小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

アンドリス・ネルソンス指揮 ゲヴァントハウス管弦楽団(5/28)

2019-05-29 18:36:25 | クラシック音楽
ゲヴァントハウス管弦楽団のサントリーホールでのコンサート(5/28)を聴く。プログラムはショスタコーヴィチ『ヴァイオリン協奏曲第1番』とチャイコフスキー『交響曲第5番』。ゲヴァントハウス管は1961年の初来日から数えて25回目の来日となるという。
この日の午前中に行われた記者会見で「2018年にカペルマイスターになってからは初めての来日」と語っていたネルソンス。いつもながら率直で裏のない人柄で、ソリストのバイバ・スクリデとともに来日コンサートのプログラムの意図や作曲家への想いを饒舌に語ってくれた。ネルソンスもスクリデもラトヴィアのリガ出身だが「私たちが育つときはポップ・ミュージックを聴くことを禁じられていた。心が爆発しそうなときはショスタコーヴィチを聴いていた」というスクリデの発言が心に残った。そういうふうにショスタコーヴィチを聴いていた人がいたというのが衝撃的だったし、ロックとクラシックのボーダーを外してとらえていたクルレンツィスの記者会見のことも思い出された。
 ゲヴァントハウス管弦楽団のショスタコーヴィチは内省的で、数年前にシャイーと五嶋みどりさんで聴いたメンデルスゾーンの『ヴァイオリン協奏曲第1番』を思い出しながら、覆いかぶさるような激しい風を感じたシャイーの指揮とは正反対のネルソンスの静謐な音作りにしみじみ聴き入った。厳かな金色のドレスを着たスクリデは、一楽章のノクターンから暗鬱で秘められた音色を聴かせ、神妙なオケと呼吸を合わせていく。ハープのぽたぽたという音が何かの暗号にも聴こえ、強烈な抑圧の下で書かれた秘密文書のような旋律…という印象を持つ。偶然だが、この曲は女性ソリストで聴く機会が多く、2楽章のスケルツォを弾き終わった後に勝ち誇った表情になる人も多い中、スクリデはこの爆発的な楽章をもっと突き刺さるように深く感じているように見えた。この4つの孤児が顔を突き合わせたような曲を「ポップ・ミュージックのように聴いていた」というヴァイオリニストの青春時代は果たしてどのようなものだったのだろう。
オケの伴奏は重々しく繊細で、ネルソンスはまだ40歳(!)なのに時折左腕で指揮台を握って身体を支え、世界苦を背負い込んでいるかのような表情で指揮をしていた(同世代でも若者気分が抜けない大袈裟な指揮をする人もいるが、最近はそういう人はあまり信頼できない)。フィナーレ楽章は熱狂的で、爆発的な喝采が巻き起こった。全員が凄い集中力で、聴いている方も体力を奪われる心地がした。
 
