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小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

サントリーホール サマーフェスティパル2018 オペラ『亡命』(世界初演) 

2018-08-26 10:23:27 | オペラ
野平一郎さんのオペラ『亡命』の初演をブルーローズで鑑賞(8/23)。大きな話題となっていた新作で、会場は超満員だった。二日間の上演の二日目を聴いたが、前日も空席がなかったという。
ブルーローズの左端の前から2列目は予想外の特等席で、最初から最後までヴァイオリンの川田知子さんの弓の振動を間近で感じることが出来た。藤原亜美さんの驚異的なピアノ演奏も詳しく見え、フルートの高木綾子さんが頻繁に楽器を持ち替えて演奏されているのも見えた。クラリネットの山根孝司さん、ホルンの福川伸陽さん、チェロの向山佳絵子さんの6名のアンサンブルと、5名の歌手によってオペラは上演された。
野平多美さんによる台本は、ハンガリーから西側に亡命する音楽家の一家と、祖国にとどまる一家を描いた物語で、これをロナルド・カヴァイエ氏が英訳。独語でも伊語でもなく、英語の上演というのがよかった。日本語ではハンガリーが舞台であることを感じづらいし、日本のオペラでよく使われる独語でも奇妙だ。すべてではないが、英語のもつ明快さがある種の「ジェントルさ」を物語に加味していたようにも思われた。テキストと音楽が醸し出す質感は映像的でもあり、20世紀の東欧のドキュメンタリー映画のような雰囲気も感じられた。

5人の歌手は、全員が複数の役割を担う。あらすじを明快に説明することはそれほど意味がないかも知れない。2017年と1956年のふたつの時間が交互にあらわれ、1956年の芸術家たちは、祖国ハンガリーで表現の自由を奪われている。東西が分断された欧州で「クラスターを使っただけで反政治的な音楽を書いた」と検閲にチェックされ、西側の新しい音楽への憧れを募らせながら、国家からオーダーされた民謡のアレンジを仕方なく書き続ける。

バリトンの松平敬さん、テノールの鈴木准さん、バリトンの山下浩司さんが、精神科医のソプラノ幸田浩子さんの前で悪夢を告白する。この冒頭の場面では、彼らは三人で一人の役を演じているようにも感じられた。戦時の不安を訴える歌詞は根深いエモーションを引き出し、それが音楽と強い結びつきを保っていた。そのおかげで「難解」であるはずのこの『亡命』のオペラがまったく難解ではなく、具体的で真実味のある音楽に感じられたのだ。私の目の前にはつねに、大きな楽譜を譜面台に置いて、両手を広げてゆらゆらと指揮をされる野平一郎さんの姿があったが、野平さんとともに演奏家たちが放つ音の全体にははっきりとした確信があり、「生き物」のような実体があった。現代音楽でこういう感触を得たのは初めてのことだった。すべての音が物語が誘発する情動から引き出されていて、必然の音楽を作り上げていた。

現代音楽は難しいし、頻繁に上演されるホールやオーケストラの委嘱作品にしても「わかったようで、わからない」と思うものが多い。何が分からないかというと、今聴いているものがゲームなのかサロン的な会話なのか、冗談なのか真実の表現なのかという真意が分からないのだ。リテラシーがないと言われればそれまでなのだが、若手によるコンペティション参加作品にも「風流な知的遊戯」以上のものを感じないことが時々ある。
なぜそもそも、日本人が現代音楽を書くのかという疑問もある。吉松隆さんにインタビューしたとき「調性音楽を書く自分は、表紙を見ただけでコンクールでは落とされた」と聞いて、訳が分からない世界だと思った。その中間の「わかるような感じがする」チャーミングな現代音楽とも出会ってきたが、他人の褌で相撲をとっているような作品もたくさん聴いてきたような気がする。

野平オペラの中心に宿っている渇望感は、とても普遍的だった。現代音楽が「存在する意味」を具体的に理解させてくれた。「創造する人間にとって地獄とは何か?」 という仮定が立てられ、それは十分な視野を与えられないこと(西側の情報が遮断されていること)、内側からの情熱を表出できないこと(国歌や民謡のアレンジを強要される)、そして未来に前進するための表現を行えないことであった。「未来の聴衆のため」という単語が、強く心に残った。作曲家は自分のために作曲するのではなく、開かれた世界に向かって創造するのであって、それは物質的であることの反対で、少し夢想的な表現をするなら「風」のような稀薄な状態で遠い場所まで拡散したいという情熱から創作をするのである。
検閲し、閉じ込め、不自由を強要する体制とは、これに反して「物体的」で「固体的」であり、戦車のように固いものだ。創造力と体制とは、もともと勝負にならないほど異質なエネルギーなのであり、この堂々巡りから脱するには逃げること…『亡命』しかないのだ。

