城郭 長谷川博美 基本記録

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近江坂本城ビイスタ論宇佐山城ビイスタ論

2021-09-30 20:37:55 | 規矩術、ビイスタ工法、城郭平面幾何学、
近江坂本城ビイスタ論宇佐山城ビイスタ論
◆対談者
長谷川先生の城郭ビィスタ論動画は画期的
て゛日本全国の人々に見られていますよ!
今回の投稿では明智光秀の近江坂本城の
ビイスタ工法を是非とも解説して下さい。

◆対談者
最近安土城伝前田利家邸の建物配置に
びっく!感動致しました!やっばりと!
ビイスタ理論を再認識しましたよ!
◆長谷川
太閤秀吉の肥前名護屋城でも各郭で放射状の
縄張を実施しております。



城郭ビイスタ論 上文字クリック

◆対談者
宇佐山城とは如何なるイメージの城ですか?
私は織田信長、森三左衛門など典型的な元亀
の騒乱「志賀の陣」の織豊城郭と考えている。

◆長谷川
▼概略、概は、この様な城かと推定されます。

◆対談者     大津市の「宇佐山城」に
今話題の城郭ビイスタ論は存在下しますか?



◆長谷川
大津方面から見た宇佐山城の石垣は大津方面
から見て要所に石垣を配置して光背効果を高
めていた事でしょう。光背効果=見栄え効果
宇佐山城にビイスタ工法存在したと思います。


◆対談者 参考の為に
元亀から天正に年号が変わる時期の織豊城郭
織田信長の虎御前山城の形状を教えて下さい。

▼虎御前山城西からの測量平面図 西からの放射縄張

▼虎御前山城 東からビイスタ様相図は概ねこの様な形状
◆長谷川
▼天正4年~天正10年 織田信長 丹羽長秀普請
羽柴秀吉「普請工事参加/信長公記」にある安土城
における城郭ビイスタ工法は真に見事なものです。

▼よく観察するとトリプル、ビイスタ工法です。


▼丹羽長秀居城 佐和山城 本丸ビイスタ形状
▼織豊系城郭 近江佐和山城のビイスタ工法
『多賀大社社頭絵図』澤山城=佐和山城 
大天守と小天守の棟の向きが異っている。
つまり城地の地形が「く」の字を呈する。

▼天正10年1583年限定の織豊城郭内中尾山城「玄蕃尾城」

▼同城のビイスタ工法 越前側よりの見晴

▼規矩術「きくじゅつ」
曲尺で角度タンジェント計算できる東洋の分度器

▼天正3年まで羽柴秀吉が在城した近江小谷城本丸ビイスタ工法
▼天正天王山山城 羽柴秀吉築城の山崎城 ビイスタ工法が存在
▼▲右下の曲輪が「く」を呈している事にも注目!
▲各所に放射状縄張が認められる。
▼織豊系城郭 豊臣秀吉 秀長の城をベースとする若山城
ギザギザに規矩術を用いて横矢石垣を設定している点!

▼江戸時代の城郭測量方法これが日本本来の測量技術!
▼天正11年1583年の羽柴秀長と羽柴秀吉の田上山陣城

▲1583年天正11年 賤ケ岳合戦の際の実質秀吉の本陣

▼天正関白羽柴秀吉の小田原陣の石垣山城ビイスタ工法

▼織豊政権とくに羽柴秀吉と関係の深い備前岡山城ビイスタ
放射線計画企図した内と外がリンクした縄張を展開している!
▼再度 近江安土城 織豊城郭の典型 素晴らしい扇型だ

▲内中尾山城=天正11年の柴田勝家玄蕃尾城

◆近江坂本城 ウイッキペデイアより引用
坂本城(さかもとじょう)は、近江国滋賀
郡坂本(滋賀県大津市下阪本3丁目の坂本城
址公園内)にあった日本の城である。明智
光秀の居城として築かれ、琵琶湖に面する
平城。

