バーミンガム市交響楽団の日本ツアーの最終日(7/6)みなとみらいホールでの公演を鑑賞。開演前に音楽監督の山田和樹さんのプレトークがあり、飄々と登場した山田さんの第一声が「バーミンガム市交響楽団は破産しています! バーミンガム市からの補助金はゼロです!」続いて「でもみんなすごく頑張っています! 演奏が終わると雄叫びが起こります。おとなしかった1stヴァイオリンも最近はすごいです」とユーモア満載。山田さんの単独の記者会見のときにもこの話題があったが、実のところ笑い話ではなく本当に深刻で大変な状況なのだろう。企業や個人のスポンサーで成り立っているのだろうか。日本ツアーを実現してくれた日本のスポンサーには頭が上がらない。
登場したオーケストラのメンバーは全員が役者のようで、美女とかハンサムとかいうことではなく、みんな昨日今日のことではない(?)音楽家のオーラをまとっていて「先祖代々からのDNAは濃い!」という雰囲気。飲み会は100%参加で、山田さんが「オーケストラが望むことは?」と楽員さんたちに聞いたときに「more party!(もっと宴会を!)」と返ってきたそうだが、そうした陽気さの裏側に、おそらく凄いプロ意識と誇りを持っている。
マエストロ18番のラヴェル『ラ・ヴァルス』からスタート。何が始まったんだ…? と一瞬道に迷いこんだかのような感覚。管楽器や色々な楽器が野蛮で動物のいななきのような音を鳴らし、てんでばらばらな音のパズルが宙を舞ったが、弦とハープが夢のように上品なパッセージを奏で始めると、全員がそれに染まってエレガントに変身し、一気にオーロラ色のボールルームが現れた。ラヴェルの奇想、お洒落さ、無限のすべてが脈打っている。一筋縄ではいかない企みをもったサウンドは、終盤近くではカオスそのものになり、世にも奇妙な終わり方で息絶える。山田さんの魔術師ぶりにオケもすっかり魅了されているといった感じだ。「今まで我々をそんなところへ連れて行ってくれた指揮者はいなかったよ!」という驚嘆の声が聞こえてくるよう。宇宙発生の瞬間を聴いているような、果てしないところからやってきて去って行ったラ・ヴァルスだった。
ラフマニノフ『ピアノ協奏曲第4番』では21歳のピアニスト、イム・ユンチャンが登場。東京公演では韓国から彼のファンが大勢来ていたらしいが、みなとみらいではだいぶ落ち着いていた。それでも山田さんが振るBBCプロムスのチケット7千枚は、ユンチャンが出演することもあってあっという間に売り切れたという。ユンチャンは前回見たときより前髪が重そうで、鍵盤がちゃんと見えるか心配したが、タッチは深遠で技術も相変わらず凄い。4番のコンチェルトはラフマニノフ自身が長年の沈黙を破って書いた曲で、最初の稿が完成したのが1926年。ヨーロッパでは無調が主流だった頃に、ラフマニノフは調性はなくさず、冒険的な和声をふんだんに使いつつも、主にリズムの面で前衛的な冒険をしている。ラフマニノフの作曲には「ダンス」と「飛行」の感覚が潜在的にある、というのは自分の自論だが、Pコン4番の飛行感覚は一番現代的でスタイリッシュなのだ。いくつもの扉を開けて次の世界へ進んでいくような曲で、位相が変わる時にポイントとなっていく踊り場のような音があるのだが、その音が神秘的で、奏者にどのように指定して、どのように楽器と楽器でブレンドしているのか客席にいる自分には分からないのだ。
「映画音楽だ」というのが昔からラフマニノフのアンチが言う台詞だが、「ピアノ協奏曲第4番」は21世紀の映画音楽を先取りしていたと思う。スピーディに楽想やリズムが変わり、ある種のコラージュ感覚やデジタル感覚も有している。