歌手の方々の表現には素晴らしい力があった。松平さんの声域の広さに改めて驚いたが、これは初演の歌手を想定して書かれたものなのだろう。山下さん、鈴木さんは色々なオペラで拝聴しているので、改めて近い舞台で姿を見られると嬉しい。スコアの難しさは想像を絶するが、声は美しく、オペラが訴えたい「ひとつの芯」を伝えてきた。幸田さん、小野美咲さんは複数の役を柔軟に演じられた。どけだれ入念に準備をされたのか、器楽アンサンブルとの呼吸感も見事だった。

一部と二部の間に休憩が10分入り、終演は9時15分頃。二時間強の上演となった。前半では亡命前の登場人物の不安な心理が起伏をもって描かれ、後半は亡命実行から、ゆるやかな回復の時間が描かれたので、休憩を入れたことでコントラストがついてよかったと思う。ラストは、亡命を果たした一家と祖国にとどまった一家が「果たして『亡命』をしたのはどちらであったか…」と途方に暮れる。見事な終幕だと思った。『亡命』の前半と後半では、急であったりなだらかであったりする別々の地獄が描かれていたのだ。
























新国立劇場『トスカ』(7/4)

2018-07-06 06:17:07 | オペラ
新国『トスカ』の3年ぶりの再演を7/4に観た。指揮はこのプロダクションの初演の指揮をした故マルチェッロ・ヴィオッティの子息ロレンツォ・ヴィオッティ。東響のゲストとして過去に二回ほど彼の指揮するコンサートを聴いたことがあるが、オペラは初めて。ここ数年で大出世を果たしている子ヴィオッティの音楽にも大いに興味があった。
スカルピアの恐怖和音から始まる冒頭部から、ドラマティックで圧のかかったいいい音だった。脱獄してきたアンジェロッティの獣のような声、堂守のユーモラスな歌、カヴァラドッシの「妙なる調和」とトスカの登場…と一幕冒頭だけでも空気がコロコロ変わるが、オーケストラはこの色彩感の変化をいとも自然に、かつ鮮やかに繋げていった。プッチーニは間違いなく映像世代の作曲家で、編集感覚がそれ以前のオペラ作曲家と全く違う。ヴィオッティはプッチーニのモダニティを最大限に浮き彫りにした、立体感のあるサウンドを東フィルから引き出し、オケも最高のリアクションで応えていた。

カヴァラドッシのホルヘ・デ・レオンはやや一本調子な歌手で、この日の調子はどうだったのか分からないが、ナルシスティックにルパートをかけすぎない過ぎない歌唱は好感が持てた。トスカのキャサリン・ネーグルスタッドは美声で歌唱力も高く、外見も美しいソプラノ歌手で、何よりプライドと知性を感じさせた。馬鹿っぽいトスカというのは耐え難い。あの執拗なジェラシーも知的な歌手によって歌われると女の可愛さが浮き彫りになる。絵のモデルとなった女を罵るときの「アッタヴァンティ!」の声も、鋭く怨念がブレンドされていてよかった。
それにしても、一幕でありがたいのは堂守の存在で、志村文彦さんが惚れ惚れするようなエキスパートの演技を見せた。足を引きずって歩く演技は毎回やっていただろうか…記憶が定かではないが、カヴァラドッシが絵筆で堂守の頭をペタペタするのは初めてのような気がする。教会のシーンで、堂守がしっかりしているとオペラにもいい空気が醸し出される。コミカルなだけではなく仄かな悲哀もあり、玄人の演技だった。

スカルピアのクラウディオ・スグーラは長身で見栄えのするバリトンで、2007年にデビューした歌手。豪華なコスチュームをエレガントに着こなし、独特の気迫を振りまいていて魅力的だった。トスカとスカルピアの一幕での関係は微妙で、カヴァラドッシとアッタヴァンティ夫人との浮気を信じて嫉妬の鬼になったトスカは、泣き崩れた後スカルピアの差し出した手を素直にとるのだ。その後にスカルピアがトスカの手にキスをすると、さっと手を引く。スカルピアの動きひとつひとつが優雅で確信に満ちていて、このキャラクターについて色々考えてしまった。

