小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

東京バレエ団『M』(10/24)

2020-10-25 10:23:49 | バレエ


10年ぶりの再演。1993年にベジャールが東京バレエ団のために振り付けた。当時ベジャールは66歳で、この前年にスイスのベジャール・バレエ・ローザンヌを30名ほどのカンパニーに縮小している。どの時代の作品にもベジャールには駄作がないが(あると言う人もいるかも知れない)、この時期は生涯で何度目かの演劇人としてのピークにあったのではないかと推測した。
 休憩なし100分。衝撃的で隙がないほどのエンターテイメントだった。「エンターテイメント」という言葉は軽すぎるだろうか。三島由紀夫の生涯と作品をモティーフにしたバレエは深淵で哲学的だが、ヨーロッパのあるタイプのモダン作品にありがちな自己完結的で「何の味もない」ダンスとはけた違いに「面白い」のだ。強烈な刺激が次々と感覚に襲いかかる。巨大な円い鏡や目のくらむような桜吹雪が天から舞い落ちる。退屈な瞬間など微塵もなかった。

「初演を見たことがない」世代の若いダンサーが三島の4人の分身を演じた。現在の東京バレエ団のスターダンサーたちで、Ⅰ(イチ)が柄本弾さん、Ⅱ(二)が宮川新大さん、Ⅲ(サン)が秋元康臣さん、Ⅳ(シ=死)が池本祥真さん。Ⅳの池本さんは大抜擢だったが、2018年に移籍してきた池本さんは最もベジャール作品となじみが薄かったはずだ。この作品では冒頭の祖母から僧、能楽のシテに早変わりしながら、つねに少年ミシマを導く。道化的でありファウスト的でもある難しい役をこなした。

舞台は天地の三分の一ほどの低い位置に視界が収まるようなセットと照明になっているので、横長の絵巻物や屏風のような視界となる。「和風」ともいえるが、ある種の非日常的な緊張感も醸し出し、特に「射手」が厳かな作法で弓の支度をする件は、見ていてハラハラするほど「間」が長く、その間の静寂が刃物のように鋭く感じられた。24日は和田康佑さんが射手を感じた。
聖セバスチャンを踊った樋口祐輝さんは、このバレエのオリジナルキャストであった首藤康之さんを思い出させた。わざと似せたわけではないだろう。身体つきや雰囲気がもともと似ている。「仮面の告白」で幼い「私」が初めて性衝動を感じた対象がグイド・レーニの絵画「聖セバスチャンの殉教」で、三島自身も身体を鍛えてから同じ姿をコスプレ(?)して撮影している。



過去に何度か観ていたはずなのに、聖セバスチャンがこんなに活躍することを忘れていた。まさに目は「ふしあな」だ。ブリーフ姿でドビュッシーのファンファーレで華麗に踊り、「ディアナとアクティオン」さながらに弓を持って、今度は金色のブリーフ(?)で踊る。少年三島を頭上で高くリフトして運ぶシーンもすっかり忘れていた。

男性ダンサーによる群舞が卓越していた。全員がベジャールの創造物に見える。西洋人が東洋人の背中を見て「長い背(ロング・バック)」というのは見たままのことなのだが、ベジャールはそこに日本の個性的な美、神に愛されし特別な美を見つける。ふんどし姿の男衆が芋虫のように連なって「龍」の動きをする場面は圧倒された。あんな面白いことをベジャールは一回しかやらない。ボディビルのトレーニングをする男性群舞が「人・人・人」の形となって玩具のように動くシーンも面白い。時折、4人の分身と男性群舞の動きはゲーム画面のキャラクターにも見えた。ステージ全体がキッチュで二次元的で、サイケデリックな画面になるのである。ニジンスキーは牧神の午後で二次元的表現を行ったが、ベジャールはさらにその先を行く。

黛敏郎さんの音楽はオペラ「金閣寺」以上に前衛的で、「能のお囃子(能管、小鼓、太鼓)を軸に、十七弦筝、オンド・マルトノ、パーカッションを加えた25曲」(『M』創作時の音楽責任者 市川文武さんによるプログラム寄稿)によって構成され、オンド・マルトノと能管のアンサンブルはピエール・アンリの電子音楽を使ったベジャールの初期作品を彷彿させた。そこに不自然さはない。こうした面白い「開通」が起こるのも、ベジャールと三島が二歳違いの同世代人であり、時差はあれど同じ20世紀の若者文化を吸収していたからだろう。
ベジャールは数秘術にも興味があったはずだ。三島とモーリスの二人のMはともに1月に生まれている(山羊座)。そして偶然にも11月に亡くなっている。ジョルジュ・ドンの命日も11月なのだ。

沖香菜子さんのオレンジ、政本絵美さんのローズ、伝田陽美さんのヴァイオレットが登場するシーンでは、三島とベジャールのキッチュ感覚が融合し爆発する。ソファのカップルは「鏡子の家」を顕しているのだろうか。三島自身も出演した映画『黒蜥蜴』も思い出した。「女」を踊った上野水香さんには息を呑んだ。微塵の無駄もなく、無機的で完璧な均整がとれている。ベジャール自身がボレロのメロディに任命したダンサーだが、振付家独特の「次元」を直観で理解しているのが上野水香さんだった。神話の世界と現実の世界が舞台では地続きになる…水香さんの「女」にはバランシンから霊感を得たベジャールの痕跡も感じられた。

