平和エッセイ

スピリチュアルな視点から平和について考える

富田メモ(9)

2006年08月05日 | 富田メモと昭和天皇
※週刊新潮の記事についての補足
 週刊新潮は、富田メモの「私は 或る時に・・・・それが私の心だ」の部分しか検討していません。そのため、富田メモの①の部分のほか、②の「戦争の感想を問われ 嫌な気持を表現したが・・・・」の部分も検証していません。「つらい」を「いやな」に言い換えた理由を説明している②が徳川侍従長の発言ではありえないことは、すでに(4)で述べました。

以下では「A級戦犯」ということについて考えてみたいと思います。

昭和天皇がなんとかして戦争を回避しようとしたことは、すでに数多くの証言、資料から明らかになっています。昭和16年9月6日の御前会議では、「四方の海みなはらからと思う世になど波風のたちさわぐらん」という明治天皇の御製を読み上げ、

「余は常にこの御製を拝唱して、故大帝の平和愛好の御精神を紹述せむと努めておるものである」(近衛手記)

とおっしゃいました。

しかし、日米の対立は交渉によっては解消されず、日本はついにアメリカとの戦争に突入しました。

昭和天皇は常に、明治天皇を鑑として仰ぎ、立憲君主制を守ろうと努めました。日本国民の代表である内閣が戦争を選択した以上、立憲君主はそれを裁可するしかありません。

※昭和天皇の立憲君主制へのこだわりは、本ブログの「三島由紀夫について」でも詳しく触れています。

日本は、昭和天皇の「御聖断」によって敗戦を受けいれました。天皇の政治的決定は内閣が機能不全になった行なわれたものです。

戦後、「戦争を終わらせる力が天皇にあったのであれば、そもそもなぜ天皇は戦争開始の許可を下したのか?」という疑問が、国の内外から出されました。極東軍事裁判(東京裁判)においても、天皇が訴追され、戦争犯罪人として処罰される可能性もありました。裁判に対する弁明書として準備されたのが、『独白録』という文書です。

その結論で昭和天皇は、

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 開戦の際東条内閣の決定を私が裁可したのは立憲政治下に於る立憲君主として已むを得ぬ事である。若し己が好む所は裁可し、好まざる所は裁可しないとすれば、之は専制君主と何等異なる所はない。
 終戦の際は、然し乍ら、之とは事情を異にし、廟議がまとまらず、鈴木総理は議論分裂のまヽその裁断を私に求めたのである。
 そこで私は、国家、民族の為に私が是なりと信んずる所に依て、事を裁いたのである。
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と述べています。

さて、中国大陸への侵略や日米戦争は、明治開国以降の日本が欧米列強との帝国主義的な覇権闘争の末におもむいたところであり、藤尾正行氏が述べるように、日本の邪悪な侵略意図だけで生じたものではありません。日本が100%の悪で、連合国側が100%の正義ということはありえません。日本には日本の言い分、日本の正義があります。しかし、戦争の結果として、日本だけでも300万人、中国をはじめアジア全体では2000万人の人々が戦死しました。このような大惨禍に直面して、昭和天皇は平和こそが何よりも尊い価値であることを確信したのです。

昭和天皇は昭和63年4月25日の記者会見で、

「何と言っても、大戦のことが一番厭な思い出であります。戦後国民が相協力して平和のために努めてくれたことをうれしく思っています。どうか今後共そのことを国民が良く忘れずに平和を守ってくれることを期待しています。」

これは、戦争の中で苦しみ抜き、ご自分の命をかけた御聖断で戦争を終わらせた昭和天皇の心の叫びであり、遺言でもあります。

そのような昭和天皇には、日本を結果的には戦争の惨禍に導いた政治・軍事の指導者たちに対して複雑な感情があったであろうと推測されます。

A級戦犯とは、極東国際軍事裁判において「平和に対する罪」について有罪判決を受けた戦争犯罪人をさします。裁かれた戦犯にはB級とC級もあります。A,B,Cの区別は、ナチス・ドイツと日本を裁くために導入されたものです。

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A項「平和に対する罪」に関連する犯罪は、ドイツ-ニュルンベルクの国際軍事裁判所と日本-東京の極東国際軍事裁判所で審理され、それ以外のB項「通例の戦争犯罪」・C項「人道に対する罪」を主とした犯罪は、各地の連合軍と犯罪が行われた各国において審理された。

B項「通例の戦争犯罪」とは、戦時国際法における交戦法規違反行為を意味する。C項「人道に対する罪」とは「国家もしくは集団によって一般の国民に対してなされた謀殺、絶滅を目的とした大量殺人、奴隷化、捕虜の虐待、追放その他の非人道的行為」と定義されたが、この法概念に対しては当時から賛否の意見が分かれていた。なお、このC項は、日本の戦争犯罪とされるものに対しては適用されなかった。

一又正雄(国際法学者)は、東京裁判研究会編『共同研究パル判決書(上)』(講談社、1984年)「第一章 パル判決の背景 東京裁判の概要」においてB級は指揮・監督にあたった士官・部隊長、C級は直接捕虜の取り扱いにあたった者、主として下士官、兵士、軍属であるという主旨の説明している。

