小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

東京交響楽団×スダーン(9/25)

2021-09-27 10:30:09 | クラシック音楽

東響と桂冠指揮者ユベール・スダーンによるフランス・プロ。二日間行われたコンサートの、サントリーホールでの初日を鑑賞した。コンサート・マスターはグレブ・ニキティン氏。マエストロの上品な微笑が懐かしく、指揮棒なしでふわりと始まったフランク 交響詩《プシュケ》の第4曲『プシュケとエロス』から、底無しの魅惑の響きに溺れた。指揮台の上に設置された椅子に座られての指揮だったが、ほとんど立って指揮している印象。大きな手のひらから色彩豊かな音楽が溢れ、オーケストラが香り立つ優しさを伝えてきた。パステルカラーの巨大な神話の壁画が見えてくるようで、遥かな天空の世界に引き込まれる心地がした。

二曲目はショーソン『愛と海の詩』。歌手のアリス・クートが来日できかったため、加納悦子さんがソロ・パートを歌われた。フランス語のたくさんの歌を準備するのは大変なことだったと思う。ドラマティックな情感を含んだ粘り強い歌を聴かせた。ショーソンはワーグナーを尊敬していたが、表面的な形式に憧れていたわけではあるまい。世界観が似ている。『愛と海の詩』を聴いていると、洞窟のような閉所空間にいる気分になる。ソロは男性によって歌われることもあるが(歌詞は男性の視点から書かれている)、現代ではほとんど女性歌手が歌うようになったのも納得がいく。女声は『タンホイザー』の官能の女神ヴェーヌスを連想させ、オーケストラは子宮空間を表しているようだ。

前半の二つの曲で、スダーンの画家のような「筆致」を感じた。優しい色合いで、ふんわりとした手のひらから平和な音を引き出す。作曲家たちが必死に求めていた、永遠の安息のことを考えた。多くの音楽家は繊細で、この世界を粗野で乱雑なものに思っている。ワーグナーは現実とほぼ関係のない楽劇ばかりを書いたが、我々の生きる「リアルな」次元に安息はないと考えたからだろう。

「永遠に女性的なるもの」とは、生まれる前の子宮のような場所ではないか。スダーンのフランス音楽は、しきりに「生まれる前にいた平穏な場所に戻りたい」という渇望感を思わせた。閉じ込められるのではなく、閉じ込められたい。生まれるということは、それ自体凄いショッキングなことで、生まれたくない、永遠に子宮の中にいたいという欲望もあって当然なのではないかと思う。

ココシュカが描いた、アルマ・マーラーとの自画像を思い出した。赤黒い子宮のような岩窟のような場所で、画家はアルマと双子の胎児のように絡み合っている。永遠に女性的なるものを、アルマは幻視させる女だった。マーラーは永遠を与えられ、引っこ抜かれた。マーラーの早逝は、つまりそういうことだった。

ショーソンの音楽を子守歌に、近くの席にいた男性は深くうなだれていた。コンサート中にうなだれているのは、眠っているようですべてを聞いている状態で、見知らぬ男性客は、音のゆりかごの中で胎児のように安らいでいた。私自身は、作曲家が見た夢を一緒に見ているような気分になった。サントリーホールという空間は、このような演奏会では子宮のような場所になる。

想像の世界にいる天才は、見たいものだけを見て、描きたいものだけを描けばいいと思う。作曲家たちも、生きているときはまともな人間だった。名作とはモンスターだ。せせこましい現実と足並みを揃えていては、どんな絵画も彫刻も生まれない。指揮者は、「ある次元」を創り出す人だ。巨匠スダーンの音楽は、夾雑物のない水晶球のような純粋世界で、そこには生まれる前と死んだあとにしか見ることが出来ない秘密が詰まっている。

後半のベルリオーズ『幻想交響曲』も、作曲家の脳内宇宙を感じさせる「現実などない」世界で、ふんだんに使われる半音階の、階段を滑り落ちるような旋律が幻惑的だった。ベルリオーズは現実とイマジネーションを区別しなかった人で、射手座の芸術家特有の超人思想があった。

1楽章から急速な加速をかけるマエストロに、オケは真摯についていく。ノット監督や原田慶太楼さんとの東響も最高だが、スダーンさんとは監督時代に震災も乗り越えている。スダーン東響の音楽がまだ失われていないことが嬉しかった。というより、何かがとても新鮮で、歓喜に溢れ、眩しかった。

