6/5のサントリーホールでの都響定期。指揮は小泉和裕さん。プログラムはモーツァルト『交響曲第31番《パリ》』芥川也寸志『オルガンとオーケストラのための《響》』R・シュトラウス『交響詩《ツァラトゥストラかく語りき》』で上階左右に補助席が出る盛況ぶり。
モーツァルトは最初の一音から急にオケに火が灯る感覚が素晴らしい。同じ音が何かの誕生を表しているかのように連続して鳴り、様式美や時代性よりも本質的な、作曲家が創作へ向かうときの衝動性が感じられた。小泉さんの音楽作りには媚態というものが一切なく、聴く側は毎回驚きの連続である。コンサートマスターの水谷晃さんの隣にはセカンド・トップで矢部達哉さんも乗られていて(客席が盛り上がる理由)、オケ全体が素晴らしい集中度で、マエストロから今回もまた新しいものを学ぼうとしている真剣な姿勢が伺えた。
しっかりオーケストラの中心に立ち、音楽にとっての正解を掘り起こしている指揮者の姿を見ていると、これは誰にでも出来る職業ではないと思う。5月のウルバンスキのショスタコーヴィチも素晴らしかったが、都響の本来的な凄みはこの日の演奏会で発揮されていた。
芥川也寸志『オルガンとオーケストラのための《響》』ではオルガン・ソロの大木麻理さんが登場。1986年のサントリーホールの落成式典のために作曲された曲で、プログラムには也寸志氏による言葉が載せられており、読んでいると生真面目なようで何かはぐらかされているような、東大学長時代の蓮實重彦氏の新学期の挨拶を思い出したが、音楽じたいは強烈でグロテスクな面もあり、オルガンの強音がオーケストラの繊細な響きをイカ墨のように真っ黒にしてしまう。途中から発狂したようなリズムが沸き起こり(コンガのリズム)、オケはバサラの茶会のようなカオスな祝祭感を醸し出していく。オルガンの不快なほどに巨大な存在感は、何を象徴しているのだろうか。サントリーホールは現代音楽の聖地にもなったが、こけら落としにこのように激しい作品が捧げられていたのなら、穏やかで雅やかな作品ばかりが演奏されるわけにはいくまい。プログラムの寺西基之先生の解説が大変詳しい。
後半のR・シュトラウス『交響詩《ツァラトゥストラかく語りき》』は、冒頭の金管がうまくいきますように…と毎回祈らずにはいられないが、さすが都響は少しの傷もなく、映画音楽のように大袈裟すぎることもなく上品に音楽が進行していった。『背後世界の人々について』から『大いなる憧れについて』までの神妙で高遠なアンサンブルには横長の巨大な星雲の姿が幻視された。弦の響きが涙が出るほどに美しく艶やかで、ツァラトゥストラがこんなにも優美な曲であったことをこの夜まで知らなかった。楽想は次々と起伏に富んだ表情を見せていくが、巨大な遺跡か星座の回転を見ているようで、その果てしなさに感動しつつ、威圧感や理念のゴリ押しのようなものは一切感じられなかった。
根底に作曲家の寛大さや優しさが透けて見え、『ダナエの愛』や『影のない女』といったオペラを書いたR・シュトラウスは、誰よりも高遠な知性を持っていたと実感した。彼は平和主義者でもあった。
この大合奏から作曲家がニーチェの超人思考そのものを活写しようなどという意図は感じられず、人間はどこまでいっても人間的であるべき、という対局の「理想」を抱いていたのではないかと思った。発狂したニーチェはトリノで鞭打たれる馬に同情して泣きつき、そのまま正気に戻ることはなかった。
『快癒しつつある者』の祝福の音楽は『舞踏の歌』のきらびやかなワルツにつながり、コンサートマスターの水谷晃さんのソロが本当に素晴らしかった。『ばらの騎士』のラストシーンを思い出す。途中からワルツというより抽象的で不思議な拍になり、やはり宇宙的というしかない星々の歓喜の大合奏になっていくのだった。ホルンの優しい響きに安らぎを覚える。最終曲『夜にさすらう者の歌』の終わりは不安な余韻を残し、円環を「閉じない」この壮大な曲の結論が提示された。
小泉さんと都響の共演は、世界的にも最も優れた水準にあり、楽員全員と指揮者が強い信頼で結びついていることがその根拠になっていると思う。高度なプレイヤーたちからリスペクトを集めるには、指揮者の音楽性や人間性、パートナーシップの構築にかけた時間など複数の要因が求められるだろう。この夜の演奏会から感じられたある種の「清々しさ」は、自分もまた指揮者とオーケストラから新たな学びを得たことから来るもので、宇宙から見たら塵芥のほど小さな「自分」が演奏をどう感じるかが大事なのだった。巨大な宇宙を認識する「小さな個」である自分を実感した。

