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小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

英国ロイヤル・オペラ『ファウスト』(9/18)

2019-09-19 12:20:40 | オペラ
来日中の英国ロイヤル・オペラ『ファウスト』ふたたび(9/18)。既に神奈川でスタートしている『オテロ』をまだ観ていないのに、オペラの残像に吸い寄せられるように昼間の上野に向かった。当日券で出ている一番安い席を選ぼうとしたが、上階センターブロックの一列目中央という好みの席が空いている。予算より高い席になったものの、オーケストラピットの3/4が見え、視界をさえぎるものがないので舞台も綺麗に見えて理想的だった。

英国ロイヤル・オペラの来日公演は2010年(『マノン』『椿姫』)2015年(『マクベス』『ドン・ジョヴァンニ』)を観ているが、総合的に高水準で、今回はさらに調子を上げてきている。『ファウスト』には「もっと近づいてその正体を知りたい」と思わせるものがあった。
オケの士気は一幕冒頭から充分。最初の一音をスタンバイしている弦楽器の構えが真剣だった。軽く驚いたのは、ピットの中にいる男性奏者が全員正装をして黒いリボンタイをつけていることで、他にもこういうオペラハウスはあるのかも知れないが、本当に英国紳士・淑女の集団なのだと思った。柔らかく繊細な木管セクションは、8人中女性奏者は一人。コントラバス6名は中央から上手奥にかけて横長に並び、こちらも女性奏者は一人。金管はホルンの一部しか見えなかったが、独自の配置に指揮者のサウンド・デザインのこだわりを見た。

歌手たちは初日と同様に安定感があり、二度目の鑑賞では見逃していたディテールや脇役の光る演技にも目が行った。ズボン役の花屋のジーベル役のジュリー・ボーリアンの澄んだ声が上階にも綺麗に届いてくる。「この婆さんは悪魔と結婚しようとしている!」とメフィストフェレスに呆れられる未亡人マルトを演じるキャロル・ウィルソンも筋金入りのコメディエンヌで、派手なドレスと媚態で登場した瞬間に笑いをとっていた。3幕のファウスト=マルグリート、メフィストフェレス=マルトの四重唱はどこかコミカルで、シリアスな中に笑いの要素が組み込まれているオペラのからくりに驚かされる。ザルツブルク音楽祭の映像で、ハンプソン演じるドン・ジョヴァンニに牛耳られるレポレロを演じていた昔のダルカンジェロを思い出した。

ファウストのグリゴーロ、マルグリートのレイチェル・ウィリス=ソレンセンはベスト・カップルで、演劇的な指向性が似ていると思った。それぞれ、自分の役についての分析が徹底している。マルグリートの「宝石の歌」は派手さよりも、物語全体の中での位置づけということが強調されていて、全5幕でこの人物をどのように見せていくかということに重きが置かれていた。ソレンセンは、当初来日が予定されていたヨンチェヴァから変更になった歌手で、ヨンチェヴァの前にはダムラウがキャスティングされていたこともあり、正直それほど期待していなかった。ロイヤルからキャスティングされるだけのことはある。演劇的な知性が随所に感じられ、声楽的には…自分自身を知り尽くし、予想外のどんなパターンにも最善を尽くす驚異的な準備がなされていた。長身で美人だが、基礎作りが実直で、浮ついたところがない。
グリゴーロの自己探求の深さにも舌を巻いた。以前オペラシティで聴いたリサイタルで「こんなマニアックなテノールがいるのか」と驚いたものだが、細部まで歌詞と旋律を吟味し、命をかけて歌う。リサイタルの歌曲では伴奏ピアニストがグリゴーロの歌を聴きながら涙を流していた。オペラにもそうした凝縮感があり、尋常でない取り組みが伺えたのだ。

英国ロイヤル・オペラの特徴とは「一途な働き者が集まってくるパワースポット」ということなのではないか。ふとそんなことを考えた。スターになるための処世術や、効率のいいパフォーマンスのコツといったもの…が、あるのかも知れないが、この劇場が与える感動は少し違う種類のもので、全員になんとも言い難い「逆境感」がある。フィジカルに恵まれて、ただ楽しく歌ってきた人はここにはいないのである。
 グリゴーロとソレンセンには、強固な「譲らない生き方」も感じた。全員が、方々の裾野から自分を信じて山を登り続け、頂上で出会った…というのがロイヤル・オペラという場なのではないか。「自分には学歴がないから、一生勉強を続ける」と言ったパッパーノもその一人だ。声楽教師の父のアシスタントをし、未来の伴奏ピアニストとして期待されていたパッパーノは、どの指揮者にも似ていない。アシスタントとして6年働いていたというバレンボイムを尊敬していたが、指揮者としては誰にも似ていないのだ。