後半のチャイコフスキーでは、さまざまなことを考えさせられた。「ベートーヴェン以降の作曲家は、自分の5番目の交響曲を書くとき『運命』を意識しないわけにはいきませんでした」とネルソンスは会見で語っていたが、チャイコフスキーもベートーヴェンの5番の断片のさまざまな転回形を曲にちりばめ、万華鏡のごとき自分の「運命」を作曲した。そのことを、有り余る才能が生み出したキッチュな創造物としてとらえた演奏も少なからず聴いてきた。
ネルソンスがゲヴァントハウス管から引き出したチャイコフスキーの5番も、紛うかたなき『運命』で、すぐさまその単語が脳裏に浮かんだ。しかしそこにはキッチュなものもアイロニーも全くない。ただ恐ろしい、従うしかない神の手による宿命があり、孤立した絶体絶命の小さな人間の心があった。こういう瞬間に、CDやDVDをいかに最新のシステムで再生しても再現できない空間の力を感じる。オーケストラの言語が、すり鉢状の谷底から這い上がろうと必死になっている。ヴィンヤード~ぶどう畑という形のサントリーホールが、凍える孤高の心の入れ物になっていた。チャイコフスキーの心痛が肌に突き刺さるようだった。
 この曲でのオケの表情を正確に描写するのは難しい。テンポはかなり揺れ、わざと指揮者が動きを止めて、無音に限りなく近いppppを表現していた箇所もあった。ネルソンスが語る「ゲヴァントハウス管ならではの大きな船に乗っている感じ」は、低弦のこの上ない温かみからくるものだが、弦の音をパートに分断して認識することはほぼ不可能だった。弦は一体化した色であり影であり、いくつもの時間の中でうつろう記憶でありノスタルジーに感じられた。
 チャイコフスキーの『白鳥の湖』や『エフゲニー・オネーギン』が思い出された。シンフォニーとバレエ、オペラを切り離して考えるのはナンセンスだ。同じ苦痛とメランコリーが含まれていて、オーボエの響きからは瀕死の白鳥の苦吟が聴こえた。オケの音の塊が大きな雨雲のように移動し、混沌とした景色を作り出していく。一楽章からひどく不安な感情に襲われてしまった。マーラーでも時々こういう気分になる。「生きている」という状態が、とても心もとない不安定なものに思えてしまうのだ…我々はどこから来て、どこへ行くのかという哲学的な問いが頭をもたげる。こういうことを音楽で延々と語るのは危険だ。区別すること、分割することが理性的な社会には必要で、混沌とともに音楽を語ることは退廃的になりかねない。
 それでも、ネルソンスは分割できない大きな世界苦、チャイコフスキーが抱えていた深刻な厭世観を勇敢に、純粋に表していたと思う。はたと「自分が名前のない世界にいたらどうなるだろう」と考えた。二楽章のホルンは母胎の中にいるような響きで、同時に死後の安らぎも思わせた。明るい木管が加わり、名付け難い癒しの感覚が広がる。スコアの明晰な分析の先にある、巨大な統一体を見たような気持ちになった。名前のない世界とはどういう世界か。生きている限りそれは忌まわしいものにも感じられる。人はアイデンティティ・クライシスを恐れる。自己の輪郭を脅かすものを攻撃し、口汚くののしるのは、危機を感じているからだ。数日前に取材したイタリアオペラの巨匠レンツェッティが「プッチーニが嫉妬されたのは心を揺さぶる音楽を書いたから」と語っていたことも思い出した。
ネルソンスの指揮姿が、なぜか一度も生で聴いたことのなかったシノーポリを思い出させた。そのうち作曲を始めるのかも知れない。聴衆に音楽による一体化を求める。精神的な独占というか、拘束感みたいなものがある。そのせいで、オケからとても明瞭な言葉が届く。音楽がこちらに「届こう」と熱烈に志向してくるので、脳内が言葉だらけになった。音楽と同時に、浮かぶ言葉にも打ちのめされる。チャイコフスキーは、決してキッチュな交響曲を書いたのではなかった。創作の先にある53歳の死と、この曲に渦巻くアンデンティティ・クライシスの苦痛に全身がひび割れそうになった。オーケストラの真剣さはフィナーレまで一秒も弛緩することなく、そこで再びこの楽団の信条である「真摯たれ」という言葉を思い出した。4楽章では傷ついた鳥たちが「それでも生きるしかない」と果敢に飛び立つさまが目に浮かび、これは本当になんという曲なのかと驚かされた。
 
オケの伝統の延長線上にある二曲だったが、ネルソンスはゲヴァントハウスの歴史に敬意を表し、アンコールにメンデルスゾーンの序曲『ルイ・ブラス』を演奏した。編み込みのツイードから何色か色が抜かれた、過剰なタナトス感のない端正な演奏を楽しんだ。このアンコールの前にも、ネルソンスは長いスピーチをしたのだ…。聴衆とつながりたいという強い気持ちを少しも隠さない。この人がブルックナーと一体化したらどうなるのだろう…録音はこのオケの美点の半分も伝えていないのだから、実際に聴くしかないだろう。チャイコフスキーのドラマティックな終盤で、ますますジェスチャーを小さくしていたネルソンスには、早くも巨匠の風格が漂っている。
 
 
 
 
 
 
 
 


 
 
 
 