夢の小宇宙が、悪魔の裁きのように叩き割られた4楽章と5楽章には度肝を抜かれた。ベルリオーズは自らの幼児性と夢想的イマジネーションを破壊するかのように、闇の色で塗りつぶす。「断頭台の行進」と「魔女の夜宴の夢」は、オペラ『ファウストの劫罰』と繋がっていた。リストやサン=サーンスでもおなじみの不吉な死のモティーフが蝙蝠のように跋扈し、癒しのオーケストラが悪魔のオーケストラに変貌した。ひきつったリズムが管楽器に悪魔のダンスを躍らせ、弦楽器が旋回し、バンダのカリヨンベルが警鐘を鳴らす。魔術が切れたファウストは老い、浦島太郎は白髪のおじいさんになる。ラストは、スダーンのダーク・ファンタジーの威力に打ちのめされ、指揮者の魔性に酔ってただただぼうっとするばかりだった。

 


日本フィル×山田和樹(9/10)

2021-09-13 18:15:44 | クラシック音楽

日フィルと山田和樹さんのサントリー定期。既に色々な方が色々な感想を述べられているように、大変センセーショナルなコンサートだった。前半はショーソン『交響曲 変ロ長調』後半が水野修孝(1934-)『交響曲第4番』。数日前の芸劇より人が少ないのは、感染症でチケット販売に制限がかかったのか、芸劇のほうが曲に人気があったせいか。二つのコンサートは、ある意味連作のようにも感じられたので、サントリーと両方聴いた人は幸運だった。

前半のショーソンは響きも分厚くカロリー高めで、「これぞ日フィル」といった感じの、ラザレフ将軍に鍛え上げられた雄々しいサウンドがホールを埋め尽くした。ヨーロッパのたくさんのオケを知っている山田さんだから、もっと「フランスっぽく」仕上げることも出来たはずだが、正指揮者は日フィルにしかない味わいもよく知っている。解説に「作曲家はワーグナーの影響を受け…」と書かれるのを読むまでもなく、ワーグナーの蒸し暑さが滲みだし、ワイドでドラマティックな爆音クラシックが繰り広げられた。ところどころの音のほつれも野趣といった味わい。ショーソンの室内楽はフォーレみたいなのに、交響曲となると男臭く(?)なるのは、人間に二面性があったからだろう。20世紀を待たずして1899年に亡くなったショーソンの謹厳さと、無意識のうちにそれを超えたいという情熱が聴こえた。フランスものといえば、山田さんはドビュッシーのオペラ『ペレアスとメリザンド』も振りたいと以前語っていたが、このショーソンを聴いて「ペレアスも早く実現するといいのに」と思った。

後半の水野修孝さんの『交響曲第4番』はインパクトが大きく、終演後は前半のショーソンがほぼ頭から飛んでしまった。

第1楽章のはじまりは武満っぽい雅やかな和声で、極楽鳥が星型の庭に舞い降りてきた感じ。多くの現代音楽はこんな感じで漂うように始まって、特に何も語らないまますぐに終わってしまうが、冒頭の響きから「これはもっと骨太な感じがする」と予感させた。1楽章の終わりは不穏で、象やライオンや猿や森の小動物たちが、いっせいに狂気にふれて悲鳴をあげたような様子を想像した。
第2楽章は弦楽器のソロが美麗で、ラフマニノフの交響曲2番にも似た抒情性が溢れ出し、作曲家には語りたいことがたくさんあるのだと感じさせた。水野修孝さんの作品を意識的に聴くこと自体が、初体験だった。曲自体は初演ではなく、2003年に東京交響楽団が初演し、CD化もされている。

声にならない驚きがホールにどよめいたのは第3楽章で、レクイエム的な癒しのハーモニーを奏でていた弦にふっと乗り移るように、ステージ奥でスタンバイしていたピアノが、急に饒舌なメロディを語り始めた。氷の塑像がいきなり動き出して、フレンドリーに握手を求めてきた感じだ。瞬時に、この交響曲第4番は、先日のホルストの『惑星』よりよほど『惑星』というタイトルが相応しいような気がした。温度も重力も質量も公転周期も違う天体たちは、それぞれ別次元の天体の音楽を奏でている。1楽章と3楽章は、水星と木星のほど違っていた。

