小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

読響×カンブルラン『アッシジの聖フランチェスコ』(11/19)

2017-11-24 12:11:43 | オペラ
全曲上演は日本初演となった読売日本交響楽団と常任指揮者シルヴァン・カンブルランによるメシアン作曲『アッシジの聖フランチェスコ』。東京で二回行われる公演の初日である11/19の公演を満員のサントリーホールで鑑賞した。オーケストラと合唱あわせて240人がステージに乗り、3台のオンド・マルトノがホールに立体的に配置された。上演時間は休憩込みで5時間半にわたる巨大なオペラである。カンブルランはこの作品のエキスパートで92年以来24回も振っているが、任期8年目で読響との演奏が実現した。

どこから語ったらいいのか…果てしなく大きな、大きなオペラであった。ひとつ素朴なことを言うなら、作曲家はオペラを書くとき「本当に伝えたいメッセージがあるから」書くのだということを改めて知った。創作に向かうエネルギーは音楽というカテゴリーを突破する巨大さを持ち、小手先のエチュードなんかではない、真に人間的なパッションと使命感がオペラを書かせる。ヴェルディやワーグナーと同じ情熱が、メシアンにもあった。『アッシジ…』は台本もメシアン自身が書いているのだ。
その情熱のすべてをこの上演で受け取った。オペラは巨大な愛であり、寛大さであり、見えない神秘だった。毎秒ごとにオーケストラと合唱から放出されるパワーは濃密で、衝撃の連続であった。

聖フランチェスコの物語はオペラの素材としては特異だ。彼は虐げられている人物でも不幸な人物でもなく、弟子たちから尊敬され、客観的には何の問題もない存在として舞台にいる。巻き起こるドラマは精神的なもので、神父フランチェスコは「すべての人間が等しく幸福であることは可能か」をひたすら考える。重い皮膚病患者の醜い皮膚の斑点や悪臭に嘔吐感を感じる自分を責め苛む。
「神は醜いイボガエルや毒キノコを、トンボや青い鳥と同じように創造した」…その謎について思い悩むのだ。
「形を越えて相手と一体化すること」とはイエスの説いた「無条件の愛」そのものである。
聖フランチェスコのヴァンサン・ル・テクシエが卓越した演技だった。演奏会形式だが、歌手たちは自然な演技をし、テクシエは歌っているときだけでなく、他の歌手たちの声を聴いているときも素晴らしかった。フランチェスコの葛藤を「実際に感じて」いたのだ。それが客席にも伝わってきて、痛いほどの想いに何度もとらわれた。

オーケストラはメシアン独特の不規則なフレージングを奏で、突然訪れる休符ではぴたっと止まるのが奇跡的だった。打楽器パートは一瞬たりとも気を抜けず、これが面白いことにもうひとつの「隠された言語」のように聴こえる。弦や管が打楽器の「言語」の抑揚を引き継いで演奏する箇所もあり、オーケストラ全体で「見えていない世界の秩序」を表わしているようでもあった。可視的宇宙と同時に進行している不可視宇宙とでもいうのか。パラレルワールドのような世界が感じられた。

重い皮膚病患者を演じたペーター・プロンダーはイギリス出身のベテラン歌手で、紫のシャツを着て善良な雰囲気を放っていた。みずからの不運を嘆き、心のわずかな光明さえ失ってしまったこの役は、歌詞のひとふしひとふしが悲痛で、彼の無念さと哀しみと痛みを聴いているのが苦しかった。フランチェスコ役のテクシエも辛そうな表情だ。フランチェスコが霊感を得て、重い皮膚病患者を抱きしめる場面は、暗示的に演じられた。実際に抱擁するのではなく、指揮者を隔てた歌手二人が、止まったようにお互いを見つめ手を伸ばし合った…そのときの音楽は、何に譬えたらいいのか…メシアンは「トリスタンとイゾルデ」を超える存在と存在の一体化をここで描いたのだ。

