小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

都響スペシャル(2/20)

2021-02-24 10:15:03 | クラシック音楽

大野さんと都響の2/20のサントリーホールの公演を聴く。一曲目は武満徹『夢の時』。武満さんがアボリジニの音楽に衝撃を受けて書いた作品で、タイトルの通り「眠りと夢」の神秘を表している。グリッドのない無限大の音楽だった。アボリジニの人々は「森羅万象も夢を見る」という。彼らの主客の在り方、時間感覚は西洋的ではなく、東洋的というのでもなく、対象と不思議な一体化をはかる。ところどころメシアンを思わせ、オーケストラのサウンド全体が睡眠時の呼吸のよう。占星術師の松村潔さんは、瞑想や睡眠を通じて日常的に「恒星ツアー」をされているという。大野さんも「夢」や「睡眠」が異世界へつながる扉だという感覚を持たれているのではないだろうか。

藤村実穂子さんの独唱つきのブラームス『アルト・ラプソディ』は、暗雲たちこめる沈痛なサウンドと、カリスマ的なソロが溶け合った名演だった。学生時代にクリスタ・ルートヴィヒの録音にハマって何度も聴いていたことがある。ブラームスは失恋の怨恨を灰色の歌曲にし、傷口に塩を塗るような絶望的で美しい旋律を書いたが、歌詞はゲーテの引用で主人公は厭世的な青年のはずなのだ。女性が「我欲ばかりを追いつつ満足を知らぬまま/知らぬ間に自分の価値を使い果たしてしまった男」(三ケ尻正さん訳)と歌い、三部では男声コーラスが女声ソロを包み込む。本来の女性と男性の役割を、ブラームスは逆転して書いたように思う。

P席に並んだ新国立劇場合唱団の男声コーラスの声は優しく、温かみがあり、芯から癒された。主人公は呪詛と悔恨の歌を歌い、最後に神に救済されるが、男声コーラスは天使のような女神のような媒介者たちで、ブラームスもここで自分の怨恨に決着をつけようとした。愛が「成就しないこと」に至福を求めてしまう心も、宿命が授けたものだ。藤村さんは歌声も姿も完璧に音楽の世界と一体化し、短いオペラを鑑賞しているような充足感があった。

後半はマーラー『交響曲第4番』。オーケストラのコンサートでは久々の大編成で、4楽章の独唱は中村恵理さんが登場する。在京オケの演奏会で藤村さんと中村さんを一度に聴けるのは信じがたいほどの贅沢で、大野さんには心から感謝。

後半に差し掛かって、前半でも微かに感じていた違和感がはっきりしてきた。オーケストラは明快で優美で、ウィーン・フィルのような精緻な響きだが…マーラーではウィーン・フィルのように高めのピッチでチューニングしているようにも思えた…以前の大野さんなら、こうした硬質のマーラーは作らなかったのではないか。

マエストロとオーケストラが、戦々恐々と戦っている感じがした。2013年にリヨン歌劇場で大野さんを取材したとき、宗教的な山々と商業的な山々に囲まれた世界遺産の街で、魔法のような音楽を創造していた。オーケストラの楽員は皆大野さんを「日本からやってきたフレンドリーな神様」のように尊敬し、レストランでインタビューをしているとリヨンの音楽関係者たちが嬉しそうにマエストロに声をかけてきた。バルセロナで第九を聴かれたという作家の原田マハさんにお話を聞いたとき、バルセロナでも大野さんは同じように街の人気者だったという。

指揮者がオーケストラに魔法をかける…。都響は厳密な美意識と精緻な美意識をもつオーケストラで、サイモン・ラトルが手こずったベルリン・フィルのような天才集団だ。大野さんが海外のオケとそうしたように、都響にも指揮者のもつ情念や魔力や夢を共有しようとした時期があったと記憶している。

都響は明らかに、そこに戸惑っていた…と思う。ある時期から、オケ側が一歩もひかない、という体制になったように客席から聴いていて感じられた。誰かに確かめたわけでも楽屋裏を見たわけでもない。マエストロの魔術にはかからない…それならばと、大野さんはもうひとつの武器である「冷静さ」を打ち出してきた。大野さんの音楽はクレイジーさと冷静さの奇跡的なミックスで、都響では片側だけが誇張される。少し前に聴いたブリテンのヴァイオリン協奏曲などは、専門的な論文を聴いているようだった。

