小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

都響スペシャル『第九』12/26

2021-12-27 17:45:04 | クラシック音楽
都響の第九は最終日のサントリーホール公演を鑑賞。客席はほぼ満席。他のオーケストラでは前半にオルガン演奏やベートーヴェンのオペラ序曲が演奏されることがあったが、都響はシンプルに本編のみ。それが大変な名演だった。ソプラノ小林厚子さん、メゾソプラノ富岡明子さん、テノール与儀巧さん、バリトン清水勇磨さん、二期会合唱団、コンサートマスター矢部達哉さん。

12/20の定期でサッシャ・ゲッツェル氏の代役で登壇した音楽監督の大野和士氏が、第九では準メルクル氏の代役で再び登場。2021年の都響は大野さんととても濃い時間を過ごしたはずだが、最後の月まで充実したパートナーシップを見せた。多くの方が指摘するように、大野さんと都響のサウンドは、特に「ニュルンベルクのマイスタージンガー」以降、変化したようにも思える。先日のショスタコーヴィチでは、明らかにオケの側が変わったと思えたが、第九では反対にマエストロが変わったという印象を得た。

オケを背景にして立つ姿が、少し前と比べて別人のようだった。自然体の威厳があると同時に若々しく、背筋が真っすぐで、音楽も決然としていた。以前は、無限の想像力の中で時間のない次元を生きているような不思議さがあった(私の印象)大野さんが、地上に杭を打ち、時計の針を進める覚悟をした人に見えた。そこで今までにない父性のようなものも感じられた。

第一楽章の「無への骰子一擲」のような響きから、都響は神秘的で高遠なサウンドを響かせた。ベートーヴェンだからパワフルであればいいというのでもなく、都響は一貫して都響の音を保つ。日本のオケでもかなりコンセプチュアルな理念を持っていると思う。高級なツイードのように繊細で上質な糸から成り立っていて、簡単にヨレたりしない。指揮者がイメージしない音は一切鳴らさないので、ある種の指揮者にとっては、オケから鏡を差し出されて自分の裸の全身を見つめる結果にもなる。

どの楽章のどのフレーズにも、軽い衝撃がある。いま産まれたような無垢な響きで、こちらの記憶の中で鳴っているものよりも、冴え冴えとしていて美しい。複雑味を隠しながらも、純粋無垢で、高貴で上品なオーケストラ・サウンドになっている。

大野さんと都響には、確かに冬の時代があったように思う。
それが終わった。どちらかが譲歩したのではなく、しかるべき瞬間に起こったケミカルの連続によって新しい均衡が生まれたと思えた。シンフォニックなものの中にも、オペラ的な面白さがあって、第九では意外な箇所に先取りされたモティーフが登場する。他の指揮者では聞き逃してしまうような箇所も、大野さんの指揮では魔法のように浮き彫りになる。第九の4つの楽章が物語のようにオーガニックにつながっていることに改めて感心した。
「歓喜の歌」の合唱は、思いのほかゆったりとしたテンポで、膨大なモティーフの積み重ねがフィナーレ楽章で報われ、満開の花が咲いたようになった。ソリストも健闘。バリトンの出だしが緊張気味だったが、途中から持ち直した。二期会合唱団は人数も多く、充実した響きだった。

コロナ禍でも多くのコンサートがあり、その時折に演奏される音には、無意識のうちに「この時間に演奏されているということのジャーナリスティックな価値」を求めるようになった。
都響とマエストロ大野の第九からは、これまでのオケと指揮者の歴史が脳裏をめぐり、ここから未来に解き放たれる素晴らしい音楽を想像した。

都響はひとつのパーソナリティであり、一言では言えない個性を持っている。個性というより「ただひとつの正解」を持っているのだ。世界のどのオーケストラにも似ていない。改めてそのことに衝撃を受けた。簡単に譲歩しないことで、音楽監督とも高水準のパートナーシップを築いた。第九の余韻とともに、オケと指揮者の映画のようなストーリーが頭をめぐってしまった。















東京フィル『第九』特別演奏会 12/23

2021-12-26 01:22:10 | クラシック音楽

東フィルの第九は12/23のオペラシティ公演を聴いた。指揮は角田鋼亮さん。ソプラノ迫田美帆さん、アルト中島郁子さん、テノール清水徹太郎さん、バリトン伊藤貴之さん。新国立劇場合唱団。コンサートマスター三浦章宏さん。