天使役のエメーケ・バラートは若く美しいソプラノで、謎めいた表情で謎めいた言葉を歌う。「救霊予言説をどう考えますか?」という質問を弟子たちに向け、答えを聞き出す。乱暴者の男の子のようにドアをガンガンとノックする。彼女は小鳥であり、エアリアルのような精霊であり、女神であり天使なのだ。めざましく豊かな高音でメシアンの難しいパッセージを完璧に歌い、何よりミステリアスな瞳が素晴らしかった…どんな場面でも「私はすべてをわかっているのです」という表情で、歌にも所作にも厳かな確信があった。バラートがまとっていた煌めくグレーのドレスも完璧なコスチュームだった。

長大なオペラなので客席にいても疲労感があるが、聴いているほうよりも演奏しているオーケストラの方が何100倍も大変なのは当然で、読響のパワーと集中力にはほとんど畏れ多さを感じた。カンブルランはどうしても、これを読響とやりたかったのだ。
カンブルランには色々な機会に質問をしてきた。記者会見では「読響をどのように変化させたいのか?」と聞き、個別インタビューでも「読響との理想のゴールは?」というようなことを聴いた。するとそのたびに、カンブルランは笑顔で「不満なんて何一つない。今も充分に素晴らしいオーケストラだ」と答えるのだ。彼はお世辞や嘘をいう人ではなく、心からの言葉であることが伝わってくる。彼は読響が大好きなのだ。
それでも、剛速球のベートーヴェンや難しい現代曲をオケが必死になってやっているのを見ると「カンブルランももっと手加減して、演奏する楽しみを与えてあげればいいのに…」と思うことがあった。

カンブルランはもしかしたら、読響における神父フランチェスコなのかも知れない…。神父は現状にあきたらず、さらに完全な人間性について深く考察する。神と自然と宇宙からインスピレーションを得る。それは最初、あまりに現世からかけ離れたアイデアなので弟子たちは驚くが、神父の辿り着いた境地についていく…。
カンブルランは「アッシジをやることで、来年はさらにいい関係がオーケストラと築けるでしょう」と語った。彼の任期は2019年までだ。ヨーロッパを代表する名指揮者が任期を延長して読響にいてくれることは有難い。その間、彼はオケをたくさんたくさん成長させようとしているのだ。一緒にいて和気あいあいと楽しくやればいいというのではない。「一緒にいる間は必死で頑張ろう。そして自分がいなくなったあとも成長を続けるんだよ」と言っているような気がした。

それはなんという偉大な父性なのか…アッシジの聖フランチェスコとは、指揮者の物語である。私の勝手な解釈だが、そうとしか思えなかった。彼の巨大な人間としての資質が、指揮者であることによってさらに巨大なものとなり、巨大なメシアン作品と結びついた。その愛を押し上げているのは、超人的な知性であり、芸術がこの世に存在する素晴らしさを伝える温かい心だった。

メシアンのテキストのすべてをもう一度読み返したいが、著作権の問題で印刷物を作ることは出来ないと聞く。私は神秘家なので、メシアンのリブレットにいくつもの暗号が隠されているのを察知した。「下降するように見せて上昇していく魂」「見えない音楽をいよいよ聴くことになる(音楽とはもともと見えないものではないか)」といった表現、永劫回帰や占星術を思わせるキーワードがたくさんあった。
二幕では聖フランチェスコ自身が饒舌な鳥類学者となり、鳥たちについての膨大な知識を歌う。芸術論も歌う。本当にこのオペラは…宇宙に輪郭がないように、輪郭がない。果てしなく膨張し続ける愛の世界なのだ。

新国立歌劇場合唱団とびわ湖ホール声楽アンサンブルの合唱は、自然界の音、人間の精神の動揺と歓喜、宇宙が奏でる音すべてを聴いたこともない多彩な表現で聴かせた。オケとともに、合唱が準備にかけた時間と努力にも感謝したい。水の中に何分も潜っているようなすさまじいロングトーンも聴かせた。このオペラは規格外のことをすべての演奏家にさせるのだ。それが、美になって結実していた。

