小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

読響×シルヴァン・カンブルラン(10/25)

2022-10-28 23:56:22 | クラシック音楽
悲願の再来日を果たしたカンブルランと読響の久々の共演。10/19にはバルトーク、ビゼー、日本初演のダルバヴィ、サン=サーンス、リゲティという凄いボリュームの5曲のプログラムを約2時間半に渡って聴かせ、桂冠指揮者としてのカリスマ性と10年間をともにしたオーケストラとの固い絆を感じさせてくれた。サントリーでの2プログラム目となる10/25は、ドビュッシーの『遊戯』から始まった。咄嗟に先日のマケラとパリ管のドビュッシーを思い出す(こちらは交響詩『海』)。マケラの、混沌を呼び起こそうとしつつもクリアで洗練された「デジタル世代」の音と比較すると、カンブルランのドビュッシーはもっとアナログなオーケストラ黄金時代の音とつながっている印象。現在の首席指揮者であるヴァイグレとの好相性を感じさせる演奏会が多かった読響だが、カンブルランとの10年は決して消えることのない財産だった。19日のコンサートでは少し老けたように感じたが、それは錯覚で、この夜のカンブルランはとても若々しく、ロンドン響で来日したラトルより7歳も年上とは信じがたかった。カンブルランのドビュッシーからは、ヴェネツィア派の画家の天井画のようなパノラマスコープが幻視された。高音は黄金のように輝かしく、低音は官能的で、一節一節が謎のように問いかけてきて、次の瞬間には思いがけない答えがもたらされる。ニジンスキーがバレエ・リュスで踊った『遊戯』は二人の女性と一人の男性がテニスに興じる恋の心理劇のバレエだが、カンブルランは神々が人間と交じり合っていた時代の絵巻物としてこの曲をイメージしていたのかも知れない。譜面台のスコアを勢いよくめくるたびに、指揮者の脳の中で絵巻物のように新しい物語が展開されていくようだった。

この前日に上野で聴いた都響とメルクルの『展覧会の絵』は、大御所の風格を備え始めたメルクルの、逡巡や戸惑いを消し去ったある種の「退屈さ」を感じさせた。予定調和的に巨大化していくムソルグスキーには、なんの不意打ちもなく、せっかくの都響が体育会系の演奏に傾いていた。テンポ感が生真面目すぎるのだ。カンブルランのリズムは蠱惑的で、逸脱することはないが、聴き手の予想を超える波を作り出す。どのパートもつぶれることなく綺麗に聴こえるが、全体は左脳的にとらえ切れず、ドビュッシーの悪魔性が次々と溢れ出して脳に麻酔をかける。泉のように溢れ出る豊かさが眩しかった。

一柳慧『ヴァイオリンと三味線のための二重協奏曲』では、演奏の前に先日90歳で亡くなられた一柳先生の追悼のための黙祷が行われた。三味線の本條秀慈郎さんとヴァイオリンの成田達輝さんとカンブルランが並んで黙祷。世界初演となった二重協奏曲は、余白が不思議な殺気を感じさせる。錦絵のような雅やかさも、水墨画のような枯淡も拒絶する、容易にカテゴライズ出来ない、反骨精神のようなものを感じた。コンサートホールの客席でたびたびお見掛けした一柳先生の優しいお姿を思い出し、その内側に秘めていた強靭さを想像した。日本人がオーケストラの曲をつくるときの覚悟というものがあるのではないだろうか。日本の指揮者にも最近、特別な覚悟を感じる。「洋楽器」を担当した成田さんが、黒い着物のようなコスチュームを着ておられるのが印象的だった。成田さんのパートも本條さんのパートも、一筋縄ではいかない技巧が求められていた。

後半のドビュッシー『イベリア《管弦楽のための映像から》』は、カンブルランが神々の世界からやってきたおおらかな人のように思えてならなかった。20分間にわたり、楽観的でリズミカルなオーケストラの祝宴が、飄々と情熱的に繰り広げられた。ふだんはオーケストラから滅多に聴こえない微細な色彩や振動が客席に届けられ、指揮者がこの世界から感じている独特の触感が伝わってきた。天体がダンスをしているようなイメージで、ジュピターやサターン、ウラヌスやネプチューンやプルートらの木星外の惑星たちが人の姿をまとって酒宴をしている。読響はきびきびと情熱的で、次々と面白く豊かな表情を見せていく。2017年のメシアンの『アッシジの聖フランチェスコ』の奇跡的な名演が頭をよぎる。カンブルランのようなスケールの大きな理想主義者についていくのは、大変なことだ。冒険好きのとんでもないお父さんに、オケは家族となってついていった。5年経っても忘れられない。「イベリア」ではドビュッシーが神々の世界と交信していたこと、音楽の中の喜悦と法悦を悪魔的に知り尽くしていたことを教えてくれた。