坂本城は琵琶湖の南湖西側にあり、大津市の
北郊に位置する。西側には比叡山の山脈があり、
東側は琵琶湖に面していることから天然の要害
を具えた地であった。比叡山は近江国と山城国
にまたがっており、白鳥道と山中道の2つの道は
両国を結ぶ道路が通じており、中世、近世におい
て頻繁に利用され、比叡山の物資輸送のために
港町として、坂本は交通の要所として繁栄してい
た。 現在城郭の大半は宅地化され、推定地の中央
には国道161号が貫通している。 1571年(元亀2年)、
比叡山焼き討ちの後、光秀に近江国滋賀郡が与えら
れ、織田信長の命によって京と比叡山の抑えとして
築城した。宣教師ルイス・フロイスの著書『日本史』
では、安土城につぐ天下第二の城と評されるほどの
ものであった[1]。 元亀2年(1571年)9月比叡山焼
き討ちの後、宇佐山城の城主であった光秀に対して
信長は滋賀郡の支配を命じ坂本城を築城させた。
比叡山延暦寺の監視と琵琶湖の制海権の獲得が目的
であったと思われる。「明智坂本に城をかまへ、山領
を知行す、山上の木にまできり取」(『永禄以来年代
記』)とある。山領というのは延暦寺のことで、比叡
山焼き討ち後、1571年(元亀2年)中に築城が開始さ
れたと思われている。また元亀3年(1572年)12月24
日の吉田兼見の記述によると、「明智見廻の為、坂本
に下向、杉原十帖、包丁刀一、持参了、城中天守作事
以下悉く披見也、驚目了」(『兼見卿記』)とされて
いることから坂本城には天守があり、作事が行われ翌
12月頃には天守がかなり進捗していたと考えられる。
短文ながら天守の壮大さに驚いている様子が窺い知れ
る。また坂本城はイエズス会宣教師のルイス・フロイ
スの『日本史』にも、「明智は、都から4レーグァほ
ど離れ、比叡山に近く、近江国の25レーグァもあるか
の大湖のほとりにある坂本と呼ばれる地に、邸宅と
城砦を築いたが、それは日本人にとって豪壮華麗なも
ので、信長が安土山に建てたものにつぎ、この明智の
城ほど有名なものは天下にないほどであった。」と記
されている。この記述はルイス・フロイスの感想では
あるが、名城安土城と並び称され.る城郭として意識さ
れていた。

