富田メモ(8)

昭和天皇がとくにお怒りになったのは、「松岡、白鳥」のような、軍人でもない外交官までもが合祀されたことです。

昭和天皇は米英との戦争を避けようと最初から最後まで腐心なさいました。昭和天皇がとくに心配なさったのは、日独伊三国同盟の締結により、米独戦により日本も対米戦に巻き込まれることでした。ところが松岡洋右は、当時、欧州大戦で破竹の勢いで進撃するナチス・ドイツとの同盟を選択しました。その時の合い言葉が「バスに乗り遅れるな」でしたが、そのバスは奈落に転落するバスだったのです。

誤った政治判断をして、日本国民を塗炭の苦しみに突き落とした責任者の二人を、しかも戦場で「天皇陛下万歳」を叫んで散華したわけでもない外交官を、どうして軍人を祀る靖国神社に祀るのか――これが昭和天皇のお怒りです。

昭和天皇はすべての国民に対して「一視同仁」でなければならないそのお立場上、公の場では、決して個々の政治家や軍人について批判めいたことはおっしゃいませんでした。新聞記者が陛下の率直な意見を聞き出そうとして、記者会見の場でそういう質問をすると、それに対する陛下のお答え常には、「人物の批判とかそういうものが、加わりますから、今ここで述べることは避けたい」ということでした。富田メモに、「関連質問 関係者もおり批判になるの意」とあるとおりで、公の場では個々人への批判につながるような「関連質問」にはお答えにならなかったのです。

しかし、そのことは、昭和天皇として個人の意見や想いがなかったということではありません。実際はその逆で、昭和天皇にはかなり激しい好き嫌いの感情がありましたが、それを強い理性で抑制されていたのです。『独白録』の松岡洋右に対する評などは、かなり辛辣なものです。

そういう率直な想いは、『独白録』ほか、側近たちの日記にもかいま見えます。昭和天皇は心を許した側近たちにはそういう想いを常々語っていたことがうかがわれます。靖国神社についてもそういう想いがあってもおかしくありません。

実は、昭和天皇がA級戦犯の靖国神社合祀に反対して靖国神社の参拝を取りやめたのだ、という説は以前から出ていました。それは、側近の人々の発言から推測されていました。

富田メモの発言主として一部の人々から嫌疑をかけられた徳川侍従長も、その説の源となった一人です。ある記者が次のように述べています。

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 昭和の最後の2年間、私は宮内庁を担当していました。昭和天皇について知りたいことはたくさんありましたが、その一つは、なぜ1975年11月を最後に靖国神社へ行かなくなったのか、ということです。この問いに答えられる人は天皇の側近である徳川義寛・侍従長しかいません。何日も朝駆けし、出勤途中を待ちかまえて尋ねました。徳川侍従長は口が堅く、ほとんど無言の行でしたが、A級戦犯合祀と関係があるらしいこと、徳川侍従長も合祀に批判的だったことは分かりました。

 後に侍従長を退いてから同僚の記者が取材した証言録によると、以下のような経緯でした。――靖国神社の合祀者名簿は例年、10月に神社が出してくるが、1978年は遅れて11月に出してきて、A級戦犯を合祀したいという。その10年ほど前に総代会はA級戦犯を合祀する方針を決めていたが、旧皇族である宮司の筑波藤麿さんが先延ばししてきたのに、宮司が代わると間もなく合祀を実施した。徳川氏は「松岡洋右さんのように軍人でもなく病死した人も合祀するのはおかしい」などと問いただしたが、押し切られた。

「靖国神社は元来、国を安らかにするために奮戦して亡くなった人をまつるはずなのであって、国を危うきに至らしめたとされた人も一緒に合祀するのは異論も出るでしょう」「筑波さんのように、慎重な扱いをしておくべきだったと思いますね」と、徳川氏は語っています。昭和天皇は、戦後も1952年を初めとして数年おきに靖国神社へ参拝していましたが、事実として、A級戦犯の合祀後は行っていません。
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http://www.tv-asahi.co.jp/n-station/cmnt/shimizu/2001/0816num90.html