パッパーノが18年かけて作り上げた劇場オーケストラの音は、基本的にはとても上品で、モダンさもあるのだが、『ファウスト』では、野卑で通俗的な音、ワイルドで爆発的な音も引き出されていた。もしかして、パッパーノが指揮棒を揮ってあれほど激しく動かないと、簡単に「上品なサウンドに逆戻り」してしまうのかも知れない。時折、びっくりするほどノスタルジックな…ジュリーニやバルビローリの録音を彷彿させるアナログでロマンティックな音も聴こえた。それがあまりに美しいので涙してしまったほどだが…ワルプルギスの夜のシーンでは、屋台のラッパのようなトランペットも聴こえ、パッパーノがオケに求めるイメージの多彩さには舌を巻いた。

ゾンビとなったマルグリートの兄ヴァランタンも登場するバレエ・シーンでは、ジゼルのウィリたちは全員裸足で、大きな叫び声を出して踊っていた。とびきり大きな悲鳴を上げていたバレリーナもいて、ピットでパッパーノが微笑んでいるのではないかと想像した。ソリスト絶唱のピークに銅鑼の音が被さるシーンもあり、とにかくオペラは演劇なのだということを目的に作られている。耳に心地よい、優等生的な音楽は求められていないのだ。
ダルカンジェロのメフィストフェレスは連日揺るぎなく、ドレス姿も凄かった。ルネ・パーペが同じ役を演じた写真ではもっと地味なデザインだったが…ダルカンジェロ版はもっと悪魔的なのだ。歌手によってコスチュームも変わる。

「オペラは人生そのもの」と語るグリゴーロのインタビューを読んだが、この来日公演で英国ロイヤル・オペラが教えてくれるのも人生そのもの…と感慨深く思った。ソリストも、合唱も、オーケストラも、マクヴィカーの演出にも「個人の人生」が感じられた。全員が引き返せない道を歩いてきて、真剣な労働を捧げてひとつのものを作り上げている。すべては「個人」なのだ。それが集団となったときに、凄まじいパワーが出る。
音楽を職業にしている人にとっては、莫大なインスピレーションを得られる上演。音楽をやっていない自分のような聴衆にとっても、こうした感動がどこからやってくるのか、神秘的な感慨に包まれるオペラだった。パッパーノに寄せられた大きな喝采、カーテンコールの後に客電がついても手拍子を続け、ステージに押し寄せた一階席の様子を見ながら思った。この『ファウスト』はただのオペラではなく、ちょっとした奇跡のオペラだったのである。


英国ロイヤル・オペラ『ファウスト』(9/12)

2019-09-14 08:38:53 | オペラ
英国ロイヤル・オペラ『ファウスト』の来日公演を東京文化会館で観る(9/12)。初日は当日券売り場にも長い列ができたらしく、客席は見たところ9割方埋まっていた。記者会見では音楽監督のパッパーノが「METなどでは頻繁に乗る人気作」と紹介していたが、日本ではなぜか上演回数がそれほど多くない。一度きりだった2008年のパリ国立オペラの来日公演でも『ファウスト』は上演されなかった。個人的に、ライブビューイングやDVD以外で生の『ファウスト』を初めて観る貴重な機会となった。

タイトルロールを歌うヴィットリオ・グリゴーロは、来日リサイタルは何度か行ってきたが、本格的なオペラで日本上陸するのは初。デビュー間もない頃はポップス出身のレッテルを張られ、そのイメージから抜け出すのに苦労したが、根性と信念の人で今ではオペラ界のスターのひとりとなった。ホフマンにしてもネモリーノにしても200%の熱意で取り組む歌手で、白髪のウィッグつけた老ファウストが本当に彼だとはすぐに分からなかった。老いた声を出し、演技も本物の老人のようだ。メフィストフェレスとの契約で若返りを果たす場面は鮮やかで、老人からいつものグリゴーロに戻った瞬間、ぴょんぴょんジャンプして大はしゃぎだった。
 メフィストフェレス役のイルデブランド・ダルカンジェロは登場の瞬間から圧倒する存在感があり、バス=バリトンの闇を思わせる美声で空間を埋め尽くした。立ち姿にカリスマ性があり、フランス語も自然に歌う。グリゴーロもフランスオペラ(ホフマン、ロミオ等)を頻繁に歌っているだけあってディクションは高水準だったと思う。パッパーノは歌詞を大切にする指揮者なので、稽古の段階でブラッシュアップされるのだろう。
 2幕ではマルグリートの兄ヴァランタン役のステファン・デグーが歌う「出征を前に」でいきなり心を鷲掴みされた。バリトンの魅力満載で、ロイヤルはこういう凄い歌手も脇役に揃えるのかと驚いた。マルグリートのレイチェル・ウィリス=ソレンセンはロール・デビューらしいが、若さにそぐわぬ成熟した歌唱と演技で、声に仄暗い影がある。ソプラノというよりメゾに近い印象の声質だが、ドラマティックで重いというのとも違う、メランコリックでミステリアスな響きで、前半のやや抑制された演技が後半で爆発していく様子が圧巻。リサイタルでもよく取り上げられる「宝石の歌」も華麗なだけでない、この歌手ならではの理念を感じさせる解釈で、大物感があった。