子役にして主人公である「少年」を演じた大野麻州さんは、冒頭の「クローゼットの中で消えるマジック」から、「武士道とは…」の朗誦、たくさんの踊り、聖セバスチャンの高いリフトなどを勇敢にこなし、歴代の「少年」役と比べても見劣りしない演技だった。弥勒菩薩像が並ぶ大伽藍のような「海」を24人の女性ダンサーが演じ、少年は手足をばたばたさせて元気に羽ばたく。この無邪気な姿は三島の原点であり、モーリスの原点なのだ。8ミリフィルムに記録されたぴょんぴょんジャンプする美少年モーリスの映像を思い出した。
ベジャールが三島を描くということは、ごく自然なことだったのだ。強烈に鋭利なものが二人の魂を貫いている。「相手を知ろうと足掻いている」場面などひとつもなかった。すべてが衝撃的であると同時に自然で、きわどさの寸前で絶妙なデリカシーが発動されていた。二人の天才に通底しているのは、「擬(もどき)」の感覚であり、本物らしく作られた嘘より、嘘のほうが本当のことを語れるという真実だ。
三島の死は「擬」的(モドキ的)であり、死ぬために作られたマッチョなボディもキッチュである。キッチュを理解しない芸術は、説教臭く抹香臭く、ただ青臭い。『M』は洗練された芸術的感性の行きつく最終地点のような特別なバレエで、これを観ると自分はベジャールの永遠の生徒だと思う。これが「バレエであった」ことさえも毎回忘れてしまう。和風の音楽のせいで、あんなにもふんだんにクラシック・バレエの技巧が使われていたことを記憶は忘れてしまうのだ。今回も重要なものをいくつも見逃していると思う。

ベジャールは紛れもなく愛の人だが、『M』には底なしに悪魔的なものが滾っていて、奥の院は開かない。最後の扉は開けなくてもいい、とベジャール自身が言っているような気がした。
ラスト近くで流れるシャンソンは、魔法のようだ。「今まで見たものは全部嘘ですよ」と言いたげに、登場人物たちが現れて「少年ミシマ」のリボンの血をくるくると引き出す。最後は再び、弥勒となった女性ダンサーたちの海のシーンとなり、冒頭シーンと美しい円環を結ぶ。

カーテンコールのとき、ごく自然に一階席かスタンディングオベーションが巻き起こり、私も椅子から立ち上がった。『M』でこんなに観客が熱狂したのは初めて見たような気がする。ただ熱狂しているのではなく、皆が内側から揺さぶられて、どうしようもなくこの上演に感謝したいという気持ちを表しているように見えた。終演後にプログラムを買い求める人々の長い長い行列にも驚かされた。「本物」は朽ちない。舞台アートが危機に晒されたこの年、ベジャールが客席に与えたものは深く、大きかった。


海の神と太陽の神 新日本フィル×外山雄三 

2020-10-18 00:02:58 | クラシック音楽

新日本フィルと外山雄三先生のすみだトリフォニーでのアフタヌーンコンサートの二日目(10/17)を聴く。雨模様のなか慌てて錦糸町に向かうも、エントランスに入った瞬間に拍手が鳴り、一曲目の外山先生自作の『交響曲』(2019)はロビーで鑑賞することに。ブリテンの「4つの海の間奏曲」を思い出す幽玄な和声が耳に飛び込み、アジア的な響きが特徴的な外山先生のこれまでの作品とは異なる作風に感じられた。曲が進むにつれ「ブリテン風」という印象は消え、畳み込んでいく力強いリズムが後半から勢いを増した。やはりこれは、中で聴かなければならない。10分ほどで、ホールに入ることができた。

大澤壽人(1906-53)の「サクソフォン協奏曲」(1947)は初めて聴く曲。ソリストの上野耕平さんが大活躍だった。作曲家のことはほとんど知らない。ニューヨークとパリで学び、パリではデュカスやN・ブーランジェにも師事した人だという。解説を読まなければ、これも外山先生の曲かと思われるほどメロディの印象が似ていた。オケとの掛け合いも、日本の祭りを思わせるくだりがあったし、管楽器がユーモラスに飛び出してくるところは「喇叭」が鳴っているようだった。上野さんがこの作品を見つけ、強い希望で今回の上演となったという。オーケストレーションは西洋的だが、全体を覆う雰囲気は「日本海」の景色のようだった。作曲家は生きた証を音符を書き記す。40代で亡くなった大澤壽人は「和魂」を遺したかったのだろうか。

