小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

二つの音楽祭の不在

2020-05-23 00:11:40 | クラシック音楽

2020年の春は、異例の季節となった。3月から4月にかけて一カ月間開催される『東京・春・音楽祭』と、5月のGWに行われる『ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン』が新型コロナウィルスの影響で中止となった。多くのクラシックの催しが「自粛」となった2020年春だったが、この巨大音楽祭の不在はさまざまことを考えさせ、過去に思いを馳せる契機となった。

『ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン』は、2月下旬の段階ではまだ開催予定だったため、アーティスティック・ディレクターのルネ・マルタン氏に取材を行っていた。2020年はベートーヴェン・イヤーであり、ルネ・マルタンはたったひとりの作曲家から驚くべきイマジネーションを拡大し、多彩なコンサートを構想していた。この音楽祭の凄いところは、あくまでルネ・マルタンという「王者」の脳内が作り出す夢が現実化していることで、謙虚で信心深いたったひとりの人物が、この世の楽園のような祭りを立体化させていくさまは、毎年のことながら魔法に思えた。

どうしたらこのようなプログラミングが可能になるのかを聞いたら、音楽学者の友人たちとも話し合って選曲の可能性を探っていくのだと教えてくれた。ルネ・マルタンにも、知的協力者がいるのだ。演奏家たちもルネの協力者だ。リーズナブルな価格のコンサートだからといって、演奏家のクオリティが下がるわけではない。まったく逆で、ラ・フォル・ジュルネでしか聞けないアメイジングなアーティストの演奏を音楽祭の間には雨あられと聴くことができた。マルタンのネットワークに感謝しないわけにはいかない。

本拠地ナントの音楽祭には2006年、2017年、2018年と3回訪れた。10年たっても印象は変わらず、フランス西部の地味な街で、1月から2月の寒い季節にかけて行われるため、屋台などは出ないしすべてが屋内のコンサートのみだ。5月の陽光の元でフェアグラウンドのような音楽祭となるのは東京ならではのことで、オフィス街の丸の内が華やかに化粧したような趣になる。ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポンの取材は、毎年ただ楽しいだけの時間だった。

そうした音楽祭の根幹にあるエネルギーを思うと、果てしない気持ちになる。ビジネス的な採算はほぼ度外視だった。音楽祭は親から子への愛情のようなもので、子供たちにとっては思い出となり、大人たちにとっては趣味教養を刺激される豊かな時間となる。コンサートを、ビジネス的にあるいは音楽的に逐一「評論する」気になれなかった。アーティストたちは皆素晴らしかったし、客席とステージは相思相愛だった。狭い批評眼によって個別の演奏を細々とジャッジする必要などなかったのである。

ナントのラ・フォル・ジュルネを全部東京でやってしまう、というのはすごいギャンブルだ。それが成功した。有楽町と池袋の二つの拠点で開催された年もあった。招聘元の英断には頭が下がる。地方都市でも時間差で行われていた時期もあった。ラ・フォル・ジュルネのノウハウは、さまざまな都市の音楽文化を豊かにした。

東京・春・音楽祭は1カ月も続く巨大な音楽祭で、2020年はかつてないほどの規模で開催される予定だった。この音楽祭の事務局は、365日稼働している。音楽祭が催される桜の季節だけでなく、スタッフはそれ以外のすべての日々を捧げている。ジャーナリストを招いての発表会も何度か行われる。そのたびに、この音楽祭の凄さを実感し、文化に捧げられた無条件の愛を有難く思った。一度、実行委員長の鈴木幸一さんに懇親会のときに話しかけた。「上野の商工会の連中に、ふだん儲けさせてもらっている街にポケットマネーを出させているんです」と軽妙に答えてくださった。まだ貧しかった頃のプラハで音楽祭を経験し、音楽が人々の表情を明るくすることに驚いて、東京でも作ることにした。最初は東京文化会館の「赤い席ばかりが目立つほど」人が入らなかったという。

 

親の心子知らず。音楽祭は、親から子への愛のような催しで、まさか「お前には労働の価値が分からないからご飯を食べさせない」という親はいないだろう。何かを忘れていたように思う。クラシック音楽を享受する心の形は自由だが、二つの音楽祭が不在となった2020年、親不孝のまま素晴らしい芸術を湯水のように浴びていた過去を深く悔やむ。

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