小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

日本フィル×ラザレフ

2021-10-24 11:19:32 | クラシック音楽

日本フィル定期の二日目。開演と同時にラザレフ一人がにこやかに登場したので、舞台で何かを語り出すのかと思ったら、その後に楽員さんたち全員が続いて出て来られた。「指揮者は一番最初に舞台に出て、演奏会の主役たるプレイヤーを待つ。音楽が終わっても最後ま舞台にいて楽員を見送る」という愛に溢れた演出だと思い込んでいたが、コロナ感染予防対策だったのかも知れない。どのみちあの演出は、とても胸に沁みた。「みなさん舞台に出てきてください…わたしのために」とマエストロが語り掛けているようで…しかしリハーサルはいつもの鬼軍曹ぶりが健在だったに違いない。

ラザレフが振る日本フィルはいつも最高。この日はキュー出しも細かく、一人もらさず全員に指示を出していたように見えた。リムスキー=コルサコフ『歌劇《金鶏》組曲』は、この季節にぴったりの印象の曲だ。急に冷え込んだここ数日、秋を通り越して初冬の気配を感じていた。ロシアの人々は長い冬を劇場で楽しむ。子供も大人も劇場に詰め寄せ、赤い緞帳が開き、火の鳥や女奴隷や人形やスワンが踊り出す。『金鶏』もプーシキンが台本化したロシアの昔話・民話詩だ。リムスキー=コルサコフの純朴な童心が、オーケストラから溢れ出した。ランプから登場する巨人がナレーターを務めるような不可思議な物語の世界で、カラフルな音の絵巻が展開される。管弦楽版の組曲はバレエ音楽として構想されていたという説もあり、大変躍動的。リムスキー=コルサコフは貴族出身だったが、オペラの『金鶏』は反体制的の烙印を押され、初演は作曲家の死後に先送りされた。
 管楽器のエキゾティックな節回し、弦の幻想的な響き、映画音楽を先取りしたドラマティックな大衆性が耳に快い。ラザレフはいつものように客席をしみじみと振り返りながら指揮をするが、まるで満開の桜か秋の紅葉を見るような表情でこちらを見る。あの仕草を観たくて演奏会に来るお客さんも少なくないという。
 似たようなフレーズも、二度と同じ繰り返しはない。一度目は宗教的に、二度目はファンタジーのように、三度目はユーモアを交えて…たくさんの楽器が、マエストロの髪の毛の動きまでを音楽に変えていた。ロシアの魂みたいなものを感じたが、ラザレフ以外の指揮でこの感じを味わうことは難しいだろう。

『金鶏』だけでかなりのボリューム感だったが、すぐにピアノが舞台中央に移動し、リムスキー=コルサコフの『ピアノ協奏曲 嬰ハ短調op.30』が始まった。福間洸太郎さんが流麗なソロを披露。ピアノがかつて「洋琴」と呼ばれていたことを思い出した。一呼吸で継ぎ目のない長いフレーズを弾き切り、鍵盤から七色の色彩が溢れ出す。ソロは華麗で超絶技巧的だが、芯にあるものがひどく無垢で無欲な感じがする。福間さんの清潔感のあるタッチのせいもあるのだろう。メロディアスで優しく、作曲家の心の温かさを感じた。オクターヴの連打には強靭さを求められるが、演奏が洗練されているせいか、まったくごつごつした感じはなかった。音楽史的に何かやってやろうという、作曲家の野心のようなものは感じられない。ピアノの上を泳ぐ指は魔法のようで、15分間があっという間。空に浮かんだ虹を見るような心地で、もう一度まったく同じ曲を聴きたいという渇望感に駆られた。
 曲が終わるか終わらぬかといううちに、ラザレフはくるりと向きなおって福間さんに拍手喝采を送り、曲が「成就した」ことに感謝した。そのあとの福間さんのアンコール(グリンカ「ひばり」バラキレフ編)が続いたが、指揮台に乗ったままのラザレフは、泣いているように見えた。後姿がそう見えた。

ラザレフは本当に日本フィルを家族だと思っているのだ。改めてそのことを嬉しく感じ、格別の真剣さでマエストロの愛情に応えているオーケストラを誇らしく思った。この数日、暖炉の前で家族に語り掛けるようなカヴァコスのブラームスに感動し、都響と本物の家族になった大野さんのR・シュトラウスに涙し、このラザレフの演奏会を迎えた。コンサートはますます祝祭となり、音楽家たちの愛の表現の場となっている。ラザレフの愛は毎回すごいが、今回は倍増しだった。