『アッシジの聖フランチェスコ』日本全幕初演となったこの日は、最後まで聴き届けた観客もオーケストラとメシアンの物語と一体化した。疲労は歓喜になり、カンブルランの薔薇色の笑顔をもう一度見たい聴衆は何度も彼をステージに呼び出した。いつものように可愛いポーズをとってしまうマエストロに「あ、おとうさん…」と思ってしまう。永遠に一緒にいてほしい…と思う気持ちと、あと2年で任期が終わることの寂しさが同時にこみ上げた。東京では26日にも上演される。



モーリス・ベジャール・バレエ団 『魔笛』(11/17)

2017-11-18 10:59:30 | バレエ
ベジャール・バレエ・ローザンヌの3年ぶりの来日公演。今年はベジャール没後10年に当たり、『魔笛』と『ボレロ』他のプログラムと、東京バレエ団との合同の『ベジャール・セレブレーション』も上演される。ベジャール没後10年は、ジル・ロマンが芸術監督を引き継いで10年ということでもあり、『魔笛』はそのこと脳裏に浮かべながら観た。1981年に振り付けられた『魔笛』でジル・ロマンは三人の童子の一人を演じ、映像に残っている1982年の来日公演でも同じく童子を踊っている。
初日の東京文化会館は予想以上に人が入っていて、古くからのベジャール・ファンも多くいることをうかがわせた。日本人は移り気で新しいトレンドに弱いとも言われるが、芸術に関しては想いが根深く、ベジャールほどの人になると忠実な信奉者も多い。マーケティングの網目にひっかからない「サイレントな」良質の芸術愛好家たちだ。こうした客層には鑑識眼もあれは強い美意識もある。

ところで、モーツァルトの『魔笛』の全編をバレエにしたこの作品は2004年にも来日公演で上演され、ジル・ロマンが弁者として八面六臂の活躍を見せた。この弁者はフランス語で語り、他の登場人物の台詞や設定も語る重要な役で、立派な声とカリスマ的な存在感が求められる。前回の弁者のダブル・キャストのバティスト・ガオンは声も芝居もいいダンサーだったが、若手ではなかなか新しいキャストは見つからないのではと思っていた。
ベジャール・バレエはとにかくダンサーの入れ替わりが激しい。キャラクター・ダンサー・タイプのマッティア・ガリオットがこの弁者を見事に演じていたので驚いた。ジル・ロマンが相当集中的に稽古についたのか、眼光鋭く時々そっくりな表情を見せる。ベジャール版『魔笛』の屋台骨のような役を見事にこなし、舞台全体に安定感を与えていた。

タミーノは長身痩躯で繊細な表情のガブリエル・アレナス・ルイスが演じた。経歴を見ると2008年入団なので新人ではないが、少年ぽいルックスで大変若く見える。前回の公演ではベテランのドメニコ・ルブレがタミーノ役だったので、今回の若々しいタミーノは新鮮。ベジャール特有のクラシックを軸にした苛酷な振付も丁寧にこなす。特に一幕は出づっぱりで台詞もあり、たくさんの登場人物とコミュニケーションをとらなければならない上に自分のアリア=ソロにも注目が集まるが、すべてを真摯にこなしており、姿も美しかった。
新鮮だったのは、鳥刺しパパゲーノを演じたヴィクトル・ユーゴー・ペドロソで、プロフィールによると2016年に入団したブラジル出身のダンサーだという。陽気で剽軽者で、空気のように軽いパパゲーノをキュートな表情で踊り、クラシックの技術も確かだった。ベジャール・バレエの歴代パパゲーノの中でもとびきり若く、赤ん坊のようなあっけらかんとした輝きを放っていて、どのシーンでも彼を見ずにはいられなかった。こういうダンサーを見ると、長くこのカンパニーにとどまってほしい、と強く思う。

