常陸木原城 都市空間の考察
◆長谷川
城に行きたい人=探訪
城で楽しみたい=行楽
城へ旅をする人=紀行
城を研究し解説=講師
などなど世の中には多様な趣味
の人々が存在致します。昭和、
平成と城郭は研究され続けまし
たが城址が当時どの様に測量を
されて築城されたのか考察する
研究家や城址探訪家は皆無に近
いのが現実だと言えましょう。
~マーク・トウェイン~は
自分が多数派の側にいると
気付いたら、もう意見を変
えてもいいころだと言って
います。城や城下町を放射
状に測量した事例を研究は
全く言及されない現状です。
覇王織田信長の近江安土城
は扇型ビイスタ工法です。▼
太閤秀吉の肥前名護屋城もビイスタ
工法です。▼
徳川家康の江戸城もビイスタ
工法です。▼
◆質問者
常陸木原城もビイスタ工法ですか?
◆長谷川
木原城は本丸、二之丸、三之丸と
順次高く築かれ霞ヶ浦方面は左に
なりますが港湾を意識した巨大な
城郭遺跡と言え扇型ビイスタ工法
を使って縄張している典型の城。
◆一般様
これは衝撃を受けました。日本の
城の設計の基本が扇型の放射腺と
は全く誰も教えてくれない新発見
城郭ビイスタ動画で勉強しておか
ないと城好きの私は恥をかきます。
◆反論者
城郭ビイスタ動画を絶対に見ては
なりません!禁断の動画なのです。
長谷川のブログはだれも読んでは
いません。長谷川は全く人気ない。
◆対談者
でもそこに落とし穴がありますよ
赤信号を何万人と言う数で渡れば
数に物を言わせた正義と言えます?
~マーク・トウェイン~は
自分が多数派の側にいると
気付いたら、もう意見を変
えてもいいころだと言って
います。
◆特別質問者
大手郭の役割やビイスタの存在は?
◆長谷川
大手郭は枡形虎口の様式の郭です。
この枡形が近世城郭の様に90度の
直角ではなく大手郭が台形である
事がビイスタを解明する糸口へと
繋がります。正方形でない枡形は
意外に多く存在し城址見学会でも
短絡的に正四角形の枡形と判断を
する人と『世話人』様の様に丁寧
に注意深く見学しましようと助言
される人との主観の違いが発生を
致します。城を深く知りたい人は
『世話人』様の言葉に傾聴下さい。
◆反論者
こんなの偶然常陸木原城に
ビイスタを発見しただけだ!
◆対談者
昔は私も最初はそう思ってま
したしかし美濃大森城とか▼
◆対談者
三河諏訪原城のビイスタは確実です▼
◆対談者
常陸木原城の都市空間の考察とは?
◆長谷川
先ず宿地名の多さに注目します。
本宿、登宿、立宿、登り宿、下宿
後宿、新宿、などこれは都市空間
が形成されていた街区が読取れる。
次にビイスタCでは霞ヶ浦の川湊4箇所
を統括し宿場町の街区をビイスタCで
測量縄張しています城と街区の縄張は
ビイスタBで縄張しCのビイスタ等も
読取れこれはもうヒイスタで設計
施工された都市空間とさえ言えます。
◆長谷川
城跡を概略的視点巨視的視点で
監察する事も城跡見学や考察の
楽しさを増す事だと思います。
城と城下町を一体で考える事。
◆長谷川
方円の縄張と言う言葉が
あります。この木原城も
円弧の縄張を使ってます。
緑色の部分に注目下さい。
以下ウィツキベデイア引用
向かうに従い標高が低くなるという特徴がある[1]。現在、
本丸跡地は「木原城址城山公園」として整備され、春に
は城山まつりが行われている。二の丸、三の丸跡地は畑
極めて少なく、不明な点が多いという[2]。
歴史[編集]
に居城を失った近藤利勝が「神越之城」に移り住み
木原城の事とされる。ただしこの「神越之城」と現在の
木原城跡が同じ城かは不明とされる[2]。同年、近藤義勝
さらに天正11年(1583年)に常陸国の大半を支配していた、
秀吉の家臣となった佐竹義宣に降伏し、天正19年(1591年)
蘆名盛重が支配するようになった。関ヶ原の戦いの後、
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