そうした拮抗関係が、思いもよらない新しい美をもたらすこともある。極限まで冷静に精緻さを求める指揮者に対して、オーケストラは「それならば!」と最高に理知的な音を出す。美しくカットされたクリスタルの輝きをマエストロに返す。マラ4からは、印刷された美しい「楽譜」が見えた。色や香りではなくフルスコアが見えるとは不思議だった。

このマーラーには、大野さんが表したいカオスや童心や「病んだ心」があったのではないか。
4番は、子供の死と深い関係がある。幼い存在が世俗を知らぬまま、病や貧しさによって昇天し、その最中に「天国でこそ幸せになれる」と思う。アンデルセンの「マッチ売りの少女」はくたらない話だと思うだろうか? 改めて読むと、なんていう物語だろうと思う。

2楽章には、子供が春の小川を覗き見て、ぴちぴち跳ねる冷たい水にびっくりしたり、おたまじゃくしに喜んだり、タンポポやシロツメクサに混じって、見た目も妖しい形の毒入りの葉っぱに怯えたりするさまが描かれている。自然や動物や、何とでも意識を一体化させる子供の危うさが音響化されているのだ。確かに、都響からもそうした音は聞えた。サウンド全体がやはり、高ピッチでチューニングされ、明度の高い響きに整えられているような感じがする。

3楽章の美しさは格別で「あれこれ考えていた自分の心配事は、すべて妄想なのかもしれない」と思えた。こんな天上的な音が「理知的な闘い」だとは思えない。私のいつもの悪い妄想壁だ。

4楽章では、中村恵理さんが儚い子供の魂を、これ以上ないほどの純粋さで表した。「天国はヴァイオリンでいっぱい」…聖人の名前が次々と飛び出し、地上の塵芥から逃れて昇天したこどものまわりには、こんなに素晴らしいことが起こっていると歌い喜ぶ。マーラー家に生まれた14人の子供のうち、生き残ったのは半分で、盲目で病弱の弟エルンストは12歳で亡くなった。マーラーは弟を看病し、最期を看取った。「なき子をしのぶ歌」を書いた後に、長女を4歳で亡くしている。

高校生になった甥が、3歳くらいのとき夜空を指さして「お月さまも、がんばっている」と言って祖父や祖母を笑わせた。人が月を見ているように、月も人を見ている。子供のふしぎな心。小学校や中学校の音楽教室で、大野さんがとびきり楽しそうに子供たちと心を通い合わせている姿を思い出した。アボリジニと角笛と死にゆく子供たちは、きっとひとつの円環でつながっている。

終演後は、見事な二楽章のソロを聴かせたコンサートマスターの矢部さんにひと際大きな拍手が湧いた。本当に素晴らしいソロだった。一番大きな喝采がマエストロではないことに一抹の寂しさも感じた。「本当は?」と問い詰めても、仕方ないのだろう。美しいコンサートであることには間違いなかった。

 

 

 


東京二期会『タンホイザー』(2/17) 

2021-02-18 18:07:09 | オペラ

二期会『タンホイザー』初日を東京文化会館で鑑賞。5時開演の15分前に到着したが、日が長くなったせいか周囲の景色は明るく、青空と澄んだ空気が嬉しい。春が近づくにつれ賑やかになるはずの上野はひっそりとしていて、どこかSF的なムードに包まれていた。

2021年春に日本で続々上演される「ワーグナー祭り」(?)のスターターとなった二期会の『タンホイザー』は1999年以来の上演。フランス国立ラン歌劇場との提携公演で、キース・ウォーナー演出はドレスデン版とパリ版を適材適所に組み合わせた構成。装置・照明・衣裳ともスタイリッシュで美しく、各々の人物の造形も納得のいくものだった。