東響×ノット ブーレーズ、ロバン、ベートーヴェン

2019-05-19 09:07:27 | クラシック音楽
週末の在京オケのコンサート・ラッシュ凄まじい中、東響ノットのオペラシティシリーズを聴く。ステージにはぎっしりとゴング類の打楽器が並び、さながら「楽器マルシェ」の趣。最初の曲であるブーレーズ「メモリアル…爆発的-固定的…オリジナル」は、大装備(!)を背景にフルート・ソロを含めた9人の奏者が並び、静寂の中の水のさざめきのような音楽を奏でた。フルート奏者の相澤政宏さんの奏でる音が、想像上の東洋の鳥の姿を連想させる。武満さんの「庭」の美学を思う瞬間もあり、幻の東洋庭園がふわりと眼前に現れたようにも思われた。ノットはブーレーズが創設したアンサンブル・アンテルコンタンポランの音楽監督を2000年から2005年まで務めており、この日の前半はブーレーズへのオマージュだった。
 二曲目のヤン・ロバン(1974~)の『クォーク~チェロと大編成オーケストラのための』には驚かされた。オペラシティの舞台ぎゅうぎゅうに乗った東響のプレイヤーが世にも変わったノイズの嵐を25分間奏で続けた。ほぼすべての楽器が特殊奏法で、チェリストのエリック=マリア・クテュリエは、弦楽器を打楽器のように奏で、ドアが軋むような音を出したり、不気味なノコギリ音、水がぽたぽたいうようなぶつ切りの音を出す。オケは嵐の前に立ち込める暗雲にも似た重々しい気配でこれを包み込み、管楽器はサイレンのように唸り、弦楽器はシャワシャワという虫の大移動のような擦過音を奏でた。それらの総体が不思議とオーガニックなラインを描き、音楽とオーケストラの隠された姿を明らかにした。
 曲の間中、前日に聴いたばかりの日フィルとラザレフのメトネルのピアノ協奏曲を思い出していた。この日のオケは覇気に溢れていて、その生き生きとした躍動感は音程のある音と、音程以外の音から構成されているように思えたのだ。勢い、といってしまうとあまりに大雑把だが、風の圧力に関係する要素で、音色の「滲み」のような、あるいは音の生命をなしている「気」のようなもの。これが途切れず大きな起伏をもって持続されていくと、演奏全体に体幹のようなものが出来る。プリンターのカラーインクが何色か欠けると、変わった印象の図像が印刷されることがあるが、『クォーク』はオーケストラの中で日常的に起こっている何かを、放射線撮影した曲に感じられたのだ。ラスト近くの音は、ジャングの中にいるような心地だった。オケの音がライオンの咆哮に聞こえたり、象のいびきに聴こえたりした。チェロは巨大な動物の足元をちょろちょろ逃げ回る小動物たちか。知的でクールな現代音楽というより、ある種の野獣主義というか、アヴァンギャルドな生命讃歌を聴いているような感覚があった。

後半のベト7は、恐らくこの「野生の呼吸感」が、ミュート等で抑圧された音程を取り戻すことによって爆発するのではないか…と予想していたら、それ以上のことが起こった。上品で雅やかなオケだと思っていた東響が、こんなワイルドで立体的なベートーヴェンを鳴らす日がくるとは思わなかった。全員が熱狂的に、理性的に自分の楽器を解き放ち、檻から放たれた豹のように獰猛な生命力を横溢させたのだ。『クォーク』がフォービズム的でありながら、一音の誤りも許さない至芸であったことがベト7で改めて実感された。人間の想像力の凄さ、冒険心の凄さ、克己と忍耐の素晴らしさに驚く。ドラマと切迫感と開放感がどの楽章からも溢れていたが、それは説明不要なまでにベートーヴェンの性格そのもので、神話の生き物であるケンタウロス~ベートーヴェンのゾディアックサインである射手座のシンボルなのだが~を思い出させた。下半身は四つ足で、上半身は人間。この上なく理知的で哲学的な頭脳で標的に向かって矢を放つが、それを支えているのは獣性であり、本能であり欲望なのだ。
ノットの指揮者としての天才性を改めて思った。ブルックナーを暗譜で振るだけでない、今までの積み重ねてとは全く別のことをやって「ほら、出来たでしょ!」とオケを驚かせてみせる。ギャンブラーでもありトリックスターでもある新しいノットの顔だった。このベートーヴェンは聴き手からすると一足飛びどころか数段飛び、次元上昇のような演奏で、何がどうなっているのか分からないほど熱狂させらる時間だった(冷静に欠点を見つけて聴いていた人もいたかも知れないが…)。
ノットの後ろ姿から、どんな表情なのかを想像していたら、やはり今までのどの演奏会より凄い笑顔で顔色も真っ赤になっていた。コンマスと何度も何度も握手。リハーサル以上のことが起こったのだろう。聴衆も興奮醒めず、指揮者をカーテンコールで呼び出す。ノットも長い時間、スマイルで歓声に応えていた。