若さを得たファウストがマルグリートに愛を迫る3幕では、「この清らかな住まい」を筆頭にグリゴーロのロマンティックな歌唱が光る。『トスカ』の牧童としてデビューし、カヴァラドッシ役のパヴァロッティから可愛がってもらったというエピソードを読んだことがあるが、黄金期のテノールの華やかさをどこかでイメージしているのかも知れない。「ジュ・テーーーム」とフェルマータをかけるところも臆面がないが、現代的なバランス感覚もあって、聴かせどころをエスプレッソのように凝縮させている箇所がたくさんあった。高音箇所での思い切ったクレシェンドなどがそれだが、射撃の名手のように一度も外れなかった。客席から熱気を引き出す天才なのだ。

1幕・2幕・3幕まで2時間通しで演奏され(短い場面転換あり)、オーケストラの集中力とスタミナは特筆すべきものがあった。2002年から続くパートナーシップで、完全に指揮者とオケが一体化している。これはスタートラインから奇跡が起こっていたわけではなく、パッパーノいわく「5年単位で進化してきた」成果だという。木管の柔らかな表現はマルグリートの美を細密画のように表し、金管は初日こそやや残念な箇所もあったが誠実でダイナミックだった。弦は呼吸するが如しで、歌手たちのバイオリズムと完璧にシンクロしている。歌劇場オーケストラというのは、そういうものなのだろう。言葉のひとつひとつに吸い付くように、音楽が溢れ出していた。

後半の4-5幕はひたすら衝撃的だ。デヴィッド・マクヴィカー演出は2004年のプロダクションだが、ゲーテの時代のドイツではなく、グノーが作曲をした1850-1860年代のパリを舞台にしており、プロジェクションなどのハイテクをほとんど使わず生の舞台のスペクタクルの醍醐味を見せた。チャールズ・エドワーズの装置は秀逸で、舞台上方にパイプオルガンを作り、ファウストに演奏させる。グノーが聖職者をめざし、オペラに教会音楽のイメージを投影していたことを視覚化しているのだろう。でも、そうだとしたら…『ファウスト』はすさまじい「罪悪感」のオペラだと思う。色欲への断罪というものが容赦なく行われ、ファウストの若さへの渇望には最大限の罪が与えられる。
マクヴィカー版はグノーが書いた7曲のバレエ音楽をすべてカットせずに演じ、ゾンビなジゼル風の異様なバレリーナたちが大活躍した。その中には、身ごもったマルグリートもいる(ダンサーが仮装している)。兵士たちがバレリーナと酒池肉林の踊り(?)を見せ、その中にマルグリートの狂気が浮かび上がる様子は本当に恐ろしかった。5幕のワルプルギスの夜では、メフィストフェレスのダルカンジェロもヒゲのマダムとなり艶やかなカクテルドレス姿で歌う。狂気と退廃と悪魔的なるものの貪欲な表現は、日本人にとっては消化するのが難しいほど手ごわいと思えたが、その衝撃こそがロイヤル・オペラ版『ファウスト』の爆発的な感動に直結していた。

全5幕のグランド・オペラは耳慣れた曲も多く、心が華やぐ瞬間が時折訪れた。「メフィストフェレスのセレナード」は中でも愛着のある歌で、ホロストフスキーやアーウィン・シュロットの録音でよく聴いていたが、生で聞くダルカンジェロの歌がなんといっても最高だった。確かシュロットとダルカンジェロは英国ではダブルキャストだったはずである。エッティンガーの指揮で、ファビアーノ、シュロットの公演を現地で観ていた方は「日本公演のほうが断然いい」と興奮しておられた。引っ越し公演はチケット代も高価だが、リハーサルや調整に十分な時間をかけ、ベスト・キャストがベストなコンディションで歌ってくれるのなら、それだけの価値があるということになる。
 高水準な上演を支えているロイヤル・オペラの根幹にある「真摯な働き者の精神」に触れ、木霊のような神秘的な合唱、職人肌の指揮者とオケのパーフェクトな演奏にただひたすら驚いた。2010年、2015年と引っ越し公演を聴いてきたが、19年目のパッパーノとオペラハウスはますます純粋で高貴な境地に達していると思えた。『ファウスト』はあと3回上演が行われる。

photo: Bill Cooper


セイジ・オザワ松本フェスティバル『エフゲニー・オネーギン』8/22.8/24

2019-08-26 10:09:57 | オペラ
セイジ・オザワ松本フェスティバルの4年ぶりのオペラ公演は、ファビオ・ルイージ指揮『エフゲニー・オネーギン』。全3回の上演のうち、中日の8/22と楽日の8/24を観た。松本を2往復したのは、初日に主役のオネーギンを演じたバリトンの大西宇宙さんを聴くためだった。演奏や演出のディテールを認識するためにも、これは2度鑑賞する必要があったプロダクションだった。