侍従長勇退のおり、「乾徳をつねに仰ぎてひたぶるに 仕へまつりぬこの五十年を」と歌った徳川侍従長は、昭和天皇のお心をよく理解し、その御心を体して発言し行動したことは、毫も疑いえません。その徳川侍従長の靖国神社に対する考えは、昭和天皇のお考えと一つであったと思われます。

またそれ以前に侍従長だった入江相政(すけまさ)氏の1979年4月19日の日記には、

「朝刊に松岡、白鳥などの合祀のこと出、テレビでもいふ。いやになっちまふ。」(『入江相政日記』第5巻)

とあります。この日にA級戦犯らの靖国合祀の報道がなされたのです。「いやになっちまふ」という入江氏の感情の背後には、当然、昭和天皇のお心があったことでしょう。

すでに引用した朝日新聞の記事には、別の側近たちの証言も出ています。

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 A級戦犯合祀に不快感を抱いている――。その思いは、複数の元側近らから聞いていた。
 「陛下は合祀を聞くと即座に『今後は参拝しない』との意向を示された」
 「陛下がお怒りになったため参拝が無くなった。合祀を決断した人は大ばか者」
 ・・・・
 その頃、別の側近はこんなことを語っていた。 「政治家から先の大戦を正当化する趣旨の発言があると、陛下は苦々しい様子で、英米の外交官の名を挙げて『外国人ですら、私の気持ちをわかってくれているのに』と嘆いておられた」
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昭和天皇は終戦後、数年に一度、靖国神社に参拝(正式には親拝というのだそうです)されていましたが、昭和50(1975)年11月21日の参拝が最後です。A級戦犯が合祀された1978年以降は一度も参拝されていません。

※週刊新潮2006年8月10日号が「「昭和天皇」富田メモは「世紀の<大誤報>」か」という特集を行なっています。その記事のまとめはこちらのブログに出ています。
http://blog.goo.ne.jp/tech_innovation/e/42ecb8bb7232195c6c079936a3077dd3

週刊新潮の記事は、ネットで出ていた徳川侍従長説を補強したものです。私もその記事を読みましたが、富田メモは昭和天皇の言葉である、という私のこれまで検証を覆す論拠は見出せませんでした。それぞれの論点に簡単に触れておきます。

1.徳川義眞(よしさね)氏(徳川侍従長のご長男)…「父の発言ににている」「…父は軍人が嫌いでした…」

 徳川侍従長の発言に似ていることはたしかですが、徳川侍従長が昭和天皇のお心に反したことを言うはずはありません。たとえメモが徳川侍従長の言葉であったとしても(私はそうは考えませんが)、天皇のお心と同じだと思います。

2.東條由布子氏(東條閣下のお孫さん)…「陛下が富田メモのような事を言われる御方とはとても思えない…」

 これについては明日以降述べます。

3.所功氏(京都産大・日本法制史)…陛下はA級戦犯というくくりかたをされるはずがない

 これについては明日以降述べます。

4.神社本庁関係者…参拝について言及
5.中西輝政氏(京大)…昭和天皇は軍人のことを股肱の臣といって、ことのほか親しく感じておられました。

 「股肱(ここう)の臣」というのは、「自分を手足のように支えてくれる家臣」という意味で、一般的な表現です。昭和天皇が「股肱の臣」という言葉を使って一番有名なのは、二・二六事件のとき、「朕が股肱の老臣を殺りくす。此の如き凶暴の将校等その精神に於て何ら恕すべきものありや、と仰せられ、又、朕が最も信頼せる老臣を悉(ことごと)く倒すは、真綿にて朕の首を締むるに等しき行為と漏らさる」(『本庄繁日記』)とおっしゃったことです。昭和天皇が軍人(青年将校)の無謀を怒り、重臣たちをことのほか頼りにしていたことを示すお言葉です。

6.元宮内庁職員…親の心子知らず、筑波がよくやった、は侍従長発言としてOK

 これは1.と同じ主旨ですね。

7.当時の宮内庁記者…25日の会見は15分ほど。陛下の体調は悪く、天皇誕生日の記事を出す各社は、富田氏らにブリーフィングしてもらわねばならなかった。

 ということは、富田氏がそのブリーフィングについて後日、昭和天皇に報告したはずで、富田メモがその時の会話のメモである可能性がいよいよ高くなります。

8.八木秀次(高崎経済大)…昭和天皇の言葉使いとしては違和感がある

 八木氏は昭和天皇の日常の言葉づかいを知っていたのでしょうか?