後半のショスタコーヴィチ『交響曲第10番』は、四方八方から壁が押し寄せてくるような密閉的な表現で、この曲の不気味さが骨身に沁みた。この数日間、体調も精神状態もぎりぎりで、肥大した心臓が身体から飛び出して死ぬ夢を見た。そのような状態だったので、ショスタコーヴィチは大変辛かったが、最後まで聴いた。この曲は本当に奇妙だ。こんこんと湧き出してくるものが、えんえんと「狂気」と「正気」のパラレルなのだ。囚人への拷問のひとつに、水を右から左の桶へ移し替えるだけの無意味な繰り返しがあるという。ショスタコーヴィチは、人の気がふれるようなことを左手でやりながら、右手では平然と正気を保っている。出口はない。閉所の表現。ラザレフはそこにも愛を込める。ショスタコーヴィチが伝えて来るメッセージは強烈だった。首根っこをつかまれて「自己憐憫など、意味はないぞ!」と言われたような気がした。
 ショスタコーヴィチは超人で、これほど憔悴させる曲を、ユーモアで書いた。プロコフィエフは悲観から書いたが、ショスタコーヴィチは楽観から書いたのだ。根っこにあるのは紛れもない哄笑だ。最後の終わり方に、「本当のこと」が隠されているように思えた。







モーリス・ベジャール・バレエ団『バレエ・フォー・ライフ』(10/16)

2021-10-20 13:32:15 | バレエ

全7公演を成功させて帰国したモーリス・ベジャール・バレエ団。Bプロの『バレエ・フォー・ライフ』は3日目の10/16を観た。終演後は1階席総立ちのカーテンコールが巻き起こり、久々の海外バレエ団の引っ越し公演の熱気に圧倒された。少しばかり日にちが経ち、公演の印象が頭の中で整理されてきたように感じる。

一番の衝撃は、過去にもこの演目で何度も目にしてきたラストのジョルジュ・ドンのフィルムだった。道化の格好をして十字架にかけられ、頭から血を流し、泣きそうな顔で酩酊じみたふらふらの踊りを見せる。これは一体どのような状況で撮られたものなのか。雪の中で裸で踊っているような印象だ。ドンの悲鳴が聞こえてくる心地がした。ベジャールは創作を愛し、ダンサーを愛したが、愛された側がこんなに寂しい想いをしているとは知らず、ドンの映像に狼狽したのではないか? 神の視点にいた完璧な人が、初めて相手から突き付けられた予想外の「返歌」のようなものが、あの映像であるような気がした。

『バレエ・フォー・ライフ』の初演は1997年で、振付家の晩年期の10年に作られたものだが、このあたりからベジャールは自分の幼少期を振り返る作品が多くなり、ますます自己のストレートな心情を隠さなくなっていく。かつての20世紀バレエ団には、その名の通り「20世紀のモダン芸術に責任を持つ」という大義があったはずだ。ストラヴィンスキー、ウェーベルン、ピエール・アンリ、テオドラキス、タキシード・ムーンに振付をし、ストラヴィンスキーの「春の祭典」では曲の運命をなぞるかのように、ベジャールのバレエも「炎上」した。

「人は老いると極端にエゴイストになる。若い頃は、自分の可能性を示したいがために、また自らの存在の証として、または人々を感動させ観客を魅了したいという理由でバレエを作る。後には、つもり年をとると、創作は自分自身との関係においてしか存在しない。自分の可能性を見せる必要はもうない。そんなことはもう十分にやってしまったのだから」(モーリス・ベジャール回想録 誰の人生か? 前田充・訳)

ベジャールは恐らくそのような心境から、『バレエ・フォー・ライフ』を作った。クイーンの音楽は奇跡的な起爆剤となり、ロック・スターのフレディのイメージの断片がベジャールの舞踊言語と合致した。ユーモア、道化的、楽観性…ブライアン・メイのディストーションのかかったギターにあわせて、ダンサーが痙攣のような動きを見せるのは、そもそもピエール・アンリの電子音楽を使っていた頃からのベジャールの「語彙」だった。クラシックにはない、面白い動きである。