オネーギン役はスター歌手のマリウシュ・クヴィエチェンがケガで降板したため、22日はトルコ出身のレヴァント・バキルチが演じた。初日を体調不良で降板していたこともありスタミナ面での心配があったが、本人も始終確信を持てなくて残念そうな様子だった。この日は一階席の最後列で鑑賞したため、高い場所からピットがかなり良く見えた。ファビオ・ルイージがかつてないほど情熱的に、大きなジェスチャーでテンポも自在に巻いたり緩めたりしながら、全身を使って振っていた。ロシア語のオペラを初めて振るので語学から勉強したというが、すっかり『エフゲニー・オネーギン』の虜になってしまったのだろう。小澤さんも世界各国でこのオペラを振った。チャイコフスキーのオペラに宿る「魔力」がマエストロからマエストロへ感染したのかも知れない。

タチヤーナのアンナ・ネチャーエヴァは両日とも好演。透き通った木霊のような幻想的な美声で、この役だとどうしてもネトレプコを思い出してしまう。ネチャーエヴァは純粋な人で、その役で乗っている期間は24時間オペラに捧げているタイプに感じられた。オンとオフは関係ない、というタイプもいるが、このタチヤーナは歌手が人生の隅々まで捧げつくして演じているように見えたのだ。「手紙の場」では、突然自分の内面に訪れた闇のような孤独感と、全身に満ちる宇宙的なパワーに驚いているヒロインを見せた。

バキルチの不調にもかかわらず素晴らしかった『エフゲニー・オネーギン』で学んだのは、これは人間関係が重要なオペラで、タチヤーナやレンスキー、グレーミンがそれぞれ重要なアリアを歌うため、オネーギンその人は物語を進行させるための「聞き役」でいても成立するということだった。他人の歌を聴いているのも立派な演技である。

しかし、タイトルロールに充分な気力が宿っていることは重要で、24日に大西さんが加わったことで完璧なプロダクションになった。チャイコフスキーの粘り強く、意外な展開を見せる旋律も鮮やかに表現し、演技にも気品があった。1820年代の豪華な衣裳をまとった東京オペラシンガーズの合唱も主役のエネルギーと調和して、いっそう聴きごたえがあった。何事にも満足しない厭世観の塊である青年貴族の役が、大西さんの強い眼力の表情とぴったりなのだ。決闘で一撃の勝利を収める役には、底知れぬ強さというものが必要だ。オネーギンのタフで強靭な魅力が溢れ出し、舞台に欠けていたパズルの一片がはまったことで、完璧な上演となった。

この松本のプロダクションは客席から観ていても、明らかに特別な、高水準のクオリティだった。登場人物に巻き起こる感情が自然で、台本通りに演じているというレベル以上のものがあり、毎回新しいドラマが生まれ、少しずつ違う情熱が燃え盛っていた。平易な言い方をすると歌手全員が「役になりきっている」ということなのだが、毎回異なる聴衆とともに新鮮な演技で空間を満たしていくには、直観の訓練が必要だと思う。歌手全員が見事だった。

18歳の若さで死ぬレンスキーを歌ったイタリア人歌手、パオロ・ファナーレは善良で世間知らずの若者を好ましく演じ、決闘のシーンのアリアも聴いていて万感こみ上げるものがあった。これはロシアのテノールにとって最も大切な歌のひとつだ、と語ってくれたのはディミトリー・コルチャックだったが、イタリアの歌手も素晴らしく歌う。
幼な妻との恋の喜びを滋味深く歌うグレーミン公爵を演じたバス・バリトンのアレクサンダー・ヴィノグラドフには、二日とも大きな喝采が寄せらせた。グレーミン公爵の歌がこんなに染みるのも、それまでのタチヤーナの演技が完璧だからで、この年長者のアリアは鏡のような役目を果たしている。それにしてもヴィノグラドフの「うまさ」は、ある程度年を重ねないと味わいの出ないもので、年相応のベテラン歌手が歌うことで大きな説得力が出た。

