曲の間中、前日に聴いたばかりの日フィルとラザレフのメトネルのピアノ協奏曲を思い出していた。この日のオケは覇気に溢れていて、その生き生きとした躍動感は音程のある音と、音程以外の音から構成されているように思えたのだ。勢い、といってしまうとあまりに大雑把だが、風の圧力に関係する要素で、音色の「滲み」のような、あるいは音の生命をなしている「気」のようなもの。これが途切れず大きな起伏をもって持続されていくと、演奏全体に体幹のようなものが出来る。プリンターのカラーインクが何色か欠けると、変わった印象の図像が印刷されることがあるが、『クォーク』はオーケストラの中で日常的に起こっている何かを、放射線撮影した曲に感じられたのだ。ラスト近くの音は、ジャングの中にいるような心地だった。オケの音がライオンの咆哮に聞こえたり、象のいびきに聴こえたりした。チェロは巨大な動物の足元をちょろちょろ逃げ回る小動物たちか。知的でクールな現代音楽というより、ある種の野獣主義というか、アヴァンギャルドな生命讃歌を聴いているような感覚があった。
ノットの指揮者としての天才性を改めて思った。ブルックナーを暗譜で振るだけでない、今までの積み重ねてとは全く別のことをやって「ほら、出来たでしょ!」とオケを驚かせてみせる。ギャンブラーでもありトリックスターでもある新しいノットの顔だった。このベートーヴェンは聴き手からすると一足飛びどころか数段飛び、次元上昇のような演奏で、何がどうなっているのか分からないほど熱狂させらる時間だった(冷静に欠点を見つけて聴いていた人もいたかも知れないが…)。
ラザレフによる日本フィルの演奏会形式イタリアオペラの上演。大変貴重なコンサートなのに、直前まで公演スケジュールを見逃していて、慌てて日本フィルの方にお願いして入れていただいた。サントリーホールはほぼ満員。前半にはメトネル『ピアノ協奏曲第2番』が演奏され、ソリストのエフゲニー・スドビンがめざましいソロを披露した。遠目に見るとウクライナ出身のアレクサンダー・ロマノフスキーに少し似ていて、穏やかそうな外見なのにピアノに向かった途端恐ろしいほど険しい顔つきになるのも似ている(彼らは卓越したラフマニノフを弾くという点でも共通していた)。 はじけるような電撃的な打鍵から始まる曲だが、スドビンには曲のすべてが身体の中に入っているという感じで、最初の一音から月並みならぬ密度感があった。過去にすみだでリサイタルを行ったこともあるピアニストだが、今回初めて聴く。精緻な音楽性でオケを導く求心力があり、抒情的で、緩徐楽章ではうっとりするロマンティシズムを醸し出し、強い印象を残した。
それにしても魅惑的な曲だった。耳慣れないコンチェルトなので調べてみたら日本初演は2004年でオッコ・カム指揮・東京フィル、ソリストはアムランだったという記録があった。この機会にメトネルの3曲のピアノ協奏曲を聴いてみたが、いずれも名作。日フィルがまた素晴らしかった。ラザレフのリハは厳しく、楽員はパートを抜いて演奏させられるなどかなりしごかれると千葉清香さんにインタビューしたとき教えていただいたが、この日は香り立つような艶麗なハーモニーを次から次へと響かせ、その一瞬一瞬があまりに美しいので夢見心地になってしまった。ラザレフが日フィルと作り出す音楽には「色」も「香り」もあって、神々のために作られた美酒とはこのような天上的な味わいなのではないかと思われるほどだった。 40分にもわたる長いコンチェルトを弾いたスドビンは最後まで集中力を切らさず、アンコールのスカルラッティのソナタでは、心の底を打ち明けるような静謐で聖なる音色をホールに満たした。この演奏会のお陰で忘れられないピアニストの一人になった。
和声の優美さと胸を掻きむしるドラマ性という点で、メトネルとマスカーニには確かな接点があった。ラザレフの大胆さ、的を外さぬプログラミングの妙には相変わらず驚かされる。後半の『カヴァレリア・ルスティカーナ』が始まったのは8時10分過ぎ。まさかそのせいではないだろうが、導入部のテンポ指定が今まで聞いたオペラ上演よりかなり速く感じられた。婚約者に裏切られるサントゥッツァを清水華澄さんが歌われた。2012年のカリニャーニ指揮・田尾下哲さん演出の二期会での上演でもこの役を演じられていたが、7年ぶりのサントゥッツァは可憐で透明感を増し、呪詛の念に乗っ取られた悲しい娘…という表現は控えめになっていた。サントゥッツァの恋敵ローラを富岡明子さんが演じられたが、徹頭徹尾悪役という表情が素晴らしかった。ローラの夫アルフィオを歌われたのは上江隼人さんで、2012年の二期会カヴァパリでは「パリ」のほう(『道化師』)のトニオを歌われていたことを思い出す。稽古のときからカリニャーニから尊敬されていたが、カヴァレリア…のアルフィオで上江さんを聴けるのは贅沢すぎた。この役は直情的で威圧的なだけではないのだ。雄々しく威厳があり、真面目に働いて富を傷ついた市民の誇りを感じさせた。
