小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

アレクサンドル・カントロフ ピアノリサイタル(11/24)

2021-11-25 10:43:33 | クラシック音楽

2019年のチャイコフスキー国際コンクールでピアノ部門の優勝者となったアレクサンドル・カントロフの2日連続リサイタル(同プログラム)の1日目を聴く。話題の演奏家の日本での本格的なソロ・リサイタルとなったため、会場のトッパンホールはほぼすべての客席が埋まっていた。

ステージに登場したカントロフは顎に髭を生やし、20代のチャイコフスキーの肖像に少し似ていた。配信で見た2年前のコンクールのときは少年の面差しを残していたが、この夜は慈愛に溢れた目元が既に大芸術家の表情だった。現在24歳。
 プログラムはブラームスの初期作品「4つのバラードOp.10」と「ピアノ・ソナタ第3番 ヘ短調 Op.5」の間に、リストの「巡礼の年 第2年『イタリア』より第7曲 ダンテを読んで-ソナタ風幻想曲」がはさまった。ブラームスのバラード一曲目目から、カントロフの掌が大きく呼吸しているのが感じられ、教会のオルガンのような、モダンピアノとしては異様なほど「風圧」を感じる個性的な響きに驚かされた。ブラームス独特の陰気さと、冬空の分厚い雲のような色彩がホールを満たした。指先は吸盤のように鍵盤に吸い付いていて、不思議な生き物のようにうごめいている。見ていて独特だった。

 カントロフはピアノに覆いかぶさるようにして、音を「深堀り」し、尋常ではない霊感が音楽をとりまいていた。表面をつまんだだけの聴き方は許されない。ピアニストは聴衆に深い絆を求めている。ブラームスのバラードは譜面を見ればそれほど技巧的な作品ではないのに、何か底知れぬものをこの次元に引き出しているよう。面影が移うような第2曲では、教会の窓から差し込む光が見えた気がした。そこからピアノが壊れるのではないかと思われるほどの強打の連続に流れ込む。複数のピアニストが一斉に弾き出したような響きで、修道士たちの詠唱にも聴こえた。バスの音が、棺の杭を打ち込むように容赦ない。ブラームスは若い頃からこんなにも孤独だったのか。厭世観と、孤独の中で聴こえてくる森の葉の音や鳥の声が音楽を取りまいている。3曲目は不吉な雰囲気で、エクセントリックなモティーフが暗躍し、奇妙な幻影を見ているようだった。黒曜石を眺めて、そこからさまざまなイメージを読み取る瞑想法があるが、カントロフのブラームスは黒曜石のかたまりのように黒光りしていた。

 4つのバラードは失われたときを見いだしているようだ、と思った。薪で暖をとっていたブラームスの時代には、冬の寒さも肌身に沁みるものだっただろう。朝に母親と電話で話し、向こうではもう初雪が降ったという話を聞かされていた。昭和の子供が嗅いでいた、石油ストーブの匂いはもう現実から消えてしまったが、あのつんとする匂いと、冬の朝の透明な空気は、自分が死んだら誰の記憶に残るのだろう…そんな感傷に浸った。

リストのダンテ・ソナタでは、硬質で輝かしい音の粒が立ち、世界が変わった。夥しい鐘の音とともに、悪魔的なものの気配が立ち現れた。ブラームスとは呼吸が変化したので、その鮮烈さに驚かされた。劇的で妖術的で、ピアニストのうめくような低い声もシンクロして聴こえてくる。こちらは技巧的な曲だが、技巧を保たせようとしているのではなく、いつでも崩壊を待っているような大胆さがあった。ペダルも時折、わざと濁らせている。それが独特の心理効果を作り上げていて、聴き手を覚醒させるのだ。リストの肖像画そっくりの、背筋と両腕を伸ばして弾く姿も印象的だ。手を思い切り上に振り上げて、鍵盤の上に落下させる弾き方は、この人以外にあまり見たことがない。何か「賭け」をしているのか。
 指の動きは見ていて1秒も飽きなかった。右手は昔懐かしいハイフィンガー奏法を思わせる瞬間もあった。決して優等生的ではない。めまぐるしいパッセージの最中に急に手をぎゅっと丸めて、次の音を人差し指だけで「ポーン」と鳴らすのは、そのとき降りてきたインスピレーションなのだろうか。後半部にかけてさらに過熱していく件では、ブラムくらいの大きさの黄金のリンゴが空から雨あられと降ってくる様子を連想した。
前半だけで疲労困憊してもおかしくない、渾身の演奏だった。

