タイトルロールは黒田博さん、フォード小森輝彦さん、フェントン山本耕平さん、アリーチェ大山亜紀子さん、ナンネッタ全詠玉さん、クイックリー夫人 塩崎めぐみさん、メグ金澤桃子さん、ピストーラ狩野賢一さん。レオナルド・シーニ指揮・東京フィルハーモニー交響楽団。ロラン・ペリー演出はテアトル・レアル、ベルギー王立モネ劇場、フランス国立ボルドー歌劇場との共同制作。ボルドー歌劇場の3月の上演は見送られたため、日本公演がフランスより先になった。

冒頭シーンは、狭くてさびれた英国のパプのような場所から始まる。バルドルフォはロカビリーヘアの若者だ。衣裳の中にたくさん詰め物をしたであろう黒田さんは球体状の大きな身体となって、酔いどれ顔のメイクで、不機嫌にパブの椅子にへばりついている。その様子を見て、何かひどく心が疼いた。黒田さんのファルスタッフは喜劇的というより、もっと違うのものを表しているようで、怒りを込めた鋭い歌唱の一語一句から「俺は男だ!」という厳粛な意志が感じられた。
カロリーネ・グルーバー演出の黒田さんの凄いドン・ジョヴァンニが思い出され、ファルスタッフの中にもドン・ジョヴァンニの面影を見つけた。「小姓だった頃の私は細くて蜃気楼のようで、指輪もすり抜けられた」という歌詞が、今までと別なふうに聴こえる。騎士ファルスタッフはケルビーノのような美少年で、やがてドン・ジョヴァンニとなり、今や時間という哀しみを身体に溜め込んで必死に人生の最後の楽しみを探している。

ファルスタッフが演劇性の強いオペラであるからだろうか。役者の魂の重さということを考えさせられた。黒田さんの魂の質量が、ファルスタッフをただの風船じいさんにさせていない。完璧な見た目のアンブロージョ・マエストリがスカラ座の来日公演でこれを歌ったとき、巨体の歌手はなんと身軽に楽しそうに役をこなすのかとワクワクしたが、黒田さんはそうではなかった。喜劇的な老人の讒言として解釈してきた歌詞が、人間の真実の訴えに思えた。

ロラン・ペリーの演出は冒頭から冴えていたが、ファルスタッフの役作りに関してだけは、演出家の意図通りだったかは分からない。ロラン・ペリーは黒田さんのことをそんなに知らないはずだ。私の方が詳しい。黒田さんのパパゲーノやフィガロ、ドン・ジョヴァンニにスカルピアにシャープレスに、フェレイラ神父や金閣寺の溝口のお父さんまで観てきた。
このファルスタッフを見て悲鳴をあげたくなった。自分が過去に見てきた黒田さんが一斉にフラッシュバックしたからだ。パパゲーノはパパゲーナに会えなくて首吊り自殺を試みるし、アムフォルタスは誘惑に愚弄されてわき腹から血を出し続ける。女たちから嘲笑されるファルスタッフの中に、パパゲーノやアムフォルタスの影を見た。

ベルトラン・ド・ビリーの代役としてピットに入ったレオナルド・シーニの指揮はモダンで精妙だった。イタリア出身の30歳で、パリ・オペラ座へのデビューも控えている新鋭だが、ヴェルディが最後のオペラでいかに新しいことをやろうとしていたかを教えてくれる音楽だった。
マエストロ・ゼッダは「ヴェルディはファルスタッフで偉大なるロッシーニの伝統に回帰した」と語ったが、オケも歌手のパートもロッシーニと似ているようで、そうでもなかった。3幕のはじまりのファルスタッフのぼやきは、極端にオケの音が少ない。アンサンブルが白熱する場面では、歌手もオケも拍をとるのが大変そうだ。ヴェルディは20世紀を肌で感じている。メンデルスゾーンへの敬意と、ワーグナーへの諧謔も感じられる。東フィルはカルメンチームも頑張っているが、二期会のほうも本気でやってる。木管セクションは神がかっていた。