3楽章は2楽章よりも「ラフマニノフっぽい」感じもした。またしても配信で復習をしているが、録画よりもライヴのほうがやはり衝撃が大きい。3楽章の終わりは星型の庭から空に吸い込まれるような幽玄な余韻が漂った。

水野さんのプロフィールを見ると、ミュージカルや校歌やジャズ、モダンダンスのための曲など多岐にわたる音楽を書かれている。youtubeで高橋アキさんが弾かれている曲はシェーンベルクを彷彿させた。いかにも現代音楽っぽい曲(!)も書けるのだ。2003年、69歳のときに書かれたこのシンフォニーには、何か作曲家の人生を賭けた戦いのような意味があったのではないかと想像する。

カテゴライズという病について、思わないわけにはいかなかった。カテゴライズというシステムは、少なからずマイノリティを傷つける。2020年になって人類は急に多様性の時代を迎え、何だかよく分からないけれどカテゴライズを緩くしようという動きが巻き起こった。最初にジェンダーについてのデリカシーが急速に高まった。だが、カテゴライズという「圧力」は、そんな昨日今日のことでは収まりがつかない。海のものか山のものかはっきりしろ、と脅しをかけてくる。

現代音楽と、ミュージカルや色々な音楽をたくさん書いてきた水野さんは、このシンフォニーで「クラシックを聴きに来た」人間の深層心理にライトを当てた。すごいシナリオで構成されている。「カテゴライズできないから腹が立つ」なんていう感想は無粋だ。作曲家はわざと書いている。ひっそりと「すべて」を管理しようとする鬼に「わーいわーい」と豆をぶつけているのだ。真実を言うために『交響曲第4番』は、多分大げさな姿をしている。シンフォニー4番は神の道化だ。まるでニジンスキーだ。

フィナーレ楽章ではパーカッションがワイルドに咆哮し、マンボっぽいリズムでオケが踊り始めた。山田さんも珍しくところどころジャンプしていた。それでも、変拍子だらけだしアクセントはころころ変わるし、演奏の難易度は高い。聴いているほうは楽しい。音楽はスピーディに展開し、幽霊が肉体を得たようにオケから縦横無尽なジェスチャーを引き出していた。サンバのようなマンボのような面白いリズムで、20世紀の歌謡ショーの趣を呈したかと思ったら、再び不協和音に飲み込まれて曲は唐突に終わった。

譜面台に乗っかった大きくて分厚いスコアが、不思議な物体に見えた。この印刷物の中に、祝祭とも怨念ともつかない作曲家の「すべて」が入っている。このスコアを入れた宇宙船を打ち上げたら、数億光年先の地球外惑星の人々はどのように解読するだろうか?

ベートーヴェンもストラヴィンスキーも作品はスコアとなって永遠に残る。だから作曲家になりたかった、と吉松隆さんは言っていた。吉松さんはご自身が魚座であることを気に入っているが、なんと水野さんも魚座だった。12星座の最後の星座である魚座はボーダーレスで永遠の子供で、万物は最初からひとつだったということを肌で知っている。

自分の書いたものを熱心に読んでくれるのは作者にとって嬉しい。山田さんが『交響曲第4番』をこのように「読んだ」ことは、水野さんにとっても大変嬉しいことだったと思う。この世界の中にいて、芸術家はどう振る舞うべきか。「神の道化」という言葉が再び脳裏をよぎった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


都響×デイヴィッド・レイランド(9/9)

2021-09-11 19:03:15 | クラシック音楽

9/9に行われたサントリーホールでの都響定期Bシリーズ。指揮者は都響初登場のベルギー出身のデイヴィッド・レイランド。緊急事態宣言中の雨模様の夜公演とあって、客席はまばらで、都響のコンサートでもこんなに人が少ないことがあるのか…と少し驚いた。聴衆の数は少なかったが、そのことによって何かが美しくなり、香しい余韻を残す貴重な演奏会となった。コンサートマスターは四方恭子さん。

 フランスやスイスのオーケストラで音楽監督を務め、デュッセルドルフ交響楽団の「シューマン・ゲスト」のポストにあるというレイランドの指揮は表情豊か。大柄な身体をかがめたり話しかけるようにキュー出しをしたりし、一曲目のシューマン 歌劇『ゲノフェーファ』序曲からオケと積極的なコミュニケーションをはかっていた。全身からなんとも言えない人柄の良さがにじみ出ていて、「この人は、本当に指揮をするのが好きなんだな」と至極単純な感想を抱いた。シューマンはピアニストになろうとして挫折した作曲家だが、『ゲノフェーファ』序曲を聴くと、ピアノの装飾音のようなフレーズがオーケストラからも飛び出してくるのが興味深い。他の録音では特に感じなかったが、都響からは巻き舌のような「ピアニスティックな細かい音」が聴こえてきた。