サントゥッツァを裏切りローラと不倫するトゥリッドゥを、シベリア出身のテノール、ニコライ・イェロヒンが演じたが、声も姿も堂々たる歌手で、清水さんや上江さんのうまさがこの人の爆発的な声量で台無しになるのではないかと一瞬心配したが、役の無鉄砲さをうまく聴かせてくれた。テノールには色々なタイプがいるが、こういう「華」の持ち方もあるのだと感心することしきりだった。 オケは素晴らしい熱気を帯び、コントラバスの奏者の方々の表情が特に目に焼き付いた。マスカーニの処女作には確かに独特のカリスマ性があり、レオンカヴァッロの作為的なオーケストレーションに比べると「素朴」と言われることもあるが、「田舎の騎士道」とはアイロニー半分で、音楽そのものは十分に巧みで洗練されている。プッチーニほどワーグナーの影響は感じられず、むしろビゼーの『真珠とり』やマスネの『ウェルテル』を思い出す瞬間があった。日フィルがイタリアオペラをやるのは珍しいが、ラザレフも彼らとは初々しいマスカーニから始めたかったのかも知れない。楽譜出版社のコンペに参加するため、マスカーニは26歳でこれを書いたのだ。
1年前のストラヴィンスキー『ペルセフォーヌ』を思い出した。あのときもラザレフは、オケと聴衆に刺激と興奮をもたらしてくれた。ペルセフォーヌの不思議な余韻は、それから1年間あらゆる瞬間に思い出された。20世紀初頭の作曲家たちが住んでいた金色の雲の上の神話世界から、美味しい果実を切り取って我々に届けてくれるラザレフもまた、神々の国の住人に思える。メトネルとマスカーニの狂おしい「香り」が、グラスの中の果実酒のようにホールを満たした晩だった。
ディーヴァ・オペラは1980年代にピアニストのブライアン・エヴァンスとメゾソプラノ歌手のアン・マラヴィーニ・ヤングによって考案され、1997年に現在の形をとるようになった。登場する歌手は平均して6人から7人で、エヴァンス氏のピアノ伴奏で上演される。衣装とヘアメイクへのこだわりが素晴らしく、かなりの費用をかけて「本物の」テクスチャーを再現している。18世紀のオペラなら、18世紀の膨大な絵画を取材して、布地の素材から作り上げていくという。『後宮からの誘拐』でも、男性たちは独特のコロニアル風の良質なリネンやコットンの衣装で、女性たちは目もくらむようなロココのハイセンスなドレスを着用している。舞台には、籐のスクリーンと猫足の小さなソファ、植木などが置かれていて美術そのものはシンプルだが、歌手たちの衣装にはっとするような見ごたえがあり、歌も演技もかなり達者なので空間に隙が出来ない。ベルモンテ役のテノール、アシュリー・キャットリングとオズミン役のバス・バリトン、マシュー・ハーグリーヴスは2006年の『コジ・ファン・トゥッテ』でフェルランドとグリエルモを歌っていた歌手で、声もいいし芝居も芸達者。飛んだり跳ねたり、ダンスを踊ったりと大活躍で、転換場面では自分たちで装置も運ぶ。やることなすことがとにかく魅力的で、観客はいいタイミングで長い喝采を送っていた。普段劇場で聴く形式的な喝采とは別の、正直な反応だった。
女性歌手は二人。コンスタンツェ役のガフリエラ・キャシディは荘厳で凛とした美しい歌手で、コンスタンツェの長丁場でハードなアリアを完璧に歌い、客席を熱狂させた。今でこそ二期会や錦織健プロデュース・オペラ等で上演されるようになったが、『後宮…』のコンスタンツェを歌える歌手が少ないのはどの国でも同じで、ソプラノに超人的な技術と精神力を求める難役。素晴らしいのは、ガブリエラ・キャシディの超絶的アリアがただの名人芸ではなく、すべて演劇的なものと結びついていたことだ。大公セリムの度重なる説得を受けてなお恋人ベルモンテのために操を守るという、頑ななまでに純潔な娘の役だが、歌手があのように真に迫った演技をしなければ、特に面白味のないオペラにも堕してしまうのだ。ダ・ポンテ三部作以外のモーツァルト・オペラには奇妙に道徳的なところがあり、演技がつまらないとただの勧善懲悪の物語になってしまう。ガブリエラ・キャシディはディーヴァ・オペラの教育プログラムを5年受けて脇役から主役を歌う歌手に成長し、今ではイングリッシュナショナルオペラの舞台にも立っているという。