視覚的にも音楽的にも娯楽的要素が強いといえばそうなのだが、『バレエ・フォー・ライフ』はベジャールの私小説的なバレエでもある。カンパニーのダンサーはほとんどが2010年以降に入団した若者で、生前のベジャールを知らない。カンパニーのスタジオとルードラは同じ建物なので、ルードラの生徒は通りかかったベジャールに励ましの一言をもらっただけで、羨望の眼差しだったと金森穣さんが教えてくれたことがある。そうした経験をしていなくても、ダンサーは振付からベジャールの意志を理解する。皆がベジャールの可愛い子供たちであり、美しい創造物だった。

ジル・ロマンが長年踊った『エジプト王タモスへの前奏曲』と『フリーメーソンのための葬送音楽』はガブリエル・アレナス・ルイスが踊った。ジル以外のダンサーがこれを踊るのは大変なことで、以前この役を踊っていたバティスト・ガオンはジルと全く異なる雰囲気だったが、ガブリエルはジルの分身のようだ。鋭利で悪魔的で容赦なく、空間を刃物で切り裂くような動きが素晴らしい。苛酷なリハーサルの成果を思わせた。じっくりジルに指導されたのだろう。ガブリエルはバレエ団のもうひとつの柱になりつつある。

「ボーン・トゥ・ラヴ・ユー」でのエリザベット・ロスは、今が一番美しいのではないかと思わせるほどで、このダンサーには時間というものが存在していないかのようだ。相当なキャリアがあるはずなのだが、容姿にもダンスにも衰えがない。マリオネットのような動きが特徴的な「ヘヴン・フォー・エヴリワン」はイタリア出身のマッティア・ガリオットが健気に踊った。目に焼き付いたのは「ピアノ協奏曲第21番」でペアのダンスを踊ったアントワーヌ・ル・モアルで、彼を意識したのはこの日か初めてだった。小悪魔のように魅惑的なダンサーで、大胆にも「自分だけを見つめろ」というオーラを放ってくる。「レディオ・ガガ」の箱に密集する(!)男性ダンサーの中でも、彼だけを目で追ってしまった。
 「ウィンターズ・テイル」のソロを踊るのは、カンパニーの中でも誇らしいことだ。クーン・オンズィアや小林十市さんの名演を彷彿させるヴィト・パンシーニのダンスが大変良かった。若手ダンサーもどんどん育ってきている。

『バレエ・フォー・ライフ』は2002年に初めて見て、2004年にはトリノのテアトロ・レージョでも観た。ジュリアン・ファヴローのフレディがどうしても見たくてイタリアまで行ったのだが、レージョ劇場の三日間のうち初日は6割入り、マーティン・ヴェデルがダブルキャストで踊った二日目には8割ほど埋まり、再びジュリアンが踊った最終日は超満員になった。イタリア人の口コミの力はすごいと思った瞬間だった。露出の多いヴェルサーチの衣装を、変わらぬ姿で着こなしてフレディを踊り続けるジュリアンには尊敬しかない。10代からこの役を踊り続けている。

完璧に役を保ち続けているジュリアン・ファヴローを見て、最後にドンのフィルムを見てしまうと、奇妙な思いにとらわれる。これはドンに捧げられたバレエで、ダンサーはドンの追悼のために踊る。ジュリアンも主役でありながら、最後で主役ではなくなってしまう…勿論そうではない解釈もあるだろうが…。ベジャールが亡くなって14年経ち、最後のミューズであったジュリアンに、ベジャールは天から何を語り掛けているのかを知りたくなった。カンパニーのプリシンパルである彼は、現役でまだ踊れる人なだけに、色々思う。マッツ・エクは彼をカンパニーに欲しがったという。ベジャールと仲が良かったマッツは、ベジャールから彼を取り上げることはしなかったが、今もし可能性があるなら何を振り付けただろうか。
「ショー・マスト・ゴー・オン」に現れたジル・ロマンを見て、さらに心が疼いた。ドンとジルは光と闇のような存在で、ドンとベジャールが亡くなった後も、ジルはベジャールのドンへの愛を、監督として全責任を負って再現する。
どんな人生も楽ではない。むしろ、徹底して、完膚なきまでに苛酷なのだ。フランス語の長い原題はよく分からないが、英語で「バレエ・フォー・ライフ」と名付けられたこの作品の含蓄を、繰り返し噛み締めた。




 
 

 

 

 

 


モーリス・ベジャール・バレエ団(10/9)

