小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

東京・春・音楽祭『トリスタンとイゾルデ』(3/27)

2024-03-30 12:01:31 | オペラ
3月から4月にかけて約一か月間続く東京・春・音楽祭のハイライトのひとつ『トリスタンとイゾルデ』(演奏会形式)の初日を鑑賞。ワーグナー作品は長大なものが多く、『トリスタン…』も例にもれずだが、二回休憩込みの4時間40分の上演が長く感じられず、非常に凝縮された、的を絞った演奏という印象だった。
インバルもそうだが、ヤノフスキもある時期からずっと年齢が止まっていて「さらに老いる」ことをやめた人のような気がする。初めて見た時から外見がほとんど変わらない。有名な前奏曲を聴きながら、ヤノフスキの背中を見て「このマエストロはどんな子供時代を送ったのだろう」と想像した。日常で使う小さな心が、遥か彼方にある「巨大でとんでもないもの」に頻繁に引き付けられて、尋常ではない夢、想像、インスピレーションに揉まれて育った人ではないのか。龍を退治する大天使ミカエルのようにそれらの魑魅魍魎をやっつけようとして、いつの間にか魅了されて、心が「あの世とこの世」を生きながらにして往来することを可能にしたのかも知れない。そうした人は、この世で起こることがあまりに平凡なので、普段から平然とした表情をまとうことになる。

N響の合奏が素晴らしく、先日の新国の都響とどう違うのかうまく表現できないが、どちらも素晴らしいけれど、こちらは演奏会形式で聴くワーグナーの醍醐味を存分に味わった。コンサートマスターは初めて見る人(ベンジャミン・ボウマン)で、マエストロも全面的に信頼を寄せている様子。ヤノフスキ自身が「演出は不要」と、演奏会形式のオペラのみを振るポリシーを貫いてきた人だから(現在もそうであるかは分からない)、このスタイルが完璧に聴こえるのも自然なことだ。大胆な加速や、嵐のように駆け抜けるパッセージに何度も驚かされたが、N響は怖気づかずについていく。

ステージに二人の金髪の女性。二人とも素敵な衣装を纏っているので最初どちらがイゾルデでどちらがブランゲーネなのか迷ったが、眉間に皺寄せて怖い顔をしているほうがイゾルデなのは明白だった。ビルギッテ・クリステンセンは一幕のほとんどをこの表情で歌い、トリスタンへの憎しみでいっぱいの振動体として舞台に存在していた。このアプローチで、「媚薬」の意味が新しく感じられた。イゾルデは母から授かった超常的な医学の技術と、誇り高い血族の末裔としてのプライドでぱんぱんになっている。イゾルデ歌手がトゥーランドット歌手であることは珍しくないが、これらのヒロインは自意識の面で非常に似ているのだ。対するトリスタンは、マルケ王への従属だけがアイデンティティの拠り所で、婚約者を殺されたイゾルデにとっては見下すべきみすぼらしい男である(惹かれてはいるが)。一幕のイゾルデの怒りは恩着せがましく、「殺せたけど助けてやったのに!」と理屈で相手を羽交い絞めにする。まったく可愛げのない女性なのだ。

それが媚薬の効果で、うっとりとした優しい女性になってしまう。媚薬の場面のオーケストラが震撼もので、いかにこの妙薬が現実離れした魔法をもたらすか、木管やハープのマジカルな響きが饒舌に表現していた。そこからイゾルデの顔が全く別人になったのだ。1幕でのイゾルデの「怒り」がこれほど極端でないと、媚薬の場面も鮮烈にはならない。彼女は「正論」とは別の境地=愛に生きる道へ運ばれてしまう。1幕のラストで歌わないマルケ王(フランツ=ヨーゼフ・ゼーリヒ)が舞台に現れ、一瞬緊張感を醸し出したのが良かった。

トリスタン役のスチュアート・スケルトンは身体が大きなテノール歌手で、イゾルデが芝居に寄せたコスチュームなのに対し三つ揃いのネクタイ姿だったのが少しばかり興ざめだったが、後半から声楽的にどんどん冴えていき、特に三幕は引き込まれた。二幕では、媚薬によって痴れた男女がひたすらお互いを讃え合う。それを見守るブランゲーネが、二階のR席から「お気をつけて…」と歌い出すのが感動的。ルクサンドラ・ドノーセのブランゲーネは優しく、この役の魅力を際立ててみせた。ブランゲーネは時折弁者のような役割も負う。