生前のベジャールが直接指導したダンサーは現在4人だけになった。そのうちの一人であるカテリーナ・シャルキナは、前回の来日公演で『ライト』のタイトルロールを踊ったダンサー。2年前に出産を経験し(2015年の『第九』にはそのために参加できなかった)現在33歳だが、昔の生意気な美少女の面影を残しながらも、すっかり大人の表情になっていたのに驚かされた。ローザンヌでクラスレッスンを見学したときも、一番熱心に励んでいたのがシャルキナだったが、トゥシューズをはかないパミーナの役も、細部まで正しいポジションをキープしながら踊る。演劇的にも、ベジャールの薫陶を得た世代の貫禄があり、パミーナの母性がタミーノを包み込んでいると思わせる場面がたくさんあった。シャルキナはウクライナ出身だが、ロシア系のカリスマ・バレリーナ…ザハロワやプリセツカヤのような表情を見せることがある。13年前は三人の侍女の一人を踊ったが、今回のパミーナは彼女の当たり役であった。

驚いたのは、大ベテランのエリザベット・ロスが未だに衰えぬ冴え冴えとした動きで夜の女王を演じたことで、これは何かの魔法か奇跡ではないかと思った。生前のベジャールが「母親の面影を感じる」と気に入って、『くるみ割り人形』や『海』などで母親役を与えられてきた人で、1997年からカンパニーで踊っている。彼女の年齢を数えるのもやめてしまったが、日々の節制と精神力でダンサーは半永久的に踊れるということなのだろう。オペラグラスで見るとさすがに年齢相応に見えるが、ダンスは13年前の夜の女王と比べて見劣りするところがない。カンパニーの中でもお母さんのような存在なのかも知れない。

13年前に26歳でザラストロを踊ったジュリアン・ファヴローが、今回も同じ役を踊った。ヒエラルキーのないこのカンパニーで実質上のプリンシパルを長年務めてきたダンサーだが、根っからの演劇人で、生前のベジャールも彼に一目を置いていた。2004年の再演のとき、タミーノにキャスティングされたが途中でザラストロに役が変わった。「バクティ」のインドの神を見事に踊っていた頃だったから、ベジャールも「神」的な役のほうがファヴローに相応しいと思ったのだろう。髭を生やして長老的なザラストロの雰囲気を加えたファヴローは、『魔笛』で描かれた不可思議な存在を、彼自身の知的なアイデアによって創り上げていた。超人間的で、感情を超越し、踊りも象形文字のようにミステリアスで、ところどころユーモラスでもある。驚いたのは、13年前も彼は同じアプローチでザラストロを演じていて、それはベジャールの考える「神」に拮抗する、彼自身の「神」であったということだ。ベジャール作品をいくつも見ていれば、ファヴローのザラストロはベジャールの神とは「異なる」神であることは一目瞭然だろう。そのようにして、彼は昔から不思議な形でこのカンパニーの中で「自立」していた。凄まじい克己心と忍耐力にベジャールも最後は根を上げ、ザラストロの延長線上にある『ツァラトゥストラ』(2005年)を彼のために振り付けた。

気になるのはジル・ロマンで、彼はこの10年で変わったのか、変わらなかったのか…その心のうちは簡単には明かされていないのだ。ベジャールの元を三回去り、三回戻ってきた問題児であったロマンは、「ベジャールから一番に愛されたい」と思っていたダンサーの一人だったはずだ。ジルの前にはあの巨大なジョルジュ・ドンという存在がいた。芸術監督となり、愛されるより愛さければならない…ベジャールのような愛を持たなければならなくなったとき、彼は自分を変えたのだろうか?
『魔笛』では、ジル・ロマンのド根性を感じた。こういう表現はあまり洗練されていないが…極限まで努力して頑張っている、献身的な日常が伝わってきた。人間はそう簡単に変われるものではないが、善き方向に自分を導くことはできる。こう言いながらも、ジル・ロマンがどういう人なのか私はほとんど知らない。ただ、ベジャールの忍耐と寛大さ…愛ゆえの「大きさ」を引き継ぐのは、常人には不可能に近いのではないかと思う。それをジル・ロマンは引き受け、この立派な『魔笛』の再演を実現した。