その後、光秀は坂本城を拠点に近江国の平定を目指し
た。1572年(元亀3年)-1573年(天正元年)にかけ
て木戸城、田中城を落城させ、また湖面より囲船にて
湖北の浅井勢に襲撃し打撃を与えた。その後、石山城、
今堅田城も攻城し湖南はほぼ手中に収めた。その後坂本
城は近江国における反信長に対する重要な軍事施設と
して使用された。黒井城の戦いでほぼ丹波国を手中に
収めると、1580年(天正8年)亀山城の城主となったが、
坂本城もそのまま城主となっていたようである。 
天正10年(1582年)6月2日、光秀は中国攻めには向か
わず本能寺の信長軍を急襲し信長を自害させ、次いで二
条城を攻城し信長の嫡男・信忠を自害させた(本能寺の
変)。だが、同年6月13日山崎の戦いで敗れた光秀は一
旦勝竜寺城に退き、その後坂本城を目指している途中、
山城国の小栗栖周辺で百姓らに襲われ死去したと言わ
れている。一方、安土城の城主となっていた明智秀満
は山崎の戦いでの敗戦を13日の夜に知り、14日未明、
安土城から坂本城に移ってきたが[2]、羽柴秀吉方の堀
秀政が城を囲む中、6月14日の夜、秀満は光秀の妻子
を刺し殺し、自分の妻も刺殺し、自分は腹を切り、
煙硝に火を放って自害したとされる(『川角太閤記』)
[3]。 その後、秀吉に命じられた丹羽長秀が城を再建し
城主となった。その後賤ヶ岳の戦いの軍事上の基地と
して使用され、後に杉原家次、そして浅野長政が城主
となった。この時に城下町が形成されたと思われている。 
1586年(天正14年)、秀吉の命を受けた長政が大津城
を築城して居城を移したことにより廃城になり、資材は
大津城築城に使用された。 坂本城は歴史上重要な役割
を果たしていたが、ながらく城の位置や構造については
不明となっていた。しかし1979年(昭和54年)に実施
された発掘調査によって一定の構造が明確になってきた。
城[編集]天正6年(1578年)1月11日に光秀の茶の師匠で
あった堺の津田宗及が坂本城に招かれ茶会がひらかれて
いる。この時の様子は、「御座船を城の内より乗り候て、
安土へ参」(『天王寺屋会記』)と記載されている。城内に
は琵琶湖の水が引き入れており、城内から直接船に乗り
込み、そのまま安土城に向かったようである。従って城
郭の建物が湖水に接した「水城」形式の城であったと思
われている。また吉田兼見が天正10年(1582年)1月20日
に坂本城に訪れた時に「小天守」で茶湯を喫している。 
大天主・小天主で構成される高層の天主を中心に城と内堀
で囲まれた主郭があり、その西側に中堀で囲まれた曲輪、
さらにそれを取り巻くように外堀で囲まれた曲輪があった
と考えられる[4]。 1979年(昭和54年)まで坂本城は一度
も発掘調査されなかったため、坂本城の遺構に関してはほ
とんど注目されなかった。しかし、坂本城跡の中心部で大
規模な宅地開発が計画されたので、これに伴う調査を実施
したことがきっかけとなり、現在に至り断続的に発掘調査
が行われ、城の縄張りなどが少しずつ明らかになってきて
いる。 1979年(昭和54年)に行われた発掘調査では、
10cm-30cmの焼土層が発見された。これは秀満が天守に
火を放ち光秀の妻子もろとも落城した時のものと考えられ
ている。その焼土層の上に整地した層があり、この遺構は
丹羽長秀時代のものと考えられている。 

◆対談者
私個人の感覚としてこの元亀天正の頃の城郭とは厳密に
は多くの類例から正方形や凹やコ形の城などありえない
と思っているんです。複数の曲輪を連結連ねた砦を先ず
築き外郭堀を掘削するのが当時の城の常道だと思います。
それに長谷川先生の城郭ビイスタ論を応用すれば少なく
とも坂本城の後半の城主は
「その後、秀吉に命じられた丹羽長秀が城を再建し
城主となった。その後賤ヶ岳の戦いの軍事上の基地と
して使用され、後に杉原家次、そして浅野長政が城主
となった。この時に城下町が形成されたと思われている。 
1586年(天正14年)、秀吉の命を受けた長政が大津城
を築城して居城を移したことにより廃城」とあるので
坂本城は玄蕃尾城や宇佐山城や虎御前山城や田上山城
などいわゆる元亀天正の様式「連郭式」とその外を囲
む総構の城郭だったと私個人は考えております。

◆長谷川
坂本城の縄張やビイスタ論の存在は全く解りません!

◆対談者
是非ともヒントだけでも是非御教示下さいませんか?
ある年に坂本城が世間で話題になった時に私達の多く
は湖岸の公園じやなくて坂本城の全体を長谷川先生と
歩きたかったのに、この企画が全く無かったので私は
非常に残念に思います。特に昔ら下坂本の東南寺が
坂本城だと伝え聞いていましたので最近は湖岸移動?