「トリスタンとイゾルデ」は演奏によってこんなにも印象が異なるのか。ヤノフスキはこの作品こそ演奏会形式にふさわしいと確信していたと思う。二幕終わりでトリスタンの歌手が指揮台によって遮られていたイゾルデと手をつなごうとしたとき、指揮者は狡猾な猫のようにシュッと爪を立ててテノールを制止し、心を溶け合わせたイゾルデと離れ離れに舞台を去るトリスタンがとても残念そうだった。多くの演出では二人は二幕でベタベタになる。抱き合ったり頬を寄せあったりするのだが、それはそれでしかない。それとは違う、もっと深淵な魂の病がトリスタンとイゾルデの絆の正体なのだ。

今まで「トリスタンとイゾルデ」の歌詞の何を見てきたのか、自分の目は本当に節穴だと思った。3幕で傷を負ったトリスタンは、朦朧とした意識の中でさまよえる自分の身の置き所のなさについて語り出す。「母は私を産んで死に、父は私を宿して死に」自分のさだめがわからぬ、と苦悩する。これはジークムントとジークリンデの間に生まれたジークフリートではないか。イゾルデはトリスタンの浮遊する人生に碇を下ろしてくれた。オランダ人が希求した乙女ゼンタそのものだ。官能という罪に与えられた罰のように、血がこんこんと流れ続ける…クンドリに愚弄(?)された「パルジファル」のアムフォルタスと同じである。ワーグナーはこのようにして、物語の男たちに自分の不安と焦燥を重ね合わせた。トリスタンは古代伝説の主人公である前に、ワーグナーの分身であった。芝居は少なかったが、スチュアート・スケルトンがこの場面も滔々と溢れるような悲劇的美声で歌い上げた。

「トリスタンとイゾルデ」は媚薬や不倫の物語である以前に、元々傷ついた存在である「引き裂かれたY染色体」の苦痛の物語なのかも知れない。自然界の雄大さ、激変する心理、精神と肉体の苦痛、酩酊、悔恨、といった要素が、歌手たちの歌以上にオーケストラ譜に書かれている。ワーグナーが交響曲を放擲し、楽劇に全霊を捧げた理由が理解できた。男女のあれこれという陳腐な次元に引きずり降ろさず、あくまでワーグナーの音楽全体を透視したヤノフスキには、尊敬の念を抱かずにはいられない。クルヴェナールのマルクス・アイヒェは今回も冴えていて、スーパースターのオーラだった。マルケ王のゼーリヒも素晴らしかった。男性歌手陣は皆黒の正装で、女性歌手たちは演劇的な衣装だったことで視覚的には世界が二つに割れてしまったが、男性のコスチュームに折衷的なものが少ない現実が問題なのかも知れない。メロート甲斐栄次郎さん、牧童大槻孝志さん、舵取り髙橋洋介さん、東京オペラシンガーズの誠実な歌唱にも感謝を捧げたい。
ヤノフスキとN響は『トリスタンとイゾルデ』のあと一回の上演の後、4/7には『ニーベルングの指輪』ガラ・コンサートも上演する。マルクス・アイヒェはヴォータンを歌う。こんな凄い音楽祭があっていいのだろうか…。改めてこの春の東京にいられることを幸せに思えた。