ある種の超常的な才能を感じたが、そういうものを「持っている」と自覚し、恐れを抱かず掘り下げていくのもまた第二の才能だと思う。ヴァイオリニストの父をもち、音楽的に理想的な環境にいたというのは幸運だった。しかし、彼が受けている芸術的な霊感は孤独なもので、才能は遺伝でも、芸術性は独自の個性だ。
天から降ってくる霊感と、地上に生きている人間の条件を必ず結び付けてみせる。チャイコフスキー・コンクールの自己紹介のインタビューで、彼だけが白いバスローブ姿で、自然の中で朝ごはんを食べながら質問に答えていた。天気のいい朝に、バスローブを巻いてオレンジジュースを飲んでいることが、人間の最高の幸せなのだ。五感を開き、地上の時間を生きながら、宇宙のブラックマターとも対話をする。

ブラームスの作品5のソナタでは、彼自身が自分の成熟を、独自の方法で止めようとしている気配が感じられた。これはもちろん聴き手の妄想だが…時折、目が覚めるようなあどけない音を、唐突に差し出し、凡庸な完結へと向かわないように、音楽を赤ん坊のように生まれ変わらせる。完全に成熟してしまったら、時間が余るのだろう。常人が考えるロジックと、全く違う発想を持っているのだと思う。ブラームスの「閉所に閉じこめる」ような容赦なさと、すべてを最初から放棄しているような修道士じみた心が、このソナタには溢れていた。チャイコフスキーコンクールの本選では、ブラームスの2番という大霊峰のような大曲を選び、チャイコフスキーの2番のコンチェルトの後にこれを弾いて優勝した。二人の作曲家に共通しているのは、内省と厭世、ロマンティシズム、文学性など色々だが、五感的なものを最後までないがしろにしていていないという点も大きいと思う。

アンコールはグルックの「オルフェオとエウリディーチェ」から「メロディ」、ストラヴィンスキー「火の鳥」終曲、ブラームス「6つの間奏曲」の第2番。ストラヴィンスキーは何の魔法が始まったのかと思った。底無しのイマジネーションだった。グルックとブラームスはi-padの譜面を見ながらで、最近では珍しくもなんでもないが、そのスマートな扱い方が1997年生まれの若者という感じだった。
 アンコールは一曲だけにしようとしていたのかも知れない。あまりに聴衆が熱狂的で、彼自身も人の心の言葉を読む人なので…たまらないという感じで始まった「火の鳥」だった。アンコール最後のブラームス「間奏曲」が始まったときの、客席の声にならない、「おお!」という昂揚感は忘れられない。心から渇望されたピアノリサイタルだった。



@Sasha Gusov

 

 

 

 

 

 

 


 


演劇の無限の自由 『ドン・カルロス』

2021-11-23 19:12:00 | 演劇

深作健太さん演出のストレート・プレイ『ドン・カルロス』を新宿の紀伊國屋ホールで観劇(11/22)。このホールを訪れるのが初めてなら、深作さんの演劇を拝見するのも初めて。二期会の『ダナエの愛』(R・シュトラウス)の稽古見学で初めてお会いし、ワーグナー『ローエングリン』ベートーヴェン『フィデリオ』と深作オペラの素晴らしい上演を続けて観てきた。

紀伊國屋ホールは若い女性客が多く、この日はマチネとソワレの2公演だったが、恐らくリピートで鑑賞しているお客さんもおられるのだろう。演劇ファンとオペラファンは客層が違うが、批評精神旺盛なオペラファンより、演劇ファンの方が素敵だと思うことが最近は多い。
 暗く殺風景な舞台を見て、2時間みっちり休憩なしの『ドン・カルロス』がどう演じられるのか想像できなかった。そして最終的には、ひどく心が搔き乱された。人の善良さ、純粋さ、平和と自由を求める理想精神が、勝利の一歩手前で、より一層深い闇(権力)によってかき消されるブロセスを見た。
役者たちがこんなに電撃的な存在であることに驚き、心臓が止まりそうだった。

登場人物全員が、皆どん詰まりの状況にある。シラーの戯曲は読んだことがないが、ヴェルディの『ドン・カルロ』は4幕版も5幕版も観たことがある。翻訳とドラマトゥルクを大川珠季さんが担当しているが、深作さんが演出となると、どうしてもオペラがチラつく。オペラが豪華客船だとすると、小劇場でのストレートプレイはモーターボート。スピードが違うし、自由度も違う。

