A.himeのフォト日記

日常の思ったこと、感じたことを自由に気ままに・・・
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あれから13年・・・

2008-01-20 | 家族
13年前の今日(17日)、忘れることの出来ない大きな出来事がありました。

阪神淡路大震災。6434人の尊い命が犠牲になりました。
姫路地方は震度4と発表され、大きな被害はありませんでしたが、それは、私が生まれて初めて経験する大きな揺れでした。

1995年1月17日、午前5時46分
ちょうど目が覚めたところで、そろそろ起きようと思っていた時でした。今まで経験したことのない大きな揺れがしばらく(かなり長く感じられた)続きました。咄嗟に飛び起きて横にいたワンちゃんを抱きかかえ、子供部屋に入って叫びました。「机の下に入って!」と。揺れが治まって点検すると特に大きな被害はなく、本棚の本が落ちたのと棚がはずれて上の物が落ちたぐらいですみました。同じく姫路に住む主人の実家と私の実家に電話をして安全を確認し、ホッとしたのでしたが・・・

それが、こんなに大きな災害になっているとは、その時思いもしませんでした。その後テレビで刻々と知らされる情報はだんだん被害が明るみになってきて、映し出されるその映像に目を覆いたくなる大きな惨事になりました。

当時神戸の高校に通っていた次女は電車が動かなくなってその日は休んだのですが、もし、電車に乗った後での発生だったらどうなっていたのだろうかと考えるだけでもゾッとします。タッチの差で命拾いをしました。しかし、学校は倒壊し、2ヶ月程の休校の後、2年生から卒業するまで、仮校舎での授業となったのです。

長女は職場が神戸だったので、やはり倒壊で職を失いました。恐ろしいことに当日須磨の友人宅(会社の寮)に泊まっていたのです。たまたま友人宅は丈夫な鉄筋だったので、倒壊は免れましたが、家の中はメチャクチャで、ガラスが散乱し大変だったと言います。また、周りの家の多くは倒壊して悲惨な状況だったそうで、もし友人宅が木造の寮だったらと思うと今でも背筋が凍ります。

地震の直後は何も分からず、「電車が動くようになったらすぐに帰えるから」なんてのんきなことを言っていたのですが、夕方になって「迎えに来て」とSOSの電話。看護婦である友人は職場に呼び出され、暗闇の中、1人残されるのが心細くなったのでしょう。停電・断水してるし、電車は止まったままだし・・・

すぐに車で迎えに向かったのですが、それはとっても大変なことでした。高速道路は使えないので国道2号線を東へと向かったのですが、自衛隊の車や他府県からの救援車が続々と神戸へ向かっています。それに私たちのような一般車も加わり大渋滞の中でののろのろ行軍は異様な光景でした。

塩屋を過ぎたあたりから2号線は緊急車両(消防・救急・警察・自衛隊・救援)専用になり、一般車は北へ迂回させられました。そして全く動かなくなってしまったのです。仕方がないのでUターンして少し戻り、空き地に車を乗り捨ててそこから歩くことにしました。

娘には2号線の海岸側の歩道を西へ歩くように指示し、私たちは同じように東へ東へと・・・暗闇の中、行き違わないように注意しながら・・・

亀裂の走った道路、ひっきりなしに鳴っている消防車やパトカーのサイレンの音、暗闇の中、はるか東の方向にはあちこち火災がおきているらしく、空が赤く染まっていました。きな臭い匂いも漂っています。東から西へ黙々と歩いてくる人たち(難民?)に何人も出会い、本当に異様な光景でした。

私は戦後世代で戦争は知りませんが、その時代にタイムスリップしたような、夢の中にいるような、不安な気持ちがいっぱいで、それでいて必死でした。下の娘がついて来てくれたのが救いでしたが・・・(主人と息子は家で連絡係を)

須磨を過ぎた所でやっと娘と会い、やっとの思いで連れて帰ったのですが、家に着いたのはもう日が高くなっていました。往復17時間ぐらいかかったでしょうか。神戸から歩いて西に向かっている人は明石のあたりまで見ました。凄いですね。また塩屋駅へトイレを借りに寄ったのですが、断水で使用できないと断られとっても困りました。

幸いなことに家族や親戚に不幸はありませんでしたが、娘たちは学校や職場を失い、友人の中には家族を亡くしたり、家をなくした人もあります。もう二度と起って欲しくない、恐ろしい出来事でした。

何ヶ月か後、電車が復旧してから神戸へ行きました。娘の通っていた学校は本当に跡形もなくなり、瓦礫の後片付けをしていました。周辺は空き地が目立ち、壊れてそのままになった家も多くあり、被害の大きさを目の当たりにして胸が痛みました。街中には倒壊したビルもたくさんあり、急ピッチで後片付けと復旧工事がおこなわれていて、工事車両や建設機械があふれていました。通りにはゴミの山があちこち散乱し、電車の中も異様な匂いがします。ライフラインがまだ完全に復旧していなくて、入浴・洗濯もままならないのでしょう。着のみ着のままで大きなリュックを背負った人たちが憔悴しきった様子で行き交っていました。もうそこにはオシャレな神戸の面影はまったくなく、この街はいったいどうなるのだろうか?と悲しくなったのを覚えています。

あれから13年・・・神戸は見事に蘇りました。壊れたビルや家は新しく建替えられ、通りはきちんと整備されて、前よりきれいな街になりました。しかし肉親や友人を亡くした心の悲しみは癒えることはありません・・・

亡くなられた6434人の御霊のご冥福をお祈りいたします。<合掌>


訪問ありがとうございます。
コメント (2)
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