2021-10-13 06:27:20 | バレエ

2度の延期を経て悲願の来日公演。流れてしまったものの中には東京バレエ団との『第九交響曲』などもあったが、こうして4年ぶりにカンパニーの来日が叶うことは喜ばしい。Aプログラムは芸術監督ジル・ロマン振付『人はいつでも夢想する』、ベジャール振付『ブレルとバルバラ』『ボレロ』。

ジョン・ゾーンの音楽にインスパイアされたという『人はいつでも夢想する』は、過去に日本で上演されてきたジル・ロマン振付作品の中でも大作(上演時間1時間10分)で、彼女(ジャスミン・カマロタ)と彼(ヴィト・パンシーニ)を中心に「族」「天使たち」の群舞が暗示的なストーリーを組み立てていく。ジル・ロマン作品は欧州でも既に評価を得ているが、この作品を見て改めて「ベジャール・バレエは本当に新しくなったのだ」と感じた。4年の間に新しく入ってきたダンサーもいて、若い人たちは生前のベジャールをほとんど知らないだろう。ジル・ロマン作品は、独自の演劇的教養を含みつつ、「ベジャール的な世界」と「ベジャール的でない世界」を往復している印象だった(風の効果音や、シンプルな「壁」はベジャール世界を彷彿させた)。
振付家とダンサーの関係もまた、ベジャールとは異なる。バレエの物語はどこか黙示録的な世界観を感じさせるが、明快な人間関係については一度観ただけでは明確に分からなかった。もう一度観るべきだったのかも知れない。音楽の編集の仕方はかなりサイケデリック(?)で、演劇人としてのジル・ロマンの過激さに驚いた。

『ブレルとバルバラ」はベジャールの2001年の作品で、抜粋は過去の来日公演で上演されたことがあったが、フルヴァージョンは日本初演。親しみがある振付なので意外だと思っていたら、過去にローザンヌで見ていたことがあった。ジャック・ブレルとバルバラの歌とインタビュー音声が使用され、初演からバルバラ役をエリザベット・ロスが踊り続けている。ジル・ロマンが踊っていたブレルのパートは、ガブリエル・アレナス・ルイズが引き継いだ。ベジャールがこのバレエを創作する様子はドキュメンタリー映画『リュミエール』で見ることが出来るが、面白いことに当時のダンサーと面影が重なるダンサーが何人かいる。
エリザベット・ロスは、20年前より若々しくなっている印象があった。二日目の主役も彼女が踊ったという。そのすぐ後に「ボレロ」を踊った(!)。バルバラの役はつねにシングルキャストで、ベジャールはエリザベットに魅了されてバルバラを振り付けたので、他のダンサーに代役は出来ないのだ。舞台はシンプルで、ダンサーの肉体だけが観るべきものとしてある。ジャン・ポール・ノットのシンプルなデザインのコスチュームが長身のエリザベットによく似合っていた。

休憩なしの3分間の転換で『ボレロ』開始。初日のメロディを踊ったジュリアン・ファヴローは2007年からこの役を踊っているが、それ以前は彼と同年代のカトリーヌ・ズアナバールやオクタビオ・スタンリーが踊り、誰が見ても実力のあるジュリアンが赤い円卓の上で踊ることはなかった。2005年の香港公演ではリズム(群舞)を踊っていたが、一番目立つのでどうしてもメロディよりリズムを見てしまった。

『ボレロ』のメロディは「人間スプリンクラー」とも言われたジョルジュ・ドンの野性的なヴァージョン、ギエムのカリスマ的ヴァージョンのインパクトが大きく、見る側にも強い先入観があるが、ジュリアンの『ボレロ』の解釈は意表をつくもので、振付をゼロから見直して厳密に構築されたものだった。
彼は恐らくベジャールにとって最後の霊感の源で、ルードラ卒業後に17歳でカンパニーに入り、忽ち神のような踊り手に成長した。その嬉しい驚きは、振付家を奮い立たせるものだっただろう。ベジャールは多くの主役をジュリアンに与え、2005年にはニーチェの超人思想をテーマにした「ツァラトゥストラ」でタイトルロールを踊らせたが、ボレロは踊らせなかった。何故なのかは分からないが、ベジャールにはベジャールの神がいて、ジュリアンにはジュリアンの神がいたのだと思う。

