小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

エリアフ・インバル×東京都交響楽団

2024-02-22 09:39:23 | クラシック音楽
2月は桂冠指揮者インバルと都響の黄金月間。2/11のプロムナードコンサート(コンサートマスター山本友重さん)では、ブラームス、ベートーヴェン、ドヴォルザークが演奏されたが、ベートーヴェンとドヴォルザークのシンフォニーはいずれも8番で、2/16に88歳となる指揮者自身のユーモアが感じられる選曲。8は「無限大=∞」であり、2024年のカバラ数秘の数である。
ブラームス「大学祝典序曲」から、インバル独特の高遠なスケール感を体感する。音が無闇に前に飛んでこない、音楽全体が彼方に見える巨大な城のようで、そのせいで色彩感もグレーやブラウンが優勢な歴史画のように感じられる。大編成のオーケストラはベートーヴェンの8番も素晴らしく演奏し、先日の山田和樹さんと読響の2番からも感じたが、ベートーヴェンは必ずしも古典的な編成にこだわらず、モダンに演奏したほうが曲の神髄が伝わるのではないかと考えさせられた。
ベートーヴェンの8番の特異さは、植物的な構造にある。主題がはっきりせず、小さな動きがやがて大きな波を引き起こす。こつこつ生きてきた庶民が勝利する市民革命のようだ。同じ部屋に置かれた観葉植物の鉢は、害虫などの敵の危機をテレパシーで伝え合う。そのことで葉から毒を発したりして身を守るのだが、恐竜のような存在から身を守る小動物の賢さも同じで、「英雄(脅威)なき世界で、小さな者はいつしか勝利して生き残る」という含みが込められた曲だと受け取った。都響のパスワークが秀逸で、まめまめしい弦の動きが、ミニマルミュージックを奏でているようで、奇妙にデジタルな感覚もあり、インバルは飄々と確信をもって音楽をまとめていく。
後半のドヴォルザーク8番は曲そのものが祝祭的な魅力に溢れていて、指揮者88歳の記念にぴったり。4楽章は飲めや騒げやの饗宴で、半音階ずつフレーズがずり下がっていく部分が特に酩酊的だった。ボヘミアの酒場の音楽の名残りなのか、一瞬マーラーを連想する節も。終わりの一音までインバルの指揮は切れ味があり、かっこよかった。

インバルの魅力を語るには、膨大な教養がなければならないと痛感したのが2/16の定期公演B(コンマスは同じく山本友重さん)で、二日間サントリーで演奏されたうちの初日を聴いたが、客席で聴いている自分の知性の足りないことに冷っとした。前半のショスタコーヴィチ『交響曲第9番』は、指揮台のインバルがおもちゃで遊ぶ子供に見え、新聞紙で作った兜と刀で戦争ごっこをしているような面白すぎる指揮だった。ソ連が勝利したときに作られた曲で、この日のプログラムにも毒のある含みがあることは明白だった。
後半のバーンスタイン『交響曲第3番《カディッシュ》』は10年前にも都響とインバルで聴いていたが、今よりさらに過去の自分の耳はふし穴で、何も聴いていなかったと思う。2024年のカディッシュは痛切で、21世紀の戦争の時代に聴くせいか、膨大な抑圧の歴史のフラストレーションが爆発したシリアスで黙示録的な曲に思われた。「語り」が重要な役割を果たし、この役を務めることを許されたジェイ・レディモアが勇敢な声でテキストを語った。神に対してこの世の矛盾を容赦なく問う内容で、原典版のバーンスタインによるオリジナル稿が採用された。すごい。痛みが全身に走る。音楽も容赦ないが、怒気を含んだ言葉の威力が凄すぎて、音楽の細部を記憶する余裕がなくなった。インバルは淡々と指揮していたように思う。バーンスタインとインバルのユダヤ性、「故郷なき者」の寄る辺なさ、その中でエリートとして生きる困難…などを思ったが、やはり全然自分の頭では理解が足りない。この日の聴衆は何を感じただろうか? 日本人であるということは、「カディッシュ」が掘り下げようとしていることとはかけ離れた安穏に守られているが、宗教的に過度にニュートラルである日本人がこの苦しみを理解しようとすることは、意味のないことではない。
ソプラノの冨平安希子さんの声がいつもと違う神聖さを帯びていて、姿も女神のようでただただ神々しかった。別の星からやってきた存在のようだった。霊性を感じさせる新国立劇場合唱団、難しい合唱をパーフェクトにこなした東京少年少女合唱隊に感謝。子供たちがあのような世界に真剣に取り組むというのはどのような体験だろうか。果てしないものを感じた。