野太い声でおきゃんなオリガを演じた若手のリンゼイ・アンマンは、タチヤーナの妹とは思えないほどのギャルっぽさだったが、登場人物の全てが沈鬱なこの劇で、唯一陽気な存在としていいアクセントになっていた。再演演出ではよくあることだが、歌手の性格によって演技を大袈裟にしている部分もあったのだろう。ケーキを素手で鷲掴みにして食べるシーンには驚いた。お転婆で恐れ知らずの性格なのかも。重いメゾで既にワーグナーも多数歌っているらしい。

カーセン演出は、舞台にかなりの傾斜がかけられており、ポロネーズを踊るダンサーたちは大変だったと思う。床を埋め尽くす枯葉が美しく、照明もドラマティック。オネーギンとレンスキーの決闘のシーンの、夜明け前の青から薄紫の世界も幻想的だった。タチヤーナの聖名誕生日でもサンクトペテルブルクの大広間でも、形の違う椅子が舞台を囲むように並べられていたが、チャイコフスキーのオペラの初演が学生たちによるものだったこと、この作品に関して作曲家が「オペラ」という仰々しい呼び名を嫌い、「抒情的な場」と呼んだことを思い出させた。

 名手たちが結集したオーケストラは極上のサウンドで、見事な集中力によって息の長い音楽を聴かせた。本当にあの冷静なルイージの姿なのか? とピットを見て何度も驚いた。チャイコフスキーには、いくつもの解釈の次元があり、深く関われば関わるほど危険な作曲家だとつくづく思う。才能という美徳が、彼自身のどうしようもなく反社会的な部分と隣り合わせにあり、矛盾を抱えたまま傑作を書き続け、最後は袋小路に追い込まれた。
 
 オペラとは妄想による至宝だ。プーシキンもチャイコフスキーもこのオペラによって殺された。プーシキンは妻にしつこく言い寄るフランス人将校ダンテスと決闘し(政府が仕組んだ罠であった)37歳で凶弾に倒れた。チャイコフスキーも同じ37歳で巨大な不幸と出会う。ちょうど『エフゲニー・オネーギン』の執筆中で、ハンサムな自分に愛の手紙を送ってきた声楽家の卵アントニーナを「現実のタチヤーナ」と思い込んで結婚してしまう。エルミタージュ・ホテルでの披露宴は葬式のようで、妻を愛せないチャイコフスキーはモスクワ川で自殺未遂をはかる。人生とオペラに境目なんかない。
 
 タチヤーナとオネーギンは二人でひとつの存在だ。人生に虚妄を抱かずにはいられないロマンティストで、お互いが時間差で相手に「ロマンティストでは生きられない」と説教する。そうした若さのドラマも、老いとともにやがて土の中に埋もれていく。冒頭のラーリナ夫人とばあやのフィリーピエヴナの哀し気な歌は、舞台の歌手たちの優れた表現によって疼くような感情を喚起させた。「昔は許婚以外の人も好きになった」「英国の小説に夢中になった」「今では人々が自分を呼ぶ名も変わってしまった…」。いずれはみんな朽ち滅びて死んでしまう。あの夥しい落ち葉が、この世の役目を終えた命の寝床に見えたのだった。


東京二期会『サロメ』(6/5)

2019-06-08 09:52:38 | オペラ

二期会『サロメ』(ハンブルク州立歌劇場との共同制作)の初日を観た。会場は上野の東京文化会館。今年は小ホールで人形劇俳優たいらじょうさんによる『Salome』を観ていたので、偶然上野で二回目のサロメ。この物語の洞察的な「愛」についての視点を二度見ることになった。演出はヴィリー・デッカー。セバスチャン・ヴァイグレ指揮読売日本交響楽団。

舞台を埋め尽くす無彩色の巨大な階段のセットに圧倒された。段数を数えてみようとしたが最後まで数えきれなかった(40段くらい?)。二期会は稽古場にも毎回同じセットを作るので、歌手たちはあの巨大階段を昇降しながら連日リハーサルをやっていたことになる。キャスト表に記載のない首切り人ナーマンを含めて舞台には約20名の歌手と演者が乗ったが、すべての動きが緻密に計算されていて、時々彫塑的にも見える悲劇的なシルエットが美しい。動きも大変だが、長時間静止したままの場面も多く、数分間微動だにしない歌手たちの姿に息を飲んだ。

「サロメを演出するには聖書から研究する必要がある」とは前述のたいらじょうさんの言葉だが、ヴィリー・デッカーの演出も大変練られたもので大きな衝撃性があった。古いが、同時にモダンな物語でもある。19世紀末にオスカー・ワイルドが書いた戯曲はスキャンダルとなった。演出家のジルベール・デフロが「『ルル』と並んで『サロメ』は20世紀の自立した女性のオペラ」と語っていたことを思い出した。サロメは愛されることを待っている女性ではない。自分の目で見たものを欲望し、自分の持てる力を行使して欲望を果たす女で、オペラのヒロインとしても革命的な存在なのだ。