愛、と一言でいうが、愛は綺麗ごとではなく、そこには様々な混濁したものが詰まっている。愛は苦しいものでもある。「この愛が正しい」と粘り強く主張することが自分を危険にさらし生命を縮めることもある。ベジャールもつねに苦悩した…労働を重ね、壊しては作り直し、愛を拡大してきた。ベジャールは一貫して「愛する人」で、「愛されたい」などというひ弱な動機から創造をしたことはなかったと思う。日本という国を愛したのも、日本から愛されたかったわけではない(結果的に日本は彼を愛したが)。
ベジャールはダンサーを心から愛した。最後のバレエ『80分間世界一周』でも、彼はダンサーに踊る喜びをプレゼントし、彼らが幸福であることを望んだのだ。
今回の『魔笛』は、不思議な答えを見せてくれた。ベジャール亡き後のダンサーたちは、振付を愛し作品を愛し、ベジャールが想像していたよりはるかに知的な方法で「ベジャールを愛している」ことを伝えてくれたのだ。ベジャールは自分が愛しこそすれ、ダンサーからこんなふうに愛されるとは思ってもいなかっただろう。それが、振付家の肉体の不在によって明らかになった。ダンサーはベジャールに若さを提供する。舞台には若さが必要なため、何度も何度もダンサーは入れ替わる。まるで若さを貪る吸血鬼だ。ベジャールは創造の中で、少しばかりの罪悪感も感じていたはずなのだ。
「若さ」の側からこんなふうに聡明な形で愛されるとは、ベジャールの予想外のことだったはずだ。閃光のごとき鮮やかな答えが、13年ぶりの『魔笛』から伝わってきた。

三人の侍女の一人、大橋真理さんは動きにキレがあり静止もぴったりと決まっていて、理想の演技を見せてくれた。2004年には長谷川万里子さんがこの役を演じ、華やかな存在感が似ていると思った。ベジャール作品ではつねに日本人ダンサーが輝く。二人の武士のダニエル・ゴールドスミスとコナー・バーローは70年代のベジャール・ダンサーを彷彿させる雰囲気の持ち主で、試練のシーンで迫力のあるダンスを見せた。モーリス・ベジャール・バレエ団『魔笛』は11/18と11/19にも公演が行われる。



日生劇場 オペラ『ルサルカ』(11/9)

2017-11-12 21:33:29 | オペラ
今年の日生劇場オペラはドヴォルザークの『ルサルカ』。難しいチェコ語のオペラに日本の歌手たちが挑戦し、指揮者の山田和樹さんと、山田さんが首席客演指揮者に就任したばかりの読響がオケピに入った。11/9の初日キャストを鑑賞。
舞台美術はごくシンプル。オケピに入りきらなかったのか、演出なのか、ステージ下手側に木管奏者が11名、上手側にホルン奏者が4名乗っていて、歌手たちと一緒に視界に入ってくる。その影響で歌手たちが使えるスペースが少なくなるのだが、演出的には問題がないようだった。転換なしでさまざまな照明によって人魚のルサルカが住む海の世界と、地上の人間界が同じ空間で演じられていく。

田崎尚美さんのルサルカは、変身前は赤毛の縮れ毛(?)でヒッピー風の衣裳をつけている。生命力に溢れた若々しい娘といった雰囲気だ。有名なアリア「月に寄せる歌」はオペラが始まって間もなく歌われるのだが、田崎さんの歌はとても清楚で、潔く、純粋な表現だった。田崎さんは二期会『イドメネオ』でのエレットラの迫力の演技や、カヴァー歌手による演奏会でのイゾルデが心に残っている。
声量豊かで、時には毒々しい女性にも変身する田崎さんが、すべての飾りを捨ててルサルカを歌っていた。色白でお顔立ちが美しいので、ルサルカはフィギュア的にも似合っている。エレットラやイゾルデにもなれるが、一番田崎さんの本質に近いのがルサルカなのではないのかと思った。