新国トスカの美術は素晴らしく美しい。デラックスな教会の装置が、スカルピアのテ・デウムでさらに華美な背景に転換されるくだりは、目の放埓=オプュレンスの美学そのものだ。全幕転換ありで、あるゆる瞬間にこのプロダクションの豊かさを味わうこととなった。

史実をもとにした残酷なストーリーを嫌う人もいるが、トスカの物語は素晴らしい「型」によって出来ていて、拷問も殺人もレイプ未遂も、すべて美しいものを見せるために仕込まれている。2幕で、別室で拷問されるカヴァラドッシの叫びを聞かせながらトスカに迫るスカルピアの演技はとてもよかった。スカルピアから逃れようとするトスカの動きも、バレエの振付のように厳密な型がある。究極のシチュエーションでありながら、二人の芝居には優美な形があった。スカルピアは心理的にトスカを追い詰めるが、物理的な暴力は一切使わないのだ。

クラウディオ・スグーラのスカルピアは「美しい女も思いのままになればあとは捨てるだけだ」と歌うが、トスカへの執着は特別なものだと思わせた。肉欲ではない…もっとねじれた衝動にとりつかれている。好きな女に不安と恐怖を与え、自分をとことん憎ませて、その上で肉体的に一体化しようとする…拒絶状態にある女と一心同体になることで癒されようとするのは、心理学的に分析するなら幼年期に問題があるからだ。母親から憎まれたか、もっとひどいことがあったからか…オペラではスカルピアの表面的な悪しか描かれない。トスカでなければダメなのは、同じ匂いを感じるからなのだろう。貧しい羊飼いの孤児から華やかな歌姫にのし上がった。トスカと同じ孤独と栄華を知っているのは、カヴァラドッシではなくスカルピアなのだ。
釈明されなかったスカルピアのトラウマを思いながら、トスカに刺されるシーンでは大きな哀しみを感じた。現世ではどうにもならないほどもつれてしまっているのだ。ラストでトスカが叫ぶ「スカルピア、神の御前で!」という言葉がここでも聞こえたような気がした。

3幕のサンタンジェロ城の装置も美しいが、ホルヘ・デ・レオンの「星は光りぬ」はそれほど冴えず、素晴らしいトスカとやや不釣り合いに感じられた。やはり調子があまりよくない日だったのかも知れない。プッチーニの音楽は最後の最後まで美しく、あのカヴァラドッシ処刑の空々しいワルツも個人的には大好きなのだが、天才の閃きというのは尽きることがなく、あの処刑の音楽は、尻尾まで餡の詰まった鯛焼きのようだなと思う。最後の最後まで美味しいのだ。

このアントネッロ・マダウ=ディアツの演出は大時代的でオーソドックスな点が素晴らしく、幕が下りるごとに主役たちがカーテンの前に登場する。二幕のあとで、殺されたばかりのスカルピアが笑顔で登場したときは鳥肌が立った。「あれは全部嘘でした」と両手を広げ、バリトンはダンディな笑顔を振りまいていたが、本当にオペラは最高である。
ヴィオッティは最後まで順調で「トスカ」のリッチなスコアの美点を隈なく照らし、歌手の大げさな歌唱をセーブさせて、均整の取れた建築のような音響の宇宙を完成させていた。プッチーニの音楽の本質は、こうした凝縮された知性であり、甘さやセンチメンタリズムはあくまでアイロニーなのだ。東フィルとはコンサートでも共演するが、このトスカはちょっと奇跡的すぎた。あと3回公演があるので、また観に行きたいと思った。

新国立劇場『フィデリオ』(新演出)

2018-05-27 11:19:21 | オペラ
新国『フィデリオ』を観賞(5/24)。カタリーナ・ワーグナーによる新演出で、初日から終末部分の読み替えが大きな話題になっていたプロダクションである。新国立劇場オペラ芸術監督の飯守泰次郎さんとバイロイト音楽祭総監督のカタリーナ・ワーグナーとの悲願の共作、それも日本での新制作ということで大きな期待が集中したが、ゲネプロは非公開で、カタリーナ氏を囲む記者懇親会でいくつかの上演のヒントを与えられたものの、どういうドラマになっているのかは蓋を開けてみるまで分からなかった。
このオペラに対する愛着はそれぞれで、感想も百人百様だと思うが、個人的には非常に卓越した上演を観たという満足感があった。レオノーレとフロレスタンは脱出に失敗し、ドン・ピツァロに瀕死の刺し傷を与えられて夫婦で息絶えるというドラマ。従来的な「善は勝ち、悪は滅びる」という大団円とは正反対の終わり方なのだ。その読み替え(書き換え)は入念にさまざまな段階を経て、非常に洗練された形で観客に提示された。少なくとも、悪ふざけや驚かしの演出などではなかった。