指揮はアクセル・コーバーに代わって、読響の音楽監督セバスチャン・ヴァイグレがピットに入った。2020年12月に来日して以来、定期演奏会が終わってからも本公演のために東京に滞在していた。序曲から薫り立つ響きで、力で押すタイプではなく音楽の中にある繊細な構造を浮き彫りにしていた。透ける黒い幕を張った右側の段に金管楽器、左側にハープと打楽器。読響はシェフの元で物語の息遣いが感じられるような自在なサウンドを奏でた。

冒頭から闇に浮かび上がる、細長い鉄製のパイプのような構造物が気になった。これはタンホイザーが囚われている「籠」の象徴なのか。別次元へトリップするときの入り口なのか。

ヴェーヌス板波利加さんは、赤毛のロングの巻き毛にパープルのドレスで妖艶な女神を演じた。2017年のバイエルン国立歌劇場の来日公演(ペトレンコ指揮)で岩石と一体化したような巨大な裸体のヴェーヌスを演じたエレーナ・パンクラトヴァの姿を連想し、キース・ウォーナーはロメオ・カステルッチとは違う、異形性のシンボルではないヴェーヌスを構想したのだと理解した。

タンホイザー片寄純也さんとヴェーヌスとのやり取りは、子離れを悲しむ母と子の対話にも聴こえた。黙役の子役が出てきてヴェーヌスは可愛がるのだが(彼が書いた紙を破り捨てる芝居は何を表すのか)、タンホイザーもまたヴェーヌスの「可愛い子」という暗示なのかも知れない。ここには何でもあるのに、なぜつまらない地上に戻るのか…セクシーな衣装の女性ダンサー、遠目には裸体に見えるボディスーツを着た美しい男女のダンサーの動きが、「官能と快楽」でタンホイザーをヴェーヌスのもとに引き付けようとする魔術のようだった。

タンホイザーによるハイライト的な「ヴェーヌス賛歌」はこの役のテノールに多くの負荷を与えるのか、この日の片寄さんもゲネで拝聴した芹澤佳通さんも苦心しているようだった。有名な旋律で、名録音も多いので歌手の負担は大きいと思う。繰り返されるたびに半音上がっていくが、フォークトも三回目の繰り返しは、結構きつそうに歌っていた記憶がある。

この演出のヴェーヌスは怪物でも悪役でもなく、素直な愛の女神として描かれているふしがあり、「あなたはまた戻ってくる。そのとき歓迎するか分からないけれど」と歌うヴェーヌスは恋の達人のようでもあり、反抗期の息子に手を焼く母のようでもある。どこか天然なので、彼女が用意した快適な天のシェルターが、それほど毒にまみれたものではないような気がしてしまうのだ。板波さんは先日の「サムソンとデリラ」でも策略的な悪女デリラを演じたが、ヴェーヌスはまったく無意識の悪女で、すべてを与えたい女神は目の前の愛人を失いたくないだけなのだ。

地上に出奔するタンホイザーが求めていたのは「死」ではないか…終わりもなく始まりもない、母胎のような場所から出て、女神の愛玩物ではない一人の男として死にたかった。「どらえもん」ではのび太の机の中が母胎のメタファーだという。本来、男性はほの暗い安息の場に帰りたいという本能がありながらも、実際に叶ってしまうと地獄でしかないのかも知れない。

ヴェーヌス=月であり、エリーザベト=太陽なのだ。田崎尚美さんが太陽のような大きなオーラで無邪気な乙女を演じた。カタリーナ・ワーグナー演出の子供のためのオペラ「さまよえるオランダ人」でゼンタを演じられていた田崎さんだが、ワーグナーが描きたかった夢想的で無垢な若い女性を理想的に演じられる歌手だと思う。大きな羽を伸ばした天使のようなエリーザベトに目が釘付けになり、歓喜に溢れたソプラノの美声に心が洗われる。色々なオペラで田崎さんを見てきたが、エリーザベトは最高の当たり役で、全身が白い真珠のように発光しているように見えた。

「愛の本質」をお題にして、ヴォルフラム、ヴァルター、ビーテロルフが歌合戦を繰り広げるくだりは、ハープ伴奏付きの哲学論のディベートのようでもあり、デカルト、カント、ヘーゲル、ショーペンハウアーの隆々たる思想が次々と古くなっていく「哲学者の無常」のようだと感じられた。道徳によって限定的となった愛を嗤いたいタンホイザーの境地もまた、哲学的だ。彼らの時代精神にとっては逸脱的であると同時に超人的なのだ。