ヴァイグレと読響のサウンドはピットから饒舌な言葉が溢れ出るような感触があり、華麗でダイナミックだった。R・シュトラウスはこのオペラで卓越したオーケストレーションを書き、その上で多くを演出家に委ねている。「これを演出しろ」と言われたら、どの演出家も最初当惑するのではないか? ト書きは決まっているとはいえ、あまりに多くの自由が与えられている。

ヴィリー・デッカーは、「極彩色の」と呼ばれるR・シュトラウスの音楽に無彩色のセットを配置し、絶世の若い美女サロメをつるつるのスキンヘッドにした。ヘロデ王がおびえる不吉な月のような姿である。それと同時に、俗性から切り離された修道女のようでもあり、赤ん坊のようでもある。無垢で異形のサロメだと感じた。森谷真理さんのサロメは絶品で、一体どのような準備をすればあのような歌唱が出来るのか想像もつかないが、演劇的にも「異形の姫」としての孤独感が圧倒的だった。ヨカナーンの描き方も独特だ。英雄的で微動だにしないヨカナーンも過去に見てきたが、デッカー演出ではヨカナーンは必死にサロメの求愛を拒絶し、自分自身が誘惑されないようにもがき苦しむ。大沼徹さんが見事に演じた。

前日のゲネプロでは田崎尚美さんのサロメと萩原潤さんのヨカナーンで既に結末を知っていた。ヘロデ王の「あの女を殺せ」の一言で、サロメは処刑されるのではなく剣で自死をはかる。『トゥーランドット』もラストで死ぬ演出があるが、それとは別の意味がある。森谷さんの歌と演技が、サロメの絶対的な孤独を伝えてきた。ヨカナーンの眩しい容姿を賛美し、拒絶されるたびに呪詛の言葉に変え、それを繰り返した後に「呪われたユダヤの娘!」と愛する男から突き飛ばされる。階段に倒れこむサロメと、そこから延々と続く無表情、サロメのパートの長い沈黙…それらが様々なことを伝えてきた。背後で喧々諤々とおこなわれるユダヤ人たちの宗教論議は、空疎なおしゃべりに見える。サロメには何も見えないし、聴こえない。突き飛ばされた瞬間に「この男を殺して、私も死ぬ」とサロメは決意した…デッカーはそう意図したのではないか。

サロメが拒絶された理由は「穢れた血」「淫乱なヘロディアスの娘」であるからであって、自分の出目を否定されたらもう何も出来ることはない。どんなに優しくしようと無駄なのだ。無関心に戻ることは出来ない。サロメは恋をし、官能的に火をつけられた。若者の官能は激しく、抑えるのがつらい。ヨカナーンもそういう演技だった。サロメの未来には絶望しかなく、残された手段は何もない。男は理念によって女を拒絶し、拒絶された女はそこで一度、概念的な死を経験する。なんという演出か。すべての歌詞が今まで聞いたこともないほど生き生きと暴れ出した。

 有名な「7つのヴェールの踊り」は踊りではなく、ヘロデ王を誘惑するサロメのさまざまな破滅的な動作によって描かれた。ここでサロメを演じる二人の歌手が、同じ振り付けながらほぼ別人に見える素晴らしい演技をした。森谷さんは森谷さんの、田崎さんは田崎さんの唯一無二のサロメだった。この場面では、以前から歌手がダンサーのような真似をする必要はないと思っていた。演出家は、過去の膨大な「なされてきたこと」を知らねばならず(それは偶然の剽窃を避けるためでもある)、デッカーは他者の中での自分自身を大胆な姿勢で示した。踊らず、ストリップショーもしないサロメは革新的だが、本質的なのだ。そういう試みは、演出家の「男と女をどう見るか」「権力をどう見るか」という素っ裸の心を表すだけに、危険も多い。そこまで本質を観たくない客もいるからだ。歌手や演奏家の熱意を帳消しにしてしまうリスクも負う。演出家とは、たった一人で何かを覆そうとしている存在なのだ。

ここまで観て、これほどのことをやるのだからお決まりの「ヨカナーンの生首」も出てこないかと思ったら、生首は出てきた。しかし、また驚くことが起こった。ヨカナーンが纏っていた黒っぽい厚地の長い上着を横にし(サロメはヨカナーンに拒絶されたあと、しばらくこの上着を着ている)、片手に生首を持つと、まるで胴体とつながった生きた男に見えるのだ。サロメはそこに歌いかける。本当は生きたまま愛したかったけれど、お前は私を見ようとしなかった…という歌詞がそこにはまった。サロメの飢渇感は、ヨカナーンの登場によって突然生まれ、相手からの拒絶によって残虐性に転じる。ヨカナーンはサロメを自己否定の危機にも追い込んだ。見慣れたオペラのストーリーが「本当のこと」から雪だるま式に逸脱した、奇妙な表面に見えたのは凄いことだった。心は深い次元で、別のことを訴えているのである。