日本フィル×ラザレフ(5/17) メトネル、マスカーニ 

2019-05-19 03:16:57 | クラシック音楽

ラザレフによる日本フィルの演奏会形式イタリアオペラの上演。大変貴重なコンサートなのに、直前まで公演スケジュールを見逃していて、慌てて日本フィルの方にお願いして入れていただいた。サントリーホールはほぼ満員。前半にはメトネル『ピアノ協奏曲第2番』が演奏され、ソリストのエフゲニー・スドビンがめざましいソロを披露した。遠目に見るとウクライナ出身のアレクサンダー・ロマノフスキーに少し似ていて、穏やかそうな外見なのにピアノに向かった途端恐ろしいほど険しい顔つきになるのも似ている(彼らは卓越したラフマニノフを弾くという点でも共通していた)。 はじけるような電撃的な打鍵から始まる曲だが、スドビンには曲のすべてが身体の中に入っているという感じで、最初の一音から月並みならぬ密度感があった。過去にすみだでリサイタルを行ったこともあるピアニストだが、今回初めて聴く。精緻な音楽性でオケを導く求心力があり、抒情的で、緩徐楽章ではうっとりするロマンティシズムを醸し出し、強い印象を残した。 

それにしても魅惑的な曲だった。耳慣れないコンチェルトなので調べてみたら日本初演は2004年でオッコ・カム指揮・東京フィル、ソリストはアムランだったという記録があった。この機会にメトネルの3曲のピアノ協奏曲を聴いてみたが、いずれも名作。日フィルがまた素晴らしかった。ラザレフのリハは厳しく、楽員はパートを抜いて演奏させられるなどかなりしごかれると千葉清香さんにインタビューしたとき教えていただいたが、この日は香り立つような艶麗なハーモニーを次から次へと響かせ、その一瞬一瞬があまりに美しいので夢見心地になってしまった。ラザレフが日フィルと作り出す音楽には「色」も「香り」もあって、神々のために作られた美酒とはこのような天上的な味わいなのではないかと思われるほどだった。 40分にもわたる長いコンチェルトを弾いたスドビンは最後まで集中力を切らさず、アンコールのスカルラッティのソナタでは、心の底を打ち明けるような静謐で聖なる音色をホールに満たした。この演奏会のお陰で忘れられないピアニストの一人になった。

 和声の優美さと胸を掻きむしるドラマ性という点で、メトネルとマスカーニには確かな接点があった。ラザレフの大胆さ、的を外さぬプログラミングの妙には相変わらず驚かされる。後半の『カヴァレリア・ルスティカーナ』が始まったのは8時10分過ぎ。まさかそのせいではないだろうが、導入部のテンポ指定が今まで聞いたオペラ上演よりかなり速く感じられた。婚約者に裏切られるサントゥッツァを清水華澄さんが歌われた。2012年のカリニャーニ指揮・田尾下哲さん演出の二期会での上演でもこの役を演じられていたが、7年ぶりのサントゥッツァは可憐で透明感を増し、呪詛の念に乗っ取られた悲しい娘…という表現は控えめになっていた。サントゥッツァの恋敵ローラを富岡明子さんが演じられたが、徹頭徹尾悪役という表情が素晴らしかった。ローラの夫アルフィオを歌われたのは上江隼人さんで、2012年の二期会カヴァパリでは「パリ」のほう(『道化師』)のトニオを歌われていたことを思い出す。稽古のときからカリニャーニから尊敬されていたが、カヴァレリア…のアルフィオで上江さんを聴けるのは贅沢すぎた。この役は直情的で威圧的なだけではないのだ。雄々しく威厳があり、真面目に働いて富を傷ついた市民の誇りを感じさせた。

 サントゥッツァを裏切りローラと不倫するトゥリッドゥを、シベリア出身のテノール、ニコライ・イェロヒンが演じたが、声も姿も堂々たる歌手で、清水さんや上江さんのうまさがこの人の爆発的な声量で台無しになるのではないかと一瞬心配したが、役の無鉄砲さをうまく聴かせてくれた。テノールには色々なタイプがいるが、こういう「華」の持ち方もあるのだと感心することしきりだった。  オケは素晴らしい熱気を帯び、コントラバスの奏者の方々の表情が特に目に焼き付いた。マスカーニの処女作には確かに独特のカリスマ性があり、レオンカヴァッロの作為的なオーケストレーションに比べると「素朴」と言われることもあるが、「田舎の騎士道」とはアイロニー半分で、音楽そのものは十分に巧みで洗練されている。プッチーニほどワーグナーの影響は感じられず、むしろビゼーの『真珠とり』やマスネの『ウェルテル』を思い出す瞬間があった。日フィルがイタリアオペラをやるのは珍しいが、ラザレフも彼らとは初々しいマスカーニから始めたかったのかも知れない。楽譜出版社のコンペに参加するため、マスカーニは26歳でこれを書いたのだ。  