ラフマニノフの曲は音が多いということで、何人かのピアニストはわざわざ譜面にいくつ音符が書かれているのか数えてみたりするが、イム・ユンチャンが少し考えこんでからアンコールに選んだのは、「とても音が少ない」バッハの『ゴルトベルク変奏曲』の13変奏曲だった。ぽつりぽつりと雨だれのような無垢な音が鍵盤から響き、似た音形が何度も繰り返されるのでオルゴールを聴いているような感じ。楽員たちがしみじみと尊敬の目でピアニストのアンコールを聞いている顔が忘れられない。
休憩をはさんでのチャイコフスキー『交響曲第5番』。話題になっていた別プロの『展覧会の絵』も聴きたかったが、チャイ5も充分に素晴らしく、最後の交響曲である6番と同じくらい死の気配がした。アンダンテ楽章の陰気なパッセージが、いきなり蘇生して木管と弦の生き生きとした春の情景になっていくくだり、そこから決起して戦闘的に展開していくところなど、大変悲劇的で臓腑に沁みる。
山田さんはこの曲にどんな「理想」の指揮を思い描いていたのか。指揮者一人の理想よりも、このオーケストラのメンバーがどのように自発的でクリエイティヴな合奏をしてくれるか、無限の自由を与えた上で一緒に作っていこうとしたのではないか。楽員のみんなは全員、マエストロから「おはよう◎◎◎!!」と名前を呼ばれているはずで、一人一人の演奏の特徴もマエストロは恐らく完璧に把握している。そこで各々に曲にふさわしい音を探させる。あるいは合奏で自然にそういう音が出る。そう想像した。
楽員は百戦錬磨で、歴代の首席からゲストまで色々な指揮者のスタイルを知っているし、過去の指揮者のスタイルも現代では簡単に映像で見ることが出来る。
ヤマカズのチャイコは、どこかのオケでもやってきた使いまわしでもなければ、誰かの真似でもない。バーミンガムのオケのためのオーダーメイドなスタイルで、生きた楽員が参加して初めて成立する。
そうした「自分たちのためのオリジナル指揮」に対して、プレイヤーが嬉しく思わないはずがない。一曲目からオケ全員が「あなたと演奏できるのが嬉しい!」というまぶしい「気」を放っていた。
オケが歓喜の状態で演奏している様子は、「嗅覚」のようなもので分かる。もっとも嗅覚とは比喩で、実際は聴覚なのだが、一節の音が消えていく余韻の中に、楽器奏者の気分やマエストロへの感情が正直に聞こえてくる。世界の一流オケだから必ず聴こえてくるというわけでもなく、その場の状況次第で、まったく心がひとつになっていない時のウィーン・フィルの来日公演というのもかつて聴いたことがあるが(指揮者のティーレマンがコンマスの機嫌ばかりとり、2ndヴァイオリン側は冷めきっていた)、ほとんど感動できなかった。
「財政難でもみんな元気」というオケの気分を作り出しているのは救世主が現れたからで、山田さんはメシアでありアイドルなのだと思った。世界的に多忙な指揮者であることは皆知っている。そんなカリスマが、自分たちの現場では自分たちのオケでしか鳴らせない最高の音楽作りをしてくれる。まず人間ありきの指揮。ここまで徹底しているのは、「発明」といつていいレベルだ。コペルニクス的転回である。
最終日はスペシャルアンコールで2曲。一曲目をアシスタント指揮者の伊東新之助さんが振り、ウォルトンの戴冠行進曲「宝玉と王のつえ」が演奏されたが、輝くような笑顔で大きく振っている伊東君は鳥のように躍動していて、そのまま天井に向かって飛翔していくのではないかと思われた。楽員のみんなも彼に負けずニコニコしている。続いてヤマカズによる大ラスト、エルガー『威風堂々』では、涙が止まらず溢れてきて、あの陽気なメロディを聴いて顔中が大洪水になっている自分が可笑しかった。
確かに、オケのメンバーは叫んでいた。マエストロがセクションごとに起立させると、拍手の渦の中に叫んでいるような声が聞こえる。あの声はきっと、子孫が幸せな様子を見に来たご先祖たちが一緒に叫んでいるのだ。何千もの英国の魂が「うおー」と叫んでいるようだった。このような感想はだいたい馬鹿にされるが、あと30年か100年経ったら理解してもらえると思う。