ヘロディアス池田香織さん(Bキャストは清水華澄さん)も華やかな威厳を放ち、二期会のメッゾの世界レベルの実力を示した。前半で自決するナラボートも重要な役で、大槻孝志さん(Bキャスト西岡慎介さん)も演出家の意図を汲んだ真剣な役作りをされていた。カーテンコールには稽古から参加していたデッカー本人が現れたが、これほど多忙な人が長く準備に携わるのは珍しい。Bキャストの本番の演技も見届けていったと聞く。「あなたは愛をどう思う?」ということをヒリヒリと考えさせてくれるオペラ演出家という仕事について、しばし呆然としながら考えていた。8日と9日も公演が行われる。

 


新国立劇場『蝶々夫人』(6/1)

2019-06-02 20:41:30 | オペラ

新国『蝶々夫人』の初日を観る。蝶々さんは、海外でもこの役を多くのプロダクションで歌われている佐藤康子さん。ピンカートンは新国初登場のアメリカ出身のテノール、スティーヴン・コステロ氏、シャープレスにバリトンの須藤慎吾さん、スズキにメゾの山下牧子さん、ゴローにバリトン(!)の晴雅彦さん。指揮はイタリアの巨匠ドナート・レンツェッティ氏、オーケストラは東京フィルハーモニー交響楽団、合唱は新国立劇場合唱団。

 どこから語ったらいいのか…初日の初々しさが花の香りのようにはじけた上演だった。佐藤康子さんの蝶々さんは藤原歌劇団の公演でも観ている(上野の文化会館が改装中のときで、偶然にも新国での上演だった)。レンツェッティ氏の指揮は2018年のローマ歌劇場の『マノン・レスコー』で大きな衝撃を受けた。山下牧子さんのスズキは何度拝聴したか数えきれない。ゴローの晴雅彦さんは芸劇プロジェクトでも名人芸を聴かせていただいた。大好きな音楽家が勢揃いした上演で、大好きなプッチーニだった。こういう公演について書くには少しばかり自分を冷静にさせることが必要だ。

 公演の前にはレンツェッティ氏にもインタビューしていたが、『蝶々夫人』は去年聞いた『マノン・レスコー』とは全く別のアプローチだった。人生の真夏を謳歌する神々のような若者たちの眩しさが、若さを失った者を踏みつけていく残酷な美に溢れていた『マノン・レスコー』は、オーケストラのあらゆるパートが鮮烈で、カラフルな原色のパレットによって描かれていた。とりわけ打楽器が印象的だったのでそのことを尋ねると、レンツェッティ氏が13歳から18歳までスカラ座のパーカッションを担当していた事実などが分かった。しかし、蝶々さんでは打楽器は全く別の使われ方をしていた。叔父のボンゾが登場するシーンで打楽器は遠くから鳴っていて、鼓膜を驚かすような大きな音ではなかった。音楽は徐々に立体的に迫ってくる。同じプッチーニでも、指揮者は物語によって全く別のことをする。「この音はなぜこう鳴ったのか」ということをつねに考えさせられ、その後に見事に答えが返ってくる…「どうだ。凄いだろう」という音楽の奏で方がいかに恥知らずでオールドファッションか、吟味されたレンツェッティの指揮によって思い知らされた。

 佐藤康子さんの蝶々さんが素晴らしかった。真剣にこの役に取り組めば取り組むほど、底なしに純粋になっていくオペラの魔法が感じられた。登場から最後の瞬間まで、蝶々さんの若さ、可愛らしさが溢れだし、15歳の少女(ラストでは18歳)が目の前にいるようだった。プッチーニは蝶々さんが未来に抱く期待をオーケストラのホールトーンスケールで表現していて、ときめきが止まらない蝶々さんは歌いだしを決めるまでに「もっと…もっと幸せなのです」と転調を繰り返す。ヒロインがこのように歌いだすオペラの始まりを他に聴いたことがない。佐藤さんは完全に役と同化していて、「ブリュンヒルデが歌えなければ蝶々さんは歌えない」と語る外国人のドラマティック・ソプラノとは別次元だった、蝶々さんは日本人で、プッチーニが理想とした謙虚さと奥ゆかしさがあり、「どうだ、驚け!」といったこれ見よがしの華やかさとは違う、本質的な歌唱だった。