ブロンデ役のバーバラ・コール・ワトソンは理想的な女召使の声で、「コジ…」のデスピーナや「こうもり」のアデーレが似合いそうなコケティッシュな歌手。華やかなコロラトゥーラで柔軟性に富み、軽やかで面白く、身軽に舞台を駆け回っていた。こういう歌手は演出家にとっても理想的だろう。歌手全員が素晴らしい美男美女(!)なのもこのカンパニーの特徴で、最初から最後まで目の喜びと耳の喜びが持続していく。大公セリム役のデイヴィッド・ステファンソンもここでは台詞だけの芝居だが名歌手で、ディーヴァ・オペラの主要メンバーの一人だという。
「イタリア式の、突っ立ったまま歌うような演出はしないんです」と、演出監督のキャメロン・メンジーズ氏が語ってくれた。ゲネプロでも、B7ホールのさまざまなところから舞台をチェックして、歌手の立ち位置を厳しく直していたが、演技へのこだわりは相当なもので、空間をいかに効果的に使うかということをつねに配慮している。800人規模のホールは彼らにとってはかなり大きいほうで、劇場のない田舎や炎天下のアウトドアでも公演をやるので、今までやった一番小さなホールは60名ほどのお客が集まる小さな集会所みたいなところだったという。
振り切れた演技の熱気に圧倒され、以前見た二期会の『フィガロの結婚』の稽古を思い出した。演出の宮本亜門さんとキャストたちは一体化して完成度の高い芝居を作り、そこにやってきたサッシャ・ゲッツェルが「素晴らしい! けどこれはオペラで音楽なんだ。もう少し芝居を緩めてくれ!」とオケが介入する余地を求めたのだった。確かに、オーケストラがあのような歌手たちの感情の高まりに「すべて」ついていくことは難しい。ピアノ一台なら可能かも知れない。ディーヴァ・オペラはまさにそれを実現していた。創始者にして音楽監督のピアニスト、ブライアン・エヴァンスは鋭敏な感受性の持ち主で、歌手たちのグルーヴを即興的に読み取り、完璧な伴奏をつける。「頭の中ではいつもオーケストラの音が鳴っているんだ」(エヴァンス氏)。
「オペラを知らない人々にも、オペラを知ってほしい」という意図で設立されたディーヴァ・オペラだが、実際イギリスではコアなオペラファンにも人気が高く、ロイヤルオペラやグラインドボーンへ詰め寄せるお客もシーズンになるとディーヴァ・オペラを楽しみにやってくるという。3500円で初めてこのオペラと出会ったお客さんは、とても幸せである。ローカル巡りをするオペラハウスには色々あって、以前見たポーランド室内オペラなどは素朴で可愛らしいカンパニーではあったが、歌唱も美意識も全くディーヴァ・オペラに及ぶものではなかった。ただオペラを知ればいいというのではないだろう。良質の、上品で知的で、香るようなオペラが観たい。この誇り高い集団は、ダイヤモンドのように視覚芸術、演劇、声楽、語学のプロフェッショナルを集め、眼もくらむオペラを残していくいたずらな天使たちなのだ。LFJのお客さんたちはどよめくような興奮とともに拍手喝采し、顔を上気させてホールを後にしたのだ。
何がオペラの本質なのか? オペラは芸術だが、教条的になったり表現者のエゴのはけ口になったり、いたずらに難しくなっては台無しなのだ(正直なところ、『ヴォツェック』や『ルル』はよほど体調がいいときしか見たくない)。上演がどんなにコミカルでフレンドリーになっても、歌手たちが知的であればスコアに対する誠実さが気高い形で浮き彫りになる。GWのお祭りに集まった東京のお客さんは、ディーヴァ・オペラのおかげてまたオペラが観たくなり、この楽しく深遠な世界への理解を深めていくだろう。2019年の彼らのシーズン・プログラムはプッチーニの『蝶々夫人』で、本物のアンティークの着物と日本髪をつけたバタフライが渾身のアリアを歌う。シャープレスを歌うのはオズミン役のバスバリトンだろうか?
ルネ・マルタンは一期一会の素晴らしいアーティストをLFJに連れてくるが、ディーヴァ・オペラを一期一会にするのは何とも勿体ない。『蝶々夫人』と『こうもり』と『ドン・ジョヴァンニ』の3演目くらい、東京のどこかのホールで観てみたいと思う。何よりオペラ通が真っ先に見るべきカンパニーがディーヴァ・オペラなのだ。