モーツァルトは最初の一音から急にオケに火が灯る感覚が素晴らしい。同じ音が何かの誕生を表しているかのように連続して鳴り、様式美や時代性よりも本質的な、作曲家が創作へ向かうときの衝動性が感じられた。小泉さんの音楽作りには媚態というものが一切なく、聴く側は毎回驚きの連続である。コンサートマスターの水谷晃さんの隣にはセカンド・トップで矢部達哉さんも乗られていて(客席が盛り上がる理由)、オケ全体が素晴らしい集中度で、マエストロから今回もまた新しいものを学ぼうとしている真剣な姿勢が伺えた。
しっかりオーケストラの中心に立ち、音楽にとっての正解を掘り起こしている指揮者の姿を見ていると、これは誰にでも出来る職業ではないと思う。5月のウルバンスキのショスタコーヴィチも素晴らしかったが、都響の本来的な凄みはこの日の演奏会で発揮されていた。
芥川也寸志『オルガンとオーケストラのための《響》』ではオルガン・ソロの大木麻理さんが登場。1986年のサントリーホールの落成式典のために作曲された曲で、プログラムには也寸志氏による言葉が載せられており、読んでいると生真面目なようで何かはぐらかされているような、東大学長時代の蓮實重彦氏の新学期の挨拶を思い出したが、音楽じたいは強烈でグロテスクな面もあり、オルガンの強音がオーケストラの繊細な響きをイカ墨のように真っ黒にしてしまう。途中から発狂したようなリズムが沸き起こり(コンガのリズム)、オケはバサラの茶会のようなカオスな祝祭感を醸し出していく。オルガンの不快なほどに巨大な存在感は、何を象徴しているのだろうか。サントリーホールは現代音楽の聖地にもなったが、こけら落としにこのように激しい作品が捧げられていたのなら、穏やかで雅やかな作品ばかりが演奏されるわけにはいくまい。プログラムの寺西基之先生の解説が大変詳しい。
後半のR・シュトラウス『交響詩《ツァラトゥストラかく語りき》』は、冒頭の金管がうまくいきますように…と毎回祈らずにはいられないが、さすが都響は少しの傷もなく、映画音楽のように大袈裟すぎることもなく上品に音楽が進行していった。『背後世界の人々について』から『大いなる憧れについて』までの神妙で高遠なアンサンブルには横長の巨大な星雲の姿が幻視された。弦の響きが涙が出るほどに美しく艶やかで、ツァラトゥストラがこんなにも優美な曲であったことをこの夜まで知らなかった。楽想は次々と起伏に富んだ表情を見せていくが、巨大な遺跡か星座の回転を見ているようで、その果てしなさに感動しつつ、威圧感や理念のゴリ押しのようなものは一切感じられなかった。
根底に作曲家の寛大さや優しさが透けて見え、『ダナエの愛』や『影のない女』といったオペラを書いたR・シュトラウスは、誰よりも高遠な知性を持っていたと実感した。彼は平和主義者でもあった。
この大合奏から作曲家がニーチェの超人思考そのものを活写しようなどという意図は感じられず、人間はどこまでいっても人間的であるべき、という対局の「理想」を抱いていたのではないかと思った。発狂したニーチェはトリノで鞭打たれる馬に同情して泣きつき、そのまま正気に戻ることはなかった。
『快癒しつつある者』の祝福の音楽は『舞踏の歌』のきらびやかなワルツにつながり、コンサートマスターの水谷晃さんのソロが本当に素晴らしかった。『ばらの騎士』のラストシーンを思い出す。途中からワルツというより抽象的で不思議な拍になり、やはり宇宙的というしかない星々の歓喜の大合奏になっていくのだった。ホルンの優しい響きに安らぎを覚える。最終曲『夜にさすらう者の歌』の終わりは不安な余韻を残し、円環を「閉じない」この壮大な曲の結論が提示された。
小泉さんと都響の共演は、世界的にも最も優れた水準にあり、楽員全員と指揮者が強い信頼で結びついていることがその根拠になっていると思う。高度なプレイヤーたちからリスペクトを集めるには、指揮者の音楽性や人間性、パートナーシップの構築にかけた時間など複数の要因が求められるだろう。この夜の演奏会から感じられたある種の「清々しさ」は、自分もまた指揮者とオーケストラから新たな学びを得たことから来るもので、宇宙から見たら塵芥のほど小さな「自分」が演奏をどう感じるかが大事なのだった。巨大な宇宙を認識する「小さな個」である自分を実感した。