巨大な装置は三層に分かれ、上階の右側の空間ではレオノーレが思いつめたように女性の肌着の上に看守の制服を着て、蓬髪を断髪の鬘に隠し込む。上階の真ん中では男装したレオノーレ=フィデリオに恋するマルツェリーネが人形遊びをしている。ピンクの壁紙には「pretty」「little」「lovely」などという文字が書かれ、ティーンエイジャーの部屋のようだ。そこにジャキーノが「結婚してくれよ」とちょっかいを出す。この冒頭の場面はモーツァルトのブッファそっくりで、ベートーヴェンといえどオペラでは天才モーツァルトを規範にせずにはいられなかったのかと可笑しくと思う。マルツェリーネの石橋栄実さん、ジャキーノの鈴木准さんが若者の恋の際宛てを好演。下の暗い空間は地下牢で、上でブッファ的になやりとりが行われているときも、暗闇の中でフロレスタンは岩に天使の絵を描いている。衰弱と闘いながら憑かれたような表情で、岩のすべてに天使の姿を書き込んでいるのだが、囚われた人間の孤独と狂気が静かに描写されていて恐ろしい雰囲気だった。上階の右側は看守の指令室のような空間になっていて、ドン・ピツァロやロッコが出入りをする。最下層には大勢の囚人がうごめいている。装置は巨大で圧倒されるようだった。

リカルダ・メルベートのレオノーレとステファン・グールドのフロレスタンは素晴らしく、この二人が出ているせいかワーグナーオペラの次元を想像せずにはいられなかった。最初からもうこの「フィデリオ」は「トリスタンとイゾルデ」なのではないか。死んでいるのかも知れない夫の生存に一縷の望みを賭け、監獄へ乗り込む…という筋書きはオペラが書かれた当時に流行っていたという「救出劇」の典型だが、それよりもこの設定が、本能的に「究極の愛と死」に向き合っている男女の試練に思われたのだ。フロレスタンは少しずつ食事を減らされ、衰弱死させられようとしている。妻は夫を見つけ出してすべてを与えて蘇生させたいと思う。その熾烈な感情がメルベートの歌唱から湧出していて、「あなたを癒したい」という歌詞が狂気に近い愛の渇望に聴こえた。本能的な性愛を暗示しているようにも感じられたのだ。
オペラは深刻味をどんどん増し、成敗されるはずの総監ドン・ピツァロはフロレスタンとレオノーレを刺し、二人は致命的な傷を負う…これはまるで『トスカ』だ。スカルピアがトスカを刺すのだ。夫婦の愛の凱歌は裏切られたトスカとカヴァラドッシのデュエットと二重写しになった。ピツァロの暴行によって『フィデリオ』はどんどん暗転し、瀕死の夫婦はピツァロが楽し気に積むレンガの堆積によって外側から生き埋めにされる。これはまるでヴェルディの『アイーダ』のラストではないか。確かに、ベートーヴェン亡き後、オペラは『アイーダ』と『トスカ』を生み出した。後戻りはできないということなのだろう。

救出劇の大団円が残酷なエンディングへ突入することで、従来版とは違う大きなエモーションが巻き起こったが、それはレオノーレとフロレスタンの「死に至る愛」のエクスタシーだった。ベートーヴェンの『フィデリオ』はどこか真面目腐った、中途半端な勧善懲悪劇のようなところがある。ラストの大団円はホームドラマのようだ。カタリーナ・ワーグナーの大胆な読み替えのもとでも、歌詞と音楽は変わらない。すべての意味が反転し、アイロニカルなものになる。夫婦の愛の勝利は「この悪が栄える地上では叶わないが、あの世で再び夫婦になろう」という祈りになるのだ。それは意外な驚きであると同時に、ベートーヴェンの作曲家としての魅力を「正しく」提示してみせた瞬間だった。