奇妙な言い方になるが、ジュリアン・ファヴローの『ボレロ』は道徳的な踊りなのだ。野性とか情熱とかを超越した、もっと別の次元に超然としてある。知の神殿で踊られる、すべての肉体表現の祖型のような、神聖な厳密さを表現する。最後に訪れるカタルシスは、どのダンサーよりも激しい。踊り全体に神秘がある。

2002年にジュリアン・ファヴローの演技を観て、自分の人生も変わった。オペラ座の優れたダンサーを観て「不安だ」と思うことはなかったが、彼を見ていると計り知れない神秘に直面しているようで不安になった。ローザンヌやイタリアや中国でも観たが、20代半ばで既に完成された表現者で、踊り手の「魂」ということを初めて考えさせてくれた。ダンサーとは宿命で、避けられない魂の道なのだった。このことを書き出すと、一冊の本になる。

10/14からは『バレエ・フォー・ライフ』(全4公演)がスタートする。

 

 

 

 


ホール・オペラ『ラ・トラヴィアータ』サントリーホール(10/7)

2021-10-08 12:12:44 | オペラ

ホール・オペラ『ラ・トラヴィアータ』初日を鑑賞。葡萄畑スタイルのコンサートホールを、オーケストラと歌手が一緒に乗る「目からウロコ」の舞台仕立てで上演するサントリーホールの名プロジェクトも、5年ぶりの開催となる。指揮は、過去にホール・オペラでダ・ポンテ三部作を振り、愉快なチェンバロも弾いた二コラ・ルイゾッティ。オーケストラは東京交響楽団。合唱はサントリーホール・オペラ・アカデミー&新国立劇場合唱団。

マエストロ・ルイゾッティのお姿を見るのも久しぶり。エレガントなたたずまいは変わらず、前奏曲からヒロインの嗚咽のような切ない弦の震えを聴かせた。歌が始まる前から、すべての歌があるといった感じの前奏曲で、これを安易に赤ワインや食べ物に譬えてはいけないが、一滴一滴が神の奇蹟であるような貴重なシャトーワインの味わいを思い出した。

舞台はP席の中央部分をメインに、オケの上段にオペラ空間を作る形になっていたが、映像や美術をうまく使っていたことで、ほとんど物理的な「狭さ」や「小ささ」は感じなかった。トラヴィアータの本質は、スペクタクルではないことを実感。ヴィオレッタのズザンナ・マルコヴァは菫色の豪奢なドレスをまとい、女神のオーラで、背中から見てもどのアングルから見ても完璧に美しい。バレリーナのロパートキナに少し似ている。アルフレードは実力派テノール フランチェスコ・デムーロ。初めて聴いたときから10年くらい経っているが、声質は輝かしくキープされていた。

マルコヴァは最初はためらいがちな気配があったが、1幕の途中からどんどん思い切りが良くなっていく。ルイゾッティの指揮は奔放に思えるほど伸縮自在で、予想外のアクセントもつけられ、歌手に「なんでもやっていいんだよ」という寛いだ心地を与える。オーケストラの音楽にオペラの豊かな素地があるので、歌手は余計な力を出す必要がなかった。マルコヴァはどんどん凄みと迫力を増し、1幕のラストの大変な高音も見事に表現した。あの音を歌わないヴィオレッタは結構いるので、貴重な声を聴いた思い。

2幕は長丁場だが、見応えがあった。ジェルモンのアルトゥール・ルチンスキーが登場して空気感がさっと変わった。声量があり、バリトンの声のキャラクターが破壊的(?)で、総じて威圧的な表現。ヴィオレッタが「私は女で、ここは私の家です」と警戒を示すのも無理はない乱入者ぶりだった。ジェルモンは息子と娼婦の仲を壊しに来たのであって、それ以外のことは考えていない。「ヴィオレッタはジェルモンに説得され、去ることを決めた」という物語ではなく、生殺与奪の暴君がやってきたので、組み伏せられたという物語になった。これは果たして演出なのか歌手の意図なのか…絶体絶命の境地にあって「娘のように抱きしめてください…」とヴィオレッタが抱き着いてきたとき、ジェルモンは「汚らわしい」と言わんばかりに、自分の上着の襟を整えるのである。ルチンスキーがエンリーコを演じたペレチャッコの「ルチア」(新国立劇場)を思い出した。冷酷で強引なバリトンをやらせたら、右に出る者はない演技力だ。