ルサルカを人間の世界へ送る手伝いをする魔法使いイェジババは、清水華澄さんが歌われた。絶妙な役作りをされていて、表情豊かで発声も鮮やか、見ていて心湧きたつ演技だった。清水さんは本気で役を突き詰めていくタイプで、これまで『ドン・カルロ』のエボリ公女でも、『アイーダ』のアムネリスでも、『仮面舞踏会』のウルリカでも、「何が正解なのか?」をご自身を苛め抜くような厳しさで追究されてきた(清水さんのブログより)。魔法使いや占い師など「この世とあの世を往来する女性」を演じさせたら清水さんに叶う人は少ないのではないか。
声楽的にも、不自然で奇妙な旋律が多く大変なイェジババだが、それが滑らかに歌われることで、逆にこの人間の世界が奇妙なものに思えてくる。
他の舞台でなじんだ歌手の皆さんが出ているだけに、全員が真剣に役作りを究めていることが感動につながった。

一度ルサルカを愛するが物言わぬ冷たい身体の人魚の娘に愛想をつかし、外国の公女に心移りする王子を、樋口達哉さんが歌われた。樋口さんが王子を演じたことで、オペラの想像界のさまざまな物語が浮き彫りになった。ルサルカの王子とは何者か…それは樋口さんが今までに歌われてきたマントヴァであり、ピンカートンであり、ウェルテルであり、ホフマンであった。一言では裏切り者とは言えない…二幕で、一言も言葉を語れないルサルカは白いドレスを着たままずっと塑像のように静止しているのだが、三幕では対になったかのように今度は王子が、机に向かって悩みながらずっとものを言わずにいる。そのときの樋口さんの表情をオペラグラスで凝視してしまったが…ルサルカを裏切った後悔と、彼女を忘れられないことの懊悩で、本当に苦しそうだった。

外国の公女は腰越満美さんが、鹿鳴館時代の貴婦人のようなファッションで妖艶に歌われた。少しサディスティックな魅力のある姫で、最初腰越さんだと気づかなかった。オペレッタの奥様役を思い出す。貴族的ですこし冷たく、生きた男のあしらい方を知っている役は、大人っぽい魅力の腰越さんによく合っていた。この公女には、モデルがいたのではないかと思うくらいキャラクターがはっきりしている。動かぬルサルカをあざ笑うように、世俗の人々はラジオ体操のような(!)運動を始めるのだが、それもすべて鹿鳴館テイストなのが面白かった。舞台の高いところには、大日本帝国の国旗によく似た旗が飾られていたのは何かの暗示だろうか。

山田和樹さんと読響は始終息ぴったりで、人魚の物語に相応しく幻想的でありながら、人間の心の闇をのぞき込むようなミステリアスな深みも感じさせ、完璧な劇場の音楽だった。読響はワーグナーをはじめピットでの経験豊富なオケなので、ドヴォルザークもワーグナーの森や湖、岩山を幻視させる。山田さんは一階席からもほぼ全身が見える高さで指揮をされており、柔らかい動きがオーケストラの流れを導いていく様子が詳しく見えた。

ルサルカは悲恋の物語だが、これは王子の悲恋の物語でもあった。こう思えたのは初めてで、それはやはり樋口さんのお陰だった。ピンカートンもウェルテルもホフマンも、誰を愛すればよいのかわからない。女の心を傷つけた後には業罰が待っているのだが、未熟な男たちは実のところ無辜なのだ。ラスト近くで、ルサルカを追い求める王子とルサルカのやり取りは、『蝶々夫人』の書かれざる最終幕のように見えた。他の女に目がいったが、本当の妖精は君だった…そんな愚かな後悔がこのオペラにはきちんと書かれているのだった。