9.日経新聞社長室 「富田メモは今年5月に入手したものです。日記が10冊と手帳が二十数冊です。すべてに目を通して点検し、歴史家などの意見も聞いて、検証を加えた上で報道しました。報道した発言が昭和天皇以外の方のものであることはあり得ません」-検証方法は?「詳細については申し上げられません。取材の舞台裏をこと細かに説明するということはしておりません。今後、われわれが必要と判断すれば紙面で明らかにしていきます」
10.御厨貴氏(東大)「私は、公表されたあの部分のメモしか見ていません。…」
11.富田広士氏(富田氏のご長男)…「…(精査の上で)公開すればいいのでは、と思っています」
12.徳川侍従長の動向…4/13侍従職退官、4/26(火)侍従職参与に就任し、火、木出勤となる。28(木)は参与として初出勤。(宮内庁記者)
13.富田氏の動向…4/28(木)は富田氏が、記者たちのために陛下にお会いして改めて伺ったメモ、とされている。ただし、陛下のお具合が悪いので、侍従長から富田氏がお話を聞く、ということはありうる(宮内庁記者)。

 この「侍従長」はもちろん徳川氏ではありません。

徳川侍従長説では、富田メモの①の部分(昨年の記者会見を回顧している部分)がどうしても説明できません。


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私も同感 (ぴーちく)
2006-08-06 04:02:55
ご意見にほぼ同感です。もう一点追加するとすれば、松平宮司と昭和天皇との間に大きな溝ができていたのではないかということ。ですから参拝中止の直接的な原因が、松平宮司のやり方にあったと見る方が、A級戦犯合祀に不快感を持ったという解釈よりもっと合理的な気がします。



松平宮司は戦前は海軍少佐、戦後は自衛隊一等陸佐という軍人畑を歩いてきた人です。義父はオランダ軍事法廷で先般とされ銃殺された醍醐忠重海軍中将でした。醍醐中将は信望厚く、高潔な人物であったようで、ろくな裁判も受けずに処刑された。そのことが松平宮司が合祀にこだわるとともに、東京裁判史観の否定という政治的な動機を持つに至った背景になっていると思われます。



戦後一貫して平和と国際協調に心を砕いてきた昭和天皇にとって、松平宮司の思想、歴史観は相容れないものであったのかもしれません。その松平氏が宮司を勤める靖国に参拝するということは、彼の歴史観を天皇として認めることになります。また、松平宮司は皇太子(今の今上天皇)に対し参拝させるよう宮内庁に進言するなど、宮内庁や皇室との関係も険悪でした。



ところで、八木秀次氏は新潮記事の中で「親の心子知らず、などと非常に強い言い方は天皇にはそぐわず、むしろ松平が徳川家の家来みたいなものだったと考えると、徳川侍従長の方がそういう言い方をしてもおかしくありません」と述べていますが、おそらく八木氏は生前の徳川侍従長とお会いした経験はないのだろうと思いますね。



松平宮司の父親は式部長官や宮内大臣を歴任した、徳川侍従長にとっては大先輩にあたる方。その息子を家来同然にみなすというのは考えづらいことで、まして親(徳川)の心子(松平)知らずなどいう解釈がいかに馬鹿げているか。歴史については素人同然だということがよくわかります。
 
 
 
Unknown (heywa)
2006-08-07 11:15:09
松平宮司の思想的背景についてご教示下さり、ありがとうございます。昭和天皇は松平宮司に思想に相いれないものをお感じになっていたことは確実だと思われます。そのような人物が宮司でも、A級戦犯の合祀がなされていなければ、参拝を取りやめるというところまでは行かなかったと思われます。

 
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