「聖母マリア」の一言でヴェーヌスがへたり込んだように、神殿でも「ヴェーヌスベルク」のタンホイザーの一言が世界を暗転させる。バルコニーでは、ヴェーヌスもその様子をこっそりと見ている演出で、エリーザベトが絶望の淵に追い込まれた場面でヴェーヌスも影をひそめる。二幕の緊迫感は凄味があり、二期会の名歌手が次々と独唱を披露する火花散る様子も心湧きたった。ヴォルフラム大沼徹さんの深みのある歌唱とドイツ語が特に心に残る。

タンホイザーの堕落を知った男たちが彼を弾劾する中、最も傷ついたエリーザベトだけが「キリストの贖罪は彼のためにあった」と、罪人を庇う。この劇は贖罪がテーマなのだろうか…罪悪感に苛まれたタンホイザーはローマへ向かうが、教皇はタンホイザーの罪を永遠に許さない。現世に救いはなく、ただ一人エリーザベトの犠牲の死のみがタンホイザーを救う…これは結局宗教的ということなのか、その逆を言っているのか。

ワーグナーは「現世的な」宗教を信じず…これはヴェルディやプッチーニも見事に同じことをオペラでやっているが…女性の中にのみ救済があると信じている。宗教権力によって断罪されても、聖母のような女性がすべてを贖う。

異次元へのパイプのような細長い鉄の筒に吸い込まれていくタンホイザーが、天上から吊るされたエリーザベトと近づいていくエンディングは美しかった。吊るされているのは恐らく田崎さんではないと思うが…あの筒の象意が、なんとなく分かった。永遠なるものへの細い入口で、世俗の騎士たちの徳とは別の世界に通じている。道徳、理性、高潔さといった、人間を人間たらしめているものの中に潜む矛盾が、官能の本質なのだ…とワーグナーは語りたかったのではないか。

社会から罪を問われ、ローマ教皇にも許されなかったタンホイザーは、永遠に女性的なるものに救われた。極と極を結んでいるのはエリーザベトとヴェーヌスであり、この正反対の役は本当はひとつのものであったのではないか…。水平軸には大勢の男と言説があり、垂直軸には聖母と魔性の女神の愛がある。天地を結ぶ二つだけが大事で、他は要らない。「永遠に普遍的なものとは、死である」というどこかの哲学者の言葉をまた、思い出した。

二回休憩で4時間。ワーグナーは長い、という先入観は吹き飛んだ。二期会合唱団の霊性を感じる合唱の力に震撼。ソリストはさらに良くなりそう。読響の尊敬と献身を集め、心理面でも情景描写の面でも卓越した指揮をしたセバスチャン・ヴァイグレは、カーテンコールでは神にしか見えなかった。1階11列目から見える神は、少しうるうるした目でピットと客席を見つめていた。ワーグナーの魔力にとらわれ、楽劇の「筆圧」の強さに酔った一夜だった。

タンホイザーとヴェーヌス Otto Knille作


東京文化会館プラチナ・シリーズ フランチェスコ・メーリ

2021-02-14 14:30:24 | クラシック音楽

2/13に行われたフランチェスコ・メーリのテノール・リサイタル。東京文化会館小ホールの649席の630席以上は埋まっていたと思う。空席が数えるほどしか見当たらず、ホールの中にこれだけ人が集まっている様子は久々に見たような気がする。十日前まで新国『トスカ』でカヴァラドッシを歌っていたメーリは、リサイタルでは要所要所で眼鏡をかけて、40歳という年齢よりも年上に見えた。前半は歌曲。ロッシーニ「音楽の夜会」より「約束」から歌い始めた。小ホールで聴くメーリの声は余りにゴージャスで、四方八方の壁や床が、空間に収まり切らないスケールの声を受け止めて振動していた。

冒頭のロッシーニから浅野菜生子さんのピアノが深遠な表現で、一音一音が胸をうつ意味深い響きであることに驚愕した。歌手や音楽のことを本当によく理解している方だと直観で思った。プロとしてのストイックな鍛錬は勿論、歌手とともに時間を生きることの本質を表せる方なのだ。来日不可能となったダヴィデ・カヴァッリの演奏も聴いてみたかったが、メーリと浅野さんの共演が叶ったことで別の幸福が生まれていた。