インバルという大宇宙のような、ブラックホールのような、寛大でもあり手厳しくもある存在を、なぜかこの上なく親しく感じた。インバルはその場の嘘を明るみに出してしまうような、あっけらかんとした率直さを音楽で示す人物で、そこには暗鬱さより明るさ、シリアスさよりユーモアを感じる。世界と宇宙の凄いゼロ地点を知っている人で「この世は生きるに値するか否か」を始終考察している。命を与えられたから五感を解放して面白おかしく生きよう、なんて表現は愚劣だ。指揮者は自分と世界の間に横たわる矛盾について考え、「もしかしたら生きる価値などない世界なのかもしれない」という危機感とともに生きている。「カディッシュ」の精神性を受け取るためには、リベラルアーツ的な迂回路が必要であり、もしかしたら日本の批評に欠けている部分なのではないかと思った。インバルと都響の共演は、マーラー10番が残っている(2/22,2/23)。


(2/16インバル氏88歳誕生日の公演後に)



パリ・オペラ座バレエ団『マノン』(2/17夜公演)

2024-02-18 11:25:14 | バレエ
来日中のパリ・オペラ座バレエ団の『マノン』の2/17ソワレを鑑賞。マクミラン振付の『マノン』はパトリック・デュポン監督時代にオペラ座で初めて上演され、その公演にはマクミランも招聘されたが、振付家の死の二年前(1990年)のことだった。2022年には『マイヤーリング』もオペラ座のレパートリーになっており、オペラ座でのマクミラン再評価が高まっていると感じた。

幕が開くと、マノンの兄のレスコーがスポットライトを浴びて、いわくありげな表情でこちらを見つめている。最初に観客の目に入るのはマノンでもデ・グリューでもなくレスコーである。この人物の邪悪さと軽率さが物語のさまざまな悲劇を生むのだが、舞台を行き交う娼婦や物乞い、好色な金持ちたちも潜在的な不運を加速させる。ニコラス・ジョージアディスの装置は奥に幾重もの闇を感じさせる重層的な作りで、衣装は全員を見るのが大変なほど豪華で華麗。着飾った女性たちのドレスは18世紀後半の最も華やかなスタイルで、照明が当たっていないダンサーも見事な衣裳をまとっていた。娼婦たちにも階級があり、貧しい娼婦はそれに似合った格好をして快活に踊る。男たちもさまざまで、怪しい紳士、物乞い、スリ、ネズミ捕りが往来する。
その中で、一人だけ純粋で高貴な人間としてたたずんでいるのがデ・グリューで、えも言われぬ上品な姿勢で本を読んでいるエトワールのユーゴ・マルシャンが、「掃き溜めの鶴」ならぬ白鳥に見えた。主役のマノンは今やベテランの域に達したドロテ・ジルベール。可愛い脇役の小娘を演じていた頃から彼女が大好きだったが、16歳のマノン役も登場のシーンは初々しい。デ・グリューとマノンの視線はなかなか合わない。群衆の中で二人がお互いを意識するまで、マクミランはじりじりと観客をじらす。

プッチーニのオペラ『マノン・レスコー』なら、有名な「見たこともない美女」が流れてくるところだが、バレエ版ではマスネの曲が使われ、それもマスネのオペラ『マノン』ではなく、「あまり知られていないマスネの曲」で構成されている。物語はプッチーニ・オペラが参照されているが(ニコラス・ジョージアディスの提案だった)、著作権が切れていなかったのでプッチーニは使えない。クランコが『オネーギン』でチャイコフスキー・オペラを使いたいのに使えなかった苦労を、マクミランも経験したのだ。しかし、マスネの小曲群はバレエで素晴らしい効果を発揮し、特にハープ二台をピットに入れたこの公演でのオーケストラは素晴らしかった。東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団を指揮したピエール・デュムソーは天才的で、すべて暗譜で振っていたという。

ドロテ・ジルベールのマノンとユーゴ・マルシャンのデ・グリューは究極のカップルで、過去のガラ公演で『寝室のパ・ド・ドゥ』を観たときも感動したが、全幕で観るとハイライトのときよりも淡々としている。演技が大げさではなく、もっとハイセンスで秘めたものを感じさせるのだ。マノンに愛を告白する長いデ・グリューの最初のソロは、ダンサーにとって大変緊張するシーンだと思う。クラシック・バレエの技術の正確さが厳密に認められ、男性ダンサーに視線が一気に集中して、他に気を散らしてくれるものがない。ユーゴの白鳥のような優雅さと美しさに目を奪われた。自由で躍動的で、何物にもとらわれない。今活躍している男性ダンサーの中で一番美しいのではないかとさえ思った。

ドロテは踊りに潔さがあり、マノンのような若い役が似合うのも、彼女の中にやんちゃな少年性があるからだろう。一方ユーゴには、恥じらう乙女のような可憐さがある。と言っても本人には何のことか分からないだろうが、客席からステージを見ていると、物理的世界とは違うもうひとつの次元が見えてくることがある。マクミランはそこにこだわった。マノンとデ・グリューの引き合う心には神秘的な魔法が働いている。『寝室のパ・ド・ドゥ』はやはり名場面で、殊更大きな喝采が湧き起こった。