面白かったのは、ヴィオレッタが去った後のアルフレートとジェルモンの掛け合いで「プロヴァンス…」が、強い父と弱い息子の出口のないデュエットに聴こえた。強い父は「世間というものは…」と世界全体を代弁するかのように息子を諭すのだが、こんなに威圧的では説得というより、おしおきである。「私はこういう父に育てられなかったから、能天気に育ってしまったのか…」とつくづく自分の人生を反省した。

ルチンスキーのキャラクター作りは、オペラそのものを鮮烈に、立体的にした。演劇人として桁外れの天才で、こんな人は見たことがない。父と息子のやりとりの後、アルフレートはヴィオレッタ宛てのパリからの招待状を見つけて「そうはさせないぞ!」と激昂して走り去るのだが、まさにその短気な様子がジェルモンそっくりなのだ。サロンでヴィオレッタに札束を投げつける姿も、父の気性を表現している。それを高みから見ていたジェルモンが「お前は本当にわしの息子か。わしの片鱗もない」というのは、腸がよじれるほど凄い皮肉なのだ。札束を女性に投げる失礼で強引な男とは、ジェルモンそのものなのである。

マルコヴァのヴィオレッタは3幕でも胸かきむしられるようで、声楽的にも素晴らしいが、それよりも歌のある演劇における「女優の力」が並外れていた。作曲家の心の中に入り込んでいるような姿で、大きな無念と悔しさを抱えながらも、わが身の混濁した感情が祈りによって浄化されることを祈っている。一幕から優しく女主人を支えていた小間使いのアンニーナを、オペラアカデミー卒業生のソプラノ三戸はるなさんが演じた。三戸さんに照明が当たらないときも、ずっと彼女を見ていたが、どの瞬間もアンニーナでいたのは素晴らしいことだった。

ヴェルディのオペラのほとんどは、男女の愛の挫折を描いている。『ラ・トラヴィアータ』もそうだが、『アイーダ』も『ドン・カルロ』も『仮面舞踏会』も『オテロ』も『リゴレット』も皆、主役たちは愛することで不名誉な存在になり、貧しくなり、友や信頼や肉親の愛を失って、孤独に死んでいくのである。『ファルスタッフ』でさえ、愛は嘲笑され、洗濯籠に入れられて川に投げ込まれる。こうしたオペラを、執拗に書き続けた根拠に、ヴェルディの中で「この愛という不条理をどうしたらいいか」という苦悩がつねにあったからだと推測する。

愛が自分を不名誉にする…パヴァロッティのドキュメンタリー映画を思い出した。パヴァロッティがヴェルディをよく歌えたのは、同じ運命を背負っていたからなのではないか。世界を魅了し、通り過がりの人にさえ楽しい気分にさせ、舞台ではあれほど愛を軽やかに表現できる人が、愛のために苦悩し社会から叩かれた。

ヴェルディが素晴らしいオペラを書いたのも、パヴァロッティが素晴らしい歌を歌ったのも、愛に苦悩していたからで、現実では正論を言うことが出来ない窮地に追い込まれて、芸術の次元で凄い達成を見せる。

ラストシーン。蒼白な顔で死に絶えたマルコヴァは、「歌う女優」という言葉では軽すぎるほど、ヴェルディの魂を理解していたように見えた。カーテンコールでは、ルイゾッティがマルコヴァに薔薇の花を一輪捧げ、東響がハッピーバースデーを奏でた。10月7日はマルコヴァの誕生日だったのだ。10月10日のヴェルディの誕生日と、10月12日のサントリーホールの「誕生日」を思い出しながら、この夜のトラヴィアータにもたらされた祝福について考えた。主要歌手、指揮者の至芸は世界有数のオペラハウス鑑賞後の幸福感を凌駕するほど。10月9日に二回目の公演が行われる。

 

 

 

 


第19回東京国際音楽コンクール《指揮》

2021-10-04 21:10:10 | クラシック音楽

9/28からオペラシティコンサートホールで始まった第19回東京国際音楽コンクール《指揮》の第1次予選12人、第2次予選(7人中4人まで)、本選4人の指揮を見学した。コロナ感染症対策で、第1次予選と第2次予選は一般の観客を入れず、ジャーナリストや関係者などごく少数の見学者のみが参席し、若い指揮者がオーケストラとリハーサル形式で音楽作りをしていくプロセスを鑑賞した。