カンブルランは「宴」の人で、70歳の誕生日には音楽家も多い一族全員を招いて、フランスのシャトーを一日借り切って祝ったという。その様子を想像するだけで楽しい。最後の曲であるヴァレーズ『アルカナ』では、大勢の管楽器奏者と打楽器奏者がステージに乗り、冒険的でアヴァンギャルドな20分の現代音楽を「祝うように」演奏した。ところどころストラヴィンスキーの『春の祭典』や『火の鳥』を彷彿させるが、形をなしそうになるたびに解体され、過激な断片となって空間に飛散していく。未来的なのか原始的なのか…おそらくその両方で、ヴァレーズは星々の生成と消滅を巨大なキャンバスに描き出そうとした。「アルカナ」は、タロットカードの用語でもあり、22枚の大アルカナと、56枚の小アルカナがある。タロットの印象的な図柄である「運命の輪」を想像しながら聴いた。事物や時間は流転し、円環に飲み込まれていく。どういったリハーサルを行ってこの本番になったのか。おそらく無茶振りもしているであろうカンブルランに、嬉々としてついていく読響が頼もしく誇らしかった。

 素晴らしい人々に溢れているこの世界で、特に忘れがたいのは雲の上に住まっている知的な人で、カンブルランの知性はいつなんどきでも心のすべてを満たしてくれる、特別なものだと実感した。あれもこれも素敵な指揮者ばかりだが、神々の国から地上に釣り糸を垂れているいたずらなマエストロには恋心のようなものを抱く。カーテンコールに登場したカンブルランは相変わらずチャーミングで、素晴らしい笑顔で、薔薇色の頬が若者のようだった。29日にも読響との共演が行われる(東京芸術劇場)。


ⓒ読響














クラウス・マケラ×パリ管弦楽団(Aプロ)

2022-10-18 15:38:28 | クラシック音楽
桁外れの才能で都響と早くから共演を果たし、日本にも多くのファンをもつ26歳のスター、クラウス・マケラが指揮するパリ管弦楽団の来日公演を10/15(東京芸術劇場)と10/17(サントリーホール)で聴いた。2021年シーズンからパリ管の音楽監督に就任しているが、その時点で25歳。現在26歳という超若手マエストロは、2027年にはコンセルトヘボウ管の首席指揮者のポストも決まっている。

ドビュッシー『海』から、パリ管はこんなに面白いオーケストラだったんだ! という嬉しい驚きに満たされた。芸劇は移動に間に合わずロビーで聴いていたので、サントリーで聴いたときは「こんなふうだったのか!」と興奮した。エキセントリックなことは何もしていないのに、音楽全体が立体的で、官能的で鮮烈で、ぴしぴしと発砲している。プレイヤー全員の心がわくわくしていて、お行儀のいいクラシックのコンサートじゃないみたい。オケのコンサートは音を聴くだけでなく、演奏家たちが指揮者をどう思っているか、視線や空気感で感じる楽しみがある。ベテランだらけのパリ管に、少年のようなマケラがやってきて、明らかにみんなワクワクしている。新しい音を出しているのだ。コンサートマスターの千々岩さんの艶やかな音色がさまざまな箇所で光り輝いた。木管のうまさ、響きの豊饒さには息を飲んだ。かさかさという気配を醸し出す弦の弱音にも、面白い企みが聴こえてきた。

Aプログラムはこのドビュッシー「交響詩『海』」とラヴェル『ボレロ』、ストラヴィンスキー『春の祭典』で、芸劇でノックアウトされた二日後にサントリーで聴いて、改めてマケラが選んだ3つの作品が有機的につながっていることを認識した。どの曲にも原始的な「ズン・チャッ、ズン・チャッ」という野蛮なリズムが登場し、オーケストラが狂騒へ飛び込んでいくことを誘導している。文明的ではない、それ以前の非文明的な衝動が現れている感じ パリ管らしいプログラム、というだけでなく、マケラとともに未知の次元に飛び込もうとしているパリ管の現在が聴こえてきた。

