★この投稿は古戦場と城郭に関する
投稿記事です最後に思わぬ結末が!
峠の民俗学 行市山 集福寺超え
昭和大正の民俗会的考察
◆長谷川博美
令和4年4月21日長浜市余呉町行市山に
ある集福寺超へ昭和の民俗学の踏査に
滋賀民俗学会会員田畑喜久弘氏と共に
出かる事にした。この峠は西浅井町と
余呉町池原を結ぶ間道であり昭和の頃
国鉄北陸線は余呉村を通過して今は無
き中之郷駅へと西近江路に住む人々は
特急が停車した中之郷へと山越を超え
乗車する事が常であったと言われる。
中之郷駅は巨大な赤レンガの給水塔
や蒸気機関車用転車台が二基常設さ
れ駅弁も販売されるような北陸線の
重要な駅であった。また土倉鉱山で
採掘された黄銅鉱は杉野谷から橋本
をトンネルを経由して中之郷に運ば
れた今も中之郷駅のプラットホーム
基壇は現存しており往時を偲ばせる。
ちなみに『角川地名辞典滋賀』には
西浅井町集福寺の小字名に「余呉谷」
が存在し往古より西浅井と余呉には
山越え交通歴史の存在が考えられる。
◆滋賀民俗学会長谷川銀蔵の口伝回顧
父の解説では行市山系では渡り鳥捕獲
する為の山小屋「つぐみ」や野鳥捕獲
の組織などが存在したと語っていた事
を記憶している。
◆峠の守護神
集福寺超えの峠には権現坂の様な峠を
行く交う人々の守護神蔵王権現社など
格別の信仰施設や石造美術品は現存は
していない。ただ小規模の数段の石段
と「峠の神」に擬した高さ20㎝の石が
微かに現存しているだけであった。
しかし峠の神様に旅の安全祈願する
素朴な庶民の精神性に民俗学者とし
て共感する。「うとげ」は峠の結界
の神に手向ける為「たむけ」から峠
の語源が出来たとも民俗学では言う。
◆山と野鳥捕獲の民俗誌の遺物踏査
さて私はこの近辺に野鳥を捕獲し宴会
や会食を催した昭和または、大正期の
遺物がこの集福寺超近辺に残存するの
か田畑氏と踏査する事を試みた。これ
はもう既に失われた昭和大正の民俗誌
への憧憬だと失笑されるかも知れない。
常識から考えて野鳥捕獲の痕跡や遺物
を見学出来る確率は100%ないと言える。
しかし峠の稜線を北に向かって歩くと
ガラス製の酒瓶を見つけて撮影をした。
たしかに昭和大正の人々が行市山へと
訪れた足跡ガラス製酒瓶を撮影した。
この様な酒ビンなど何処の山でさえ
も発見できる昭和の足跡ではあるが
しばらく田畑氏と歩くと文字の入っ
た古風な酒瓶を撮影して少々楽しく
なってきた。次々に酒器用品が地表
に観察され、一種酩酊した様な幻想
的気分にさえなった。
▼山中に次々と生活用品がある事で往時を偲んだ
▼錆びついた、飯ごうの写真も、撮影した。
野外で自炊する、飯盒炊飯と言う言葉が
妙に懐かしく最近は感じる御時世である。
しかし野鳥を捕食する為の「組合組織」に
関する遺物は当然一切発見できずに下山の
途につく事にした。すると田畑氏が突然に
文字の書いた陶器がありますと私に報告を
された。私はその文字を読んで鳥肌が立つ
ほどに仰天した父銀蔵が口頭伝承していた
「組織」『東北保鳥組合』の文言が色鮮や
に読みとれたからだ。山行は時に期待もし
ない不可思議タイムトラベル現象を登山者
に投げかけてくれるものだ。追記今回撮影
した器物は埋蔵文化財的見地からは器物の
表面採取は私も田畑氏も全く行っていない。
◆長谷川銀蔵口伝
行市山では「つぐみ」の捕獲が盛んに
行われた。「つぐみ」は焼き鳥にする
と格別の珍味美味の為に乱獲防止保護鳥
であり乱獲から保護する為の措置取られ
た。今回の田畑氏と私が歩いた稜線は
「つぐみ捕獲用の小屋場」だった可能性
があろう。つぐみを焼いて酒食を楽しん
だ過去の人々の談笑が聞こえる様でした。
滋賀民俗学会 理事 長谷川博美
◆読者様より☎
投稿記事読みました。城郭遺跡にしろ
民俗遺物にしろ、とにかく、コツコツ
と丁寧に遺跡遺物を真面目に前向きに
調査踏査の本物!机上論だけで、ない
誠実な学問への対峙姿勢や信頼信用が
出来ます。それはただ山々峰々の遊び
で入山している。訳ではないと言う事
が良く解りました。私達などは足元の
遺物や遺跡の意味や形状に普段は注意
する習慣がないのです。それに比べて
『東北保鳥組合』文字発見は驚きです。
城郭、陣城、布陣遺構等の見学なども
堅実な調査に裏打ちに支えられた誠実
さ誠の字は言葉が成ると言う意味です。
◆反論者
集福寺越は賤ケ岳古戦場の重要地点だよ!
