小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

ボリショイ・バレエ・in シネマ『白鳥の湖』

2020-06-19 04:48:32 | バレエ

ボリショイ・バレエ・in シネマ『白鳥の湖』昼の回をT・ジョイPRINCE品川で鑑賞。新型コロナウィルス対策で事前に入場者数の制限の告知があったが、座席は椅子も大きく前後左右のゆとりがあり、「密」な感じはなかった。
 
ユーリー・グリゴローヴィチ版は2000年に最終的な改定が行われたものだが、美術には何となく1940年代の面影がある(特に白鳥たちが「囚われている」二幕冒頭の表現)。一幕の宮廷シーンでは、王子と二人の女性の友人との踊りが多くを占めるが、この二人の友人役がどちらも見事で、大きな拍手喝采を浴びていた。ジークフリート王子役のジャコポ・ティッシはイタリアから招かれてボリショイに入ったダンサーで、2020年の来日公演でも王子を踊る予定。最初はずいぶんおとなしい印象だなと思って観ていたが、ひとつひとつの動きが誠実で抒情性があり、長身なだけにジュテが華やかに見える。横顔が美しく、ノーブルな雰囲気の持ち主。

スミルノワのオデットが完璧だった。怯えたような表情で全身で哀しみを表現し、塑像のように白鳥の象徴的なシルエットを見せる。ボリショイ・バレエ・シネマは映像がとても綺麗なので、スミルノワの動きも思い切り目を開いて凝視したが、肉眼では捉えられない微細な動き・オーラの放射(!)が超高速で行われていると感じた。どうしたらそういうバレエになるのか。ロパートキナ、ザハロワに比肩する伝説の白鳥だと思う。ティッシのサポートは真剣で、スミルノワとの信頼関係がうかがえた。

この日のボリショイのオーケストラは独特で、マエストロの個性なのだろうが打楽器と低弦を爆発的に鳴らし、一幕は戦争音楽のような過剰なチャイコフスキーだった。舞台とのシンクロはぴったりで、髪の毛一つ分もズレない。金管も木管も正確で、正確過ぎるほどだったが、個人的にオーケストラには別の感動を求める。これはバレエに徹したオーケストラ表現なのだろう。三拍子の一拍目が聴いたこともないほど強く、音響の環境のせいもあるのだろうが、強い圧迫感があった。

これはまさにボリショイだな…と思ったのは、幕間インタビューでトリリンガルの司会の女性がスペイン役の若いダンサーをインタビューしているとき、背後で何とかカメラに収まろうと道化役のブチンツェフとロットバルトのゲラシチェンコが目線を向けて踊っているのだ。いったんカメラアウトしても、次の瞬間にはさらにカメラに近づいて踊って見せる。何分後かには舞台で踊るのだから、エネルギーを温存しておけばいいのにと思うのだが…。ボリショイでキャラクター・ダンサーのクラスレッスンを見学したとき、日本からの何かのスカウトと勘違いしたのか、ダンサーたちがすごいアピール度でこちらの近くまで何度も飛んできたのを思い出した。

このロットバルト=エゴール・グラシチェンコは優秀で、ツィスカリーゼに長く習っていたらしいが、今頭角を表している若手なのだろう。グリゴローヴィチ版のシンプルな衣装とメイクの「偽悪的でない」悪魔を素晴らしく演じた。抑制された演劇性があり、王子の分身=シャドウとしての悪魔を表現した。グリゴローヴィチは演劇的・政治的なメッセージを『白鳥の湖』に込めている。王子は無辜のシンボルではなく、ロットバルトも一面的な悪のシンボルではない。二人で一人の「男」であり、彼らは影のように一体化している。

スミルノワのオディールはオデットと全くの別人で、奇矯で誘惑的な動きを繰り返し王子を翻弄する。そのときの王子は「もう白鳥とは会えないかも知れない。それならこの魅惑的な相手を選ぼう」という決意を見せる。スミルノワのグランフェッテは当然のようにダブルで、軸もブレない。拍手が手拍子になる習慣はいつからなのか知らないが、ボリショイの熱狂した客が次の場面に移ることを惜しむように、スミルノワの黒鳥を舞台に呼び出していた。

最終場では白鳥と黒鳥の群舞が表れる。オデットは他の女に忠誠を誓った男に対して一縷の望みも与えず、氷のように冷たい。もうしでかしてしまった過ちは取り返しがつかないのだ。男女の間の裏切りについても雄弁に語っているようだ。罪の意識に苛まれ、絶望した王子が頭を抱え込んでバレエは終わる。この解釈は本当に見事だと思った。
 白と黒が無限の象徴性を帯びている。人間である限り、陰陽がありダークサイドがある。神はなぜ人間にも白と黒を作ったのか…不完全な人間に何か深い理解を与えるためではなかったのか。混沌とした世界と劇場が頭の中で繋がった。深読みではあるが、そう見るか見ないかは、観客の自由だと思う。

カーテンの内側では、それぞれのダンサーの先生たちが祝福しに弟子のところにやってくる。これも何度も観た景色だ。2017年の来日公演では、悪魔を踊り終えたばかりのイーゴリ・ツヴィルコと写真を撮ったとき凄い力で肩を引き寄せられたのでクラクラした。ボリショイ・スキャンダルなどという映画も作られたが、あの劇場の稽古場は、世界一清潔な場所だと思う。物事の白と黒とは、そんなに単純なものではないのだ。