それは真にユニバーサルな表現とは何か、という大きな問いで、パリ管がパリ管らしいローカルな音を出していればいい、ということとは別の次元上昇が起こっていた。宇宙ステーションから巨大な光を放って、別宇宙からの回答を待っているような音と言えばいいか。2015年のハーディングのマーラー5番を聴いた後、「こんな恐ろしいエリート軍隊みたいなマーラーを、本物のエリートであるパリ管を使って鳴らすなんて」と書いたことがあり、そこから日本のクラシックファンの反感を買って、すっかり自分は凋落した音楽ライターになってしまったが、あのとき恐怖を感じた集団と今回のパリ管が同じオーケストラだと思えないのだった。

『ボレロ』は芸劇で最初に聴き、スクリーンの中の無敵艦隊が、映画館の客席に水しぶきをあげて乗り込んできたようなド迫力に心臓が止まりそうになった。前半の木管と金管のソロによるリレーでは、どのパートも緊張して当然だと思うが、パリ管のうまさは格が違っていた。絶対にヨレないし外れない。こんなものを書いたラヴェルは、管楽器いじめだと毎回思うが、管楽器だけでなくすべてのパートがよじれていて、腸捻転みたいになっている。管に気を取られつつ一瞬バスを見ると、全員が日時計のように退屈で単調な音を鳴らしている。ヴァイオリンは赤ん坊を抱くように楽器を抱えている。改めて『ボレロ』の底なしのブラックユーモアに哄笑的なセンスを感じた。バルトークを弾くためにマジャール後を学んだ、という演奏家の話を聴いて「それは素晴らしい」と思ったことがあったが、ラヴェルのボレロは完全な宇宙語で、「感じる」しかない言語だった。みんながそれぞれに原始的かつ未来的な「超・言語」を放っていて、耳慣れたボレロがまったく未知のボレロだった。
二度目をサントリーで聴き、マケラはかなり吟味してこの曲を作り上げていると思った。二回のボレロはそれぞれ異なるボレロで、オケもマケラもその場その場で一回切りの冒険をしていることが認識された。

ストラヴィンスキー『春の祭典』はベジャール・バレエで何度も聴いているので個人的になじみがあるし、バレエの情景を思い出しながら聴く楽しみもあった。ベジャールはバレエリュス版より過激な「鹿の交尾にインスピレーションを得た」男女の群れの「春の生殖」をバレエ化し、初演からしばらくはブーイングの嵐だった。バレエリュスの初演でも、パリの観客はこの音楽にアレルギー反応を示した。今ではすっかり名曲に落ち着いてしまった感もあるが、パリ管の演奏はストラヴィンスキーの試みがいかに途方もないものであったか、聴衆の恐怖や驚愕がいかほどのものであったかを知らしめてくれた。あらゆる瞬間が予測不可能で、人間の脳のなりゆきでは追いつけない。うまく弾くとかうまく吹くとか、そういう基準で鳴らしていて出来上がるのか、そもそも何を考えて演奏しているのか、左脳で考えてもまったく仕方ない。「パリ管は、なんて面白い人たちなんだ!」と心の中で叫ぶしかなかった。
すらりとした長い脚をアルファベットの「A」の形にして指揮台に立つマケラはバービー人形のボーイフレンドのようにかっこいいが、変拍子をすっかり身体に沁みこませて、全身を激しく揺さぶってオケを煽る姿はロックスターよりかっこよかった。
ストラヴィンスキーのハナモゲラ言語は、言語学のカテゴリーを超えて、全人類・全宇宙の生き物の共通の衝動を示している。こういう果てしないものを作り出す原動力として、当時のウィーン前衛派に対する反骨精神もあったのかも知れない。死にゆく音楽のヒーロー美学とともにあったシェーンベルクの対岸にいたストラヴィンスキー。
マケラが覚醒させたパリ管の音は、ひたすら未来へと向かっていた。オーケストラは指揮者のどのような意図によってもチューニングされていくが、マケラが見つけ出したダイヤルは、パリ管の最高に刺激的な周波数とシンクロしたのだった。
「未知数」という言葉が脳裏に揺曳した。10/18にはBプロが演奏される(サントリーホール)。