小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

東京都交響楽団×アラン・ギルバート(7/25)

2022-07-26 16:52:26 | クラシック音楽
先週の都響スペシャルに続いて、アラン・ギルバート指揮・都響の定期演奏会をサントリーホールで聴く。モーツァルトの交響曲第39番・第40番、休憩をはさんで第41番《ジュピター》。コンサートマスターは矢部達哉さん。
マケラ指揮のマーラーで都響の大編成に痺れた後だったが、モーツァルトで小編成となったオケは逆に新鮮に感じられた。指揮台もなし。アラン・ギルバートも黒いシャツ姿でくつろいだ雰囲気で登場し、顔を見るたびに「この人は気難しいのだろうか、優しい人なのだろうか」と色々考えてしまうが、この日は哲学者のようなオーラが感じられた。
「交響曲第39番」のアダージョは音量控え目で、シックで上品な質感の、高級糸で織り上げられた服地を思わせる音楽だった。木管が物凄く丁寧に塗り重ねられていて、打楽器も脅かすようなところが一切なく、とても秘められたものを感じさせた。特に面白味を引き出そうとしているような力みは一切なく、雫が自然に落下するように雅やかで美しいことが次々と起こる。

「アラン・ギルバートは正統派だし」と咄嗟につまらないことを言いそうになったが、聴けば聴くほど保守的な音楽などではなかった。真面目なモーツァルトほどつまらないものはない。真面目にやらなければ古典派の謹厳な様式感は出ないのかも知れないが、例えば『コジ・ファン・トゥッテ』のようなおかしな話を、歌手もオケも200%真面目にやっている舞台は、今の自分には堅苦しすぎて見続けることは出来ないのだ。
真面目なモーツァルトを何故聞きたくないのかというと、「生きねばならぬ」という古い時代の重力が、音楽の艶や輝きを殺してしまうから。都響とアランのモーツァルトは、淡々としているようで、哄笑的な何か、きわどいほど艶麗で危険な何かを孕んでいた。そもそもなぜモーツァルトの、ある時代にさらさらと書かれた3つのシンフォニーを一夜で演奏しようとしたのか。

39番、40番、41番の交響曲は、何かが異常だ。天才の中の霊感が電気のように疼いている時期に、人間の力だけではない、突然降ってきた宇宙感覚とともに書かれたとしか思えない。なぜこの持続が、次の位相へつながっていくのか…ぼうっとして聴いていれば心地よい「流れ」に身を任せられるが、ひしめているエネルギーは不穏だ。

40番はほぼ狂気から出来上がっている。誰もが知る名曲で、こんないたずらを残していったモーツァルトは正真正銘の宇宙人だと思う。噓泣きのようなセレナーデ風のメロディから始まって、音楽はどんどん不可解になっていく。この曲が女性なら、こんな相手を愛した男性は水中にいるみたいに息が出来なくなってしまうだろう。わけがわからない。その微笑みはなんなのか、媚態なのか拒絶なのか、答えのない問いのような音楽で、精巧な音の細工の全体が表しているのは、まさに高度な「遊び」なのだ。

個人的に好みの曲のせいもあるが、指揮者は特に40番で楽しそうに見えた。しかじかの瞬間に起こる狂気を、とても理性的に推進させていた。都響は指揮者の最も知的でユーモラスな部分と通じ合っていたと思う。ギルバートと都響なのだから、細かなディスカッションというよりテレパシーで作っていたのかも知れない。

