平和エッセイ

スピリチュアルな視点から平和について考える

ダライ・ラマ『思いやり』(5)

2006年11月22日 | 最近読んだ本や雑誌から
ところが、この「空」の説明がなかなか難解です。

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密教の主な修行とは、本尊に瞑想することにあります。
 そして、本尊に瞑想するということは、何もない空間に本尊のお姿をいろいろ思い浮かべてそれに瞑想する、というだけでは何の意味もなく、瞑想の目的を何も果たすことはできません。(60頁)
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ここで言っている瞑想とは、一種のイメージングのようです。本尊の姿を空間にありありとイメージし、思い浮かべる――それだけでもなかなか至難のわざだと思われますが、ダライ・ラマは、そんな瞑想ができたとしても、それだけでは意味はない、と言うのです。なぜなら、そこに出てくる本尊は、汚れた心――五井先生の用語を用いれば業想念――が作り上げた主観的な幻影にすぎないからです。ちょっと瞑想の訓練をやってみて、目の前に仏菩薩が出てきたり、光が見えた程度で、自分は悟ったとか見神したと思ったら、大間違いだというのです。

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 それでは、本尊のお姿を瞑想するためにはいったい何が必要なのでしょうか。
 それには、仏陀のからだとなるべき特別の因を作り出さなければなりません。「一切智の境地」に住する仏陀のからだを瞑想するには、仏陀の心、つまり空を直感として体得する智慧と本質が同じからだが必要なのです。(61頁)
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わかりやすく言うと、仏陀は空の存在だから、その仏陀の真の姿を瞑想によってキャッチするためには、自分自身でも同じ空の本質を生起させておかねばならない、というわけです。自分が空になってはじめて、空に住する仏陀にまみえることができるのであり、空になっていない自分がいくら眼前に仏菩薩の像を見たとしても、そんなものは本物ではない、ということです。

真の仏陀にまみえるためには、

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今このときから、「空を理解する心を本尊として生起させる」という練習を積むことが必要になります。
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しかし、練習によって「空を理解する心を生起させる」ことが可能なのでしょうか? 「心を生起させる」こと自体が、空とは異質ではないか、という疑念が生じます。

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もちろん現在の私たちには、空を理解したときの心を本尊として生起させることなど、実際にできることではありませんが、将来そのようなことが本当にできるようになるために、今から想像力を使って練習し、空を理解する心を本尊として生起させる、という瞑想の訓練を積まなくてはならないのです。(61頁)
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ここでは、ダライ・ラマは一種の循環論法に陥っているように思われます。空を体得するためには、そういう心をあらかじめ「因」として生起させておかなければなりません。しかし、汚れた心の持ち主である私たちには、「空を理解するの心」をイメージすることは不可能です。しかし、それを「想像力を使って練習」すればいい、というのです。けれども、その「想像力」でイメージした空が、本当に空の因であるかどうかはわかりません。やはり空と思い込んだだけの錯覚かもしれません。

五井先生の教えでは、こんなややこしい道を通る必要はありません。人間は本来、すべて空の世界に住しているのです。ただ業想念が空を体得することを妨げているだけです。その業想念を消滅しさえすれば、おのずと空に至るわけです。業想念を消滅するために守護の神霊に感謝し、世界平和の祈りを祈り、印を組めばいいわけです。

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