1年前のストラヴィンスキー『ペルセフォーヌ』を思い出した。あのときもラザレフは、オケと聴衆に刺激と興奮をもたらしてくれた。ペルセフォーヌの不思議な余韻は、それから1年間あらゆる瞬間に思い出された。20世紀初頭の作曲家たちが住んでいた金色の雲の上の神話世界から、美味しい果実を切り取って我々に届けてくれるラザレフもまた、神々の国の住人に思える。メトネルとマスカーニの狂おしい「香り」が、グラスの中の果実酒のようにホールを満たした晩だった。


 

 


ディーヴァ・オペラ『後宮からの誘拐』LFJ2019

2019-05-06 18:19:22 | オペラ
東京国際フォーラムのホールB7の822席が3日間ソールド・アウト。2006年のラ・フォル・ジュルネに登場して以来13年ぶりの来日となったイギリスの室内オペラアンサンブル「ディーヴァ・オペラ」の公演は、オペラ愛好家からビギナーまでを夢中にさせる、驚きに満ちた内容だった。演目は『後宮からの誘拐』で、モーツァルトの5大オペラに入るものの序曲以外は、一般的にはそれほど耳なじみのない作品。それでも「オペラを聴きたい!」というお客さんが述べ2400人以上も集まった。これは日本の各オペラ団体にとっても見逃せないことだ。チャンスと廉価なチケットがあれば皆がオペラを経験したいと思っている。

ディーヴァ・オペラは1980年代にピアニストのブライアン・エヴァンスとメゾソプラノ歌手のアン・マラヴィーニ・ヤングによって考案され、1997年に現在の形をとるようになった。登場する歌手は平均して6人から7人で、エヴァンス氏のピアノ伴奏で上演される。衣装とヘアメイクへのこだわりが素晴らしく、かなりの費用をかけて「本物の」テクスチャーを再現している。18世紀のオペラなら、18世紀の膨大な絵画を取材して、布地の素材から作り上げていくという。『後宮からの誘拐』でも、男性たちは独特のコロニアル風の良質なリネンやコットンの衣装で、女性たちは目もくらむようなロココのハイセンスなドレスを着用している。舞台には、籐のスクリーンと猫足の小さなソファ、植木などが置かれていて美術そのものはシンプルだが、歌手たちの衣装にはっとするような見ごたえがあり、歌も演技もかなり達者なので空間に隙が出来ない。ベルモンテ役のテノール、アシュリー・キャットリングとオズミン役のバス・バリトン、マシュー・ハーグリーヴスは2006年の『コジ・ファン・トゥッテ』でフェルランドとグリエルモを歌っていた歌手で、声もいいし芝居も芸達者。飛んだり跳ねたり、ダンスを踊ったりと大活躍で、転換場面では自分たちで装置も運ぶ。やることなすことがとにかく魅力的で、観客はいいタイミングで長い喝采を送っていた。普段劇場で聴く形式的な喝采とは別の、正直な反応だった。

女性歌手は二人。コンスタンツェ役のガフリエラ・キャシディは荘厳で凛とした美しい歌手で、コンスタンツェの長丁場でハードなアリアを完璧に歌い、客席を熱狂させた。今でこそ二期会や錦織健プロデュース・オペラ等で上演されるようになったが、『後宮…』のコンスタンツェを歌える歌手が少ないのはどの国でも同じで、ソプラノに超人的な技術と精神力を求める難役。素晴らしいのは、ガブリエラ・キャシディの超絶的アリアがただの名人芸ではなく、すべて演劇的なものと結びついていたことだ。大公セリムの度重なる説得を受けてなお恋人ベルモンテのために操を守るという、頑ななまでに純潔な娘の役だが、歌手があのように真に迫った演技をしなければ、特に面白味のないオペラにも堕してしまうのだ。ダ・ポンテ三部作以外のモーツァルト・オペラには奇妙に道徳的なところがあり、演技がつまらないとただの勧善懲悪の物語になってしまう。ガブリエラ・キャシディはディーヴァ・オペラの教育プログラムを5年受けて脇役から主役を歌う歌手に成長し、今ではイングリッシュナショナルオペラの舞台にも立っているという。

