小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

読響×上岡敏之 ブルックナー交響曲第8番(ハース版)

2023-09-03 22:27:03 | クラシック音楽
読響と上岡さんの相性の良さを感じさせる神懸かり的な名演。出演予定だったローター・ツァグロゼクの来日が叶わず、急遽「代役」として上岡さんが指揮台に立った(コンサートマスター長原幸太さん)。チケットは売り切れ。
熱い拍手に迎えられて上岡さんが登場したとき、以前より足取りが重く見えたのが一瞬気になったが、指揮者もオケも最初からまで凄い集中力だった(約90分)。各楽章間に長めの間隔を置いていたのが印象的。ホール前方に多数のマイクが設置され、サウンド的な設計には緻密なこだわりが感じられた。
1楽章から、音が「遥か彼方から」やってくる感じが素晴らしく感じられた。ブル8はたくさんの渦巻きから成り立っている曲という印象が個人的にあって、それは無数の銀河が共存する映像のように無限大で、大宇宙ような巨大な概念と対峙するのもまた「個人」という単位なのだということを毎回考える。人は亡くなると星になるという。この夏に亡くなった多くの人のことを思い出さずにはいられない。弦楽器の起伏が精妙で、木管は優しく、金管は何か迫りくる「運命」のようなものを暗示しているようだった。下手には三台のハープが神的な儀式のように並んでいる。

ブルックナーは自然界や、朝昼晩と移り変わる光の不思議な変化から霊感を受け、そこに神の秩序を見出していた作曲家だと思う。人間にとっての一年、一か月、一日、一時間という単位に神の呼吸のリズムを感じ、音楽にその神秘を投影していた(小さな動機の繰り返し)。ブルックナーのシンフォニーに朝の光を感じない曲はない。夜明けは、生き生きとした光の粒子のインフレーションで、R・シュトラウスの『アルプス交響曲』の日の出の衝撃が、ブルックナーにはふんだんに詰め込まれている。
「美しい…」と改めて一楽章の響きに陶酔した。しかし、これは一体何の隠喩で、何の持続なのだろうか。指揮者は楽譜からさまざまな暗示を読み解くが、上岡さんとブルックナーのつながりには特別な絆を感じる。指揮者は「現実の音」という「実績」を作らなければ使命を果たしたことにならないが、そこに至るまでにどれだけのエネルギーが注がれているのか想像もつかなかった。

パワフルな1楽章のあとの2楽章は、注意深く、より遠く彼方からせまってくるように始まった。ブル8の2楽章からは毎回曼荼羅の画像を思い出す。執拗な音型の繰り返しが、この晩はただの「繰り返し」に聴こえなかった。低弦の不吉なうなりから始まって、反転したり変形したりして各パートにひとつの何かが転がっていくのだが、そこに断絶はなく、上流から流れ落ちてくる石が削り取られ、下流で丸くなっていくような長い旅路を想像した。音楽の息が信じがたいほど長く、その粘り強さがまるで、ひとつの魂の輪廻転生に思われてならないのだった。可視的なものだけで世界は成り立っておらず、人間存在には過去世と来世がある、と信じている自分のような者にとっては、霊感が新たになる音楽だった。救済のために来世を信じるのではなく、「来世があることが現実」なのであり、クラシック音楽のような広大なジャンルにおいては、そうしたスケールを視野に入れたほうが色々なことに納得がいく。

ブル8がこの上なく懐かしい音楽に感じられたのも、過去にはないことだった。誕生のとき誰もが通っていく母の産道と、死の入り口が音楽の中にあった。果てしない宇宙の存在を見聞きしつつ、そこに意識が届かないまま気を失うように命は終わっていく。心臓の無窮動の動きのような2楽章は、人間の無力を自覚させ、同時にすべてが再びめぐり逢う次の宇宙への期待を抱かせてくれた。3楽章の弦楽器の美しいアンサンブルが子守歌のように快い。この日は8月の最後の日で、月は満月で、ここから月は欠けてゆき、ますます昼も短くなっていく秋のはじまりだった。

読響の良さがじわじわくるブル8で、世界一ロマンティックな響きがサントリーホールに溢れていた。4楽章では、縦並びだったり横に長かったりするばらばらの銀河が、いっせいに同じ方向に、同じ速度で回り出したようなヴィジョンが浮かんだ。宇宙が発狂している。祈りの力で、膨大な星々がシンクロダンスを始めたかのようだった。オーケストラがこのような世界を表現するのは、一種の超常現象にも感じられる。
「自分よりオケに喝采を」という仕草を続け、それでも鳴りやまない拍手に呼び出された上岡さんはなかなかステージ中央にやって来ない。深々と頭を下げられ、その姿に強く心打たれた。マエストロにとっても感慨深い演奏会だったのだと思う。