若きシーニにとっても、日本に黒田さんのような歌手が存在するということは衝撃だったのではないか。もちろん、登場人物すべてが素晴らしい。妻を寝取られるかも知れないフォードの焦りは、舞台上に18人の「フォードの分身」を忍者ハットリ君のように登場させるというペリーの演出によって誇張されたが、フォードを演じる小森さんと黒田さんの本気の歌唱の応酬というのは見事だった。老人の成就しない恋を尻目に、思いきり若い愛を謳歌するフェントン(山本耕平さん)とナンネッタ(全詠玉さん)も鮮やか。ウィンザーの陽気な女房たち、アリーチェ大山亜紀子さん、メグ金澤桃子さん、クイックリー塩崎めぐみさんも素晴らしかった。9重唱では、奇跡が起こったかと思った。

これはヴェルディの貴重なアンサンブル・オペラの傑作であるには違いないのだが、オテロやリゴレットやマクベス同様に、ヴェルディ・バリトンの独断場の「英雄」物語で、ファルスタッフ以外の歌手たちは脇役として聴いた。それほどマエストロ黒田の存在感は圧倒的だった。

ファルスタッフはつねに雷神のように怒り狂っている。星の神話の中で、人間の70歳から84歳までを支配するのはウラヌス神で、ウラヌス(天王星)はジュピター(木星)より容赦なく好色な神である。サタン(土星)が支配していた56~69歳までの禁欲と謹厳さを突き破って、人生の終盤で大反乱を起こす。「名誉とはなんだ! 意味がない!」という神がウラヌスなのだ。これはびっくり神でもあり、ホルストが『惑星』書いた「魔術師」でもあり、雷神ドンナーでもある。黒田さんはドンナーも、ファルスタッフに込めていたかも知れない。

ファルスタッフが女たちを追いかけまわすのは、命のカンフル剤が欲しいからで、どんな英雄も身体が朽ちていくときに似たような反乱を起こすのかも知れない。真夜中の公園での逢引シーンでは、いきなり森が動き出した。『マクベス』の「バーナムの森が動いた!」という超常現象を、ペリーはファルスタッフで見せてくれた。この怪奇現象により、隠されていたことすべてが明らかになっていく。ファルスタッフを嘲笑していた人々はフリーザーの中で生きる冷凍人間となり、コケ色のガウンを着たファルスタッフだけが人間の体温を持っている。凍った姿のウィンザーの陽気な女房たちがハンドバッグでファルスタッフをぽこぽこ苛める場面でも、もうどちらがおかしいことをしているのか、歴然としていた。ロラン・ペリーは、ファルスタッフの滑稽な情熱の中に人間性の本質を見出し、貞淑や世間体や保護された立場に安住する人々を、硬直した冷凍人間として描いた。

黒田さんが舞台で見せてくれた頑迷な男、男、男たちがパノラマのように脳裏をめぐり、動いた森と凍った人間たちに囲まれて「みんな、だまされる!」と叫ぶファルスタッフの姿に号泣した。私は変態なのか。最後の10分はもう顔がずぶぬれになってしまった。ずっとだまされてきた。ファルスタッフは喜劇だと思い続けてきたのだ。かといって悲劇というのではないが、大笑いでは済まされない心をえぐるオペラだった。演出家も歌手も、本当に孤独を感じなければ真の表現を掴むことは出来ない。「裸の王様」が反転した見事な物語に、悲劇としてもその逆としても描かれうる「魂の孤独」を考えた。7/18にも上演あり。

 


日本フィル×沖澤のどか(7/10)

2021-07-11 09:41:28 | クラシック音楽

沖澤のどかさんが振る日フィル定期の二日目。コンサート・マスターは千葉清加さん。一曲目のモーツァルト『魔笛』の序曲から、初夏の清々しい薫りがした。オペラの『魔笛』は特に初夏の物語ではないが、プログラム後半のメンデルスゾーンの響きを先取りしているような清冽なタッチがあり、その透明感から「夏の夜の夢」に似た妖精世界の物語を連想したのだ。日本フィルはとてもシックで幻想的な音を出し、いつもの力強いイメージとは別のオケのようだった。終盤でドラマティックなクレシェンドがあったが、おおむね弱音の美しさを強調した指揮で、沖澤さんの曲に対する強い理念を感じずにはいられなかった。

男女の性差についてデリケートな世の中になったとはいえ、指揮者の世界ではまだ女性は少ない。それでも、この半月間に複数の女性の指揮者の演奏を聴いた。牧阿佐美バレエ団と藤原歌劇団のピットでも若い女性の指揮者が活躍していた。沖澤さんの『魔笛』序曲は、若い男性指揮者ならもっと「元気よく」振ったかもしれないものを、吟味されたバランス感覚で限界まで音量を抑えていた。勢いで聴かせては表せないものを表すために、音量やパンチはセーブする。弦セクションのまめまめしい活躍が妖精の羽音のようで、やはり『夏の夜の夢』を思い出してしまった。