モーツァルト『ピアノ協奏曲第24番』では北村朋幹さんがソリストとして登場。10代の頃から北村さんの演奏を聴いてきて、最近の演奏は美意識が高すぎて、教養のない自分にはよく分からないこともあるが、この夜のモーツァルトは高雅で美しかった。高級料亭の薄味の料理のように、上品で押しつけがましいところがない。もう少し地上に降りてきてほしい…と思う瞬間もあったが、音を前に突き出さないカデンツァも含め、揺るぎないポリシーでさらりと弾き切った。三段重ねにした椅子に座って弾くスタイルも、儀式めいていて神秘的だった。

後半はシューマン『交響曲第2番』。この曲はバーンスタインが死の直前にPMFを指導したリハーサル映像が心に残っている。体調の悪そうなバーンスタインが、最後の力を振り絞って学生たちを指導し、3楽章のアダージョ・エスプレッシーヴォでは「シューマンは狂って死んだんだぞ!」と大きな声を出して全員を奮い立たせていた。レイランドのシューマン2番は、激情は控え目で、その分細部に至るまで細やかな表情をオケから引き出していた。漫画家でも、描いている人物と同じ顔をして作画する人がいるというが、レイランドはそれに似て、曲のモティーフをいちいち全身で表さずにはいられない。きっと顔の表情も百面相だったのではないか。

この曲を書いていたとき既にシューマンの神経は病に侵されていて、音楽は執拗な繰り返しが多く、そのせいか偏執狂的な性格を強調する演奏も多い。反芻が多いのは、脳神経が炎症を起こしているからで、マグネシウムが足りていない。これを書いてから、シューマンの人生はどんどん悪くなる。しかし、レイランドはこの2番を悲劇的なだけの曲として解釈していなかったと思う。

ピアニストのトリフォノフに話を聞いたとき「演奏家はその作曲家をどのように愛するのかということが大切」と語ったので、これはいい表現だと思い、ダルベルトの取材のときに「あなたはどうですか?」と聞いた。ダルベルトからは「私はそういうタイプではない。そんな質問はブリジット・エンゲラーさんに聞きなさい」と叱られた。容易に「あなたはどのように作曲家を愛しますか」と聞いてはいけない、と反省した経験だった。

それでも、「シューマン・ゲスト」のレイランドには、シューマンへの愛について聞いてみたいと思わずにはいられなかった。シューマンは精神を病んで早逝したが、インスピレーションと病は切り離すわけにはいかず、人間としての欠点が音楽の個性であった。スケルツォ楽章はひらがなの「あ」の字をずっと書き続けていると、途中から何の字を書いているのか分からなくなるような世界(?)だが、書かれた音全てが、作曲家の美点であり個性であると思えた。指揮者が作曲家を全肯定していたからだ。

シューマンの交響曲を聴きながら、都響が本当に温かい音を出しているなと感じた。都響サウンドは上品で貴族的だが、冷たくなくて温かい。レイランドとのリハーサルはきっと素晴らしいものだったのだろう。オーケストラの演奏会では、音楽以外の別の「波長」も聴こえてくる。肌で感じるといったらいいか、準備も含めてこのコンサートがどのようなクオリティのもとに本番を迎えたのか、なんとなく伝わってくる。

そのクオリティこそが、音楽の歓喜を完成させる最後のヴェールで、後半は3楽章から熱くこみ上げてくるものがあった。4楽章のはじまりはモーツァルトを思わせる。オペラにこんなフレーズがよく出て来る。弦も管も自由で伸びやかで、クラシック音楽が本来もつ長所は、こんなふうに広い場所に風のように広がっていく感覚であると再認識した。

レイランドの健全さ、人間としてのまっとうさがシューマンを癒している。指揮者が凡庸というのではない。2014年にニューヨーク・フィルが来日したとき、コントラバス奏者の岡本さんが「マゼールは天才で、コミュニケーションをとるのにお互い苦労した。ギルバートは人間的で、意志疎通が楽になった」と語っていたが、指揮者にはそのように二つのタイプがいる。プロのオケならどちらのタイプも経験しているだろう。