カーテンコールでのヤノフスキ氏とイゾルデ役のクリステンセン











読響×マリー・ジャコ

2024-03-14 14:23:29 | クラシック音楽
初来日の新鋭マリー・ジャコをゲストに迎えた読響の定期演奏会(3/12 サントリーホール)を聴く。1990年生まれのジャコは23年からウィーン響の首席客演指揮者、24年からデンマーク王立劇場の首席指揮者、26年からケルン放送響の首席指揮者に就任する注目の女性指揮者で、ほっそりとした身体と小さな顔がバレエダンサーのような風貌だ。プロコフィエフ『歌劇《3つのオレンジへの恋》組曲』から洗練された素晴らしい響き。モダンで軽快で、氷のような透明感があり、ユーモアとわくわくする躍動感に溢れている。サントリーホールでこういう響きを聴くことも初めてのような気がした。プロコフィエフのひねくれた感じのメロディが活き活きと踊り出し、拍節感がヴィヴィッドで、細部までくっきりとした旋律線が浮かび上がる。カンブルラン時代に磨き抜かれたフレンチ・センス(?)が読響にはあるからか、ジャコとオケの相性の良さはこの曲から抜群だった。エキセントリックでファンタジックな楽想が、完璧に指揮者の手中に収まっていると思わせるのは、読響の管セクションが本当に見事だからだ。120%の真剣さと集中力が指揮者によって引き出されていた。指揮台から遠い管楽器が「近い」と感じるのは、音量ではなく精巧さからくる感覚である。

ラヴェル『ピアノ協奏曲』では小曽根真さんが登場。始まってすぐにジャジーなジャブがいくつも入ってきて、過去にもラフマニノフのコンチェルトで「やってくれた」快挙を思い出す。ラヴェルのほうがラフマニノフよりジャズに近いし、面白いことになるのは予想できたが、1楽章ではカデンツァ風の長いソロも入ったり「譜面通り」が好みのタイプの聴衆には賛否両論なのではと少し心配になった。ジャコも、初来日のコンチェルトがこんなに型破りで、度肝を抜かれたのではないかと思う。リハーサルでは、彼女はこのヴァージョンを気に入っていたのかそうでなかったのか…アダージョ楽章では冒頭から小曽根さんの純度の高い世界が打ち出され、「本編のラヴェル」がなかなか始まらない。3楽章はほとんど原曲通りだったが、そのときに1.2楽章で行われていた「粋」が、まったく的外れではないことがわかった。ラヴェルが書いたかも知れない旋律を小曽根さんは弾き、ラヴェルと同じ夢の中にいて、ラストまで勢いよく駆け抜けていった。もしかしたら、本番までジャコは納得していなかったのかも知れない。「もう終わりました」とピアノの蓋を閉じる小曽根さんに、アンコールを促すかのように打楽器席から喝采を送るマエストロ。そこからいきなりコントラバス奏者を呼んで、「A列車で行こう」が始まった。弾き終わった後、小曽根さんがジャコに「どう? 俺に惚れた?」といった感じのいい表情を向けていたのが見ていて楽しすぎた。

後半のプーランク『組曲《典型的動物》』は個人的に大好きな曲で、ラジオのパーソナリティをやっていた頃に二回ほどかけたことがあるが、生演奏で聴くのは初めて。フランス的な諧謔精神と詩情に溢れた、大げさで、「わざと書いている」ようなオーケストレーションがプーランクらしい。いたずら心と哀切が陰陽のようにゆらめき、結果的に情動をひどく揺さぶられる。読響の各セクションの明晰な演奏からは、演劇的でオーガニックな要素も感じられ、曲の進行とともにサウンドがどんどんパワフルになっていく。ジャコは現代音楽も素晴らしく振るだろうし、オペラならプッチーニだって得意だろう。彼女と読響でプーランクの『カルメル会修道女の対話』を聴きたいと思った。

ヴァイルの『交響曲第2番』からは、作曲家のシリアスで正統派な顔が見えた。その前の日に、新橋のシャンソニエ『蛙たち』で、俳優の篠井英介さんが歌うエログロな替え歌『お定のモリタート』を聴いたばかりだったので、作曲家というのは見えない短剣を心にしまっておくものなのだなと思った。思えば、プロコフィエフもラヴェルもプーランクも、一筋縄ではいかない人たちばかりで、このプログラム自体が「こじれた紳士たちのダンディズムの宴」のような世界観だった。
マリー・ジャコという人に底知れぬ興味が湧いた演奏会。まだ凄く若いけれど、色々な事を考えている。天才的霊感と「指揮の醍醐味」を感じさせてくれたジャコは、将来METやロイヤルオペラを制する人になるのではないかと確信した。読響ともまだまだ共演してほしい。16.17日にはベートーヴェン/ブラームスという正統派プロを振る予定。