ベルク『ヴァイオリン協奏曲《ある天使の思い出に》』では三浦文彰さんがソリストとして登場。何かのきっかけで最近ベルク・アレルギーになっていたのでこの曲も憂鬱に聴くだろうな(!)と思っていたが、心は窮屈な場所とは別の世界へ持っていかれた。アルマ・マーラーとヴァルター・グロピウスの娘マノン・グロピウスの早すぎる死を追悼するために書かれた曲で、完成後まもなく作曲家は亡くなってしまうが、既にベルクの精神はこの世ではないところに足を踏み入れているようだった。曲の構造は隙がなく、知的に聴こうとすると頭が過熱するが、それとは別の癒しの美があった。沖澤さんの指揮は武満徹の星をテーマにしたチャーミングな曲を思わせ、三浦さんのソロは譜面から暗号を読み取るような神秘的な均質性があった。「現実的」に演奏したら、ひどく晦渋な音楽になるところを、違う次元で聴かせてもらったという感想。オケがところどころ和楽器の合奏のように聴こえたのも興味深かった。

沖澤さんが東京国際音楽コンクールの指揮部門で優勝された瞬間は素晴らしいものだった。ファイナリスト4人はそれぞれ高い実力を持ち、しのぎを削る戦いだったが、大きな流れが到来して「沖澤さん以外にはない」という想いが高まった。結果発表のときには「やはり、そうか!」と感動で思わず泣いてしまった。その後2回ほど沖澤さんにはインタビューした。「なぜ自分が優勝したと思うか」という不躾な質問もしたが、そのときの沖澤さんの答えはとても実感がこもっていた。「他のコンクールで既に好成績を収めていたコンテスタントも多く、彼らはオーケストラととても合理的に段取りを進めていました。私はこつこつ型で、要領が悪かったので逆に目立っていたのかも知れません」
日本フィルとの演奏を聴いて納得。派手に「とりあえずの完成品を作る」という短気なところがない。外側だけを性急に整えるという嫌らしさもない。「どうだ、すごいだろう」という圧倒する演奏は、器楽声楽のコンクールなら高く評価されることもあるのかも知れない。沖澤さんを高く評価した審査員の知性に感謝したくなった。

音楽も芸術も学習の賜物であることは歴然としている。どれだけ知識があるか、分析力があるか。沖澤さんの知性が素晴らしいのは、その先の未踏の部分にも踏み込んでいることで、それは作曲家の知性の奥にある、より根源的な「魂」を表すことを試みていることだ。知性は嘘をつく。戦いのために華やかであろうとする意匠は、外側の世界に合わせた化粧のようなもので、簡単に時代遅れになる。何と闘うのか。コンクールでの沖澤さんは、ただ自分の探求心のありようを純粋に見せていた。音楽を聴けば、どんなに繊細な人かはすぐに分かる。指揮者という道を選んだ時点で、古い戦いのスタイルとは別のやり方を選ばれていたのではないかと思う。

古い戦いとは、どのジャンルでもやはり威圧的に「凄い」と思わせようとする戦いで、クラシックの多くの聴衆はまだまだそういう戦いが好きだ。沖澤さんは狭くて厳しい道を選び、自分を曲げずに頑固に磨いていると思う。メンデルスゾーン『交響曲第3番《スコットランド》』は、冒頭から素晴らしい音色の嵐で、膨大な音の色彩が混濁せず調和的に配置され、水彩画家としてのメンデルスゾーンの才気が溢れ出した。指揮コンクールでも『静かな海と楽しい航海』を一番メンデルスゾーンらしく振ったのは沖澤さんだった。

『スコットランド』では、今まで感じたことのない感興にも襲われた「メンデルスゾーンはこんなにも優しい人だったのか」という驚きで、女性といるときはドアノブを触らせないほどの紳士だったに違いないと思われた。精神に、憧れずにはいられない「豊かさ」があり、獲物をがつがつ求めていくような戦闘性がない。軍神マルスの音楽ではなく、金星の女神ヴィーナスの音楽で、永遠の平和へとつながる光の階段が見えるようだった。打楽器が激しく鳴るくだりは突然の風雨のようで、厚い雲のスケッチがハーフトーンを重ねた灰色で描写された。作曲家のネガティブキャンペーンを行ったワーグナーはメンデルスゾーンに本当に嫉妬していたのだ。