ブロンデ役のバーバラ・コール・ワトソンは理想的な女召使の声で、「コジ…」のデスピーナや「こうもり」のアデーレが似合いそうなコケティッシュな歌手。華やかなコロラトゥーラで柔軟性に富み、軽やかで面白く、身軽に舞台を駆け回っていた。こういう歌手は演出家にとっても理想的だろう。歌手全員が素晴らしい美男美女(!)なのもこのカンパニーの特徴で、最初から最後まで目の喜びと耳の喜びが持続していく。大公セリム役のデイヴィッド・ステファンソンもここでは台詞だけの芝居だが名歌手で、ディーヴァ・オペラの主要メンバーの一人だという。

「イタリア式の、突っ立ったまま歌うような演出はしないんです」と、演出監督のキャメロン・メンジーズ氏が語ってくれた。ゲネプロでも、B7ホールのさまざまなところから舞台をチェックして、歌手の立ち位置を厳しく直していたが、演技へのこだわりは相当なもので、空間をいかに効果的に使うかということをつねに配慮している。800人規模のホールは彼らにとってはかなり大きいほうで、劇場のない田舎や炎天下のアウトドアでも公演をやるので、今までやった一番小さなホールは60名ほどのお客が集まる小さな集会所みたいなところだったという。

振り切れた演技の熱気に圧倒され、以前見た二期会の『フィガロの結婚』の稽古を思い出した。演出の宮本亜門さんとキャストたちは一体化して完成度の高い芝居を作り、そこにやってきたサッシャ・ゲッツェルが「素晴らしい! けどこれはオペラで音楽なんだ。もう少し芝居を緩めてくれ!」とオケが介入する余地を求めたのだった。確かに、オーケストラがあのような歌手たちの感情の高まりに「すべて」ついていくことは難しい。ピアノ一台なら可能かも知れない。ディーヴァ・オペラはまさにそれを実現していた。創始者にして音楽監督のピアニスト、ブライアン・エヴァンスは鋭敏な感受性の持ち主で、歌手たちのグルーヴを即興的に読み取り、完璧な伴奏をつける。「頭の中ではいつもオーケストラの音が鳴っているんだ」(エヴァンス氏)。

「オペラを知らない人々にも、オペラを知ってほしい」という意図で設立されたディーヴァ・オペラだが、実際イギリスではコアなオペラファンにも人気が高く、ロイヤルオペラやグラインドボーンへ詰め寄せるお客もシーズンになるとディーヴァ・オペラを楽しみにやってくるという。3500円で初めてこのオペラと出会ったお客さんは、とても幸せである。ローカル巡りをするオペラハウスには色々あって、以前見たポーランド室内オペラなどは素朴で可愛らしいカンパニーではあったが、歌唱も美意識も全くディーヴァ・オペラに及ぶものではなかった。ただオペラを知ればいいというのではないだろう。良質の、上品で知的で、香るようなオペラが観たい。この誇り高い集団は、ダイヤモンドのように視覚芸術、演劇、声楽、語学のプロフェッショナルを集め、眼もくらむオペラを残していくいたずらな天使たちなのだ。LFJのお客さんたちはどよめくような興奮とともに拍手喝采し、顔を上気させてホールを後にしたのだ。

何がオペラの本質なのか? オペラは芸術だが、教条的になったり表現者のエゴのはけ口になったり、いたずらに難しくなっては台無しなのだ(正直なところ、『ヴォツェック』や『ルル』はよほど体調がいいときしか見たくない)。上演がどんなにコミカルでフレンドリーになっても、歌手たちが知的であればスコアに対する誠実さが気高い形で浮き彫りになる。GWのお祭りに集まった東京のお客さんは、ディーヴァ・オペラのおかげてまたオペラが観たくなり、この楽しく深遠な世界への理解を深めていくだろう。2019年の彼らのシーズン・プログラムはプッチーニの『蝶々夫人』で、本物のアンティークの着物と日本髪をつけたバタフライが渾身のアリアを歌う。シャープレスを歌うのはオズミン役のバスバリトンだろうか?
ルネ・マルタンは一期一会の素晴らしいアーティストをLFJに連れてくるが、ディーヴァ・オペラを一期一会にするのは何とも勿体ない。『蝶々夫人』と『こうもり』と『ドン・ジョヴァンニ』の3演目くらい、東京のどこかのホールで観てみたいと思う。何よりオペラ通が真っ先に見るべきカンパニーがディーヴァ・オペラなのだ。