柴田勝家側の最前線に位置し大岩山岩崎
の攻撃際し重要な通過ポイントだ長谷川
氏はただ民俗学調査だに行ってた訳かい?
◆長谷川
敗軍となった佐久間柴田方の砦や陣跡は
未だに行市山に多数散在して実数の把握
は不可能に近い行市山城単体を見学して
も行市山全山の布陣遺構は数多く存在し
果たして行市別所山だけ見て果たして?
行市山城塞群を簡略な文字の表現だけで
世の中の人々に解説するには無理がある
と思います。古戦場の検証って本当広大
難解です。数万の将兵が陣していた城塞
が50mほどの砦5カ所では当然収容不可
能である事はだれでも理解できる事です。
今回集福寺越に4ヵ所の陣営を発見計測
をいたしました。下の図が、その一砦
です。これらの城塞を皆様と見学出来る
機会が到来する事を願っておりますが
世の中とは如何せんカタログ城郭見学
形式が主流になって現実の陣や砦跡の
見学希望する人は社会に皆無だと言え
ます。4月23日の源頼朝隠し砦なども
現実に参加される人は2~3人と言う事
◆質問者
この遺跡は城郭遺跡なのでしょうか?
◆長谷川
堀切、低土塁、犬走、土橋などの遺構
は城郭布陣遺構と言って良いでしょう。
A B C
「平素居城」-「臨時城郭」-「布陣遺構」
3条件で言いうと布陣遺構BとCの▲中間的遺構
◆長谷川
特にこの柴田軍の集福寺越布陣遺構は
鉄砲を射撃する為にの銃座遺構が独立
したセパレーション形式で7ヵ所この陣
に存在する事に特に注意注目して下さい。
野戦陣地の現実や戦争の現場に恐怖です。
◆対談者
古来より本物や現実や真実には社会は
興味を示さないものです。源頼朝隠し
砦や海北氏の瓜生山城の見学は2~3人
で慎ましく清々しい学習会をします。
◆反論者
この投稿は全く奇妙だ民俗学の投稿か
歴史城郭研究の投稿なのか全く解らん!
◆対談者
あなた終末は何処の博物館行かれます?
◆反論者
〇〇歴史民俗資料館へ見学に行きます!
その次は町の図書館に行き本を読みます。
城の縄張図は見ても解らんので見ないよ!
◆対談者
歴史民俗資料館とは歴史と民俗資料収蔵館
図書館とは「書」と「図」だから「図書館」
◆鋭い様
私はこの投稿がそんな簡単な内容だとは思
いません!長谷川先生は集福寺越え近辺に
田畑さんと最近4ヵ所の陣所を発見された!
4月23日に何故『五先賢の館』に収蔵されて
る『賤ケ岳合戦古図』を見学されるのです?
◆長谷川
現地調査の四ヶ所の布陣武将とは一体だれ?
4ヵ所の陣の守将たちの氏名は一体だれか?
『五先賢の館』の『賤ケ岳合戦古図』私に
重大なヒントを与えてくれるとこの古図の
見学を予定しているのです。何故?この
『五先賢の館』の『賤ケ岳合戦古図』では
山頂に四将ではなく集福寺越えの谷間に将
名が記されているからです田畑さんとこの
場所に4ヵ所の陣があるのか現地確認へと
向かって4ヵ所の陣を計測して帰ってきた
4月23日は『五先賢の館』の『賤ケ岳合戦
古図』の現物を見学し実際に源頼朝隠れ砦
も確実に現地の城館や山城を見学しょうと
する少数派の現地学習会を企画している訳。
◆一般者
こんな事ってあるのでしょうか?全く信じ
られません。私は全く寒気がしてきました!
◆盆栽を手入する凡才
ワシにはサッパリわからん!婆さん解るか?
◆しっかり婆さん
簡単な事ですよ。4人そろった。車に乗った。
その車に4人分の座席「砦」が付いていた事。
◆対談者
信じられない遺物や信じられない城郭遺跡
は実際に現実に現地にあるのです。それを
頭から否定したり鼻先で常に笑っているか
余呉城郭研究会のビイスタ論動画に多数の
動画視聴者が出始めた社会現象に気付かな
い訳ですよ。ビイスタ論動画を見ているの
は世間一般の人でなく一流学術家さん達!