初日の数日前に行われたカタリーナ・ワーグナーを囲む懇親会では「われわれはドイツ的なものをあなたに期待しています」という記者からの発言に対して「ドイツ的ってたとえばどういうものですか?」「我々が意識せずにドイツ的なものを表現しているとしたら、逆に教えて欲しい」という彼女からの強めの反論があった。時代設定を特に決めず、権力とは何かを描きたい…という彼女のトークからは、外側からきめられた役割ではなく、内側から感じる演劇を作り出したいという情熱が感じられたが、一方で「リヒャルト・ワーグナーのひ孫」という巨大な「ストーリー」は彼女の宿命としてついて回る。「それでも」というか「だからこそ」というか、世界全体を劇場にして、カタリーナにしか出来ない英断というものが可能になるのだ。
読み替えが、原作への無関心や愛情のなさの証明だというのは誤解で、本当に作品や作曲家に対して愛着を持っていないと、みすみす返り血を浴びるようなリスクは取れない。音楽の高まりが登場人物の死のカタルシスと融合してオペラは完成する…という知恵を、演劇人の采配によって大作曲家に捧げたかったのだと認識した。

飯守泰次郎氏と東京交響楽団はドラマのスケールと機微を顕した名演で、このプロダクションでは新国立劇場合唱団のハイレベルな合唱に度肝を抜かれた。特に囚人たちの男声合唱の「霊力」とも呼びたい響きは、ベートーヴェンの唯一のオペラでしか聴くことのできない、貴重なものだったと思う。血も涙もない極悪人ドン・ピツァロを演じたミヒャエル・クプファー=ラデツキー、要所要所で和みを与えてくれるロッコの妻屋秀和氏も最高の出来栄えで、歌手たちにも非の打ち所がなかった。少し前の深作「ローエングリン」のときに「演奏はいいが演出は…」という人たちがいたが、新制作を準備している指揮者と演出家の姿を見れば、音楽と演出が分かちがたく一体化していることは明白なのだ。どちらかだけがよい、という評価を私は信じない。ドラマの構想がこの音楽性を引き出したのだ…と確信している。劇場の英断に感謝。『フィデリオ』は5/27.30.6/2にも上演が行われる。








新国立劇場『ばらの騎士』(12/6)

2017-12-09 09:51:12 | オペラ
新国で上演中の『ばらの騎士』の12/6の公演を観た。平日マチネだが一階席は結構埋まっており、制服の学生の姿もちらほら見える。今年もホワイエには大きなクリスマス・ツリーが置かれていて、去年ここで観た『ラ・ボエーム』のことなどを思い出していた。
新国の『ばらの騎士』を観るのはこれが3回目。オックス、オクタビアン、ファーニナルが2015年と同じ歌手だが、今回は特に出来映えがよかった。オックスのユルゲン・リンは最初から最後まで絶好調で、Rシュトラウスはこの役のためにオペラを書いたのではないかと思われた(その説もある)。指揮はウルフ・シルマー、オーケストラは東京フィル。

ジョナサン・ミラー演出は衣装とセットが装飾的で美しく、冒頭で元帥夫人とオクタヴィアンが睦み合うシーンから華麗で官能的な雰囲気が漂う。このとき、元帥夫人を演じていたのが7月の『ジークフリート』でブリュンヒルデを演じていたリカルダ・メルベートであることにすぐ気づかなかったが、彼女の姿を見て直観的にワーグナーを連想した。年上女性の愛に溺れている若いオクタヴィアンがタンホイザーに思え、10代の若者を快楽の虜にしている元帥夫人がヴェーヌスに思えたのだ。メルベートが立ち上がって歌うと、アフロディーテ風のヘアスタイルと凛々しい立ち姿もあって、今度はブリュンヒルデに見えた。元帥夫人の突然の拒絶にあって、馬に乗って颯爽と立ち去るときのオクタヴィアンの音楽も「ジークフリート」そっくりなのだ(彼らはともに17歳の少年)。

オックス男爵のユルゲン・リンもワーグナー歌手で、先日の飯守リングでは『ラインの黄金』『ジークフリート』でアルベリヒを歌っている。オックスがアルベリヒなんて出来過ぎのような気もする。大柄な身体を生かし、喜劇的な人物をやや大げさなくらい―面白く演じていた。何とも人間味がある歌手で、『マイスタージンガー』のハンス・ザックスもレパートリーらしいが、なるほどこれぞ理想のハンス・ザックスだと思った。酔っぱらった滑稽な男爵を演じるため頬に真っ赤なチークを入れているが、オペラグラスで見ると結構渋い二枚目なのだ。

