日記

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信心獲得、信心決定の内実について

2024年03月04日 | ブログ
これは・・従来の領解文もそうだが、改悔批判で唱和させて、与奪者が解説を行い、正しい領解を確認するということの根拠、論拠が、新旧ともに疑わしいものであると宣言してしまっているようなことではないだろうか。

領解の精査は、直結して信心獲得、信心決定の内実の精査へと向かうものでもあり、教義における根本中枢、核心を扱うものである。

それがいい加減なもの(新しい領解文はもちろん論外ではあるが)を根拠、論拠としていたとなれば、とんでもないことである。

もしも、従来の領解文に問題があるから、新しい領解文が必要となったとしての制定動機であったのであれば、信心の核心を扱い、教義の中枢となるものになるのであるのだから、議論を重ねた上でより慎重かつ丁寧に進めるべきであっただろう。

それが、仏教としても、浄土真宗としても間違いだらけのものでの挙句の果てがアレだったわけなのである・・お粗末すぎてなんともである・・

いずれにしても、以前より拙生が述べてあるように「信心」を甘く見積もり過ぎている弊害ではないだろうかとも思うのである。

信心決定は、阿弥陀如来の法性法身、浄土真実、宝海、法界への往生を決定するものであり、往生と同時に阿弥陀如来と一如、一味となりて、如来と同等の法性法身と方便法身を獲得する(成仏する)根拠となる事態なのである。

つまり、法身獲得に必要となる空性の現量了解に至れるほどの智慧資糧の膨大な集積と、色身獲得に必要となる三阿僧祇劫最低でも必要となるほどの福徳資糧の膨大な集積、それらの代替となる力が、「信心」決定が有してあるというわけなのである。

そのため、「信心」の内実というものは、それらの膨大な資糧に匹敵するほどであるはずであり、それを示さなければならない必要性が領解においていることになるわけであります。

新旧いずれにしても領解文の内容において、その根拠、論拠となるものが、当然に表れていなければならないのであり、果たしてそれらに耐えうるほどの根拠、論拠であるのかどうかについても、十分に内容を精査しなければならないのであります。

それが、以前に某雑誌で書かれていたように、鉛筆なめなめして作られた程度であったとすれば、本当にとんでもないものであるというわけなのであります。


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