マノンが簡単に心変わりし、厚化粧の老ムッシューに身を売る場面も自然だった。ドロテは『オネーギン』のタチヤーナを演じたときも独特の解釈だったが、マノンもユニークで、自分自身は過剰な心理表現をせず、妹を売ろうとする兄の邪悪さや、毛皮や宝石の輝かしさにものを言わせる。マノンは社会的な犠牲者であり、「空っぽ」であればそれで完璧なのだ。ほとんど表情を変えずに、デ・グリューとの愛を放棄する成り行きは見事で、兄レスコーと老ムッシューと三人で踊るパ・ド・トロワは、マクミランのグロテスクな一面が溢れ出していた。

『マノン』のバレエの根底に流れているのは、ジョージアディスの美術に表れているような「貧困」であり、大多数の人間たちが抱いている貧困(やがて死に行きつく)への恐れである。マクミラン自身が、貧しい階層の出目であり、その上酷い舞台恐怖症だった。マノンは生存するために愛を捨て、その時代の大多数の人々が選ぶように金を選ぶ。そこに「仕方ない」という力学が働き、逃げたマノンを追いかけようとするデ・グリューの首根っこをつかまえたレスコーは、一幕の最後に「金がすべてだって、わかんないのか!」と純情な友人を恐喝する。
2幕の高級娼家でのシーンで、マノンが大勢の男性たちと戯れるようにアクロバティックな動きを見せる件は圧巻である。マノンは男たちの欲望に突き動かされ、欲望は金で満たそうとし、若くて美しい女は自分に無際限な富が流れ込んでくることがギャンブルのように愉快なのだ。少年が残酷な遊びに耽るように、マノンは玩具になった自分を楽しむ。

この高級娼家での乱痴気騒ぎ(?)はことのほか長く感じられた。マノンを目で追い、接近を試みようとするデ・グリューに完全に感情移入してしまったからだ。心で通じ合ったはずのマノンが「私はあなたが見えないのです」「私もここにいません」という態度で、男たちと悪ふざけをしている。自分自身が透明人間になってしまったかのようで、ちょっかいを出してくる娼婦たちもそのうち諦めて、側を離れていく。同じ空間にいながら、違う意識を生きていると相手はこちらを「見えていません」と言う。生きた心地がしないデ・グリューからずっと目が離せなかった。

高級娼婦たちを演じたオペラ座の女性ダンサーと、マダム役のアデライド・ブコーが艶やか。一人「ズボン役」の女性ダンサーがいたが、男装の娼婦という設定らしい。愛を思い出したマノンはデ・グリューの下宿に戻るが、束の間の逢瀬のあと、乱入してくる近衛兵たちと、老ムッシューに銃殺されるレスコーの描写が恐ろしかった。オペラではレスコーのこの場面はなかったように記憶している。

3幕は約25分と短いが、ここにマクミランのすべてが集約されている。生前は毀誉褒貶が激しかったマクミランだが、こういう世界を描いてしまったら、建前主義の良識派は当然激昂しただろう。マノンとデ・グリューの流刑地となったニューオーリンズで、娼婦たち(?)は髪を短く刈られ、僻地勤務の看守は好き放題な暴力を働く。ざんぎり頭の女たちの顔を一人一人確かめて、遊び相手を選ぶ兵士たちの様子は、毎回胸をかき乱される。昨今のデリカシーでは難しいのではないか、と思っていたマノンへの暴力シーンも、これを抜いたらマクミランではない、と言わんばかりにしっかりと演じられていた。
最下層の存在となり、文字通り男の玩具となったマノンが「モノ」のように看守と踊る振付は「これがバレエだなんて」と思うほど特異で、ここまで人間を深堀りしてしまったマクミランは、自分の才能で自分の首を絞めていた。極北の芸術家であり、異能の人であった、と再認識した。
奇異な植物(スパニッシュ・モスと呼ぶらしい)が縄のようにぶら下がるラスト近くでは、これまでの登場人物が幻影のように現れる。マクミランはバレエで、オペラを超えようとしていたのか。これほどの場面は、どんなオペラにもなかなか巻き起こらない。沼地のパ・ド・ドゥはリフトも高く、ダンサーの危険度も最高潮に達するが、オペラ座のペアは最後までパーフェクトで、ピットの音楽も神懸かり的に高まった。マクミランのミューズの一人であったアレッサンドラ・フェリが一度引退を決めたとき(2007年)フェアウェル公演のラストでこの沼地のパ・ド・ドゥを踊ったのを思い出した。ざんぎりヘアで紙吹雪を浴びる姿が再び脳裏に蘇った。

今回の来日公演はジョゼ・マルティネスの監督のもとで行われた「新体制」の公演だったが、ダンサーのキャスティングは適格で、前半の『白鳥の湖』では確実に何かが新しくなっているのだろうと思わせた(こちらの公演は観ていないが新鮮な人選)。前回のパリオペ来日公演はコロナ禍の規制と規制の間を縫って奇蹟的に実現したものだったが、オペラ座はつねに奇蹟を見せてくれる。ドロテとユーゴの黄金コンビの頂点をこの作品で観られた観客は、後々「奇蹟だった」と思い返すことになるかも知れない。