オックス男爵が振り撒く「男の愚かさ」は、R・シュトラウスがえんえんとオペラの中で描き続けてきたもので、彼らは古いタイプの権力者であり、女に意志や選択権があるとは思ってもいない。すべてが自分の思い通りになると思っている。その悲しい象徴が『ダナエの愛』の神ユピテルで、R・シュトラウスはしつこくも「なぜ自分のものにならないのか」という議論をユピテルとダナエに歌わせるのだが、オックスもユピテルも究極的には同じだ。
オックスの愚かさの本質は、神であることなのだ。
ファーニナル家のゾフィーとの婚約のことを元帥夫人に報告するとき、オックスは相手の家柄を徹底的に卑下する。「私のように貴族の血が二人分流れている者はこの一族には勿体ない」「所詮は成り上がりの三流貴族」と自分の優位をしつこいくらいに自慢する。このとき、自分がいかに老いていてみっともないか、そして何より「新しい時代に取り残されているか」をオックスは気づいていない。彼は貴族=神として生まれ育ち、それ以外の外の世界を知らないからだ。

オックスという人物は「セクハラ」「パワハラ」が問題になっている今の時代にとてもタイムリーな存在でもある。オペラ界でも神のような大物が槍玉に上げられた。それまで暗黙裡に行われていた慣例や我儘が通用しなくなるというのは、本人にしても寝耳に水なのだろう。オックスは、自分の受けてきた教育しか知らず、貴族としての狭い世界しか知らず、世間のことを知らない。それは大きな悲劇であるはずなのに、『ばらの騎士』では喜劇として描かれる。ユルゲン・リンは自分の身体のすべてをこの滑稽な役に捧げていて、落ち着きのない指や、赤いタイツを履いたひざから下の長い脚、突き出たお腹で皆を笑わせていた。

「ばらの騎士」がワーグナーの世界と符合しているのなら、オックスはヴォータンなのかも知れない…一幕で感じた直観をずっと「いやいや」と否定してきたが、三幕でワイワイ登場するオックスのたくさんの子供たちを見て「やはりそうか」と思った。人間や神との間にたくさんの子供を使ったヴォータンは多産系の神であり、神の世界はやがて黄昏て崩壊していくしかなかったのだ。
そう思うと、オックスのすべてが悲しく見えた。二幕の最後から三幕のはじめにかけて、彼はえんえんと三拍子のワルツに乗って踊っている。ワインのデキャンタやウイスキーをパートナーのようにかかえて、「これから女を抱ける!」と浮かれて踊るのだが、彼を有頂天にさせているのは女中に化けた少年なのだ。男は酩酊の中で夢を見る…「こうもり」のアイゼンシュタインも、ファルスタッフも。酒の悲しさ、男の悲しさ、老いていくことの悲しさ…ミラー演出ではご丁寧にも、オックスにカツラまで取らせて「老いらくの恋」を強調するのだが、ユルゲン・リンがあまりに熱演なので、滑稽でありながらかえって悲哀が溢れた。

オクタビアンのステファニー・アタナソフは急な交代で新国のばら騎士に再登場することになったが、ほっそりとした姿がズボン役にぴったりで、演技もうまく歌唱も上品だった。オクタビアンと恋に落ちるゾフィーは、南アフリカ出身のゴルダ・シュルツで、明るい声でディクションも明晰で、ルックスがとても新鮮。舞台での反応が素晴らしく、鋭い直観を持っていると思った。ファーニナルのクレメンス・ウンターライナーはダンディな二枚目で、父である自分より年上の婿オックスと並ぶと何ともちぐはぐな感じがして、キャスティングの妙を感じた。
元帥夫人のメルベートは明るい声質で、年上女のおどろおどろしさはなく、見た目も若々しく素敵だった。ブリュンヒルデもマルシャリンも歌えるというのは素晴らしい。『ジークフリート』ではブリュンヒルデの出番が少なかっただけに(最後だけ)、今回のほうが印象に残った。
三幕での喪服のようなシックなドレスも似合っていた。来年の『フィデリオ』でもレオノーレ役として登場する。

ウルフ・シルマーは冒頭から攻め攻めで、東フィルは指揮者に最初から最後まで本気でついていっていた。気迫があり上品さもあり、複雑なオーケストレーションが混濁せず、どの場面も演劇的だった。シルマーはかなりリスクをとっていたように見えたが、高度な演奏も舞台で起こる色々な面白いことに影武者のように奉仕していた。客席は大盛り上がりであった。
この公演は新国立劇場の開場20周年記念公演とプログラムには記されているが、そのせいで歌手がよかったのだろうか。ワーグナーの物語を連想したのも、今回の顔ぶれだったからかも知れない。「テノール歌手」役の水口聡さんの振り切れた歌唱など、日本人歌手たちも熱演だった。12/9に最終の上演が行われる。