歌曲とオペラを歌い明解に歌い分けている、という感触はあまりなかったが、メーリの友人であるルイージ・マイオが作曲した世界初演『アルケミケランジョレスカ~ミケランジェロの火、風、地、水の詩によせて~』は、メーリの新しい創作への好奇心と「役になる」オペラ歌手とは別の表情が見えた。現代音楽的というのでもなく、曲には温かみが感じられ調性も生きている。ここでも浅野さんのピアノは素晴らしく、譜面に書かれた考古学的な(?)謎を引き出すような多彩な表情を見せた。
この後に歌われたトスティの「最後の歌」「理想の人」「君なんかもう愛していない」「魅惑」「夢」では歌手の本質的な魅力が爆発。時が満ちて「いよいよ」という空気感が漲った。柔軟性のある歌唱と輝かしい響きが聴衆を魅了し、何もないはずの舞台にイタリアの豊かな自然のパノラマが広がるようだった。

「花は見られるために咲く」のだ。音楽家と聴衆はふたつでひとつの存在であり、片方が欠けている状態は虚しい。欧州の多くの劇場やコンサートホールが休業状態の現在、舞台に上がることが出来なくなった演奏家やダンサーの無念はいかばかりかと思う。メーリの美声に血が燃え上がるような心地がしたので、こんなに昂揚するのはよくないことなのではないか…と一瞬罪悪感のようなものが湧いた。開演に遅刻して、ホールの外で聴いているときの疎外感なども思い出し、ここにいられることは幸福で、すぐそこにいる歌手の存在を全身で受け止めていることか奇跡に感じられた。メーリのほうでも、大きな幸福感を感じている…歌から毎秒ごとに伝わってくる。

後半の一曲目はマスネ『マノン』の「目を閉じれば」で、デ・グリューに変身したメーリは、最後の一音を惜しむように長く長くフェルマータして、自らの呼気をホールの空気に溶かしていた。フランス語も素晴らしい。



ヴェルディ『ルイーザ・ミラー』ジョルダーノ『フェドーラ』と続き、どんどんメーリの現在の声にフィットした歌に近づいてくる。本編の最後は先日オペラの舞台で歌った『トスカ』の「星は光りぬ」。ピアノがいよいよ超絶的な表現で、オーケストラとは別次元の作曲家の神髄に迫っていた。テノール独唱が始まる前の情景から丁寧に演奏され、カヴァラドッシが処刑されるサンタンジェロ城の寒々とした空気さえ伝わってきた。メーリは浅野さんのピアノに心底魅了されて、感謝して歌っていたと思う。

前半の歌曲がスピーディに進行し、後半も曲数があまり多くないのでリサイタルは早めに終了するのかと思っていたら、ここからが第三部だった。デ・クルティス「忘れな草」トスティ「暁は光から闇をへだて」とアンコールが続き、『愛の妙薬』の「人知れぬ涙」のイントロでは、この日詰め寄せた成熟した聴衆からなんとも言えない嬉しさを感じる拍手が巻き起こった。メーリのネモリーノは深刻さの中に、コミカルな含蓄が感じられる。レオンカヴァッロ「マッティナータ (朝の歌)」トスティ「かわいい口元」と続き(メーリによる弾き語りも)このあたりで終わるのではないかと思われたが、レハールの『ほほえみの国』より「君はわが心のすべて」が続いた。以前、大ホールで行われたレオ・ヌッチのアンコールが凄すぎて度肝を抜かれたことがあったが、テノールのリサイタルでもこんな奇跡が起こる。
「カタリ・カタリ」「オー・ソレ・ミオ」が勢いよく続く。イタリアのテノールとはこういうことなのか…底知れぬ人間ジュークボックスで、掘れども掘れども歌が溢れ出してくる。

