城郭 長谷川博美 基本記録

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常陸木原城 都市空間の考察

2023-09-11 09:51:08 | 関東の城 ビイスタ工法

常陸木原城 都市空間の考察

 

◆長谷川

城に行きたい人=探訪

城で楽しみたい=行楽

城へ旅をする人=紀行

城を研究し解説=講師

 

などなど世の中には多様な趣味

の人々が存在致します。昭和、

平成と城郭は研究され続けまし

たが城址が当時どの様に測量を

されて築城されたのか考察する

研究家や城址探訪家は皆無に近

いのが現実だと言えましょう。

 

~マーク・トウェイン~は

自分が多数派の側にいると

気付いたら、もう意見を変

えてもいいころだと言って

います。城や城下町を放射

状に測量した事例を研究は

全く言及されない現状です。

 

覇王織田信長の近江安土城

は扇型ビイスタ工法です。▼

城郭 長谷川博美 基本記録(10ページ目)

太閤秀吉の肥前名護屋城もビイスタ

工法です。▼

「城郭見学会終了報告」のブログ記事一覧-城郭 長谷川博美 基本記録

 

徳川家康の江戸城もビイスタ

工法です。▼

◆質問者

常陸木原城もビイスタ工法ですか?

 

◆長谷川

木原城は本丸、二之丸、三之丸と

 

順次高く築かれ霞ヶ浦方面は左に

なりますが港湾を意識した巨大な

城郭遺跡と言え扇型ビイスタ工法

を使って縄張している典型の城。

◆一般様

これは衝撃を受けました。日本の

城の設計の基本が扇型の放射腺と

は全く誰も教えてくれない新発見

城郭ビイスタ動画で勉強しておか

ないと城好きの私は恥をかきます。

反論者

城郭ビイスタ動画を絶対に見ては

なりません!禁断の動画なのです。

長谷川のブログはだれも読んでは

いません。長谷川は全く人気ない。

 

◆対談者

でもそこに落とし穴がありますよ

赤信号を何万人と言う数で渡れば

数に物を言わせた正義と言えます?

 

~マーク・トウェイン~は

自分が多数派の側にいると

気付いたら、もう意見を変

えてもいいころだと言って

います。

 

◆特別質問者

大手郭の役割やビイスタの存在は?

 

◆長谷川

大手郭は枡形虎口の様式の郭です。

この枡形が近世城郭の様に90度の

直角ではなく大手郭が台形である

事がビイスタを解明する糸口へと

繋がります。正方形でない枡形は

意外に多く存在し城址見学会でも

短絡的に正四角形の枡形と判断を

する人と『世話人』様の様に丁寧

に注意深く見学しましようと助言

される人との主観の違いが発生を

致します。城を深く知りたい人は

『世話人』様の言葉に傾聴下さい。

◆反論者

こんなの偶然常陸木原城に

ビイスタを発見しただけだ!

 

◆対談者

昔は私も最初はそう思ってま

したしかし美濃大森城とか▼

◆対談者

三河諏訪原城のビイスタは確実です▼

◆対談者

常陸木原城の都市空間の考察とは?

◆長谷川

先ず宿地名の多さに注目します。

本宿、登宿、立宿、登り宿、下宿

後宿、新宿、などこれは都市空間

が形成されていた街区が読取れる。

次にビイスタCでは霞ヶ浦の川湊4箇所

を統括し宿場町の街区をビイスタCで

測量縄張しています城と街区の縄張は

ビイスタBで縄張しCのビイスタ等も

読取れこれはもうヒイスタで設計

施工された都市空間とさえ言えます。

◆長谷川

城跡を概略的視点巨視的視点で

監察する事も城跡見学や考察の

楽しさを増す事だと思います。

城と城下町を一体で考える事。

◆長谷川

方円の縄張と言う言葉が

あります。この木原城も

円弧の縄張を使ってます。

緑色の部分に注目下さい。

 

以下ウィツキベデイア引用

霞ヶ浦南岸に位置し、三の丸二の丸本丸(詰曲輪)に

向かうに従い標高が低くなるという特徴がある[1]。現在、

本丸跡地は「木原城址城山公園」として整備され、春に

は城山まつりが行われている。二の丸、三の丸跡地は畑

になっている。土岐氏家臣である近藤氏の居城として

知られるが、城や城主近藤氏に関する直接的な史料

極めて少なく、不明な点が多いという[2]

歴史[編集]

近藤氏菩提寺の永厳寺寺伝によると、永正元年(1504年

居城を失った近藤利勝が「神越之城」に移り住み

永正3年(1506年)には「神越村を木原と改む」とあり、

木原城の事とされる。ただしこの「神越之城」と現在の

木原城跡が同じ城かは不明とされる[2]。同年、近藤義勝

が城主になった。永禄5年(1562年)、土岐治美が改修

をし、近藤義勝が城の守備を任された。天正2年(1574年

小田氏家臣上条城主の江戸崎監物が寝返り落城した。

さらに天正11年(1583年)に常陸国の大半を支配していた、

佐竹義重佐竹義宣蘆名盛重らの軍に攻められ、

また落城した。天正18年(1590年)に豊臣秀吉の攻撃を

受けて後北条氏が滅亡すると、勢力を失った土岐氏の城は、

秀吉の家臣となった佐竹義宣に降伏し、天正19年(1591年

蘆名盛重が支配するようになった。関ヶ原の戦いの後、

慶長8年(1603年)に徳川家譜代大名だった内藤清成

青山忠成の所領になったがこの頃に廃城になった。

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