束の間のなぐさめのような、子供の隠れん坊みたいなアンダンテと。ドンナ・エルヴィーラのヒステリーのような四角張ったメヌエットの後、再び狂気が爆発する。
遊ぶことや駆け引きが苦しくなって、死ぬのは馬鹿げている。モーツァルトも死んでしまったし、人は誰でも死ぬのだから、本気で遊んで狂うべきで、そこに生きることの新しい可能性がある。
第4楽章の構造的な「とんでもなさ」は、バーンスタインが1973年に収録したハーバード大学のレクチャーで何度も反芻していた。53歳のマエストロは、エリート学生たちを前にして、この4楽章がいかに無意味なモティーフの乱入によって活き活きとするかを説いていた。
 アラン・ギルバートは、ときどきバーンスタインとイメージが重なることがある。ニューヨーク・フィルというオーケストラは、何か特別な人を引き付ける場所なのかも知れない。
 バーンスタインが、うぶな娘のようにキャッキャと驚愕していた箇所も、ギルバートは日常茶飯事のように見事に、平然と振る。バーンスタインは実際、マーラー悲劇的を泣きながら振ったりして、とてもうぶな人なのだ。ギルバートのほうが魂的に「悪女」なのである。

なぜだろう。先日の都響スペシャルの「チック・クリアに捧ぐ」でも、バーンスタインのことを思い出した。全く違うけれど、何かが似ている。バーンスタインも、アラン・ギルバートのように音楽をしたかったのかも知れない。素敵なミュージカルも書いたけれど、何かを証明するために晦渋な曲も残した。バーンスタインが生きた時代は「生きねばならない」時代であり、強く生きるためにウイスキーと煙草の力を借りて無茶な創作をし、もっと生きられたかも知れない命を縮めてしまった。

休憩の後の『ジュピター』も名演だったが、客席にいて、40番にすべて搾り取られてしまった。あんな魔性のシンフォニーってあるだろうか…。それでもやはり『ジュピター』も名曲で、好色な木星王が金の雨になって女神の寝室に行くような、風船のように膨張していくカラフルなストーリーが目に浮かんだ。木星はガスの惑星で、占星術では歓喜と楽観のシンボルで、射手座と魚座の守護星。メシアンは自分が射手座であることを気に入って「射手座」という曲を書いた。アラン・ギルバートは魚座で、彼にとっても木星は頭の上がらない天体…と、クラシックファンにとってはどうでもいいことなども考える。
「生きねばならない」重苦しい時代から、遊ぶようにただ輝く時代へと進むトンネルのような、7月下旬のコンサートだった。
















二期会『パルジファル』(7/13)

2022-07-15 16:37:39 | オペラ
二期会『パルジファル』のプレミエを東京文化会館で鑑賞。宮本亞門演出・フランス国立ラン歌劇場との共同制作。
歌手、合唱、演出、オーケストラすべてが最初から最後まで完璧で、奇跡的な上演だった。不安定な天候のせいで体調が今一つだったこの日、パルジファル全幕を最後まで観られるかどうか不安もあったが、歌と音楽と演劇に全細胞を癒され、涙し、浄化されてホールを後にした。この酷い現実に平気なふりをして生きていかなければならない現代人は、すべて今回の『パルジファル』を観るべきだと思う。

亞門さんの最近のオペラ演出では定番の、登場人物の分身としての黙役が登場し、パルジファルの(さらに若い)少年時代を演じる子役がたくさんのことを演じる。7/13のパルジファルは福井敬さんで、福井さんも10代の少年のように若く見えた。ワーグナーを歌うとは、威嚇的に張り上げて歌うことではなく、演劇的な内容をともなった歌唱を聴かせることだと福井さんからまたしても学ぶ。美術館を思わせる装置、たくさんのキリストやマグダラのマリアの絵画、類人猿の大きな標本など、最初は「これらは何を示しているの?」と違和感があったものの、すぐに心が納得した。パルジファルは、どこかの秘密結社のやばいオペラなんかではない。頭で理解しようとすればするほど、本筋から外れる。心で感じるべき楽劇なのだと思った。

アムフォルタス黒田博さんは、10年前の二期会の上演でも同役で、10年前にもこんな痛々しい「存在」がオペラの世界にはあるのかと驚愕したが、亞門演出ではいよいよ殉教者かいまわの際の重病人のようで、元々美しい面立ちの方なので、本物のキリストのように見えた。先日の「フィルスタッフ」はヴェルディの最後の作だが、「パルジファル」はワーグナーの最後の作。想像界の最終的な姿を演じることが出来るすごい歌手であり役者であると再認識した。そこにいるだけで、深い。歌手としての器が果てしなく大きいのだ。