「日本人は他の国の指揮者と違って体つきからして体力がない。繊細さや機知で勝負していくしかない」とかつて語っていた山田さん。なんの、すごい体力で最後のチャイコフスキーまで振っていたし、オケの勢いを牽引するパワーも大柄な西洋人に全く劣らない。
「最高の指揮者とは、オーケストラのアイドルであることだ」それを確信したツアー最終日のコンサートだった。

登場したオーケストラのメンバーは全員が役者のようで、美女とかハンサムとかいうことではなく、みんな昨日今日のことではない(?)音楽家のオーラをまとっていて「先祖代々からのDNAは濃い!」という雰囲気。飲み会は100%参加で、山田さんが「オーケストラが望むことは?」と楽員さんたちに聞いたときに「more party!(もっと宴会を!)」と返ってきたそうだが、そうした陽気さの裏側に、おそらく凄いプロ意識と誇りを持っている。
マエストロ18番のラヴェル『ラ・ヴァルス』からスタート。何が始まったんだ…? と一瞬道に迷いこんだかのような感覚。管楽器や色々な楽器が野蛮で動物のいななきのような音を鳴らし、てんでばらばらな音のパズルが宙を舞ったが、弦とハープが夢のように上品なパッセージを奏で始めると、全員がそれに染まってエレガントに変身し、一気にオーロラ色のボールルームが現れた。ラヴェルの奇想、お洒落さ、無限のすべてが脈打っている。一筋縄ではいかない企みをもったサウンドは、終盤近くではカオスそのものになり、世にも奇妙な終わり方で息絶える。山田さんの魔術師ぶりにオケもすっかり魅了されているといった感じだ。「今まで我々をそんなところへ連れて行ってくれた指揮者はいなかったよ!」という驚嘆の声が聞こえてくるよう。宇宙発生の瞬間を聴いているような、果てしないところからやってきて去って行ったラ・ヴァルスだった。
ラフマニノフ『ピアノ協奏曲第4番』では21歳のピアニスト、イム・ユンチャンが登場。東京公演では韓国から彼のファンが大勢来ていたらしいが、みなとみらいではだいぶ落ち着いていた。それでも山田さんが振るBBCプロムスのチケット7千枚は、ユンチャンが出演することもあってあっという間に売り切れたという。ユンチャンは前回見たときより前髪が重そうで、鍵盤がちゃんと見えるか心配したが、タッチは深遠で技術も相変わらず凄い。4番のコンチェルトはラフマニノフ自身が長年の沈黙を破って書いた曲で、最初の稿が完成したのが1926年。ヨーロッパでは無調が主流だった頃に、ラフマニノフは調性はなくさず、冒険的な和声をふんだんに使いつつも、主にリズムの面で前衛的な冒険をしている。ラフマニノフの作曲には「ダンス」と「飛行」の感覚が潜在的にある、というのは自分の自論だが、Pコン4番の飛行感覚は一番現代的でスタイリッシュなのだ。いくつもの扉を開けて次の世界へ進んでいくような曲で、位相が変わる時にポイントとなっていく踊り場のような音があるのだが、その音が神秘的で、奏者にどのように指定して、どのように楽器と楽器でブレンドしているのか客席にいる自分には分からないのだ。
「映画音楽だ」というのが昔からラフマニノフのアンチが言う台詞だが、「ピアノ協奏曲第4番」は21世紀の映画音楽を先取りしていたと思う。スピーディに楽想やリズムが変わり、ある種のコラージュ感覚やデジタル感覚も有している。
ラフマニノフの曲は音が多いということで、何人かのピアニストはわざわざ譜面にいくつ音符が書かれているのか数えてみたりするが、イム・ユンチャンが少し考えこんでからアンコールに選んだのは、「とても音が少ない」バッハの『ゴルトベルク変奏曲』の13変奏曲だった。ぽつりぽつりと雨だれのような無垢な音が鍵盤から響き、似た音形が何度も繰り返されるのでオルゴールを聴いているような感じ。楽員たちがしみじみと尊敬の目でピアニストのアンコールを聞いている顔が忘れられない。