全身全霊の本編の後に、『トスカ』の「妙なる調和」のイントロがピアノからこぼれたときは、このリサイタルが常軌を逸したものであると再認識した。メーリは音楽の神なのか。あんな大変な歌が、すべて喜びの表現だった。アンコール10曲目は『椿姫』の2幕のアルフレートの「燃える心を」で、スタンディングと着席を何度も何度も繰り返した客席は、ほぼカオス状態の熱狂に包まれていた。すべてのアンコールに最高の演奏で応えたピアニストも凄い。実際メーリは浅野さんのピアノに敬意を表するジェスチャーを何度も繰り返し、カンツォーネの前奏で拍手が鳴り響くと「シーッ」と注意し、「この素晴らしいピアノを静かに聴くんだ!」という仕草をしていた。

15時にスタートしたリサイタルの終演は17時半。何度も何度もステージに引き戻されたメーリの顔は、最後はオペラの英雄でも色男でもなく…私の目にはイタリア人にさえ見えなかった。国籍も地上の年齢も関係ない。聴衆に与えて、与えて、与え続けることを喜びとする、善なる魂そのものだった。









好色な神々 新国立劇場『フィガロの結婚』(2/7)

2021-02-08 21:12:01 | オペラ
新国『フィガロの結婚』初日を鑑賞。2020年12月28日の入国制限変更により、伯爵夫人のセレーナ・ガンベローニ、フィガロのフィリッポ・モラーチェ、指揮のエヴェリーノ・ピドの来日が叶わず、大隅智佳子さんの伯爵夫人、沼尻竜典さんの指揮、先日まで『トスカ』の悪役スカルピアを演じていたダリオ・ソラーリがフィガロの代役となった。アルマヴィーヴァ伯爵はヴィ―ト・プリアンテ、スザンナは臼木あいさん、ケルビーノは脇園彩さん。オーケストラは東京交響楽団。

序曲から沼尻マエストロと東響への拍手が自然に巻き起こり、上機嫌なムードでオペラはスタート。トスカ上演中からフィガロ役の稽古をしていた様子がTwitterにアップされていたソラーリの活躍が楽しみだった。スカルピアは音程の正しさに気を取られている印象で、プロフィールからヴェリズモよりモーツァルト~ベルカントのレパートリーの方が得意だろうと想像していた。フィガロの名演で面目躍如…を期待していたが、冒頭からやや表情が硬い。過酷なスケジュールでの準備だったので、初日は緊張していたのかも知れない。

『フィガロ…』の面白さは、身分も年齢も性格も異なる魅力的な女性たちがゾロゾロ登場することで、身分の上では伯爵夫人が一番上、女中頭のマルチェッリーナ、小間使いのスザンナ、庭師の娘でスザンナの従妹のバルバリーナの順となるが、女性として最も魅力的とされるのはスザンナで、以下はさまざまに解釈できる。男性も、伯爵とフィガロでは明らかな主従関係があるが、スザンナをめぐる欲望の争いではフィガロが伯爵に勝利している。言うまでもないが、現実社会と愛の次元では、下剋上が起こっている。

フィガロ以外の男たちからも愛されるスザンナの臼木あいさんのパーフェクトで瑞々しい魅力にも増して、嫌味攻撃をしかけるマルチェッリーナの竹本節子さんがたまらなくキュートだった。つけぼくろは毎回こんなに大きかったっけ…と、ヴァージョンアップしているマルチェッリーナの面白さと貫禄が頼もしかった。メゾの発声は上品で、スザンナとの重唱でも、テンポはそのままで「若い娘のような機敏さがない」感じをうまく出している。軌道も質量も違う天体同士がデュエットしている印象。歌手の身体に完璧に役が入っていることの凄味を見せられた。

フィガロのソラーリがなかなか温まらない中、伯爵役のヴィート・プリアンテが太陽のオーラをまとって登場。美声とともに勢いよく明るいオーラを発散し、颯爽とオペラの舵取りを始めた。プリアンテはフィガロ役も得意なので、全体を察して二人分頑張ったのかも知れない。役柄によって演劇の内容も違って見える…オケや相手役を味方につけて、伯爵の物語が展開されていくような感触だった。