沖澤さんの指揮姿もとても優美だ。乱暴に「それらしい完成品」をでっちあげたりしないので、音楽に未来がある。不器用とも言えるが、その先にあるものは既に姿を現している。日フィルの木管奏者は献身的で、クラリネット首席の息の長さは驚異的だった。

譜面から『魂』をすくい出すなんて、オカルトか錬金術だと思うだろうか…指揮者自身はそういう言葉で表現をしないだろうが、左脳的な理知や古い戦闘心では顕せない、作曲家の「宿命」が伝わってきた。「これが受けなかったから、あれを試してみる」というようなやり方では、音楽は出来ない。なんだってそんなやり方では本当のことから遠ざかるばかりだ。孔雀の羽根をひろって派手なふりをするイソップ童話のカラスは、偽物だ。その表現の真意はどこにあるか。自分で自分をしっかり認めている指揮者の不動の構えを聴いた、驚異的なコンサートだった。

                                                     ⒸTaira Nishimaki

 


新国立劇場『カルメン』(新演出)

2021-07-07 18:14:50 | オペラ

新しくなった新国カルメンの二回目の公演。初日には演技のみの出演だったドン・ホセ役の村上敏明さんが無事回復し、本格的なスタートを切った感のある舞台だった。カルメン役のステファニー・ドゥストラックは「ハバネラ」でこそ緊張気味だったが、「セギディーリャ」から調子をどんどん上げていき、ゲネプロのときよりかなり悪女っぽい仕上がりになっていた。ミカエラ砂川涼子さんは「神々しい」の一言に尽きる。スニガ妻屋秀和さんも毎回ハズレのない見事な演技で、フラスキータ森谷真理さん、メルセデス金子美香さんも細かい演技を魅惑的にこなしながら最高の歌を披露した。

オリエ演出に目が慣れたこともあり、この本公演ではピットの大野和士オペラ芸術監督の魔性の音楽作りに改めて惹きつけられた。どのフレーズにも意外性と驚きがあり、テンポは篭絡的で、オーケストラそのものが巨大な「悪の華」を表現していた。東フィルの変幻自在ぶりは本当に凄い。音楽が次から次へと新しい期待を呼び、新鮮で豊かな響きが泉のように湧き出してくる。こんなものを書いたビゼーは、天才を通り越して一種の超人ではないかと思った。ひとつの動機から音楽が無際限に発展していく成り行きが、尋常ではない。当たり前のように聴いていた「カルメン」のすべての曲が、全く当たり前には聞こえなかった。

フランス語の台詞も入るが、2011年にボローニャ歌劇場の来日公演で見た版よりはストレートな芝居は少ないという印象。レチタティーヴォ版とオペラ・コミック版の中間のような版だろうか。このオペラが失敗作とされ、3か月後にビゼーが死んでしまったことを考えると、そんな不条理があっていいものかと思う。大野さんはリヨン歌劇場との『ホフマン物語』のときもオッフェンバックの無念の魂と交信し、アンコールで作曲家に変装して出て来るほどの憑依ぶりだったが、ビゼーに関してもそれくらいの入れ込みようだったと思う。

欠点らしい欠点などなかった鵜山仁演出を新しくして、現代日本を舞台にした新演出にしたことには勿論大きな意義がある。以前のカルメンも素晴らしかったが、新演出では大きな緊張感が出る。ポネルのフィガロやゼッフィレッリのアイーダやトゥーランドットは伝説だとして、オペラは「劇場が生きている」ことを示すためにも新しくすることが望ましいのだ(こういう表現すると「劇場に媚びている」などと言い出す人もいるのを承知で言う)。ゲネプロでは、かなり多くのスペイン勢スタッフがテクニカルに入っていた。演出家の助手だけでなく、美術や照明の助手もいたはずだ。鉄製の巨大なケージが舞台全体を覆うこの演出では、事故がないように舞台を作り上げるだけでもかなりのストレスだったと想像する。

面白いのは、アレックス・オリエがコンセプトとして語っていた「男性による女性への暴力」という要素が、最終的にほとんど浮かび上がってこなかったことだ。ビゼーのオペラが、そのように書かれていない。ホセの村上さんはオリエの解釈ではかなり葛藤したと思うが、結果的に音楽そのものがコンセプトを凌駕した。