第1次では参加者12人中6人が日本人で、三浦コンマス率いる東京フィルとともにベートーヴェン『交響曲第2番』を演奏したが、意外にもキャリアも実績もある日本人コンテスタントたちは本選に残らなかった。見学していて感じたのは、日本人参加者が日本語で日本のオーケストラに指示を出すときと、ブラジルやフランスや英国やロシアの参加者が英語で指示を出すときとは、空気感が異なるということだった。言語が通じるから有利というのではなく、その逆で、ついオケに丁寧にしすぎたり、指示が曖昧になったりして、「ズバリ、どんな音楽を求めているのか」が分かりづらい。ステージに登場した瞬間に、コンマスに向かって「いつもどうも」と親し気に会釈をする方もいて、特に問題がないのかも知れないが、海外からくるコンテスタントもいるコンクールでは少し緊張感が足りない印象も感じられた。(しかし、そうした態度は審査には影響していなかった可能性も大きい)。

予選では細かく止めてリズムや強弱を確認したり、イメージを伝えたりする。イマジネーション重視か、数学重視か、それ以外のことか。一次予選では印象に残ったいくつかの人がいた。残念ながら二次に進めなかった上田絢香さんは「エストニアから来ました」という挨拶からはじまり「二楽章は花が咲いたように」「全員が主役になった気分で」と新鮮な言葉で音楽を作り、全体像は見えづらかったが、確かに止めたあとオケの音が「よくなっていく」様子が伝わってきた。少し宇宙人感覚も感じられる上田さんを、マイナー扱いしたくない。この先もオリジナリティを追究して指揮を続けて欲しい。

もう一人の女性の参加者である齋藤友香理さんも、「ベートーヴェンの2楽章ではハイリゲンシュタットにある居酒屋をイメージしています」と詩的な表現をした。上田さんより指揮全体がもっと骨太だったが、曲に自由なイメージと構想を抱いていることを感じさせ、サウンド全体にこの世界に対する母性愛みたいなものも感じられた。前回の沖澤さんに続くスターとなるか…と期待していたので、1次で終わってしまったのは残念だった。

本選に残った唯一の日本人である米田覚士さんは、一次予選で唯一印象に残った日本の男性の指揮者。自分の記憶力が甘いせいか、他の日本の男性指揮者は、「皆、優秀で勉強熱心だな」という印象でまとまったが、一番不器用で一番若かった米田さんには、それとは別の熱があったので興味が湧いた。指揮台の上では要領よく言葉は出てこないが、頭の中で次々とベートーヴェンのアイデアがたくさん湧き出してくるといった感じ。この先、この人が何を聴かせてくれるのか、もっと知りたいと思った。

優勝したジョゼ・ソアーレスは、とにかく登場した瞬間から「気」が凄かった。出てきただけで舞台が明るくなる。1998年生まれと大変若いが、体格は他の皆よりどっしりしていて、もう少ししたらバッティストーニくらいになるかも知れない。呼吸感が安定していて、ジェスチャーがはっきりし、音楽表現にとても高い理想を持っている指揮者だと瞬時に思った。オケの響きも明るい。内容のある明るさで、大きな拡がりと「歓び」があり、ベートーヴェンらしい驚きの瞬間がいくつもあった。三善晃『交響三章』では「ジャズのように」という指示があったり、オペラ歌手のようにいい声で歌って伝えたりと、とにかく個性豊かだった。

2位のフランス人サミー・ラシッドも落ち着いていたが、あまり印象には残らなかった。ものすごく背が高く足の長い若者で、指揮姿はスマート。余計なものを削り取っていくタイプの指揮に聴こえた。

3位のイギリス人、バーティー・ベイジェントは、大変聡明な指揮者という印象。てきぱきとオケに指示を出し論理的に音楽を組み立てていく。場数を踏んでいるな、と思った。何人かの人が「ハーディングに少し似ている」と言っていたが、ハーディングのようにオペラも振る人らしい。英国風だと思ったのは、本選課題曲のロッシーニでBBCオーケストラ風のブラスが吹き荒れたことで、指揮者の肌になじんでいる「風土」のことを思った。

1次と2次では、東フィルの献身的な演奏に心から感動した。誰よりも感動したのはコンテスタントたちだっただろう。こんなに素晴らしいレスポンスをするオーケストラを、若くして振れることは大きな幸運である。ホルン奏者はベートーヴェンで緊張感のある音を何度も出さなければならないが、12人分、毎回完璧に出してみせた。全てのセクションが最高だった。