大隅さんの伯爵夫人は安定感があり、登場のカヴァティーナではボーイソプラノのような(!)透明で際立った美声を聴かせた。伯爵夫人は横に大きく広がったパニエの純白のドレスを着ているので、動くのが大変そうだ。臼木さんと声楽的に相性がよいという印象。後半のスザンナと伯爵夫人の重唱も綺麗だった。
期待のケルビーノ脇園彩さんは観客の熱視線を浴び、少年役のコスチュームも映えた。6番「自分で自分がわからない」と有名な12番「恋とはどんなものかしら」をゆったりとしたテンポで豊かに聴かせたが、沼尻さんの指揮もケルビーノの箇所では特別テンポを落としていた印象。これはあくまで想像だが、ソリスト側の要請だとしたら、大変よい効果があった。全体の劇の進行を指揮者に一任するのもよい態度だと思うが…いずれにせよ稽古もリハーサルを見ていないので真実のほどは分からない。

新国で『トスカ』と『フィガロの結婚』が上演される間に、地上(?)では森喜朗オリパラ組織委員会会長の問題発言があった。劇場と社会はつねにつながってるので…このことと二つのオペラを紐づけずに鑑賞することは、個人的に難しかった。オリンピックが関係した公の場で、「女性が多いと会議がまとまらない」「わきまえない」などの言葉が発され、日本だけでなく世界が激しく反応した。社会が変動する中で、全くタイミングが悪く、あそこまで徹底的に問い詰められると一種のスケープゴートだと同情したくなるが…性差をめぐるデリカシーは今や大きく変動している。考えてみるともオペラはセクハラ、モラハラ、パワハラの宝箱で、プッチーニもモーツァルトも、現代から見ると酷く由々しい劇を書いている。

ケルビーノは伯爵夫人の胸を触り、伯爵はスザンナを追いかけまわし、バルバリーナを犯す。バルバリーナの「なくしてしまった」の歌が、処女喪失(?)の歌であるという解釈は芸劇の野田版フィガロで初めて知ったが、この演出でも…ケルビーノといちゃついていたバルバリーナは伯爵の怒りを買い、伯爵は恐らくそれまでは手加減をしてお触り程度だった娘に対して、お灸を据えるような最後の行為をし、ズボンの裾を改めて背中を向けるのだ。スザンナは賢いが、バルバリーナは無礼で「わきまえない」からそのような目に遭ってしまうのか…。

『トスカ』も『フィガロの結婚』も性的デリカシーの観点から見るとかなり野蛮なオペラであり、森会長の発言どころではないはず。それでも不朽の名作であるのは、モーツァルトが人間の姿をした神々を描いたからだという気もする。好色な伯爵はジュピター神で、スザンナというヴィーナスの新婚の部屋に金の雨となって浸透しようとする。伯爵夫人は嫉妬に苦しむジュノー。ケルビーノはナルシス神というより、あらゆる階層の女性の懐に水銀の玉のように転がって忍び込もうとするマーキュリー神のようだ。

モーツァルトは好色な神々と人の浮世をつなげて『フィガロの結婚』を書き、てんやわんやの男女の完璧な声楽アンサンブルは、ヘキサグラム=六芒星のような模様を描き出す。新国の初日では、主役のフィガロのノリが今一つで六芒星のアンサンブルは作られず、そのせいか…特に前半が退屈な劇に見えてしまった。2003年のアンドレアス・ホモキの演出は、2000年代初頭に多く見られた白い背景のモーツァルトオペラで、傾斜した床や歪んだ閉所の装置は、当時はモダンでスタイリッシュな感じだったと思うが、18年経つと昔日のトレンドに見えてしまう。白と黒と段ボール箱しか見るものがない、というのは、アンサンブルが完璧でない場合かなり苦痛だ。
『フィガロ』は天界と地上を往来するようなカラフルな新演出がそろそろ出てきてほしい…と思った。伯爵のプリアンテは最後まで魅力的で、初夜権を受け入れたスザンナの奸計に気づいたときの怒りの演技は、見ていて身が引き締まる思いだった。伯爵はオペラの中で3回、雷神のように激昂するが、スザンナへの怒りが一番大きい、というプリアンテの解釈は素晴らしい。
このアルマヴィーヴァを見るためにもう一度劇場へ行きたいと思わせた。あと3回の上演。


「ユピテルとユノー」