小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

wombの中のオペラ 新国『ワルキューレ』(3/11)

2021-03-14 06:52:00 | オペラ

新国『ワルキューレ』再演初日。このプロダクションは2016年の初演を見ているが、5年前にはずいぶん奇矯に見えたゲッツ・フリードリヒ演出が、今回の再演では逆に冴えた解釈に思えた。記憶とは頼りないもので5年前に見たことを随分忘れている。冒頭でジークムントが倒れ込んでくるフンディングの館はこんなに傾斜していたか…横長の部屋が極端な角度で傾いている。「ひどく不条理でおかしなことが起こっている」ことを表すために、演出家によってたびたびこうした傾きのある舞台が作られることがあるが、それにしても傾き過ぎ…歌手たちは全員この床の上で演技をする。体力的にも大変だろうが、演出面での視覚効果は高い。

1幕のジークムントは村上敏明さんで「1幕のジークムントに求められるベルカント的な表現力」を見込んだ大野さんによるキャスティング。プッチーニ等のイタリアオペラしかお聞きしたことがなかったが、苛酷な役を充分に強い喉で歌われた。声に対する反響が大きいのは装置の長所だが、プロンプターの一語一句まで明瞭に聴こえてしまうという悩ましさも。ジークムントは無理に日本人が歌わなくてもいい役なのでは…とも思うが、ワーグナーとは「そこにあるから登らなければならない山」なのか。長い一人語りのシーンは拷問のようだが、村上さんの豊かな声量が衰えることはなかった。ジークリンデ小林厚子さんの悲劇的な演技も素晴らしい。

オケは東響。当初は初演と同じ飯守泰次郎さんがピットに入る予定だったが、腰の手術の後で長時間の指揮は難しいということになり現オペラ芸術監督の大野和士さんにバトンタッチとなった、20世紀初頭に書かれた縮小版のスコアを使いピットは小編成だったが、表現的には全く不満がなかった。大野さんの物語を求める精神と『ワルキューレ』の世界観は見事に一致し、『紫苑物語』『アルマゲドンの夢』に続く連作の『ワルキューレ』であるようだった。ジークムントがノートゥングを得るときの音楽は狂喜と狂気に溢れ、指揮棒と、指揮棒を持たない手をぶるぶるふるわせながらジェスチャーする大野さんの頭から上が見えたが、何かが乗り移っているような熱狂ぶりだった。

2幕は何もかもが命絶えた冷たい火星のような世界で、ヴォータンのミヒャエル・クプファー=ラデツキーの好演、フリッカの藤村実穂子さんのカリスマ的な声と姿でオペラが急速に求心力を持ち始めた。神の苦悩、男の神と女の神の夫婦間の齟齬が容赦なく描かれ、強い神であるヴォータンを唯一支配できるフリッカの威厳が超人的だった。世界最高のフリッカを聴いた。ブリュンヒルデ池田香織さんは、つい先日の『タンホイザー』のヴェーヌスがまだ目と耳に焼き付いているが、ブリュンヒルデは登場の瞬間からぴちぴちしたお転婆な乙女で、ヴォータンとじゃれ合う姿も若々しい。2幕ジークムントは「ドラマティックな強い声が必要」という指揮者の指名により、秋谷直之さんが歌った。神々の中にいて、狂おしい人間臭さを放つ役を演じ切り、ブリュンヒルデとの対峙のシーンも緊張感があった。秋谷さんと村上さんはご自身が登場しない幕のカヴァーも担当している。

初演ではジークムント=ステファン・グールド、ヴォータン=グリア・グリムズレイ、ブリュンヒルデ=イレーネ・テオリンというドリーム・キャストだった。初演の前に彼ら全員に取材し、各々が深いレベルで物語に愛情を感じていることを理解したが、今回のキャストもかなり水準は高かったと思う。

8人のワルキューレたちは半分以上前回と同じ歌手が演じたが、初演よりも魅力的だったのは、何を演じるべきかが明確になっていたからで、前回はまだ手探りの状態だった。ゲッツ・フリードリヒ演出では「ワルキューレたちは男の死体を弄びつつ、姉妹同士でも愛し合う(近親相姦)」設定で、前回のインタビューではそのことに8人の歌手は当惑していた。結果的に「アマゾネスで近親相姦を楽しむ戦乙女」という設定は外され、優しい雰囲気になってしまったが、今回はより嬉々とした危険な魔女たちに変貌し、神話上の生き物のように現実離れしていた。