大きな音楽だったが、聴衆の数は少なく、この素敵な時間が「小さな音楽会」として終わるのは何だか嫌だな…と思っていたら、いつまでも拍手が続いて指揮者が再びステージに呼び出された。レイランドは少し驚いていたようだったが、胸に手を当てて喝采に感謝していた。レイランドのロベルトへの友情が、指揮者と聴衆との友情にもつながった美しい瞬間だった。

ⒸJean Baptiste


日本フィル×山田和樹(9/5)

2021-09-08 16:13:31 | クラシック音楽

日本フィルと山田和樹さんの芸劇での日曜マチネのコンサート。人気の公演で早々とチケットの販売が締め切られ、会場はたくさんの聴衆で埋め尽くされていた。プログラムはラフマニノフ『ピアノ協奏曲第3番』とホルスト『惑星』。コンサートマスターは扇谷泰朋さん。

ラフマニノフの3番が始まって間もなく、柔らかいオーケストラの音が風のようにステージにふわっと「吹きあれた」感触がした。また可笑しなことを言っていると思われそうだが、弦楽器の音が管楽器に影のように寄り添い、管弦が完全にミックスされた独特の音色になっていた。ボウイングの妙か、極端な弱音指定なのか、インクで印刷された弦楽器パートの音符が、薄墨色というか薄灰色というか、極端に淡い色になっている印象だった。

 そのことでオーケストラの「縦の線」の概念が消え、清水和音さんのピアノが何にも干渉されない、完全に独立した表現に聴こえた。超絶技巧の名曲であり、ホロヴィッツが得意としたコンチェルトで、華やかなイメージが強いが、清水さんのタッチは淡々として余計な抑揚がなく、瞑想的で強靭だった。加速や減速、強弱が「情感」とは切り離されていて、ラフマニノフの曲に抱きがちなセンティメンタルな感興とは別の厳しさが表現されているようだった。

 自分が「風のようだ」と思ったオケの響きの正体を知りたくて、後日このコンサートの配信チケットを購入してストリーミング映像を確認したが、録画ではその印象はなかった。ホールにいなければ感知できなかった質感だったのかも知れない。山田さんの指揮には毎回あっと驚くアイデアが溢れている。「弦楽器が管楽器の影になって、縦の線が消えたようなオーケストラでしたね」と伝えたら、マエストロに笑われるだろうか。包み込むようなオケは、ピアノソロの孤独な瞑想の表現と素晴らしいコントラストで、曲の隠れた意味を浮き彫りにしているように思えた。

 二短調は赤黒いイメージ、とインタビューで教えてくださったのは佐渡裕さんだったが、この日のラフマニノフの3番の協奏曲にも、土の赤黒さを感じた。先祖の霊魂や、大地の記憶と結びついているような「根深さ」があり、これを書いているときのラフマニノフの心境を想像した。人為的な「創意工夫」があまり感じられない。これを弾いているピアニストにしか分からないひとつの道筋が見えるようで、直観的で、本能的な流れが存在している。

第2楽章のイ短調のアダージョは本当に不思議な音楽だった。こうしたピアノの旋律がどこから湧き上がってくるのか謎だった。不安で幻想的で、漂っているのかと思いきや、唐突の啓示に撃たれたような雄弁な「語り」が聴こえてくる。清水さんのパワフル打鍵は、空から垂直に降ってくる雨のように自然で、雨がフルートとともに雫の踊りになったり、雹や霰になったりする。得体の知れない霊魂が天空から飛来して、大気圏に落下してくるイメージも感じた。善きものになるか、悪しきものになるか決められないでいる奇矯な形の魂が、光のスカーフのように舞い降りてくる。森と大地がそれを受け止めて、肯定的な命にする…。理解してもらえないかも知れないが、そんな物語が脳裏にちらついた。

ラフマニノフの3番の協奏曲を新たに見出した、という感触があったが、それは芸術と自然の無限のつながりに圧倒された衝撃でもあった。ある角度から見ると、この曲を作ったラフマニノフは完全に透明な媒介で、そこに霊的なもの、神羅万象のすべて、宇宙の塵や屑のすべてが吹き荒れている…そんな妄想じみたことを考えた。もちろん、マエストロもピアニストもそんなことを考えてはいなかったかも知れない。前代未聞の名演を打ち上げた山田さんと清水さんはキラキラとした笑顔で喝采を受け止めていた。