カルロスは吃音で、片足が不自由で、引きこもりで自閉症の兆候もある。ナイーヴで壊れやすいこの役を、2004年生まれの北川拓実さんが情熱的に演じた。吃音で足が不自由という設定は、『金閣寺』の主人公・溝口と、内翻足の柏木を思わせる。二重の脆弱性を背負いつつ、カルロスはもっと重大な欠落も背負っている。「一度も父親のフェリペⅡ世に愛されたことがない」という愛情飢餓で、蓋をあければフェリペ本人もそれ以上の愛情飢餓を抱えている。みんながいびつで、癒しを必要とし、ボロボロの状態で言葉を剣のように交わしている。

その中でエリザベートは唯一冷静な存在で、愛原実花さんが女神のように美しく理性的な王妃を演じた。運命を引き受けているただ一人の女性で、このエリザベートはオペラのエリザベッタより性格に矛盾がない。カルロスを愛するのは彼が「最も弱い存在」だからで、オペラでエボリを断罪する場面でも、この王妃はまったく動じず「あなたもカルロスを愛していたのね」と慈愛の微笑みを浮かべる。


このプロジェクト自体が、ドイツのどこかの大劇場の近くの、オフ・ブロードウェイ的な場所で演じられるべきだと思った。ロックのライブのようでもあり、演劇の次元から突如マイクを持ち出して、歌い出すように台詞を語り出す。全員がそれをやる。アンダーグラウンド感覚が濃密で、ベルリンの壁を思わせる舞台の壁面に、カルロスもロドリーゴもエリザベートも、グラフィティアートのようなメッセージの単語をペンキで描く。

エーボリ公女を演じた七味まゆ味さんはご自身で劇団を主宰されている女優さんだが、この夜のブチ切れたエーボリは衝撃的だった。登場のシーンではヨガのポーズを取り(エリザベートも一緒にヨガをする)、カルロス誘惑のシーンでは蛸のような海の魔物となり、殴られ、倒れ込み、大声で叫ぶ…舞台は生き物だから、私が見た日は特に凄かったのかも知れない。目から黒い涙を流して演じていたという印象が残った。

17歳の北川さんがこの膨大な台詞を、苛酷な芝居とともに完走してみせたことは奇跡だ。そして深作さんが一筋縄ではいかないのは、全員から生身の人間としての、最も痛くて寂しい心を引き出してみせたことだ。一握の砂の中に、砂金や砂鉄があるように、すべての人間の深いところに同じ感情がある。不安、闇、愛されなかったという傷。ドン・カルロスもフェリペもエーボリも、全員現代人と同じ苦しみを抱えている。とどのつまりは「寂しくて、生きるのが苦しくて、もう限界だ」ということなのだ。 

演劇の魔法の瞬間が惜しみなく繰り広げられる中で「深作さんはいつこの物語を諦めるのだろう」と目を凝らしていた。緞帳もなく、暗転も使わない。現代劇と歴史劇を思い切り奔放にミックスしている。それが回収不可能な瞬間があるのではないかと思った。演劇のプロはそんなヤワなものではなかった。凄い。最後まで白い十字架が舞台で事の成り行きを見守っていた。フェリペがロドリーゴに対して「私の初恋の男だった」と語る台詞は、シラーの原作にあっただろうか? 愛の飢餓感という主題は、容赦なく全体を貫く。

新国の「マイスタージンガー」を見たばかりだったので、「深作さんにも将来マイスタージンガーを演出して欲しいなぁ」とほのぼのとしたこと(?)を考えていたのだが、途中から「オペラがどうの」ということは、どうでもよくなった。この演劇で、深作さんの才能の巨大さを重ねて思った。オペラの世界は、あまりに狭量な聴衆が多い。深作さん演出の「ローエングリン」は最高だったではないか。私は大絶賛したが…中には酷いことを言う人もいた。オペラの演出に対する上から目線の論調は、あまりに閉鎖的だ。不自由すぎる。

「お前の死を犬死にしてやる!」とロドリーゴの亡骸に呪詛の言葉をかけるフェリペを、神農直隆さんが演じた。フェリペの重々しい存在感とナイーヴな内面は、最後は権力者としての残忍さに集約されていく。この心の成り行きは、現在の世界でも起こっていると思った。狂気じみた残忍さは、愛の欠落から成り立っている。ゆえに愛より強靭なのだ。

