平和エッセイ

スピリチュアルな視点から平和について考える

(10)富田メモ

2006年08月07日 | 富田メモと昭和天皇
昭和天皇がA級戦犯の一人一人をどのように見ていたのかは、判断のしようがありません。ごくわずかの人物についてを除いては、証言がこのされていないからです。富田メモの「A級が合祀されその上 松岡、白取までもが」というのは、昭和天皇がA級戦犯全員に不快感を持っていたことを必ずしも示すものではありません。

「泥酔論説委員の日経の読み方」の以下の指摘はたいへん適切だと思います。

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昭和天皇がA級戦犯の靖国神社合祀に不快感を抱いてことを書き記した故富田朝彦宮内庁長官の日記・手帳(富田メモ)は、政界や研究者の間に大きな反響を巻き起こした。富田メモは現代史を考える上で、どのような意味を持つのか、今後どのような検証作業が必要なのか。作家の半藤一利氏と、東大教授の御厨貴氏に話し合ってもらった。

半藤氏も御厨氏も、A級戦犯合祀そのものが天皇の靖国不参拝の理由であり、「文句なしに決着した。解釈は入らない。この問題に関しては結論が出たと考えていい」(半藤氏)、という立場を取っています。
これに対して泥酔は、天皇はA級戦犯全体を指弾しているのではなく、わざわざ名指しした松岡洋右外相と白鳥敏夫駐伊大使の合祀をとりわけ問題視しており、これが参拝しなくなった決定的理由だという説です。
仮に前者を広義説、後者を狭義説と呼ぶことにしますが、広義説を敷衍すると、では東京裁判で政治的な理由からマッカーサー元帥によって不問に付された天皇ご自身の戦争責任をも背負っていった東條首相らに対し、あまりにも冷酷ではないかという疑問がでてきます。
戦犯指名された東條大将らに対し、「余の忠臣であった」と嘆かれたと伝えられていますが、広義説を取るとどうもそれと整合性がありません。
一方、『昭和天皇独白録』や『侍従長の遺言』などの資料では、天皇の危惧をよそに三国同盟を結んだ松岡外相への不信感が強かったという記述もあります。
以上を総合的に判断すると、「A級戦犯が合祀された上に、三国同盟を進めた松岡、白鳥までが合祀されるに及び、それを強行した松平宮司に抗議する意味で参拝をとりやめた」というのが狭義説です。
ただ、広義説だけでなく狭義説にしても天皇は東京裁判の結果は受容れているのだなという点について一致しており、これは今後の議論のテーマとなりましょう。
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http://www3.diary.ne.jp/logdisp.cgi?user=329372&log=20060723

A級戦犯処刑の日の昭和天皇のご様子は狭義説を支持しています。さらにまた以下のような東条元首相の孫である東条由布子さんの証言も狭義説を補強します。

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 昭和天皇さまからは東条はいろいろなお気遣いを賜わっておりました。昭和23年12月23日に7人が処刑されて以来、毎年、祥月命日には北白川宮家から陛下のお使いの御方が見えられ、御下賜のお品を頂戴し、また”東条の家族は今どうしておるだろうか?”というお言葉まで頂戴しておりました。祖母からその話を聞きましたときは、感動で胸がいっぱいになったことを覚えております。ですから、陛下が”富田メモ”にあるような事をいわれる御方とはとても思えないのです
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  週刊新潮2006年8月10日号、28頁

東条英機は、GHQの逮捕の直前に拳銃で自殺しようとしますが、未遂に終わりました。その後、東京裁判で彼は、戦争の罪を天皇に代わって自分が全部引き受ける証言をして、天皇を連合国側の訴追からまぬがれさせようとしました。東条のこのような「忠義」に、昭和天皇が心を動かされたことは疑いありません。

A級戦犯とひとくくりにされていますが、個々の戦犯に対する昭和天皇の想いは、一人一人違ったはずです。それが生身をもった人間というものです。昭和天皇とてその例外ではありません。

しかし、その個人的な想いと、天皇という公的立場とは違います。昭和天皇が東条家に心配りをしたのは、あくまでも個人としての立場であり、日本国の象徴である天皇として東條英機を顕彰したわけではありません。東条英機はあくまでも、日本が受けいれた東京裁判で戦争の最高責任者とされた人物であり、その人物を公的立場の天皇が評価し直すことはできないからです。

また、「一視同仁」の立場上、天皇陛下の個人的評価や好き嫌いを元に、A級戦犯をさらに分類して、靖国神社に祀ってよい人物と祀ってはならない人物に分類するなどということは、とうていできません。

だとすると、A級戦犯については、天皇の個人的評価は別として、同じような扱いをするしかありません。

A級戦犯を靖国神社に合祀し、そこに天皇なり首相が正式に参拝するということは、日本国全体が東京裁判を否定し、大東亜戦争を正義の戦争と評価することにつながります。しかし、昭和天皇はあの戦争を悲劇とお感じになり、決して正義の戦争だとは思っておりませんでした。

ところが、松平宮司が求めていたのは、まさにA級戦犯が合祀されている靖国神社に天皇や首相を参拝させることによって、東京裁判史観を覆すことでした。そのようなイデオロギー的闘争に天皇陛下が与することはとてもできませんでした。「A級が合祀されその上 松岡、白取までもが」という富田メモ言葉は、

「A級戦犯を靖国神社に合祀することは、日本の戦前の軍国主義を肯定し、戦後の平和主義を否定することにつながり、日本国のあり方として問題があると思う。さらにその上、松岡や白鳥のような、国を誤らせた外交官まで合祀するのはとくに個人的に納得しがたい」

という意味に私は解釈いたします。

すなわち、私は、昭和天皇個人の評価としては狭義説を採りますが、昭和天皇が靖国神社の参拝を取りやめたのは広義説によるものと考えます。