前半が凄すぎたため、後半のホルストはオーケストラのエンターテイナー的な作品として安心して楽しめた。配信映像だと、逆にホルストのほうが面白い。山田さんの指揮の巧みさが表情をまじえて伝わってくるし(水星を振っているときのラブリーな表情が印象的)、各パートの素晴らしい演奏も詳しく確認できる。とても若い頃からR・シュトラウスの大編成の交響詩をめざましい指揮で聴かせた山田さんの才能を再確認した。

7つの天体の曲のうち、個人的に金星のおっとりとした優美な曲調が一番好きだったが、この日フィルのコンサートでは、木星のゴージャスな響きに心を鷲掴みにされた。その前曲である火星の戦闘性、金星の魅惑、水星の諧謔性のすべてが木星にはそなわっていて、爆発的なユーモアや祝祭感も加わっている。見事なトランペット・ソロを披露したオッタビアーノ・クリストーフォリさんには、いかに「木星」のトランペットが大変か実演を交えてお聞きしたことがある。音符のインターバルがあり、音程を外さないで吹き切るのは結構なストレスがいるとのことだった。木星は占星術では射手座の支配星で、寛大さ、楽観性などを表徴するが、「快楽をもたらす者」というサブタイトルは、神話の好色なユピテルにちなんでいるのだろう。ユピテルは雨に変身してダナエの寝室にしのびこんだりした。木星の巨大さを表す合奏に、またしても「風」の響きが聴こえ、木星が巨大なガスの星であることを思い出してはっとした。

 20世紀も10年以上経って、このような無邪気で面白い曲が書かれたことは喜ばしい。ホルストの神秘主義はどこかポップで、演劇的な分かりやすさがある。「わくわくするから、惑星なのだ」と、独り言をつぶやきながら聴いていた。1846年に発見された海王星は、占星術では80歳以上の年齢域を示す惑星と言われ、「恍惚の人」の星である。涅槃からの呼び声のような女声コーラス(ハルモニア・アンサンブル)が美しかった。

 山田さんには「宇宙やオカルトのことを音楽の原稿に書いたら、すっかり評判が悪くなってしまった」とインタビューで愚痴ったことがある。「そんなこと、口に出すからダメなんですよ」と笑われたが、山田さんもオカルトはともかく、きっと宇宙は大好きなはずなのである。日フィルの『惑星』は5年前のインキネン指揮も良かったが、7つの天体アンセムとなった今回も名演だった。芸劇の長いエスカレーターを降りるとき、「楽しかった」「素晴らしかった」というお客さんの声が聴こえ、自分も嬉しい気分になった日曜の午後であった。

(写真は日本フィル公式ホームページより)

 


東京都交響楽団×小泉和裕(9/4)

2021-09-05 02:01:02 | クラシック音楽

9月に入って気温が急激に下がり、冷たい雨続きの日々になった。連日ミューザに通っていた8月上旬が遠い過去のように思える。8月下旬は、オーケストラ公演をほとんど聴かなかった。諸々の精神的な事情からそうする必要を感じていた。9月4日の都響と小泉さんの芸劇は、久々のオーケストラ鑑賞となった。

シューベルト『交響曲第5番』の溌剌とした始まりから、全身が癒される心地がした。オーケストラの音が苦痛でなく、純粋な歓びであることを再認識し、嬉しかった。都響のアンサンブルは毎回素晴らしい。すみずみまで準備され、充実したリハーサルを想像した。都響は今年に入ってからも「大地の歌」を始め、8月の「マイスタージンガー」まで色々な公演が中止(延期)となったが、準備していたものが世の中に出ないのはオーケストラとして大きなストレスのはずだ。小泉マエストロとの共演では、いつも都響の凛々しさや雄々しさに感動する。この日のシューベルトは、優雅さの中に憂愁があり、都響の響きの眩しい切れ端が、夏の終わりに感じる説明できない心の疼きを刺激した。