休憩をはさんでのチャイコフスキー『交響曲第5番』。話題になっていた別プロの『展覧会の絵』も聴きたかったが、チャイ5も充分に素晴らしく、最後の交響曲である6番と同じくらい死の気配がした。アンダンテ楽章の陰気なパッセージが、いきなり蘇生して木管と弦の生き生きとした春の情景になっていくくだり、そこから決起して戦闘的に展開していくところなど、大変悲劇的で臓腑に沁みる。
山田さんはこの曲にどんな「理想」の指揮を思い描いていたのか。指揮者一人の理想よりも、このオーケストラのメンバーがどのように自発的でクリエイティヴな合奏をしてくれるか、無限の自由を与えた上で一緒に作っていこうとしたのではないか。楽員のみんなは全員、マエストロから「おはよう◎◎◎!!」と名前を呼ばれているはずで、一人一人の演奏の特徴もマエストロは恐らく完璧に把握している。そこで各々に曲にふさわしい音を探させる。あるいは合奏で自然にそういう音が出る。そう想像した。
楽員は百戦錬磨で、歴代の首席からゲストまで色々な指揮者のスタイルを知っているし、過去の指揮者のスタイルも現代では簡単に映像で見ることが出来る。
ヤマカズのチャイコは、どこかのオケでもやってきた使いまわしでもなければ、誰かの真似でもない。バーミンガムのオケのためのオーダーメイドなスタイルで、生きた楽員が参加して初めて成立する。
そうした「自分たちのためのオリジナル指揮」に対して、プレイヤーが嬉しく思わないはずがない。一曲目からオケ全員が「あなたと演奏できるのが嬉しい!」というまぶしい「気」を放っていた。
オケが歓喜の状態で演奏している様子は、「嗅覚」のようなもので分かる。もっとも嗅覚とは比喩で、実際は聴覚なのだが、一節の音が消えていく余韻の中に、楽器奏者の気分やマエストロへの感情が正直に聞こえてくる。世界の一流オケだから必ず聴こえてくるというわけでもなく、その場の状況次第で、まったく心がひとつになっていない時のウィーン・フィルの来日公演というのもかつて聴いたことがあるが(指揮者のティーレマンがコンマスの機嫌ばかりとり、2ndヴァイオリン側は冷めきっていた)、ほとんど感動できなかった。
「財政難でもみんな元気」というオケの気分を作り出しているのは救世主が現れたからで、山田さんはメシアでありアイドルなのだと思った。世界的に多忙な指揮者であることは皆知っている。そんなカリスマが、自分たちの現場では自分たちのオケでしか鳴らせない最高の音楽作りをしてくれる。まず人間ありきの指揮。ここまで徹底しているのは、「発明」といつていいレベルだ。コペルニクス的転回である。
最終日はスペシャルアンコールで2曲。一曲目をアシスタント指揮者の伊東新之助さんが振り、ウォルトンの戴冠行進曲「宝玉と王のつえ」が演奏されたが、輝くような笑顔で大きく振っている伊東君は鳥のように躍動していて、そのまま天井に向かって飛翔していくのではないかと思われた。楽員のみんなも彼に負けずニコニコしている。続いてヤマカズによる大ラスト、エルガー『威風堂々』では、涙が止まらず溢れてきて、あの陽気なメロディを聴いて顔中が大洪水になっている自分が可笑しかった。
確かに、オケのメンバーは叫んでいた。マエストロがセクションごとに起立させると、拍手の渦の中に叫んでいるような声が聞こえる。あの声はきっと、子孫が幸せな様子を見に来たご先祖たちが一緒に叫んでいるのだ。何千もの英国の魂が「うおー」と叫んでいるようだった。このような感想はだいたい馬鹿にされるが、あと30年か100年経ったら理解してもらえると思う。
「日本人は他の国の指揮者と違って体つきからして体力がない。繊細さや機知で勝負していくしかない」とかつて語っていた山田さん。なんの、すごい体力で最後のチャイコフスキーまで振っていたし、オケの勢いを牽引するパワーも大柄な西洋人に全く劣らない。
「最高の指揮者とは、オーケストラのアイドルであることだ」それを確信したツアー最終日のコンサートだった。