それゆえに、本選でも東フィルで聴いてみたかった。本選での新日本フィルも勿論素晴らしく、感動的だったが、1次から一緒に音楽作りをしてきた「パートナー」である東フィルとファイナルを迎えたら、参加者の感動もひとしおだったのではないかと想像する。新しいオーケストラとゼロから始める技術も求められていたのかも知れないが、今回は、無観客に近い中での東フィルの最高の演奏がほぼシャドウワークになってしまい、本選での満員のお客さんに聴かせられなかったことが大変口惜しい。本選課題曲のロッシーニなど、東フィルはまた違った音を聴かせたと思う。

とはいえ、新日本フィルの渾身のサウンドにも感謝する。本選最初のサミー・ラシッドのサン=サーンスは、耳に親しいこの曲が大変指揮が難しい曲であると知った。抜粋の演奏だったが、音がどんどん重くなり、後半は聞いていて少しばかり疲労感があった。休憩なしで振る前半二番目のコンテスタントはこれでは不利だろう、と思っていたところ、ジョゼ・ソアーレスが目の覚めるようなストラヴィンスキー『ペトルーシュカ』を振り出した。同じオーケストラとは思えない立体的なサウンドで、これまで聴いたどのペトルーシュカよりも巨大なイマジネーションを感じさせた。この人は、自分の童心にも無意識にも蓋をしていない。人格のすべての要素が統合され、恐れがなく、信じがたいほど自由な音楽を創り出している。終盤に向かってオケは疲れるどころか、不死身のようなサウンドを合奏する。ストラヴィンスキーがみた人形の夢、ロシアの土臭さ、宗教性、ペトルーシュカのユーモアと悲哀、そしてシアトリカルなヴィジョンが会場に広がった。聴衆賞も得たが、客席の心も彼の音楽の前でひとつになった。

本選では、英国人べイジェントのR・シュトラウス交響詩『死と変容』と、米田さんのチャイコフスキー幻想的序曲 『ロメオとジュリエット』も胸を打った。ベイジェントは本選で心が震えるようなR・シュトラウスを聴かせ、これまで積み重ねてきた経験を証明した。知的なだけでない、何か狂おしい情熱も隠し持っている指揮者である。

米田さんのチャイコフスキーは、指揮する後ろ姿がそれまでとは別人のようで、一回りも二回りも大きくなっていて、チャイコフスキーが血で書いたような美しい和音を一瞬一瞬大切に心で受け止めながら、指揮をしていた。思わず途中から涙が溢れたが、指揮を終えた米田さんも少し泣いているように見えた。1次予選では一番無防備に見えた米田さんが、こんなに深遠な音楽観を持っていたことにも驚き、コンクールの間にもどんどん成長しているのだとたのもしくなった。

2021年はブザンソン国際指揮者コンクールもあったから、今回の参加者たちは東京でのコンクールを高く評価してやってきたことになる。オーケストラのクオリティは「うまいのは指揮なのか、オケなのか」曖昧になるほど青天井に素晴らしかったが、こんないいオケが東京にはあるということを世界の若手に知ってもらえたことは、いいことである。ソアーレスは、2021年の指揮コンが生んだスターだ。彼は将来、メジャーな歌劇場とオーケストラの監督を兼任する大物になるような気がする。

オペラもクラシックも、高踏的であるだけでは生き延びるのが難しい時代になってきたと実感する。そういう時代に選ばれた1位だった。ソアーレスには未来の聴衆を創り出す力がある。素晴らしい知性の持ち主だが、知性だけでない。表しているものがとても幸せで、祝祭的で、平和だと思った。

オーケストラ賞は新日フィルのコンマスのチェさんから、3位のべイジェントに渡された。チェさんの笑顔を見てウキウキ嬉しくなったが、東フィルからの「オーケストラ賞」もあったのではないかな…と勝手に想像した。

リモートによる閉会式で、審査委員長の尾高先生は「指揮の技術と人間性とは別です」「人間性のすばらしさも求めている」といった内容のことを仰られた。また「日本人は何を伝えたいのか、わかりづらい点もあった」と。つきつめていくと、人間が本当に伝えたいこととは、頭で考えるよりもっとごつごつしていて洗練されていない何かなのではないか。米田さんがロメジュリを振り終えた後の、指揮棒を止めたまま号泣しているような感じの背中が忘れられない。