コロナで夜の灯が消えてしまってから、太陽の光を意識するようになり、太陽とともに生きることが本来の人間の生活だと思い直すようになったが、日没がどんどん早まり気温が下がるこの日々は、否応なく何かの衰え=「死」を連想するようになった。自分の肉体の死は、案外呆気なくやってくるのかも知れない。秋の感傷か、本当に心身が参っているのか。シューベルトの10代の名作にも、遠からず死の気配を聴いた。都響の知的な合奏が、明るさだけではない、裏色としてある楽曲の暗さを暗示しているように思えた。

物事を自由に、シンプルに感じることを続けたい。二期会『ルル』の公演前には毎回会場近くの花園神社の敷地の端にある、貧しい感じの「芸能の神様」の祠にそれを願った。曇りガラスのような何かが、物事を曲解させないよう、ありのままの姿を感じられるよう…迷信じみた願いが、未来を生きるための蜘蛛の糸だった。

チャイコフスキー『交響曲第5番』は、遅いテンポで始まった。音楽が連想させるのは廃墟のような樹海のような、すべての生き物がしなだれて死んでいるようなしょんぼりした世界で、暗鬱そのものだった。管楽器は息を繋ぐのが大変だったと思う。木管奏者たちの音がソリストの音のように一体化し、どのセクションも明解な歌を奏でた。情念というか念力というか、強烈な「気」の渦巻きが巻き起こり、暗鬱世界が戦闘的な世界へと成長していくさまは圧巻だった。マエストロの足は指揮台から微塵も浮くことなく、指揮姿はアルファベットの「A」の字をキープ。この音楽はエキセントリックなのではない。チャイコフスキーは『悲愴』の前から濃厚なタナトスの世界と生きていたのだと実感した。

2楽章も、遅い。ふたつの葬送音楽が続くようで、ホルンの見事なソロは死者を迎える天国からのサインに思われた。木管の明るい響き、弦の優しさが続き、それらが銀河のような渦巻きになり、変則的で巨大なチャイコフスキーの宇宙が創り出された。生まれたときから作曲家とともにあった不安、創造と引き換えに与えられた人生の悲惨を連想した。将棋で何億手も先を読む人工知能は、将来名曲を作曲するのかも知れないが、滅びゆく肉体を持たないものが、この泥のような生きることの不安や葛藤までも書くことが出来るだろうか。シューベルトもチャイコフスキーも、その後作品が繰り返し演奏されたことに比べたら、肉体があったのは一瞬のことで、どちらの人生の終わりも悲惨だった。チャイコフスキーは国葬されたが、それが何だと言うのだろう。

3楽章のワルツの始まりが、奇矯に感じられた。今まで感じたことのないリズムの吃音で、バレリーナがこの曲で踊ろうとしたら、トウシューズで躓いて転んでしまうと思った。ワルツの優雅さは見掛けの厚化粧で、本当は死の舞踏だったのではないか。小泉さんは明らかに、普通でない「仕掛け」をこの5番に盛り込んでいた。というより、潜在的にあるものを引き出していた。このワルツは、バラバラになりそうな世界を表現している。一拍目に時々わざとおどけたようなホルンの濁音が混じるのは、3楽章のワルツがグロテスクなものを含んでいるということのヒントなのだ。

4楽章はカタストロフィックで狂騒的で、空から無数の蛙が降ってきたようで、チャイコフスキーの「これでもか」というカオスの渦巻きの中で、オーケストラのブレない美意識が活きていた。珍しい転調を耳にすると、それがどのように出来ているのか熱心に学んだというチャイコフスキーの「工夫」は、大伽藍の崩落のような最終楽章でうまく使われていたが、何かの癒しのための創作が、逆に傷口を広げるような痛みに転じているような「転倒」も感じられた。死の予感、死する運命が至る瞬間に満ち満ちていて、生きている人間がこれほど死にまみれていたら、辛くなかったはずはないと同情した。

その感覚が、生きている自分には必要で、ひやりとする痛みこそが唯一の癒しである。生まれたときから何もかもが不安で、「お前が不安に思っていたことは、こういうことだろう」と音楽から言われると「そうだ。その通りだ」と答えるしかない。

夏の疲れを微塵も感じさせない都響と小泉さんの「5番プログラム」は圧倒的だった。マエストロのソロ・カーテンコールでは、小泉さんはコンマスの山本友重さんも引っ張ってきた。4楽章での山本さんの熱演する姿も忘れられない。都響の名演からは、言葉にならない友情のようなものを感じる。この日はチャイコフスキーにも友情を感じた。忘れがたい9月の演奏会。

ⒸFumiaki Fujimoto