このワルキューレたちは大野さんの創造物ではないか…「ワルキューレの騎行」はクレイジーな音楽で、大野さんのデーモニッシュな毒がこんこんと溢れ出していた。大野さんの悪魔性…それこそが、マエストロの作り出す音楽に時々「ついてけない」と思ってしまう強烈な個性でもあるのだが、ワーグナーはハマり過ぎていた。作曲家は善とか崇高な人間性とか、そうしたものを描いているのではない。人間のもつ魔の部分、欲の仮借なさ、残酷さやシャドウが陳列されているのであり、大野さんの指揮はオリジナル(?)の飯守さんが描き出さなかった位相を引き出していた。

ゲッツ・フリードリヒの演出家としての卓越性ということを思った。これは3度目の『指輪』演出で、フィンランド国立歌劇場のためのプロダクションだったことも関係しているのか、「ムーミン谷」のような童話的なイメージが漂う。2016年から上演されたツィクルスでは、それが懐古的で垢抜けない、キッチュな演出に見えないこともなかった。

 フリードリヒは『指輪』をワーグナーの脳内の妄想として、学習机から異次元にトリップする子供の冒険として徹底的に「絵本」化する。最先端の舞台機構を使って、同じ父親=ヴォータンから生まれた子供たちのあれやこれやを描き出す。この5時間もするオペラは、まるで子宮の中でうごめいている「まだこの世に生まれていない胎児たち」のドラマのようだ…そう思ったのも、ワルキューレたちが跋扈するトンネルの丸い穴が、子宮孔のように見えたからだ。フンディングの家の傾き、火星のような神々の国…すべてが胎の中の世界のようだ。

全員が同じ父をもち、双子の兄妹が愛し合い子を作り、争い合う…奇矯そのもののあらすじを、ゲッツ・フリードリヒは一種の幼児退行の世界として俯瞰する。『ジークフリート』では、ジークフリートはオーバーオールのジーンズを履いて、セクシーな小鳥くんたちに驚愕する。おもちゃのような怪物たちが観客を驚かせる。その企みが、前回のツィクルス上演では音楽と微妙に噛み合っていなかった。

ワーグナー世界の本質は悪であり、現実逃避であり、病み難く退行する精神である…ワーグナー崇拝者では、ワーグナーの痛みは描きづらいのかも知れない。2021年の再演では、物語の何かが丸裸になった。ヴォータンに逆らったブリュンヒルデが父に別れを告げられる場面は何度観ても感動的で、「すべての悪の根源」であるヴォータンの自己矛盾が、歌手の人間性を丸ごと見せてくれる。「私は娘がいるので、あのシーンは何度演じても胸が張り裂けそうになる」とグリア・グリムズレイは語ってくれた。今回のクプファー=ラデツキーにも何か内面の物語があったのではないか。

ブリュンヒルデの意図を汲み、ヴォータンがローゲを召喚して岩山を火で囲むシーンは今回も美しかった。演奏と視覚がぴったりと合い、最高度のテクニカルをもつ劇場の面目躍如たる場面だった。休憩2回合わせて5時間強。音楽的な内容が濃密で、演出の価値が次々と蘇生した上演であったため「ときどき目覚めて、あとは夢うつつ」タイプのワーグナー鑑賞では済まされない…よい意味での疲労感があった。上演は3/23まで。


読響×山田和樹(3/9)

2021-03-10 10:03:40 | クラシック音楽

3/4の定期演奏会も息を呑む名演だったが、一週間と経たない間に同じサントリーホールで行われた読響×ヤマカズの名曲シリーズは、これまで聴いたすべてのオーケストラのコンサートの中でも最も心に残るものになった。とうとうここまで来た…演奏中、何度も心でつぶやいてしまった。

前半リスト『交響詩《前奏曲》』は、最初オーケストラの音量と音質に驚いた。先週のウェーベルン『パッサカリア』はオケのファルセットのような微妙な「中間の音量」が頻繁に聴こえたが、リストは朗々とした大きな音で、しかも爆音からはかけ離れた「柔軟に膨らんでいく」ようなおおらかさがあり、ドラマティックな優美さがあった。金管の勇壮さはワーグナーを想起させるが、リストはワーグナーと同時代を生きただけではなくショパンとも青年時代を生きた人で、詩的なロマンティシズムが柔らかく溢れ出す件は、ノクターンやバラードを彷彿させる。嵐の描写のような弦の半音階の上昇と下降、木管の牧歌的な旋律、雨上がりの空のように優しく回復する弦とハープ、ホルンの陽気な合図…すべてが最後の音に吸い寄せられて、弾力性を持って突き進んでいた。最初から最後の音まで一気呵成に弾かれる感じというのは、アルゲリッチのピアノでよく体験する。楽想はさまざまに変化するが、全体が有機的なひとつの命を持っていて、生き生きとした輪郭を作り出すのだ。