読響×カンブルラン『アッシジの聖フランチェスコ』(11/19)

2017-11-24 12:11:43 | オペラ
全曲上演は日本初演となった読売日本交響楽団と常任指揮者シルヴァン・カンブルランによるメシアン作曲『アッシジの聖フランチェスコ』。東京で二回行われる公演の初日である11/19の公演を満員のサントリーホールで鑑賞した。オーケストラと合唱あわせて240人がステージに乗り、3台のオンド・マルトノがホールに立体的に配置された。上演時間は休憩込みで5時間半にわたる巨大なオペラである。カンブルランはこの作品のエキスパートで92年以来24回も振っているが、任期8年目で読響との演奏が実現した。

どこから語ったらいいのか…果てしなく大きな、大きなオペラであった。ひとつ素朴なことを言うなら、作曲家はオペラを書くとき「本当に伝えたいメッセージがあるから」書くのだということを改めて知った。創作に向かうエネルギーは音楽というカテゴリーを突破する巨大さを持ち、小手先のエチュードなんかではない、真に人間的なパッションと使命感がオペラを書かせる。ヴェルディやワーグナーと同じ情熱が、メシアンにもあった。『アッシジ…』は台本もメシアン自身が書いているのだ。
その情熱のすべてをこの上演で受け取った。オペラは巨大な愛であり、寛大さであり、見えない神秘だった。毎秒ごとにオーケストラと合唱から放出されるパワーは濃密で、衝撃の連続であった。

聖フランチェスコの物語はオペラの素材としては特異だ。彼は虐げられている人物でも不幸な人物でもなく、弟子たちから尊敬され、客観的には何の問題もない存在として舞台にいる。巻き起こるドラマは精神的なもので、神父フランチェスコは「すべての人間が等しく幸福であることは可能か」をひたすら考える。重い皮膚病患者の醜い皮膚の斑点や悪臭に嘔吐感を感じる自分を責め苛む。
「神は醜いイボガエルや毒キノコを、トンボや青い鳥と同じように創造した」…その謎について思い悩むのだ。
「形を越えて相手と一体化すること」とはイエスの説いた「無条件の愛」そのものである。
聖フランチェスコのヴァンサン・ル・テクシエが卓越した演技だった。演奏会形式だが、歌手たちは自然な演技をし、テクシエは歌っているときだけでなく、他の歌手たちの声を聴いているときも素晴らしかった。フランチェスコの葛藤を「実際に感じて」いたのだ。それが客席にも伝わってきて、痛いほどの想いに何度もとらわれた。

オーケストラはメシアン独特の不規則なフレージングを奏で、突然訪れる休符ではぴたっと止まるのが奇跡的だった。打楽器パートは一瞬たりとも気を抜けず、これが面白いことにもうひとつの「隠された言語」のように聴こえる。弦や管が打楽器の「言語」の抑揚を引き継いで演奏する箇所もあり、オーケストラ全体で「見えていない世界の秩序」を表わしているようでもあった。可視的宇宙と同時に進行している不可視宇宙とでもいうのか。パラレルワールドのような世界が感じられた。

重い皮膚病患者を演じたペーター・プロンダーはイギリス出身のベテラン歌手で、紫のシャツを着て善良な雰囲気を放っていた。みずからの不運を嘆き、心のわずかな光明さえ失ってしまったこの役は、歌詞のひとふしひとふしが悲痛で、彼の無念さと哀しみと痛みを聴いているのが苦しかった。フランチェスコ役のテクシエも辛そうな表情だ。フランチェスコが霊感を得て、重い皮膚病患者を抱きしめる場面は、暗示的に演じられた。実際に抱擁するのではなく、指揮者を隔てた歌手二人が、止まったようにお互いを見つめ手を伸ばし合った…そのときの音楽は、何に譬えたらいいのか…メシアンは「トリスタンとイゾルデ」を超える存在と存在の一体化をここで描いたのだ。

