ふりかえれば、フランス。

かつて住んでいたフランス。日本とは似ても似つかぬ国ですが、この国を鏡に日本を見ると、あら不思議、いろいろと見えてきます。

ル・モンド、WikiLeaksをかく公開せり。

2010-12-02 21:38:44 | 社会
連日、大きなニュースになっているWikiLeaks(ウィキリークス)。この団体が暴露するアメリカの外交公電によると、サルコジ大統領は「怒りっぽくて権威主義的」(susceptible et autoritaire)で、メルケル首相は「リスクを嫌い、想像力に乏しい」。ベルルスコーニ首相に至っては「脳なしで自惚れが強く、ヨーロッパのリーダーとして影響力なし」。へぇ~、アメリカはこんなふうに見ていたんだ、という情報がWikiLeaksのサイトで得ることができますが、このサイト以外に世界の主要5紙誌が自社サイトおよび紙誌面においてそれぞれの言語で公開しています。その5メディアのひとつ、『ル・モンド』はWikiLeaksによってもたらされた機密情報をどのような手順で公開し、公表するに当たってはどのような点に注意したのかを11月28日の電子版で伝えています。

『ル・モンド』はサイト上で28日から、紙面では29日から、WikiLeaksが入手したアメリカの機密情報を読者にお届けする。WikiLeaksは2006年に、完全なる透明性を提唱するオーストラリア人、ジュリアン・アサンジ(Julian Assange)氏によって設立された団体で、一般公開の対象にはなっていない公式文書をネット上で暴露している。

今年の7月、『ル・モンド』はアメリカの『ニューヨークタイムズ』、イギリスの『ガーディアン』、ドイツの週刊誌『シュピーゲル』とともに、アフガニスタンに関する軍事機密文書を中心とする、WikiLeaksによって提供された情報を公開したが、10月、今度はスペインの『エル・パイス』も加わり、5紙誌でイラクに関する機密文書を中心に、同じくWikiLeaksからもたらされたアメリカ公式文書をジャーナリズムの立場で検証・分析して、読者に公開することにした。

情報は25万通に及ぶアメリカの公電、つまり国務省と在外公館との遣り取りであり、主に2004年から今年にかけてのものだ。

WikiLeaksによって機密情報が暴露されそうだと分かるや、アメリカの在外公館はそれぞれの国との関係悪化を防ぐべく躍起になっている。アメリカ政府にとっては、WikiLeaksによる機密文書の暴露は違法なものであり、多くの人命を危機にさらし、テロとの戦いを危うくし、アメリカとその同盟国との関係に悪影響を与えるものだ。

多くの国は、公電をある一定の期間が経過した後に公開しているが、WikiLeaksによる暴露はほとんど瞬時であり、関係国の意思に反するものとなっている。つねに国際関係の中心におり、各国との会談や交渉の内容は30~40年間非公開になっているアメリカのような強大国の公電を暴露することは、影響の小さいはずがない。この点がWikiLeaksの活動の重要な点だ。

情報提供者からWikiLeaksにもたらされた膨大な数の文書は、即座に一般公開されることになる。こうした状況下、『ル・モンド』は、WikiLeaksから提供される文書を精査し、分析し、その後で読者に公開することがジャーナリズムの使命だと考える。

機密情報を公開することは、責任ある行動と矛盾するものではない。透明性と分別とは両立しえないものではない。ここが5紙誌とWikiLeaksとの一番の違いだ。5紙誌は同じ生の機密文書を冷静に分析し、『ニューヨークタイムズ』が5紙誌を代表して公開する情報をアメリカ政府に事前に連絡するとともに、安全保障上、問題になるものがないか判断を仰いでいる。

また、5紙誌は生情報を注意深く検討し、その公開が関係者を身体的危機にさらすことがないよう氏名やその他個人情報を削除してから公開している。

こうした機密文書の暴露がアメリカ発で起きたことは単なる偶然ではない。アメリカは情報技術が最も発達した国であり、中国やロシアよりもはるかに透明性の高い社会である。そして、そのオープン性ゆえ、閉鎖的な国家や不透明な政府よりもなお一層機密情報への侵害に遇う危険性が高くなっている。IT革命の発祥の地もアメリカであり、アメリカには内部告発(whistleblowers:仏語訳はsonneurs d’alarme de la société civile)の伝統もある。そしてそのことをWikiLeaksは誰よりもよく知っているのだ・・・

ということで、『ル・モンド』は、なぜアメリカの公電がかくも容易に暴露されてしまうのかという背景、そして、WikiLeaksとジャーナリズムの違い、つまり5紙誌はどのような点に注意して公開に踏み切ったのかという見解を述べています。機密文書を、それがもたらす社会的、あるいは個人への悪影響などは一切顧みずに、完全なる透明性をひたすら目指して暴露するのがWikiLeaksであるのに対し、各国政府が隠そうとするが、国民が知るべきであると考えられる情報をさまざまな角度から検証して報道するのがジャーナリズムの務め、ということなのでしょうね。ただ、検証しすぎて、政府や取材先の代弁者になってしまっては、存在価値を失ってしまうことになります。日本の記者クラブにはその危険性が高いという指摘はよく聞きます。

怒りっぽくて権威主義的・・・サルコジ評ですが、どこかフランス人像にもつながっているような気がします。では日本の首相は? 今のところ伝わってきていません。これから公開されるのでしょうか、それとも、2004年以降、毎年のように交代しているので、評価を本国に打電する時間すらないのでしょうか。あるいは、日本の首相は個人的評価などいらないほど軽い存在なのでしょうか。

日本のようなボトムアップの国では、上に乗る神輿は軽いほどいいのでしょうか。そう言い放つ政治家も多くいます。一方、欧米を中心に多くに国々では、トップダウン。そうした国では、すべてがトップ次第。トップがどのような人物かで対応も変えなければならない。というわけで、トップの人物評が重要な価値を持つことになるのでしょうね。われらが日本の首相、『かくも長き不在』(Une aussi longue absence:1961年制作のフランス映画)ならぬ、「かくも軽き存在」。それで良いのか、寂しいことなのか・・・いずれにせよ、ボトムアップとトップダウンという違いがあるということ。もちろん、それぞれの国や地域の長い歴史の中で生み出されてきた制度・特徴であり、どちらが良い悪いということではありません。異なるということです。