◆対談者
昭和60年代の下坂本の地図をみるとその形に扇形を
読み取る事がわ私は可能だと思います。ビイスタ論
を有効に活用して坂本城の縄張構造考察すべきです。

◆長谷川
私坂本城の縄張やビイスタ論の存在は全く解らない!
▼近江坂本城跡 昭和60年代の様相

▼城郭の中心分から放射状に縄張りしている。近江坂本城


▼天正大坂城 信長が石山本願寺を摂取羽柴秀吉が築城
※放射線計画企画した内と外がリンクした縄張を展開している!
▼城郭の中心分から放射状に縄張りしている。天正大坂城
▼坂本城は格曲輪も繊細に各曲輪で縄張している。

▼大津市歓喜寺城放射線縄張 各個の曲輪も繊細に縄張

▼文禄慶長の役の際の豊臣秀吉の肥前名護屋城 見事なビイスタ工法の典型


▼やはり坂本城の地割にも扇型ビイスタの残影がある。
▼丹波亀岡城 ビイスタ工法の推定


▼近江坂本城様々な放射線の痕跡が読み取れる
▼近江坂本城様々な放射線の痕跡が読み取れる


コメント (3)
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超絶! 近江佐和山城 美濃殿丸と武田遺臣広瀬美濃守!

2021-09-30 19:23:13 | 規矩術、ビイスタ工法、城郭平面幾何学、
上文字クリック
長谷川博美 北近江城郭動画集

◆質問者
この投稿の要点は何ですか?

◆長谷川
靴底には凸凹が何故あるのか?
車のタイヤに何故凸凹がある?
大根オロシを作る時に何使う?
動物の歯は一体何の為にある?

本質論です。

歯ブラシで歯を磨く=本質=ブラシで歯磨きする
ノコギリで木を切る=本質=ギザキザで切断する
髪櫛で髪を整髪する=本質=櫛目で髪を整髪する

では城郭遺跡の本質とは何?
城郭の本質は一体何ですか?



▼激烈城郭問答勃発!!!!!

◆城郭探訪者/反論者
歯磨きの歯ブラシの意味とは是如何に?


◆対談者/素朴/正直者
歯ブラシは歯の汚れを落とすブラシにあり!

◆城郭探訪者/反論者
それ正解です!それ正論です!

◆対談者/素朴/正直者
木を切るのノコギリ真意や本質は一体何か?

◆城郭探訪者/反論者
ノコギリの意味は木を切るキザキザの切目です!

◆対談者/素朴/正直者
それ正解です!それ正論です!

◆対談者/素朴/正直者
髪を整える「髪櫛/かみくし」の本質とは如何に?

◆城郭探訪者/反論者
櫛目こそが美しく髪を整える根本ですよ!

◆対談者/素朴/正直者
真に的を得た根本正論です見事ですよね!

◆対談者/素朴/正直者
佐和山城美濃殿丸のギザキザ状横矢の真髄は?




◆城郭探訪者/反論者
ふんそんなもの!
佐和山城美濃殿丸は堀切一本と「エリンギ」の
様な曲輪形状ですよ城郭探訪で横矢など見る事
は不要!横矢を語る事なかれ我々こそが正統!

◆対談者/素朴/正直者
褐!貴方は城郭を見学する線路のポイントを
第三者にょって故意に横道にソラされ脱線!
あなたの持論は正論や物事の本質から脱線!

大坂城に真田出丸あり。
佐和山に美濃殿丸あり。何の為にある?
美濃殿丸は外敵が青線の如く佐和山城を犯す
時に、佐和山出丸として用意周到かもう坂の
往還を外敵行くを狙撃する為の横矢の連続!

◆ハブラシ=ブラシで汚れを取る!
◆ノコギリ=キザキザで木を切る!
◆髪櫛=櫛目で髪を美しく整える!
◆美濃殿丸=横矢の連続で敵狙撃!

◆城郭探訪者/反論者
そんな高尚で学問的な事はどうでも良い事です。
佐和山城美濃殿丸は堀切一本と「エリンギ」の
様な曲輪形状にあり城郭探訪で横矢など見る事
なかれ横矢語る事なかれ我々こそ正統正論です。

◆対談者/素朴/正直者
それではいつまでたっても50年100年経過して
もあすなろ城郭探訪者様です。人間は進化する。
貴方は聡明なる賢者にしてハブラシ、ノコギリ
髪櫛の本質を看破した人、然るに、美濃殿丸の
横矢の現実を回避する思考は百年の城郭研究の
根本と真髄を堕落せしむる真に残念の痛恨事!
物事の本質を見極め気付く事こそ城郭見学よ!