クンドリ田崎尚美さんは、こんなに美しいクンドリがいるのだろうかと世界中の歌劇場に自慢したくなるような輝かしさで、重く沈痛な役を観たことのない妖艶な姿で歌った。以前演じられたゼンタやエリーザベトの面影をクンドリに投影してしまうという、不思議な見方をしてしまったが、田崎さんがクンドリを演じることは、運命にセットされていたことだと思う。ものすごく「選ばれて」舞台の上にいた。クンドリという存在は謎であり、自然霊の一部のようでもあり、クリングゾルの傀儡として登場するが、アムフォルタスの分身のようでもある。
クンドリがパルジファルに母を思い出せつつ、誘惑に失敗する場面は、観ていてかつてないほど滂沱の涙に溢れた。「お前に逃げ道はない。すべての道を封じてやる」というクンドリの歌詞が、呪詛というより自己崩壊すれすれの嘆きに聴こえたのは衝撃的だった。

現代の子供のようなパルジファルの姿と、タロットカードの図案のような古代の人々との装束が不思議と自然に共存していた。
3幕はもう、目を開けていることが出来なかった。荒地のような姿で現れたパルジファルの足をクンドリが洗う。アロマの精油を垂らすような仕草。歌手のマドンナが「本名のミドルネームのヴェロニクは、キリストの足を洗った女性の名前」と語っていたことを思い出した。救世主として選ばれたパルジファルの背後には、ゴリラがいる。黙ってゴリラがそこにいるだけで、涙腺が決壊した。何が嘘で何が茶番なのか、ゴリラがすべてを語っていて、このゴリラは天に指をさして洗礼者ヨハネのポーズまでとる。着ぐるみの中の人にお礼を言いたくなった。

クンドリは宙に浮かんで消えていくのだが、この場面は演出の離れ業で、ワーグナーのスコアをただ崇拝しているだけでは出てこない。
亞門さんは、ワーグナーを友達のように感じ、生きてオペラに関係している人たちの痛みや苦しみと、ワーグナーの生きた苦しみをつなげてループにする。オペラは人間の痛みで、愛の痛みで、その傷口を押し広げることで価値が生まれる。演出の正解とは、自分の愛を信じることにのみよって出せるものではないのだろうか。知識や知恵の力比べを超えて、巨大な愛は立ち現れる。

福井さん、田崎さん、黒田さん、全員が「これは果たして演じているということなのだろうか」と思えるほど、破壊的で衝撃的な歌声を聴かせる箇所があり、それぞれが抱えている人生の痛みのようなものを感じた。自分は奇跡を見ているのだ。大きく映し出される地球の映像に飲み込まれるように、彼らと同じ星にいる一体感に包まれた。
ワーグナーの音楽が、これほどまでに魅力的であることも驚きで、一秒一秒の響きに溺れそうなほど陶酔的だった。
ヴァイグレと読響は、夏至の前に二回の素晴らしいコンサートを聴かせ、ドヴォルザークの『交響曲第8番』の最終楽章では、愛のような恋のような祝福の響きに「夏の夜の夢のようだ」と思わずにはいられなかった。歌劇場のマスターであるヴァイグレは、自分の評価や建前なんかどうでもいい、オペラとシンフォニーの愛を伝えることこそが指揮者の使命だと知っている。
パルジファルが宇宙的な愛のオペラであり、未来に向かって開かれている物語だと知った貴重な初日だった。

グルネマンツ役の加藤宏隆さんの実力を改めて知る上演でもあった。バス・バリトンでいくつもの上演を拝見してきたが、貴重な屋台骨であり、根強い存在感がある。『パルジファル』の濃い登場人物の中で、渋い優しさを発揮されていて、初日組のアンサンブルを完璧なものにしていたと思う。16日にも同キャストで公演が行われる。