16分のリストの濃密な音楽だけでかなりの充実感があったが、同じ編成ですぐにR・シュトラウス『死と変容』が続いた。先のリストと作曲年代は40年以上違うが、どこか双子の兄弟のように感じらる世界で、こちらでは厭世観と静けさが、夜の森のような神秘的な景色を浮き彫りにした。爆竹が弾けるように突然の展開がやってきて、こちらもワーグナーを思い出す件が。読響の食いつきがすごい。弦楽器の弓の動きが普通見る動きではなく、奏者たちが持てる活力のすべてを注ぎ込んで「捧げている」ようだった。よく聴くと、弦も金管も木管もありきたりの表現をしていないのだ。限界を超えて、音を引き延ばしたり強弱をつけたりと固定概念とは違うアプローチが随所に感じられた。個々の響きの中に、とりわけ明度の高い輝く音が聞き取れ、シルクか真珠のように光っていて、それはどういう指揮によって可能になるのか不思議だった。

オーケストラ演奏で一番がっかりするのは、管のミスでも縦の線のズレでもなく、「まだそんな陳腐なことをしているのか」という指揮者の手癖に気づいてしまったときである。ヤマカズはそんなことを一度も感じさせない。むしろ、すべての音が神秘的すぎて謎ばかりだった。通常想像する「うまい」合奏とは一味二味も違う。秘密の錬金術を使っているのだ。我々が現実世界にどっぷりで、見ようともしない「背後に隠れた別の世界」から多くの秘宝を得ているのかも知れない。

『死と変容』からはR・シュトラウスの心映えが伝わってきた。優しい、この上なく優しい人間だったのだ。指揮者は作曲家の知性を再現することは出来ても、そっくりそのままの性格まで表すことはすべての人が可能なわけではない。性格というか、魂といっていい。リヒャルトの寛大で崇高な心が音楽からだだ洩れていた。コンマスの小森谷さんのソロが美しすぎる。ラストのロングトーンは泣けた。プレイヤー全員がこの演奏に感じている愛が伝わってくる献身的なロングトーンで、私なら指揮台で泣いていただろう。

15分休憩の後に演奏されたニールセン『交響曲第4番《不滅》』は、この夜の演奏会が伝説となることを釘づけた。戦争音楽のように始まり、複雑な拍子に合わせて各パートが神妙な響きを組み合わせていく。民族ダンスのような旋律、中世のお城の喇叭を思わせる金管、木管と金管の鳥同士のようなダイアローグ…これは何を表しているのか。時系列で次々に現れて来るモティーフは、文学や哲学と関係があるのだろう。音楽は絵巻物のように展開していく。3楽章はさまざまな様式がお菓子のアソートのように演奏され、「くるみ割り人形」のディヴェルティスマンのような楽しさがあった。読響はとても丁寧に作り上げていたと思う。再び楽想が大規模になっていくところでは、地中から天高く巨大な龍のような存在が舞い上がっていくようだった。『不滅』というタイトルだが『運命』という言葉も思い浮かんだ。次々と予想外の恐慌的シークエンスがやってきては、鎮静と治癒の楽想が続く。終盤近く、打楽器が雷鳴を打ち鳴らし、すべての弦楽器が魔法のような早弾きを始めたとき、オーケストラの奇跡を見たと思った。どんな言葉でも再現できないばかりか、陳腐になっていくばかりだが、音楽家はもともと評論のはるか上の次元を生きていて、こちらの知らないことをすべて知っているのだ。

減点方式の評論やコンクールの採点にはもともと矛盾を感じていたが、この夜の読響と山田和樹さんの演奏を聴いてさらにその感覚が強くなった。読響の持っている精神性をずっと尊敬してきた。ヤマカズは彼らの未来性を爆発的に弾き出し、世界のどのオーケストラにも劣らない究極のアンサンブルを実現する。去年はチャーター便でやってきたウィーン・フィルを聴くために財布を空にしてしまったが、日本でこのような世界一の演奏会が行われているのなら、無理をしてウィーン・フィルを聴きに行く必要はなかったなと反省した。

誰もいないサンゴ礁の海を泳いでいるような指揮に驚愕しつつ、何度も繰り返し思い出すのは一番最初に山田さんにインタビューしたときのことだ。アマチュアオケを100団体以上振ったことが自分の宝物になっており、打ち上げでは全員にビールを注いで「楽器によって注ぐときの角度も変えるんです」というエピソードを語ってくださった。ビールのお酌と世界的マエストロ…関係があるのかないのか。一生に一度聴けたら儲けもの…といった名演を胸に抱きながら、誰も知らないマエストロの「秘伝」とは何かを空想していた。

                           Ⓒ読響