◆対談者
犬も時々城跡を歩いている。でも犬は城の構造
には全く気付いていない。貴方は何千城を歩い
いたでももしかしたら、城跡の雰囲気に呑まれ
て城を走ったり歩いたり、通り過ぎただけでは
ませんか?
城に行く事
城を見る事
とは両者は根本的に違う。

歴史城郭研究家 長谷川博美

★ 令和3年9月30日 午前10時の講座は
新型コロナウイルス対策、緊急事態宣言
令和3年9月30日まで延長の為に講座中止

★今後の予定
令和3年11月25日木曜、午前10時~11時
場所 米原市米原学びIあいステーション
 「旧米原公民館」米原駅から徒歩約7分
住所 滋賀県米原市下多良三丁目3番地
予約☎ 0749-582-2240 

費用 500円
主題 城郭ビイスタ論入門とその深淵
手法 パワーポイントで解り易く解説

城郭ビスタ論好評で受講者様続出です



◆対談者A
 長谷川先生!岩崎山城と高山右近(重友)の投稿に驚き
 ました!キリスタン大名としか評価していませんでし
 たが長谷川先生の説では岩崎山城の縄張技術から大変
 都市計画や城郭縄張に優れた技術を持った文化人かつ
 武人であった事が偲ばれて見学会参加して有意義です。

◆対談者B
 僕は、岩崎山のあのブッシユ(藪/やぶ)のなかから何故?
 あんなに精巧な縄張図が取れるのか?全く長谷川先生
 の力量、研究者としてのレベルに、改めて圧倒された。
 「縄張の魔術師」と異名をとる稀代の城郭研究家とか?

◆対談者A
 武田信玄遺臣で広瀬美濃守景房の城郭を知りたいです。
 「軽薄なることなき勇士なり」と武田信玄に認識され、  
 後年は徳川家康にも認められた広瀬美濃守は、赤備え
 で有名な武田信玄家臣の飯富虎昌の弟・山県昌景隊に
 所属したエリート武将で彼の城郭縄張片鱗を見たい。
 武田信玄、徳川家康に認められ徳川四天王の井伊家に
 配属された「軽薄なることなき勇士なり」の城郭です。

◆長谷川
 武田遺臣 広瀬美濃守景房の略歴を紹介します。

広瀬景房(生没不詳)
美濃守、清八、郷左衛門、景昌。甲斐国石和の郷士で
武田信玄に仕え、板垣信方、つづいて山県昌景の隊に
加わった。天文十二年(1543)、信濃佐久郡尾台
城攻めに従軍。永禄十二年(1569)、駿河八幡平
で小田原北条氏と戦う。天正三年(1575)の長篠
戦いでは足軽大将となり、敗戦後も武田氏に忠誠を尽
した。武田家が滅亡した後は、徳川家康に召し抱えら
れ、井伊直政へ配属となった。人物が広瀬美濃守です。

◆長谷川
更にウイッキペデイアを参考にしますと
広瀬景房
時代
戦国時代 - 安土桃山時代
生誕
不明
死没
不明
別名
景昌、清八、郷左衛門
官位
美濃守
主君
武田信玄→勝頼→徳川家康
氏族
広瀬氏
養子:将義

