小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

東京二期会『トゥーランドット』

2023-02-28 03:04:19 | オペラ
二期会創立70周年記念公演『トゥーランドット』(ジュネーヴ大劇場との共同制作)の初日と楽日を鑑賞。エンディングは比較的上演機会の少ないベリオ補筆版で、指揮者はエル・システマ出身のディエゴ・マテウス。オケは新日本フィル。演出はイングリッシュ・ナショナル・オペラ支配人ダニエル・クレーマー。ステージ・デザイン、ライトアートにチームラボアーキテクツ。

開演前からホールに立ち込めたスモークが一種異様な緊張感を掻き立てていた。幕が開くと、合唱とともにダンサーたちの狂気に満ちた声とドタドタという足音が舞台に飛び交う。舞台となる中国の古代都市は悪徳の栄えで、残酷趣味のトゥーランドットの「さかしまさ」が民全体に感染している。パゾリーニ的な退廃感が蔓延していて、姫の問いに答えられなかったペルシアの王子が、黒い羽根をつけたマッチョな憲兵(?)たちから衣類をむしられ、髪を削がれ、辱めを受ける。紫禁城はソドムの市のようだ。ペルシアの王子は、字幕にならって首を斬られるのかと思いきや、股間に咲く花房を切り取られ、そこから血が溢れる。頭の着いた死体は兵士たちによって運ばれるが、その瞬間から兵士たちの股間にも同じような花飾りがつけられているのだ。

これは凄い演出だと思った。兵士たちは愚かしくも誇らしげにミモザやガーベラや藤や薔薇の花を股間にぶら下げ、狼藉の限りを尽くす。と同時に、先ほどまで残酷な姫を罵っていたカラフは、「なんと美しい!」と求婚の決意をする。彼の股間にも(象徴的に)花が芽生えたのだ。カラフはペルシアの王子と正反対のマッチョな風貌で、弁髪のような独特のヘアスタイル。初日には樋口達哉さんが、楽日には城宏憲さんが見事なタタールの王子を演じた。

シリアスな王子の決意を遮るように、宦官のピン・パン・ポンが説得の歌を歌い始めるのだが、彼らは完全にコミカルな道化で、ピエロのメイクアップでストリップをしたり(歌手たちは体当たりの見事な演技)、女装じみた衣装でクネクネ踊ったりする。股間には他の男子のように花がついておらず、裾をめくって性器をもがれた跡のようなものを見せ、そこに木の枝や角や巨大なきのこをつけて遊ぶ(首斬り人のマンダリンの股間も同様に描かれる)。恋に狂ったカラフを説得できるのは、ピン・パン・ポンには性器がないからで、彼らは欲情もしなければ恋もしないが故に一生安全なのだ。ピン・パン・ポンはエリートで冷血漢だから女性を求めないのではなく、男根がないから欲情しないのである。

リューは舞台の上半分を占める大きな箱型の不透明な(わずかに人影が見える)幕の中にいて、修道女たちの一人としてカラフとやりとりをする。ティムールの「リューはわしのために物乞いまでしてくれた」という歌詞と矛盾なく感じられるのは、リューの善意が高次元のもので、肉体を超えた天使のような波動で寄り添っていたからだろう。ティムールはリューの高次元の善意に護られてここまでたどり着いた。ティムールとカラフの父子の再会で、お互い殴る蹴るの激しい動きを見せていたが、ここは最後まで謎であった。

リューは「お聴きください、王子様」のアリアでは地上に降りて姿を見せて歌うが、それ以外の場面ではほとんど地上におらず、修道女アンジェリカのように尼のような群衆とともに上空にいる。初日は竹田倫子さん、楽日は谷原めぐみさんで鑑賞したが、このリューの描き方は全く新しいものだと思った。

チームラボアーキテクツの美術、ライティングのアートは美しく、観客を魅了していた。ホールの天井までいっぱいに使い、空間はプラネタリウムのようになり、オペラでこのようなことが可能になるのは素晴らしいと感動した。驚きは二回目にはやや薄れてしまったが、演出とよく合っていた。ヴィジュアル面はすべてが革命的で、衣裳には最後まで度肝を抜かれた。トゥーランドットの老いた父である皇帝アルトゥムは、中国風というより日本風に見える翁の着物を着ているのだが、股間にはドライフラワーのような砂色の花が付けられている。この花を見て「そうなのか」と泣きそうになった。