オリエがカルメンを自由の象徴として描き、ホセをマチズモの象徴として描きたかったのにも理由があるだろう。オリエは「善悪」ということに強くこだわり、自由(民衆)と体制(政権?)のコントラストにもこだわる。フランコ独裁政権後のスペインで自由の意味は重要であり、両親からも「自由の大切さ」を躾けられたと語る。スペインにおいてその精神は、むしろ芸術的にはマジョリティだったはずで、オリエはキャリア的にも全然マイノリティ側の演出家ではない。

一方、大野さんの音楽はつねに善悪の彼岸で鳴っていて、「紫苑物語」や「リトゥン・オン・スキン」では毒気が強すぎて個人的にはついていけなかった。善とか悪とかが問題ではなく、しかじかの魂の特性があるだけだ、という超=道徳的な価値観を大野さんの指揮からは感じる。カルメン解釈という点で、オリエとは対極の精神性だと思う。

このカルメンは「対極でありながら、なぜか調和してしまったコンセプト」の不思議な達成物であった。演出は骨っぽい装置をともないながら善悪を厳しく分けようとし、ピットの音楽は毒と優しさと妖艶さによって鉄骨を柔らかいレースにしてしまう。それが不調和ではなく、二つのベクトルをのみ込んだ巨大な次元を創り出していた。オリエはよく戦った。戦わなければオペラは生まれないし、ホセはカルメンに出会わなければ人生がどんなものかを理解しなかった。オリエの強靭さを、大野さんの寛大さが包み込み、さらにビゼーがその全体を祝福していたオペラだった。

ラスト近くで闘牛士エスカミーリョとカルメンが「愛しているよ」「愛しているわ」と歌う短い歌はモーツァルト・オペラのような天上の音楽で、モーツァルトならばハッピーエンドに終わるはずだが、永遠の平和は訪れない。エスカミーリョの王国に入城しかけたカルメンを、地を這うようなホセの歌が追いかける。ビゼーは本当にオペラの天才だった。散逸したものも含めて30作のオペラを書いたともいう。リストに未来の天才ピアニストと賞賛されながらも、オペラへの愛を貫いて突っ走り、沸騰する才能を賭けて書いた遺作がこれなのだ。偉大なる「ミスターB」の遺言が、21世紀の日本で再現された。若い人たちにも是非観てほしい。

 

 


東響×飯守泰次郎(6/26) 

2021-06-28 08:59:29 | クラシック音楽

二日間行われた同プログラムのサントリーホールの初日を鑑賞。前半のライネッケ『ハープ協奏曲 ホ短調』ではハーピストの吉野直子さんが流麗なソロを披露した。ハープという楽器を正面から見る機会があまりなかったので、その形と豪華な装飾をしげしげしと見つめてしまった。吉野さんのピンク色の銀河を集めたようなドレスも美しく、全体にちらばめられたスパンコール(?)が夜空の星々のように輝いている。普段聴く機会の少ないライネッケの曲にしばし聞き入った。水の女神のようなハープの音というのは夢心地に連れていってくれる。オペラでは、初対面の女性の美貌に男性がぼうっとなったときハープの音が登場することがある。バレエ好きにとってはいつも「白鳥の湖」を想像する音。
コンチェルトでは、楽器の特性として「拍節感を出すのが難しい」点を、オーケストラとの対話で補っているのが素晴らしいと思った。ハープ協奏曲そのものが少ないのも、とても繊細な表現をする楽器で、何かを強く主張するような大きな音を出さないからだろう。2楽章のアダージョは、秘められた日記のような乙女の祈りを連想させた。ハープが「雄々しくある」必要などあるだろうか。この癒しの音楽を作ったライネッケの誕生日は偶然にも3日前(6/23)で、雨と日照りが交互に訪れる巨蟹宮の季節に生まれた人々の気質が、ロマンティックで感情過敏であることを、仕事柄(占星術)思い出した。パルジファルを誘惑する花々のような、無邪気で妖艶なものの気配を感じながら、オーケストラのエレガントなサウンドも楽しめた。アンコールはアッセルマンの「泉」。リリー・ラスキーヌの録音で一時期よく聴いていた曲だったが、生演奏は流石に感動した。吉野さんはハープ一台でオーケストラのような見事なサウンドを聴かせてくれた。