広瀬 景房(ひろせ かげふさ)は、戦国時代から
安土桃山時代にかけての武将。甲斐武田氏、
徳川氏の家臣。 

略歴[編集]
景房は甲斐国石和の郷士で、最初は武田信玄に仕え、
板垣信方や山県昌景らの部隊に配属された。信玄期
の初期から仕えた剛勇の士で、信玄に「軽薄なる事
なき勇士なり」と言わしめた[1]。 天正10年(1582年)
3月の織田信長の甲州征伐で武田家が滅亡すると徳川
家康に召しだされ、井伊直政の部隊に配属された[1]。
家康からもその剛勇を認められ、井伊の赤備えにおい
て広瀬と三科形幸のみは旗指物は赤でなくとも良いと
許され、白にした広瀬は赤備えの中で一際目立ったと
いう。また、常に徳川軍の先鋒として最前線に出る
直政に無理をするなと自重を促したという[1]。 
小牧・長久手の戦い[1]や小田原征伐に従軍。1500石
を知行する。関ヶ原の戦いでは上野国高崎城の留守
居役を務めた。戦後に養子・将義に家督を譲り
、隠居料300石を与えられた。 
脚注[編集]1.     ^ a b c d 山下昌也『家康の家臣団 - 
天下を取った戦国最強軍団』〈学研M文庫
〉、2011年、161頁。 

◆対談者A
 長谷川先生!文字の羅列は現地城郭遺構とは
 関係ない現実味の無い文字遊びの世界ですよ!
 私達の希望として高山右近が岩崎山でどの様
 な構造の城郭遺跡を残したのか?高山重友と
 は本物の縄張を展開できる技術が有ったのか?
 私達は城郭の平面構造や築城技術を知りたい!

◆長谷川
 解りました!それでは滋賀県彦根市に残って
 いる佐和山城は関ヶ原合戦以前は石田三成の
 城郭でしたが井伊直政が佐和山城入城当時に
 武田遺臣広瀬美濃守景房の入った佐和山城の
 出丸と伝承される伝「美濃殿丸」を検討して
 みましょう。注意すべきはこれは伝承であり
 別名「後家丸」とも呼ばれ確実に広瀬美濃守
 の城郭と断言しない慎重さが大切なのです。
 城郭構造は織豊系城郭に属する形態と思いま
 す。因みに伏見城の石田治部屋敷、カサシワ
 曲輪にも横矢の羅列があるようで広瀬兵庫の
 縄張だと軽率には確定は出来ません。余計な
 事を書きますが中国ら伝播した唐笠の骨や扇
 の骨の構造はこれみな幾何学「規矩術」です。


◆対談者B
 美濃殿丸は佐和山城の独立出丸ですよね!?

◆対談者A
 長谷川先生!米原『城歩会』は参加会員が
 240名にも達する善良な城郭遺跡見学組織
 であり東海、近畿、北陸の城を見学する
 事に関し至極利便の土地が米原『城歩会』
 です。是非とも活動を再開して下さい!

◆長谷川
 それは、全く無理な事だと思います。米原市
 に城郭に関心ある人は全く居られないのです。
 千年万年探しても確実に巡り会えない事です。

◆長谷川
 佐和山城の出丸 伝美濃殿丸の構造を解説
 をします。草木なき冬季の見学が推薦です。

◆長谷川
 ここでこの城址を見学する人に助言します。

A 城郭ハイキングの人 遺構は確認出来ません。

B 城郭探訪の人 辛うじて堀切が解る程度です。

C 城郭遺跡見学の人 冬期の草枯期見学が最高!

 ①美濃殿丸東端の犬走遺構です。
 ②不明確ながら建物痕跡が残ります。
 ③主郭の北壁にある2箇所の横矢です。
 ④この城郭の主郭部つまり本丸です。
 ⑤主郭と⑩の副郭を区画する土塁です。


 
⑥喰い違い虎口と呼ばれる縄張技巧があり
 10の副郭とを二分に区画する仕切りです。
 ⑦は主郭を守る堀切です。
 ⑧⑨は竪堀状の遺構です。


⑪は枡形空間に相当します。この城の防御正面
 が佐和山城本城に設定され佐和山城から独立
 した独立的な武将の城郭遺跡と評価されます
⑫は土塁が欠損しており虎口と思われます。
⑬は堀切と一文字土塁で佐和山城二の丸に対峙
 また「かもうさか」に対峙した城郭遺構です。
⑭は土橋/仕切の痕跡を観察出来ます。
⑮は分岐した竪堀で⑮自体脇虎口かと思われます。
⑯は竪堀状の遺構です。
⑰は本城の白眉とも言える横矢1、2、3、4が連続
 する横矢掛かりの連続遺構が登場する圧巻です。


