初めての海外はその昔、壁の中のベルリン。フランクフルトでルフトハンザから英国航空に
乗り換える。当時はまだ冷戦の最中ドイツ航空はベルリンへ飛べず、米英仏3カ国のみが飛んだ。
時は五月の連休の最中、国際会議に初めて出席した。30年以上昔のこと。
日本からの飛行機は殆どが連休の海外旅行の人達。隣にいた女性たちも乗り継いで
スペインへ行くと言う、初めての海外旅行の緊張、それも仕事の自分と比べて気楽に
楽しむ若い人達がいることを知った。同じ飛行機には女優さんも乗っていた。
まだ独身の妹がデュッセルルドルフにいて、ベルリンまで会いに来てくれた。
会議が済んで、彼女のアパートにもお邪魔してスペイン料理店で殻を割るスープや
生煮えとしか思えないパエリエを食べて驚いたことを印象的に覚えている。
その量が半端ではなくとても二人では食べ切れなかったのも思い出す。
前置きが長くなった。その時、街で見かけたのが満開の八重桜である。
もっと濃い色合いなどの並木が豪華に咲き誇るのが結構沢山目に付いた。
フランクフルトの飛行場と言えば、もう一つ、窓越しに給油の車が寄ってきて機体に
注油のホースを持つ大柄な金髪の女性がつなぎの作業服姿で現れたのには仰天した。
ドイツではこういう仕事も女性がやるんだ!、と。
日本でも今ならあるのかもしれない。我が家に毎週一度はやってくる宅急便のトラック運転手
若い女性である。それも数人。我が家の世代交代とともに日本も変わったと実感。
もう少し思い出:着いた日は時差ぼけを解消するために眠らずに夕食まで頑張るのが常。
まず、午後の時間で市内観光をやった。キューフォァステンダムが繁華街だと叫ぶガイド
のドイツ訛りの英語が面白かった。戦災で瓦礫になった教会が残されていた。きっと今も
広島のドームのような存在としてあそこにあるのだろうな。
日曜日には一人で街を歩いてみたり、会議の後でベルリンフィルを聴いたり、目一杯
初めての外国の町を楽しんだ。おかしかったのは、その時数名でベルリンフィルへの道を
通りがかりの一人に聞いたときである。あっという間に10名くらいの人達が集まり、
我々のために案内する議論を始めた。ドイツ語であり聞き取れない。議論の結論が出ると
英語を話せる人が、代表してこうするのが一番良いとバスルートを教えてくれた。
当時の日本であれば、東京の街中で外人から声をかけられるとまず逃げる、であったろう。
そして一人ではなく、数名が集まるのもそれが10名くらいになって議論すると言うのも
強烈な文化の違いの認識であった。
さらに、東西に分かれたベルリンの壁の印象も忘れられない。ベルリンフィルのすぐそばに
向こうを覗くやぐらが組んであり、階段を上って眺めることが出来た。向こうには鉄条網と
銃をもつ警備兵の姿が見えた。壁には裏文字のHELPが書かれている。
冷戦の実感であった。そして東へのバスツアーでは、チャーリーズポイントの大きなコンクリート
ブロックで造られたクランク道路を抜けた。バスのガイドも運転手も東の人に代わり
東へ入ると、薄汚れた町並み、古くなった車、人影の少ない繁華街という寂しい印象であった。
そのベルリンへは壁のあるときに2回行ったが、その後は行ったことがない。
再訪して、当時は閉じられていたブランデルグ門を歩いてみたいなと思う。
写真:これを見るとこのときのドイツを思い出す。
近所の運動公園の周回道路の八重桜並木。
乗り換える。当時はまだ冷戦の最中ドイツ航空はベルリンへ飛べず、米英仏3カ国のみが飛んだ。
時は五月の連休の最中、国際会議に初めて出席した。30年以上昔のこと。
日本からの飛行機は殆どが連休の海外旅行の人達。隣にいた女性たちも乗り継いで
スペインへ行くと言う、初めての海外旅行の緊張、それも仕事の自分と比べて気楽に
楽しむ若い人達がいることを知った。同じ飛行機には女優さんも乗っていた。
まだ独身の妹がデュッセルルドルフにいて、ベルリンまで会いに来てくれた。
会議が済んで、彼女のアパートにもお邪魔してスペイン料理店で殻を割るスープや
生煮えとしか思えないパエリエを食べて驚いたことを印象的に覚えている。
その量が半端ではなくとても二人では食べ切れなかったのも思い出す。
前置きが長くなった。その時、街で見かけたのが満開の八重桜である。
もっと濃い色合いなどの並木が豪華に咲き誇るのが結構沢山目に付いた。
フランクフルトの飛行場と言えば、もう一つ、窓越しに給油の車が寄ってきて機体に
注油のホースを持つ大柄な金髪の女性がつなぎの作業服姿で現れたのには仰天した。
ドイツではこういう仕事も女性がやるんだ!、と。
日本でも今ならあるのかもしれない。我が家に毎週一度はやってくる宅急便のトラック運転手
若い女性である。それも数人。我が家の世代交代とともに日本も変わったと実感。
もう少し思い出:着いた日は時差ぼけを解消するために眠らずに夕食まで頑張るのが常。
まず、午後の時間で市内観光をやった。キューフォァステンダムが繁華街だと叫ぶガイド
のドイツ訛りの英語が面白かった。戦災で瓦礫になった教会が残されていた。きっと今も
広島のドームのような存在としてあそこにあるのだろうな。
日曜日には一人で街を歩いてみたり、会議の後でベルリンフィルを聴いたり、目一杯
初めての外国の町を楽しんだ。おかしかったのは、その時数名でベルリンフィルへの道を
通りがかりの一人に聞いたときである。あっという間に10名くらいの人達が集まり、
我々のために案内する議論を始めた。ドイツ語であり聞き取れない。議論の結論が出ると
英語を話せる人が、代表してこうするのが一番良いとバスルートを教えてくれた。
当時の日本であれば、東京の街中で外人から声をかけられるとまず逃げる、であったろう。
そして一人ではなく、数名が集まるのもそれが10名くらいになって議論すると言うのも
強烈な文化の違いの認識であった。
さらに、東西に分かれたベルリンの壁の印象も忘れられない。ベルリンフィルのすぐそばに
向こうを覗くやぐらが組んであり、階段を上って眺めることが出来た。向こうには鉄条網と
銃をもつ警備兵の姿が見えた。壁には裏文字のHELPが書かれている。
冷戦の実感であった。そして東へのバスツアーでは、チャーリーズポイントの大きなコンクリート
ブロックで造られたクランク道路を抜けた。バスのガイドも運転手も東の人に代わり
東へ入ると、薄汚れた町並み、古くなった車、人影の少ない繁華街という寂しい印象であった。
そのベルリンへは壁のあるときに2回行ったが、その後は行ったことがない。
再訪して、当時は閉じられていたブランデルグ門を歩いてみたいなと思う。
写真:これを見るとこのときのドイツを思い出す。
近所の運動公園の周回道路の八重桜並木。