トゥーランドットは歌手にとって過酷な役で、「この宮殿で」のアリアから休まずに三つの問いをパワフルに歌わなければならない。田崎尚美さんは待ち望まれたトゥーランドットで、可愛さもあり、声量も素晴らしく、存在そのものに引き込まれるような巨大な魅力があった。三つの問いの三つ目を歌う頃には、既にカラフの勝利を望んでいる。のちの歌詞にもそのことが打ち明けられているのだから、これは正しい演出である。樋口達哉さんは特にこの場面で、勇壮で華やかだった。三つ目の問いが正解した瞬間、光アートも最大限に派手になった。

少女合唱はロングヘアに白いノースリーブのドレスを着ており、カラフの名を知りたい民たちの拷問にかけられるときのリューも同じヘアスタイルで同じドレスを着ている。天井から吊る下げられたガラスの鳥籠のような箱の中で「氷のような姫君の心も」を歌わなくてはならないので、足元がゆらゆらしていて歌いづらかったはず。それでも、この演出にも強力な意味が感じられた。リューは奴隷の恰好をしておらず、誰からも直接触れられず、カラフへの愛を歌って高い場所で死ぬ。そのあとにトゥーランドットは「私は地にはいない。魂は天上に」と悔し紛れに歌うのだが、それは彼女ではなく、まさにリューのことなのだ。カラフにとって女奴隷リューの愛は崇高すぎて、逆に触れられないものであった…という逆説である。

この演出は凄すぎるのではないか? 歌手が空間のどこにいて、どんな衣裳をつけているかで、すべてのことが語られてしまう。「あなたが冷たい女性だなんて嘘だ」とカラフがトゥーランドットの鎧のような黒いマントを脱がせると、さっき死んだばかりのリューと同じドレスを着ている。ピン・パン・ポンが歌った「女は足が二本、股がひとつ、皆同じ」という歌詞の通りの崇高な事実(?)が明らかになるのだ。

ベリオ補筆版は何度も聴いたアルファーノ補筆版より洗練されていて、プッチーニのスケッチを同じように参照していると思われる箇所もあれば、思い切り現代音楽に近づけて接ぎ木している箇所もあった。プッチーニが聴いたら、ベリオ版のほうを気に入るのではないか。合唱の霊力、神秘性、トゥーランドットの強靭さがよく聴こえ、物語が無限の宇宙に向かって広がっていく気配が感じられた。二期会合唱団の表現力が卓越しており、冒頭の拷問を見守る北京の民から、最後の皇帝の崩御の場面まで見事な声だった。宗教音楽家の家系に生まれたプッチーニのDNAを強く感じさせた。

チームラボのライティングは、最後まで粘り強く、男性器の暗示がたくさん登場した演出で、最後の光アートは子宮孔のような小さな穴の文様を創り出し、それは一瞬だけハートの形になった。トスカニーニは「マエストロはここまで書きました」と「リューの死」で指揮棒を置いたが、プッチーニはそこまでオペラをナルシスティックなものとして捉えていなかったと思う。カラフとトゥーランドットは結ばれなければならない。千年前に先祖のロウ・リン姫を凌辱した蛮族についていた花房は、カラフにもぶら下がっていて、花々はトゥーランドットの中にも咲き乱れる。万華鏡のような背景にピンクの花々が次々と咲いていくラストに、演出家の「幹が太い」才能を感じた。

4日連続でゴージャスなプッチーニのオーケストラを響かせた新日本フィルは見事だった。楽日も一切疲れを見せず、すべてのパートがハイセンスで注意深く、最高のパフォーマンスだった。ディエゴ・マテウスの才能にも注目。指揮者はこの演出に特別思うところがあったのだろう。カーテンコールで大変幸福そうな表情だった。




ダニール・トリフォノフ ピアノ・リサイタル(2/10)

2023-02-14 04:21:13 | クラシック音楽
トリフォノフの久々の東京でのリサイタル。最近のCDジャケットでは短髪の髭面で、ショパンコンクール当時(2010年)の少年の面影がすっかり消えてしまったかと思いきや、ステージに現れたトリフォノフはサラサラヘアが復活していて、31歳の若者の容貌だった。チャイコフスキーの『子どものためのアルバム op.39』から弾き始める。20曲ほどの小曲が集まった作品で、リサイタルで演奏されるのは珍しいような気がする。一曲目「朝の祈り」から凄まじい集中力。憂いのある音色が次々と響き、ホールを埋め尽くした。ピアノはファツィオリ。