後半ブルックナー交響曲第7番(ノーヴァク版1954年版)は、筆舌に尽くしがたかった。指揮台にスタンバイした飯守先生の静かな後ろ姿を見て「指揮者はなぜ、言い訳をしないのだろう」ということを考えていた。音楽家の中でも、これほど過酷でストレスの多い仕事もないだろう。その分いいこともある、という人もいるだろうが…オペラを振る指揮者の多くは、ピアノがうまい。ピアニストだって苛酷な仕事だが、孤独の殻に閉じこもって自分を守ろうとすればそうした生き方も出来る。指揮者はつねに外と闘わなければならない。闘いよりも和解を好む穏やかな人でさえ、予想外のエキゾティックな攻撃、ルール違反をする敵、有象無象のプレッシャーから身を守るために、闘う義務を背負わされる。

1940年生まれの飯守先生にとって、西洋音楽をするということは「世界がユニヴァーサルにつながっていった」それ以降の世代よりも勇気がいることだっただろう。渡航ひとつとっても、現在のようではなかった。西洋音楽は狭き門であり、日本人は徹頭徹尾謙虚に学ばなければならず、アイデンティティを確立するのも気が遠くなる作業であったと想像する。1940年生まれの人間は、特別なエネルギーのもとに生まれているのであり、それ以前の世代とは違う革新性を与えられている。だから飯守さんの音楽からはいつも電撃的なものを感じる。80歳とはただの数に過ぎないが、積み重ねてこられた年月には計り知れない価値がある。本当に、一つずつ丁寧に「言い訳をせず」積み上げてきたのだろう。

ワーグナーテューバも登場し、金管はショーアップされた迫力と、正確さと勇敢さを求められるが、どの場面でも誠実でない音はひとつとしてなかった。ただ「外さない」のではなく、何とも言えない殺気があった。金管打の奇跡的な響きが次から次へと積み重ねられ、独自の呼吸感によって音楽の宇宙が作りだされているのを感じた。文章も、韻を踏んだリズミックな文章にはそうでない文章とは異なる「霊力」がそなわる。音楽も同じで、指揮者の与える呼吸感がオーケストラに強靭な霊的エネルギーを与えていた。翌日のミューザも素晴らしかったと思うが、この日の東響は驚異的だった。

ブルックナーとは何と純粋な精神だろう…創造の中で本気で神と繋がろうとした。芸術が素晴らしいのは、聖と俗が溶け合うことで、現世的な名誉を目指そうとしなければ巨大な交響曲など書かないし、増してや人の評判に左右されて書き直しなどしないだろう。だからといって、「聖」の部分が消えるわけではない。音楽の中のあらゆる問いは神に対する問いで、根強い日々を通じてその答えを積み上げていった。そういう一途な生き方は、創作の世界では生きられても現世では不器用でしかなく、ブルックナーは女性からはふられ続け生涯独身だった。しかし、音楽の中には救済が潜んでいる。女性的なるものもすべて含んだ、もっと巨大な太陽神のような「全-救済」が音楽を推進させている。

あの印象的なスケルツォ楽章を聴いて「やはり指揮者が生きてきた道は闘いなのだ」と思った。オーケストラを「成就」させなければならない指揮者は、火の輪をくぐらなければならない。飯守さんもバイロイトで、欧州で長年闘い続けてこられた。もちろん「闘い」とは暴力でも陰謀でもない。新国立劇場でオペラ監督を務められていたとき、記者懇親会などで見る飯守さんは「闘い」など避けたい平和な愛の人なのだと思わせた。音楽に関わるわが身の日々の葛藤や矛盾を、神に問いかけて答えを掴む…それを繰り返してこられたと方だと思った。内なる闘いの人。

これは、世界の中心にあるブルックナーなのではないか? 西洋と東洋、どちらかが主流でどちらが亜流という時代ではない。小澤さんの時代からとっくにそうである、という意見もあるだろうが、この東響の定期で決定的に実感した。ブルックナー演奏の深層部に衝撃を与える出来事だと思った。「神的なるもの」を言葉で説明するのは難しい。それは魂に由来するもので、同根の魂でなければ夢か譫言のようにしか聞こえないからだ。言葉が煩瑣になりすぎないように工夫しなければならないが…ブルックナーと飯守先生の「同じ魂」が音楽をともに創造し、それは国籍など全く関係のないことであった。指揮者は寡黙な後ろ姿で、言い訳をしない。喝采を受けて振り向いた飯守先生は聖なる人で、目の錯覚でも何でもなく神々しかった。この世にこんなに美しい人がいるのかと驚き、拍手を止めることが出来なかった。