◆付記 曲尺「矩/かね」折れ遺構の観察「下図赤線表示」
 永禄、元亀、天正年間に掛けて城郭遺跡に曲尺「かね」
 の縄張りを土塁線や石垣線に用いる事が多い当該城郭
 美濃殿丸に於いてもも曲尺A、曲尺Bを確認できる事。

◆質問者
最近は動画城郭ビイスタ論が好調です。
この美濃殿丸も存在したのでしょうか?



◆長谷川
地形自体は「く」の字形をしており馬洗池方面から
の攻撃に対する防御施設は現在地表観察出来ません。



◆対談者B
 素晴らしく緻密な城郭遺構です!当該城郭を
 長谷川先生は東国武田系列の城郭と評価しま
 すか?それとも織豊系城郭と評価しますか?

◆長谷川
 あえて明言は避けます。自分で考える事です。
 次に縄張図も掲載しておきます。参考にして
 下さい。この美濃殿丸で何回も見学会を実施
 しておりますが、たった2~3分で城郭遺構を
 見ずに通過されてしまう人が大多数で私とし
 は読者や会員様との重く深く隔たりを痛感し
 て心痛してます。今回の投稿記事に良いね!
 を投票される方々は本物の城郭見学者だと私
 は思います。1名様の良いね!お待ちします!
 令和2年9月22日 歴史城郭研究家 長谷川
◆長谷川
▼非常に緻密に縄張、縄打した様子が読み取れる。
1番線から12番線まで縄張測量の痕跡を読み取る。
◆長谷川
私の言及している事は珍説でも奇説でもなく日本
の伝統文化としての正統な測量方法に則っている。
享保18年『量地指南』には12番まで測量線がある。

▼更に複雑難解な縄張が存在致し規矩術/「勾殳玄」
の法則で角度を出してた事が読み取れます。特に
今回は赤線よりも青線の地割、縄張、縄打、線に
注目して下さい。
▼▲この佐和山城美濃殿丸は規矩術/「勾殳玄」
法を応用し「曲尺での割付け」と呼ばれる技巧
を応用して作られています。大工仕事で割付け
とは一枚の板に等分した平行線を引いて分割
する技法を言います。角材や材木も割り付け
の技法で作り出します。前回藤堂高虎が羽柴
秀長の材木調達奉行をしていた件について書
きましたが城郭を知る為には規矩術/「勾殳玄」
を無視する事は出来ません。余談ですが城郭
各部を担当する工事がグループ訳している事
を割普請と言います。割りとは元来西洋数学
の言葉ではなく何割何分何厘の算術用語です。


◆反論者
そんな事を知ってそんな知識が城を考える
上で何の役に立ちますか?意味解らない!


◆長谷川 貴方の城郭見学応用力ですよ。
彦根城にかって存在した米蔵の配列とか
各地の城下町に存在する短冊形町割りと
呼ばれる土地区画方法は等分配列の応用
で出来ている事を知っていないと城下町
や町割の跡を見学しても全く意味を成さ
くなります。要するに貴方は城の何を見
に出掛けているのかが問題になってきま
す。城の平面構造のプラニングこそ縄張
また紙で短冊を作る行為も幾何学です。

▼彦根 開国記念館所蔵 彦根城模型にある広瀬美濃屋敷

◆対談者
改めて長谷川先生の研究家としての「力量」つて
スゴイなと思います。だって安土城の伝前田利家
邸の建物配置だって伝前田利家邸の解説だって私
は目が醒めるほど衝撃的でしたよ!なんでこんな
事、先生が現地で、12345と建物が配置されてる
なんて現地解説して頂ける先生なんて現実に日本
には存在しないですもの!本当にスゴイと思う!

コメント (2)
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