平和エッセイ

スピリチュアルな視点から平和について考える

水の結晶写真はニセ科学?

2007年02月07日 | 江本勝と水からの伝言
昨年の「第3回ウォーター・フォー・ライフ・フェスティバル」でも書きましたが、江本勝さんの水の結晶写真はニセ科学だというキャンペーンが強まっています。

2006年12月18日のNHK「視点・論点」で大阪大学の菊池誠教授が水の結晶写真はニセ科学だと批判しました。
http://www.j-cast.com/2006/12/21004522.html

雑誌『論座』2007年2月号は、「蔓延するニセ科学」という特集を組んで批判しています。

毎日新聞2月7日朝刊も「教室にニセ科学」という記事を掲載しています。

言葉や想念が物質である水に影響を与えるはずはない、というのが現在の科学のパラダイムですから、「ありがとう」の水がきれいな結晶になり、「ばかやろう」の水が美しい結晶にならないという江本説は、当然、現代の科学からはニセ科学ということになります。

しかし、私は、意識と物質はどこかでつながっていて、想念が物質に影響を与えることは十分にありうることだと考えています。その証拠は、人間が、意識することによって体を動かせることです。意識→脳→神経→筋肉というルートで体が動くわけです。意識は物質ではありませんが、脳は物質です。意識と物質脳がどこかでつながらないかぎり、人間は意識によって体を動かせないはずです。

想念と物質がどこかでつながっているとしても、想念の水への影響が水の結晶写真という形で現われるかどうかはわかりません。これは、いまだ証明されていない仮説にすぎません。そして、江本さんがどれだけ結晶写真のデータを提出したところで、現代の科学者はそれを科学的データとして認めないだろうということは、すでに以前も述べました。

『論座』や毎日新聞の科学者の意見を読みましたが、彼らの意見が100%正しいとは思えませんでした。中には揚げ足取りのような批判もあります。たとえば、「shine」という文字を水に見せたらどうなるのか、という批判です。これを英語だと見なせば「輝く」でよい意味で、ローマ字書きだと見なせば「死ね」で悪い意味だ、その結晶写真はどうなるのか、というのです。(学習院大学田崎晴明教授)

問題は、文字そのものではなく、そこに込められた想念波動です。その想念波動が光明か暗黒かが問題です。

言葉を発しなくても、想念が人に伝わり、人に影響を与えることは事実です。祈りが病気を治すという研究結果もあります。日本の科学者に言わせれば、これもニセ科学なのでしょう。心の働きで遺伝子の働きが変わるという村上和雄さんの説もニセ科学なのでしょうか? 現在の科学は、意識と肉体(物質)の関係を十分納得がいくまでには解明していません。

想念が物質に影響を与えるかどうかを検証する、実に簡単な実験方法があります。それを私は「ことだま大実験」として提案しました。

私はこの提案をメールで江本さんの会社のIHMに伝えましたが、返事がありません。江本さんに伝わっているのか伝わっていないのか知りませんが、もし江本さんが、「ニセ科学」のレッテルを貼られ、社会的に抹殺されることを望まないのであれば、この実験をするしかありません。

その実験をしないというのであれば、やっぱりニセ科学だったのだ、と言われてもしかたありません。江本さんは「近々出版する著書で疑問に答えたい」と言っているようですが、そんな説明で納得するほど科学者は甘くありません。自分の「水伝信者」だけが納得すればいい、というのでは、宗教であって、科学ではありません。


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1 コメント

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Unknown (うま)
2007-02-23 11:42:28
簡単なまとめを(老婆心ながら)書いておきます。私の主旨は
 
例えば、具体的には 
 
オノ・ヨーコからのクリスマス・メッセージ
http://www.dreampower-jp.com/peace/xmas_messege.html
 
については「科学にはなりようもないものを科学として紹介している」という点では明らかに批判されて然るべきでしょう。
しかし、必ずしも『考えることを放棄するように勧めている』と読める文章でなく、そのような批判は当たらないと私は強く思います。ですから、そこまで踏み込んで批判しているかのような印象を与える書き方は避けた方がいい、という主旨です。
 
つまり、『水伝について肯定的に書いていれば(…略…)である』と断定的に主張したり、考えたりすべきではないのではなかろうか、と私は思う訳です。豊富なご経験に基づいて「水伝について肯定的に書いていれば、(…略…)である場合が多い」という確率的な推察を否定するのものではありませんが…。

http://www.cp.cmc.osaka-u.ac.jp/~kikuchi/weblog/index.php?UID=1171275645#CID1172140829

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>「ニセ科学」と呼ぶのは、文脈によっては「疑似科学」という言葉が褒め言葉になるからである。
>具体的にはSF小説やファンタジー小説の批評などで”よくできた疑似科学的説明”などという
>表現が使われる。「疑似」という言葉には価値判断が含まれないということであろう。「ニセ」と
>いう言葉は否定的な意味合いを強く含む

同じ非科学の中で、ニセ科学(真っ黒)と疑似科学(真っ白)の間には、
『グレーゾーン』が広がっている、ということも、もっと強調されていい
ように思っています

http://www.cp.cmc.osaka-u.ac.jp/~kikuchi/weblog/index.php?UID=1137495527#CID1172144165
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