前半最後の曲でも、上野さんがソロを担当。トマジ(1901-1971)の『アルト・サクソフォンと管弦楽のためのバラード』(1938)は、地中海的な明るさに満たされたポップな曲だ。はじまりの部分はどこか日本の古い子守歌のよう。郷愁を誘うメロディであり、音色だった。サクソフォンの旋律は無国籍的で、フランス音楽というより、南仏からイタリア、ギリシア、中近東までを旅するようなエキゾティックな味わいが感じられる。途中から回教の僧たちがくるくる踊るダンスのような楽想がはじまり、めまぐるしくユーモラスなサクソフォンのソロと、紺碧の海のような洋々たるオーケストラのコントラストが楽しめた。優美で快活な合奏で、地中海地方のふんだんな陽光と潮の香り、甘い果実酒の芳香が漂ってくるようだった。ところどころラヴェルの「スペイン狂詩曲」も思い出した。トマジの曲は図案化された東洋の海の景色をも髣髴させた。北斎が『富嶽三十六景』の中で描いた「東海道金谷ノ不二」を思い出したのだ。(すみだトリフォニーにかけたわけではないが)

今日のテーマはもしかしたら「海」なのかな、と思った。海=「洋」であり、「西洋」と「東洋」の葛藤というものがクラシックには存在する。前日に聴いた読響&秋山和慶や、その前日に見たKバレエカンパニーの「海賊」が、西洋への劣等感などとうに超克した「日本人のもの」だったことを嬉しく思い出した。ここまでくるのに、日本は相当苦労した。文化や言語を分断し、国家や宗教の対立を作ったのは海なのだ。
 おりしも今日は新月の日だった。巨大彗星であった月が地球の引力に巻き込まれ、そのとき大量に発生した水蒸気が海となった…という説がある。それは既に人類が誕生した後のことで、人間の古い記憶には「海がうまれたときの恐怖」が刷り込まれているという(「ノアの箱舟」など)。
プレートが移動する前の陸と陸はすべてひとつだったという説もある。陸続きだった時代、人々は一生かけて徒歩で移動し、命と引き換えに他国にたどり着いた。ヘブライ語と日本語にはいくつもの同じ言葉がある。「人種による優劣はなく、あるのはただ地形などの地理的条件の違い」という説を、透明でドライな文体で書いたジャレド・ダイヤモンドの『銃・病原菌・鉄』という本も思い出した。

後半のベートーヴェン『交響曲第7番』は、海というより岩だった。岩だらけの砂漠で生きる古代の人間を思わせた。外山先生は始終ゆっくりとした動作で振り、身体はほとんど動かさないが、棒の先でどう指示しているのか、嵐のようなスフォルツァンドやアッチェレランドが自動的に(?)巻き起こった。オーケストラは超スローテンポで、意図的に垢ぬけない音を出すのだが、その音が連想させるものは豊かだった。「洗練された響き」がどうしたら出るかなんて、指揮者もオケもよく知っている。この素朴で原始的な合奏は、自然のみを糧に生きている太古の人々を表しているのだ。コントラバスが重労働者に見えた。皆が一生懸命働く。なんにもない更地に、ひとつの家を建築するように交響曲を鳴らすのだ。打楽器の響きが雷のようで、2楽章のアレグレットは「晴耕雨読」の音楽だった。弦楽器はしとしとと降る雨を表現し、雨を見つめながら人間は内省する。

3楽章のプレストは、めまぐるしくやってくる朝と昼と夜の音楽だった。日が暮れて疲れたら人は眠る。また朝が来る。活動し、また眠る。その繰り返しが、最後のほうでは死と再生の音楽になる。老いて亡くなる者もいれば、生まれてくる赤ん坊がいる。チェーン状につながる命の表現だ。そんなふうに聴いているおかしな人は私だけかも知れないが、音楽から感じられるこうした人間の原始的な営みが、ベートーヴェンのこのシンフォニーの本質であるように思えてならなかった。弦楽四重奏を書く時のベートーヴェンは哲学者だが、交響曲では原始人のような人格を見せる。裸になって動物を追いかけ、鳥とたわむれ、夜はただこんこんと眠る。射手座のベートーヴェンには野生児ジークフリートのようなところがあるのだ。

3楽章から4楽章はアタッカではなく、余白をおいて厳かに始まった。差異によるスタイルの主張、といったクラシックのすべてのことが無為に思えるほど、シンプルで強靭な合奏だった。ベートーヴェンは古楽奏法か否かなどということさえも小さすぎる問題に思える。モダン楽器でも時代は超えられる。ピリオド奏法は貧相に聴こえるから味わいがあるが(!)、モダンでも同じ風味は出せる。
太陽のもとではすべてはひとつなのだ。ここでは「日時計にしたがって生きる規律」のような世界観を想像する。世界はもともと、巨大な大陸だったのかも知れない。「西洋」と「東洋」が二元的な世界を作る前の、岩と太陽の時間がこの日のベト7だった。時折、奇異なほどのっそりと奏でられた交響曲は、新型コロナで世界中の国々が孤立を強いられる中で、巨大なワンネスを表現した。人間は皆、家族なのだ。無限の温かさに包まれた、外山先生の宇宙哲学を聴いた。