宮城聰氏のシンプルな演出コンセプトは、オペラ歌手たちにそれぞれの役を深く掘り下げさせた点で正解であった。一人一人が溢れるような魅力をもつ演劇人であることを知らせてくれた。「ルサルカ」はこの世と異界とが出会う物語だが、劇場の暗闇はこうした異次元のとの交流を描くのに一番ふさわしい場所なのだ。バレエもオペラも、闇と異界と変身と幽霊が出てこないもののほうが珍しい。ルサルカの父である水の精ヴォドニクを演じた清水那由太さんは、このオペラと「リゴレット」の類似性を浮き彫りにした。
華やかな魔女たちを演じた森の精1の盛田麻央さん、森の精2の郷家暁子、森の精3の金子美香さんは舞台を漂いながら魅力を振りまき、森番デニス・ビシュニャさん、料理番の少年・小泉詠子さんの掛け合いも楽しかった。東京混声合唱団も幻想的な合唱を聴かせてくれた。
チェコ語に関しては全く分からないので、ディクションについてはどう評価したらよいか分からない。私ならスペルを見ただけで縮み上がってしまう言語を、よく全幕で歌ってくれた…今後このオペラに挑戦する歌手たちへの大きな励みにもなったと思う。
(写真は森の精を演じた金子美香さんと、楽屋を訪れたときのツーショット)



ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団(11/11)

2017-11-12 13:40:44 | クラシック音楽
世界最古の市民オーケストラ、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の3年ぶりの来日公演をサントリーホールで聴いた。指揮は今年90歳を迎えた桂冠指揮者ヘルベルト・ブロムシュテット。オケ創立275周年とも重なり、来日ツアーのプログラムはこのオーケストラが初演を果たした曲が並び、歴史の厚みを感じさせる内容だった。
前回の来日公演でのリッカルド・シャイーとのマーラー7番では、どんな奇々怪々な曲も明晰に、オケのモットーである「真摯たれ」を貫いて演奏するこのオケの「熱量」に驚き、感服したものだが、ブロムシュテットに導かれた音楽はそれとは異なる印象だった。真摯さ、真剣さはそのままに、内面的な静けさや控えめさといったものを強く受け止めた。シャイーは60代で、ブロムシュテットに比べればまだまだ若かったのだ。先月聴いたルツェルン祝祭管の演奏は、そうしたシャイーの冒険心とパッションを受け止めるものだったと思う。

前半のブラームスの『ヴァイオリン協奏曲ニ長調』では、レオニダス・カヴァコスが登場。彼を見ると私はなぜかキリストを思い出してしまうのだが…精妙で献身的で、決して大袈裟にならない最良の演奏を聴かせた。先日のボストン響のギル・シャハムのチャイコンは、超絶技巧部分を非常に「演劇的に」弾いていたが、カヴァコスは立派な体格で両足を床に吸い付け、あまり大きく動かない。オケの積極性は相変わらず素晴らしいが、シャイーのときに強く感じた「びっくりするような熱気」は控えめだった。全体的にいぶし銀のようなサウンドに感じられた。ゲヴァントハウス管の名物である五弦のコントラバスも、低音をデラックスに聴かせるというより、もっと「渋い」感じなのだ。