なお、A級、B級、C級の区別は国際軍事裁判所条例及び極東国際軍事裁判所条例(英:Charter of the International Military Tribunal for the Far East)における単なる分類であり、しばしば誤解されるように罪の軽重を指しているわけではない。

また、「BC級戦犯」という呼称はアメリカ合衆国や日本で使われるものであり、イギリスやオーストラリアでは「軽戦争犯罪裁判(英:Minor war crimes trials)」と呼ばれている。
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http://ja.wikipedia.org/wiki/BC%E7%B4%9A%E6%88%A6%E7%8A%AF

A,B,Cは罪の重さの等級ではなく、罪の種類による分類です(ですから、野球やサッカーの試合で、「敗戦のA級戦犯は○○だ」などという言い方は不適切です)。このうち、Aの「平和に対する罪」とは、

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平和に対する罪(へいわにたいするつみ、Crime against peace)とは、国際法で、不法に戦争を起こす行為のことをいい、宣戦を布告せるまたは布告せざる「侵略戦争または国際条約・協定・保障に違反する戦争の計画・準備・開始および遂行、もしくはこれらの行為を達成するための共同の計画や謀議に参画した行為」として、第二次世界大戦後の東京裁判とニュルンベルク裁判の時に人道に対する罪とともに初めて用いられた戦争犯罪の一種である。

平和に対する罪は侵略戦争に関する個人の責任を対象としており、東京裁判やニュルンベルク裁判では平和に対する罪をa項と規定している。

日本ではこれに問われた戦争犯罪人はA級戦犯と呼ばれている。また、法律的には第二次世界大戦後の極東国際軍事裁判のために制定された「事後法」であるとして、 刑法の国際的な原則からすると、罪状としては成立し得ないとする国際法学者の意見もあり、現在ではそれがほぼ常識になっている。
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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%92%8C%E3%81%AB%E5%AF%BE%E3%81%99%E3%82%8B%E7%BD%AA

「不法に戦争を起こす行為」とはどういう行為でしょう? 誰が不法な戦争かどうかを決定するのでしょう? アメリカのイラク攻撃やイスラエルのレバノン攻撃は不法な戦争にしか見えませんが、処罰されていません。

またC級についていえば、アメリカの広島・長崎への原爆投下や東京空襲は明らかに、ナチスのユダヤ人虐殺にも匹敵する「人道に対する罪」ですが、アメリカの戦争犯罪は処罰されませんでした。また、米軍は日本兵に投稿を呼びかけながら、投降した日本兵を射殺したことが知られていますが、これも明らかに戦争犯罪です。東京裁判(極東軍事裁判)が、裁判という名を借りた、勝者による敗者の処罰という「暗黒裁判」の一面があったことは否定しようがありません。

A級戦犯は「平和に対する罪」によって訴追された人々ですが、このような罪は、「刑法の国際的な原則からすると、罪状としては成立し得ない」ものです。しかしながら、日本は、東京裁判の判決を受けいれるしか独立の道はありませんでした(サンフランシスコ平和条約)。

東京裁判が法的には不当なものであり、日本の正義が反映されていないとはいえ、日本人と近隣諸国民を塗炭の苦しみに陥れた指導者たちは、政治的責任、結果的責任はまぬがれえません。日本が戦争の道に入ってしまったのは、決してA級戦犯として訴追された人々だけに責任があったわけではなく、そのほかの政治的、経済的、軍事的、思想的指導者にもその政治的責任はありました。しかし、A級戦犯は、すべての指導者の代表として責任を負わされたのです。

そして、日中国交回復の時にも、「日本の軍国主義の行いにより被害を受けたのは中国とアジア各国の人民だけではない。日本の人民もまた被害者だった」という解釈によって、A級戦犯の罪を再確認したのです。

しかしながら、昭和天皇にとってみれば、A級戦犯もすべて自分の臣下です。

週刊新潮も引用していますが、『木戸幸一日記』には、天皇の「日本人が日本人を裁くのは情において忍びない」「米国より見れば犯罪人ならんも我国にとりては功労者なり」という言葉が記されています。

A級戦犯として起訴された28名のうち、7名に死刑の判決が下されました。

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 A級戦犯に判決が言いわたされたのは、この年(昭和23年)十一月十二日のことだった。そして七人の戦犯が処刑されたのは十二月二十三日の未明である。天皇はいずれの日も政務室にとじこもったままであった。侍従の村井長正は、「この二日とも、陛下は目を真っ赤にされておられました」と証言している。
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   (保坂正康『昭和天皇』266頁)

東条英機以下、板垣征四郎、木村兵太郎、土肥原賢二、武藤章、松井石根、広田弘毅という処刑された7名に対して、昭和天皇は胸も張り裂けんばかりの想いをいだいたに違いありません。

富田メモやその他の側近の証言から、昭和天皇は、A級戦犯の中でも、とくに松岡洋右と白鳥敏夫の合祀を批判していたと推測されます。この二人はA級戦犯として起訴されましたが、死刑にされることなく獄中で病死しました。日本を誤らせた三国同盟を推進した外交官であり、戦死したわけでもなく、処刑されたわけでもない二人が、なぜ他の戦死者――いわば彼らの被害者――と一緒に靖国神社に祀られたのか、昭和天皇は納得することができなかったのでしょう。