前半の『フィデリオ』序曲から角田さんと東フィルの「士気」に圧倒された。角田さんが在京オケを振る演奏会は去年から聴く機会が増えたが、今年はさらに充実した内容のものが多かった。非常に謙虚な人というイメージを抱いていたが、音楽には無尽蔵のパワーを感じる。クラシックの世界もショウビズと考えるのなら、角田さんのような派手さを前面に出さないタイプは大変なのではないかと勝手に思っていたが、杞憂であった。今年の最後に内容充実のベートーヴェンを聴かせてくれたのが嬉しい。

第九はやはり、ストーリーが大事なのではないか。フィナーレの合唱も、急に出て来る感じの指揮もあるが、歌心の火種のようなものが冒頭から渦巻いていて、それがついに堪えられない臨界点に達して、歓喜の歌が爆発するような流れが欲しい。東フィルは1楽章から集中度が素晴らしく、クレシェンドが緻密にコントロールされていて、立体的。バスの音がよく響き、「運命の星雲」のようなものが容赦なく近づいてくるような切迫感があった。濃密なドラマと、宇宙的なスケールのランドスケープが幻視された。オケの各パートがお互いの音をよく聴き、最善の合奏を成就させ、音符と音符の間に白けた隙間などひとつもなかった。音符と音符の隙間を埋めるのは、指揮者の想念に他ならない。「これは単に書かれた作品で、全体を俯瞰して音符の面白い仕組みや分数を響かせよう」というアプローチは、あってもいいと思うが、2021年の12月にはあまりふさわしくない。
角田さんはベートーヴェンを通じて、指揮者の世界に対する愛と哲学を見せてくれた。

3楽章の美しさは言葉に尽くしがたく、ホルンの大変なソロも立派だった。角田さんは指揮棒を置いて宇宙遊泳するような全身の動きで清冽な響きを引き出した。
今年も本当にこのオーケストラにはお世話になった。定期演奏会だけでなく、オペラ、バレエ、指揮コンクールの予選でも誠実な演奏をしてくれた。
ピットに入っているときも、ステージに乗っているときも、東フィルの演奏が「よくない」と思ったことは実は一度もない。むしろ、いつも新しい発見がある。
私が在京オケの取材を始めた頃、東フィルはオーケストラファンに過小評価されていたと思う。そうしたファンともすっかり交流がなくなった。
オケに色々な切り札があるというのも強いが、音楽の成り立ち方が成熟していると毎回思う。響きに温かさがあり、包み込むような寛大さもある。

ベートーヴェンは第九を書いたとき、難聴がかなり進んでいたはずだが、そのことで音楽には非常に強い「内観」があらわれている(よく言われていることかも知れない)。
タロットカードで「吊るし人」というカードがあるが、神秘家の松村潔さんによると、吊るされている男は聖なる人で、逆さ吊りになることで思想を煮詰め、「イカの塩辛のように」発酵させているのだという。逆境にあって、物凄く強くなる人は「聖人」である。ベートーヴェンは逆境の中で「人間」を越え、別次元につながろうとしていたのではないか。

新国立劇場合唱団がとにかく衝撃的に素晴らしかった。前日にサントリーホールで読響と共演したのとは別のチームのようだが、今まで聴いたことのない「鋭さ」があり、特に男声合唱のドラマティックな表現は驚異的だった。おかしなことを言うようだが…バルコニーに並ぶ男性たちは、前世はドイツやイタリアやスペインにいた人々なのではないかと思った。気配が、日本的ではない(日本的なのが悪いというのではないが)。厳しい戦いを経て帰還してきた高貴な兵士たちに見えたのだ。

バリトンの伊藤貴之さんはオペラでもいい演技をされるが、第一声の迫力は第九でも健在。雷神のようなインパクトだった。テノール清水さん、ソプラノ迫田さん、アルト中島さんも生き生きとした声を聴かせてくれた。
フィナーレ楽章の旋律線のシンプルさに改めて驚く。ラスト近くの合唱のユニゾンは西洋音楽を越えて、東洋の祝詞のようにも聞こえるし、メロディが歯止めなく単純さを究めることによって、人と人との間の対話だけでない、人と神との対話が浮き彫りになる。「人の世界で褒められたり羨望されたりということが、どれほどのことか」と作曲家は言っているようだった。確かにベートーヴェンは名誉を求め、貴族をパトロンにした。第九ではもはやそうした「世間」はどうでもいいことになっている。
この曲の普遍性が、時代を越えてこんなふうに生きていることの意味を考えた。

角田さんは2022年もますます活躍されることだろう。東フィルがこんなにも夢中になって若いマエストロについていったこと、コンマス三浦さんの人間力の凄さ、全員の騎士道精神に感銘を受け、逆境の中でどんどん進化していく人類の精神を清々しく思った。第九の芯にあるものは、道徳性だ。冬至を越えて、わずかに光が増していく12月の末に相応しい演奏を聴いた。万感の思い。