天使役のエメーケ・バラートは若く美しいソプラノで、謎めいた表情で謎めいた言葉を歌う。「救霊予言説をどう考えますか?」という質問を弟子たちに向け、答えを聞き出す。乱暴者の男の子のようにドアをガンガンとノックする。彼女は小鳥であり、エアリアルのような精霊であり、女神であり天使なのだ。めざましく豊かな高音でメシアンの難しいパッセージを完璧に歌い、何よりミステリアスな瞳が素晴らしかった…どんな場面でも「私はすべてをわかっているのです」という表情で、歌にも所作にも厳かな確信があった。バラートがまとっていた煌めくグレーのドレスも完璧なコスチュームだった。

長大なオペラなので客席にいても疲労感があるが、聴いているほうよりも演奏しているオーケストラの方が何100倍も大変なのは当然で、読響のパワーと集中力にはほとんど畏れ多さを感じた。カンブルランはどうしても、これを読響とやりたかったのだ。
カンブルランには色々な機会に質問をしてきた。記者会見では「読響をどのように変化させたいのか?」と聞き、個別インタビューでも「読響との理想のゴールは?」というようなことを聴いた。するとそのたびに、カンブルランは笑顔で「不満なんて何一つない。今も充分に素晴らしいオーケストラだ」と答えるのだ。彼はお世辞や嘘をいう人ではなく、心からの言葉であることが伝わってくる。彼は読響が大好きなのだ。
それでも、剛速球のベートーヴェンや難しい現代曲をオケが必死になってやっているのを見ると「カンブルランももっと手加減して、演奏する楽しみを与えてあげればいいのに…」と思うことがあった。

カンブルランはもしかしたら、読響における神父フランチェスコなのかも知れない…。神父は現状にあきたらず、さらに完全な人間性について深く考察する。神と自然と宇宙からインスピレーションを得る。それは最初、あまりに現世からかけ離れたアイデアなので弟子たちは驚くが、神父の辿り着いた境地についていく…。
カンブルランは「アッシジをやることで、来年はさらにいい関係がオーケストラと築けるでしょう」と語った。彼の任期は2019年までだ。ヨーロッパを代表する名指揮者が任期を延長して読響にいてくれることは有難い。その間、彼はオケをたくさんたくさん成長させようとしているのだ。一緒にいて和気あいあいと楽しくやればいいというのではない。「一緒にいる間は必死で頑張ろう。そして自分がいなくなったあとも成長を続けるんだよ」と言っているような気がした。

それはなんという偉大な父性なのか…アッシジの聖フランチェスコとは、指揮者の物語である。私の勝手な解釈だが、そうとしか思えなかった。彼の巨大な人間としての資質が、指揮者であることによってさらに巨大なものとなり、巨大なメシアン作品と結びついた。その愛を押し上げているのは、超人的な知性であり、芸術がこの世に存在する素晴らしさを伝える温かい心だった。

メシアンのテキストのすべてをもう一度読み返したいが、著作権の問題で印刷物を作ることは出来ないと聞く。私は神秘家なので、メシアンのリブレットにいくつもの暗号が隠されているのを察知した。「下降するように見せて上昇していく魂」「見えない音楽をいよいよ聴くことになる(音楽とはもともと見えないものではないか)」といった表現、永劫回帰や占星術を思わせるキーワードがたくさんあった。
二幕では聖フランチェスコ自身が饒舌な鳥類学者となり、鳥たちについての膨大な知識を歌う。芸術論も歌う。本当にこのオペラは…宇宙に輪郭がないように、輪郭がない。果てしなく膨張し続ける愛の世界なのだ。

新国立歌劇場合唱団とびわ湖ホール声楽アンサンブルの合唱は、自然界の音、人間の精神の動揺と歓喜、宇宙が奏でる音すべてを聴いたこともない多彩な表現で聴かせた。オケとともに、合唱が準備にかけた時間と努力にも感謝したい。水の中に何分も潜っているようなすさまじいロングトーンも聴かせた。このオペラは規格外のことをすべての演奏家にさせるのだ。それが、美になって結実していた。

『アッシジの聖フランチェスコ』日本全幕初演となったこの日は、最後まで聴き届けた観客もオーケストラとメシアンの物語と一体化した。疲労は歓喜になり、カンブルランの薔薇色の笑顔をもう一度見たい聴衆は何度も彼をステージに呼び出した。いつものように可愛いポーズをとってしまうマエストロに「あ、おとうさん…」と思ってしまう。永遠に一緒にいてほしい…と思う気持ちと、あと2年で任期が終わることの寂しさが同時にこみ上げた。東京では26日にも上演される。