心の闇と向き合って、それを浄化したり問いかけたりする舞台は、役者たちにとっても過酷で、なおかつかけがえのない時間だったろう。千秋楽の前日で、役も成熟してきた時期だったはず。ドン。カルロスの時間から抜けて現実に戻ることは寂しいだろうし、日常でこれほど貴重な「自分自身の深淵」と向き合うこともないだろう。舞台は狂気を孕んでいるが、同時に癒しでもある。全員が綺麗な心をもっているドリーム・チームだった。

俳優たちの「自由!」 というシュプレヒコールが響いたこの舞台を見て、演出家の創造性にリミットを設けない演劇は、自由をどこまでも受け入れるジャンルだと実感した。オペラは、すべてがこんなふうに自由ではない。役者たちをとことん信頼し、自由にする深作さんの天才に驚愕し、少し心を落ち着けて、やはり深作さんの演出する「マイスタージンガー」も観たいと強く思った。オペラに必要なのは、この『ドン・カルロス』のような切っ先鋭い「自由」なのだ。

 


東京フィル×バッティストーニ(11/1)

2021-11-04 01:51:33 | クラシック音楽

東フィル×バッティストーニによる11月定期3公演のサントリー初日。人気の公演で、オケ側のP席まで客席がほぼ埋まっていた。
曲目は前半がバッティストーニ作曲フルート協奏曲『快楽の園』~ボスの絵画作品によせて(2019)。後半がチャイコフスキー『交響曲第5番 ホ短調』。コンサートマスターは三浦章宏さん。

バッティストーニの盟友トンマーゾ・ベンチョリーニがフルート・ソロで入った新作は、「天地創造」「エデンの園」「地獄-カデンツァ」「庭」で構成される35分ほどの作品。調性はあるようで、浮遊しているようで、ここぞというときはプッチーニ風のメロディアスなフレーズが噴き出す。ベンチョリーニのフルートは「青い鳥」のようにホールを飛び回り、遊戯的。ユーモアや驚きを含んだ楽想が映画音楽のように流れていく。バッティストーニ特有の、音量がハードロック的に増幅する展開も健在。ボスの絵は奇想天外でカラフルだが、バッティストーニがこの絵をテーマに曲を書こうとして理由が分かるような気がした。彼がマーラーで一番好きだという「夜の歌」に通じる、少しグロテスクで「どこを拾っても細部までレンズの焦点が合っている」世界だ。
バッティストーニの作曲は、少し前に演奏された狂詩曲「エラン・ヴィタール」のように哲学的だったり、今作のように絵画的だったり、人文学アートと関連が深いが、共通しているのは「とても温かい感じがする」ということ。
楽曲の細部に関しては、既に記憶が薄れた箇所が多く、もう一度聴きたいところだが、作曲家としてのバッティストーニがとても人間的で愛に溢れているということは、このフルート協奏曲で実感できた。
「類は友を呼ぶ」なのか、ベンチョリーニもとてもいい人で、日本語で挨拶とアンコールの曲紹介をし、バッハの「無伴奏フルートのためのパルティータ」から「サラバンド」を演奏した。内容のあるテクニシャンで、ベルリン交響楽団での初演(デヴィッド・ロバート・コールマン指揮)でも彼がソロを務めている。

後半のチャイコフスキー5番は、1楽章の出だしから「なるほど」と思った。ボスの絵のように、マーラーの7番のように、細部が異様にはっきりとした演奏で、管弦打ともに各パートが楽器のもつキャラクターを少し極端なほど際立てていた。プレイヤーは磨き抜かれた「部品」のようなサウンドを投げ合う。そのことで、膨大なエレメントが時計仕掛けのように組み合って、この5番が出来ていることを理解させられた。
 各パートががお互いの音をよく聴き合って、団子のようにくっつきあうのではなく、分離した音を出している。それを溶接しているものは何か。それこそが作曲家の魂だ。
バッティストーニは前半の自作では、「どうしても愛にあふれ、地上的な温かさに溢れてしまう」自分自身を表したが、無意識のうちに「作曲家は何も隠せない」という真実を露にした。チャイコフスキーと並べることで、それはどうしようもなく鮮やかになった。