一楽章のカヴァコスのカデンツァが終わったあたりから、じわじわと心に押し寄せてくるものがあった。それは不思議な至福で、人の信条や、忍耐強い生き方が教えてくれる人生の秘訣のような閃きだった。世界にはさまざまなオーケストラがあり、魔法使いのような指揮者がいて、最初の一音から聴衆を魅了し、別世界へと誘うようなサウンドを奏でる集団もいる。この日のゲヴァントハウスは、それよりも秘められたオーケストラの本質を聴かせてくれた。ブロムシュテットは見るたびに少しずつ身体が小さくなり、動きも少なめになっていくが、サウンドは洞察的で、多くのメッセージを放っていた。アダージョ楽章は温かく寛大で、紅葉を映し出す湖面のようなオケとともに、カヴァコスも清冽な祈りのようなソロを重ねた。
ドラマティックに激昂していくことの多い3楽章も、ただの激しさとは異なる表現だった。旋律は美しく、洗練潔白で、幾重もの心の作業を経た先にある広大な次元を指さしているようだった。ブロムシュテットの生きた神様のような姿のせいもあるのだろうか…「人生は最後まで生きてみなければわからないのだ」という、思いもよらない明快な啓示を得た。

私にとってこの演奏はとても宗教的なものに感じられた。個人的に、そういう演奏を聴くことは今の自分にとってとても貴重なことであった。どうして人生に対して悲観的であることをやめられず、幾度も「この人生をもう終わりにしたい」と思ってしまうのか…ブロムシュテットは明快な答えを与えてくれた。「人生はいつ好転するかわからない。命あることに感謝して生き続けなさい」と音楽を通じて語り掛けてきた。命や時間をどうとらえ、人生に生かしていくか…という啓示は、とても宗教的なものだった。
芸術が宗教的である、ということ自体がヨーロッパでは語義反復であるのかも知れない。しかし、日本では音楽そのものを科学的に…切り離されたものとした語ることが是とされているような気がする。ゲヴァントハウス管とカヴァコスのブラームスが宗教的である、という私の解釈はこの国では孤立し続けるのだろう。

後半のシューベルト『交響曲第8番 ハ長調 ザ・グレイト』では、前半に感じられたものがさらに強調されて心に迫ってきた。長らく、この曲の魅力が分からなかったのだ。シューベルトは歌曲やピアノ曲のほうが魅力的で、ザ・グレイトの愚直さや同じことの繰り返し、生真面目さは全く好きになれなかった。先日同じサントリーで聴いたゲルネの『冬の旅』では、音楽的霊感という意味でもシューベルトは崖っぷちまで行く。ある痛点に釘を打ち付け、トンカチを叩いたらヒビ割れから予想もしない深淵が顔を出した…という世界が歌曲にはある。アンプロンプチュのようなピアノ曲にもある。それを思えば、シューベルトは和声的にも構造的にも、もっと過剰な音楽を書けたはずなのではないかと思っていたのだ。

ブロムシュテットとゲヴァントハウス管の精神性は、シューベルトがハ長調のこの曲で行おうとしていたこの本質を教えてくれた。霊感の女神に愛された放蕩者としての幸運を捨て、一人の人間として、人間の理想を音楽で表そうとする崇高さを感じた。深読みするならば、ロマン派という潮流がこの「人間的理性」を捨てて感覚の放恣にひたったなら、音楽は死に絶える…トリスタンとイゾルデとともに腐り果てて死ぬ…という予感があったのかも知れない。爛熟した和声の快楽はロマン派の寿命を縮め、音楽は調性を捨てるまでにならなければならなかったのだ。
それにしても、最終楽章でのあの同音の執拗な繰り返しは本当にユニークである。音楽に性別はないとはいえ、とても男性的なのだ。ゲヴァントハウス管は今回ブルックナーの7番も演奏するが、ザ・グレイトもブルックナーの7番も女人禁制の修行僧のストイックな世界を彷彿させる。それと比べると、モーツァルトの交響曲はどれも女性的だ。翻ることと騙すこと、一瞬で魅了することは女の領分だからだ。

ゲヴァントハウス管は聴くだけでなく見ることによっても多くを教えてくれる。ぴったりそろった呼吸感、顔つきや所作の神妙さ…木管は特にオーボエ奏者の表情が素晴らしかった。どんな物事も、「やらされている」感じほど美しさから遠いものはない。オケの積極性からは、生き方の美学のようなものも教わった。12日と13日にもコンサートが行われる。