 栗山民也さんの演出は新国で何度も拝見しているが、今まで「転換もなく地味」と感じていたこのプロダクションが、作品の本質を見据えたものだということにも気づかされた。蝶々さんは日本人にとっても微妙な物語であり、そのことを意識しすぎるといとも簡単に逸脱的な演出になる。「怒っているのは演出家ひとりなのではないか?」と思えるものも観てきた。蝶々さんの物語の本質は「怒り」でも「差別」でもない。影を効果的に使ったヴィジュアル、心象風景のような階段、はためく米国国旗…控え目な暗示のすべてが、実はとても音楽を大切にしているものだと分かった。合唱の日本人女性たちの所作もしなやかで美しい。

 オーケストラの響きがこの「平和な」演出を引き立てていた。レンツェッティほどの巨匠なら、新演出の『蝶々夫人』でもいいのではないかと思ったが、マエストロがこの演出の美を肯定し、日本の奥ゆかしい心に尊敬の念を寄せていた。東フィルは何度もこのオペラを演奏しているはずだが、これほど含蓄に富んだ演奏を聴かせてくれたこともない。「イタリアのオケはppppを表現したくても、pがひとつ足りなくなる。東フィルはちゃんとそこを表現してくれる」とはマエストロの弁だが、「指揮者の心に添う」デリカシーがいかに爆発的なものを呼び起こすかオーケストラが教えてくれた。

ピンカートンのスティーヴン・コステロは誠実で真面目なテノールで、この役を「誠実」と形容するのは矛盾しているかも知れないが、ひとつひとつのシークエンスを大切に扱い、トランペットのように輝かしい高音を聴かせた。忙しい歌手だと思うが、日本の歌劇場がこれほど丁寧に準備を重ね、聴衆の心に報いるかを知ってくれたと思う。一幕のラストシーン、三幕でプッチーニがピンカートンのために書き足したアリアも劇的で良かった。

ところで、おかしなことを言うようだが、私はこのオペラでシャープレスが歌うすべてのパートが大好きで、影の主役は彼ではないかと思っている。プッチーニは「星条旗よ永遠なれ」と「君が代」の転回形をオペラで多用しており、その多くをシャープレスが歌う。須藤慎吾さんのシャープレスは大人の表現で、とても説得力があった。シャープレスの旋律は本当に在り難い…この役を歌う歌手はその価値を熟知しているとか確信した。

「このオペラをどう思うか」ということが、上演のクオリティを決定するのだとも思った。ピンカートンを過激に悪者扱いしたミキエレット演出には違和感がある。ピンカートンは凡庸な若い男で、残酷なマフィアでも性格異常者でもない。レンツェッティ氏は「日本でもイタリアでもよくある話だと思う」と語ってくれた。私もずっとそう思っていた。政治的な主張が強すぎると、ラブストーリーではなくなってしまう。ピンカートンも蝶々さんもスズキも「普通の人」なのだ。普通の人の人生に起こる奇妙な奇蹟、虹の瞬間について書いたのがプッチーニだった。虹はなぜ起こるのか、光学的に分析したからといって虹の美しさが消えるわけではない。素朴な命が、この地上にある限られた時間で命がけで輝こうとする瞬間を作曲家は描いた。そんな密やかなアイデアを、同時代の作曲家は持つことが出来なかったのかも知れない。そのせいで『蝶々夫人』の初演は失敗作とされた。

 暴力や戦闘精神が「いずれ卒業しなければならない人間の古い本性」だということは、何度語っても語りすぎることはない。音楽家には強さが必要だが…それが戦闘心やつまらないサバイバル精神につながっていたとしたら、音楽は延々と古臭くて陳腐で色合いを欠いた単色のものになる。レンツェッティの音楽を聴いて、この指揮者はとてつもなく孤独で勇敢な道を歩いてきた人なのではないかと思った。蝶々さんも、ピンカートンも、ゴローもヤマドリも、滑稽な存在ではなくひとつひとつの貴重な命で、戯画的に描かれている人物は一人もいなかった。

 奥深い真実に気づいてしまったとき、手慣れた自分のやり方ではうまくいかないように思えて、新しく生まれ変わったような表現になる…この日の佐藤康子さんの蝶々さんは、まさにそんな「今生まれたばかりの」ヒロインだった。レンツェッティも、このプロダクションと歌手、オーケストラのための一期一会の指揮をしていたと思う。指揮者の研ぎ澄まされた美意識は、時々ひやりとするほど本質的なもので、自分がいかに鈍感さを盾にこの世で生きていたかを思い知らされる。このオペラを初めて見る人のために、指揮者は完全に影に隠れる…ということもしていたと思う。何故そんな凄いことが出来るのか…。

カーテンコールでは小さな小さな蝶々さんの子供を抱きかかえていたレンツェッティ。初日の子役を演じた木村日鞠さんは2015年2月生まれだから、4歳になったばかり。原作に最も近い子供役だった。オペラは6/7、6/9にも上演が行われる。