 プレイヤーたちが奏でる貴重な断片は薔薇窓のようになり、その美がどのように継続していくのか追っていくと、すぐさま次の楽想によって破壊される。こういう言い方は詩的すぎるのかも知れないが、意図的にせよそうでないにせよ、チャイコフスキーがこの曲で表したのは、自らの愛の悲劇性だと感じた。
作曲家自身が「あざとい作り物」と呼んでいた5番は、ベートーヴェンの5番を構造的に模していて、ベートーヴェンがシンフォニーの大団円で彼の本質である「死をも乗り越える祝祭的な楽観」を成就するのに対し、チャイコフスキーでは真逆のものが露になる。
ベートーヴェンでは、ロジカルに積み上げられたモティーフが肯定性によって勝利したのに、チャイコフスキーでは「もうだめだ」「先には破滅しかない」「このままでは生き延びることは不可能だ」という悲観が溢れ出す。

1楽章から、極端なディミヌエンドが音楽を途絶える寸前までにする瞬間があったが、あれは「悲観に溺れたチャイコフスキーの断末魔の溜息」なのではないかと思った。チャイコフスキーはメランコリーに侵され、自己を、人生を放棄したい。その根底には、やはり愛の問題がある。迫害され、脅迫され、その先に、遺書としての「悲愴」があった。

虫の息のようなpppもあれば、他の大部分の楽章では、音楽はかなり暴力的に激昂する。1楽章だけでも凄まじいジェットコースター状態で、精緻な数式と化学式が内蔵されたクレイジーな楽想が、その都度ぴったり辻褄を合わせる。モーツァルトはこうしたいたずらを、いかにも遊戯的にやる。チャイコフスキーはモーツァルトが好きで「モーツァルティアーナ」のような曲も書いた。
しかし結局、ベートーヴェンもモーツァルトもチャイコフスキーではない。作曲家は曲の中で嘘をつけないので、チャイコフスキーは人をあざむこうとして、結局馬鹿正直に自分の魂を見せてしまっている。自分の罠にはまってしまったのだ。


聴いていて、厭世的なチャイコフスキー的人物…オペラ『エフゲニー・オネーギン』のオネーギンと、『スペードの女王』のゲルマンを思い出した。チャイコフスキーもゲルマンのように、ギャンブラーとして音楽と戯れようとしたのだ。この5番の初演がサンクトペテルブルクで成功したとき、チャイコフスキーは「こんなものが成功してしまうとは」と自嘲気味に書いている。実際によくできた手品であり、優美なワルツもあり、奥深く魂に触れようとしなければ、輝かしい勝利の名曲であり続けたに違いない。

魅惑的でどうしようもなく破滅的な2楽章では、ホルンとオーボエの完璧さに頭が下がった。首席ホルンは、指揮コンクールの予選のベートーヴェンの2番でも、12回の演奏中、一度も真剣でない音は鳴らさなかった。東フィルのホルンは世界一信頼できる。3楽章のワルツは何百回聴いても飽きない。『エフゲニー・オネーギン』の3幕の、オネーギンとタチヤーナが再会するサンクトペテルブルクの舞踏会を連想する。不穏なアクセントと、1拍目のひび割れた管の音は、ラフマニノフがチャイコフスキーから継承している。

凄かったのはフィナーレ楽章で、チャイコフスキーが高度な知能の限りを尽くした細工が勢いよく堰を切って、インフレーション的に狂騒した。ベートーヴェンは栄光のフィナーレのために音を積み上げたが、チャイコフスキーのフィナーレは地獄落ちのようだ。コンマスの三浦さんをはじめとするオケ全員がバッティストーニが「読んだ」チャイコフスキーを全身全霊で表した。これは果たして本当に凱旋の音楽なのだろうか。危険なギャンブルに負け、スペードの女王に呪われたゲルマンの影がちらついた。ラスト10分は、チャイコフスキーのクレイジーな男性性に圧倒され、こういう苛烈な世界には女はついていけないと思った。激しすぎるし、呼吸ができないし、平和のかけらもない。
 そういう音楽を作っているのが、平和な心をもつバッティストーニであることに、ひどく感動した。安息を知る者が、他人の不幸を表現できないというのは嘘で、天使の心をもつ指揮者は作曲家の地獄落ちを、どこまでも詳細に描き尽くした。

本編終了が8時45分。そのあとなんとアンコールがあった…バッティストーニ編曲のリスト『巡礼の年』第2年イタリアよりサルヴァトール・ローザのカンツォネッタが、ラブリーなタッチで演奏された。バッティストーニはチャイコフスキーの地獄落ちを演奏した後、再び聴衆をみずからの楽園に招待したのだ。