生演奏は本当に久しぶりなので、トリフォノフという芸術家に対する印象も心の中で少しブレていた。ペトルーシュカを立ち上がって弾く映像を見ていたせいで、エキセントリック路線に走ったという刷り込みもあった。チャイコフスキーはひたすら内省的で、「ママ」「兵隊の行進曲」「お人形の病気」「お人形のお葬式」といった曲も全く子供っぽく聴こえなかった。むしろ、チャイコフスキーが死ぬまで苛まれていた音楽の「霊感」の狂おしさが、痛みのような感覚として伝わってきた。ピアニシモは砂粒のようで、時々ピアノの音であることを忘れた。詩人にしか見えない微細なものを、作曲家は日常的に見ていた。「ナポリの踊り歌」はバレエ音楽「白鳥の湖」にも登場する。チャイコフスキーはバレエという世界を必要としていた。彼が悩まされていたシルフィードのような、セイレーンのような存在がバレエの世界では生き生きと生きていて、妖精のための音楽を書くことは自然なことだった。

トリフォノフが何を弾いているのかというと、譜面に書かれたものというより、作曲家が「すべて」に身を委ね、ただの入れ物になったときに彼に襲いかかってきたイマジネーションなのだと思う。椅子に座ると同時に勢いよく弾き出したシューマン『幻想曲』は、青春そのものの音楽で、若い魂が肉体を得て生きていることの高揚感に満ち満ちている。全身を駆け抜けていったシューマンの愛の思い出で、作曲家の46歳の不幸な死ということを改めて思い出した。青年のまま死んでしまった人で、地上に根付けない魂の特異性がこの曲にも既に刻印されている。女性(クララ)への恋情が引金となって、異常なほど獰猛な霊感が電撃的に書き連ねられ、2楽章のフォルテシモは割れる寸前の強靭な打鍵で、最終楽章では一転して死後の世界のような穏やかさが訪れる。

作曲家たちは音楽室に飾られているポートレイトのように人の形をしていたが、音楽そのものは空気に漂う霊気のようなもので、才能という受信機がそれを吸い取って、紙の上に書かれたインクとして物質化する…いわば肉体は道具に過ぎなかったのではないか。「わたしはこの世のものではないような気がする」というのはシューベルトが遺した言葉だが、ある時代の作曲家は皆同じ事を実感していたように思う。トリフォノフが選んだ5人の作曲家は全員、不幸な亡くなり方をしていて、生きているときから生物と無生物の間を揺らいでいたような印象がある。

トリフォノフがショパンコンクールで入賞したときも、既にショパンという作曲家を、様式や伝統のフレームを超えた「巨大な霊感そのもの」として捉えていたふしがある。作曲とはどのように行われるものなのか。風や自然と一体化したとき、死者と語り合ったとき、強烈な愛が電撃的に肉体に走ったときに、悟性だけでは得られない詩がうまれる。モーツァルト「幻想曲」は時のない世界の音楽で、暗がりの中で永遠になり続けるオルゴールを連想させた。モーツァルトの美しい筆跡のように端正で、神秘的な憂愁を帯びている。

ラヴェル『夜のガスパール』は、この夜の演奏会の中でも最も狂気に溢れた世界が爆発した。「オンディーヌ」の左手の動きは奇跡のようで、自作の「トッカータ」もうまく弾けなかったラヴェル自身が肝をつぶしそうな出来栄えだった。それにしてもラヴェルとは何者だったのか。果たして今聴いているのは「ピアノ」なのか。魔術だ。スクリャービン『ピアノ・ソナタ第5番』は、トリフォノフがスクリャービンにすべてを預けて、操り人形になっているようにも見えた。五感が截然と分かれていなかったスクリャービンは色を音楽にし、音楽を色にしたが、そうした危うさは作曲家自身の命までも縮めてしまったように思われる。弾き終わった瞬間に立ち上がったピアニストに、万雷の拍手。

トリフォノフは21世紀のリヒテルなのか。リヒテルのリサイタルは始まる前からミサのよう神妙だったいう。近い将来、トリフォノフを聴けることが奇跡に思えるくらい、貴重で雲の上のアーティストになってしまうような気がした。レーザーメスで取り出された5人の音楽家の心臓を聴いた夜。