平和エッセイ

スピリチュアルな視点から平和について考える

天安門事件と東欧革命

2005年04月18日 | Weblog

天安門事件が起こった1989年は、世界の大きな変わり目でした。

1985年にソ連共産党書記長に就任したミハイル・ゴルバチョフは、ペレストロイカと呼ばれる政治・経済の改革に乗り出しました。共産党の総本山における改革の開始は、ソ連に支配されていた東欧諸国の民衆に大きな希望と勇気を与えました。ゴルバチョフが行くところ、いたるところで民衆の熱狂的な歓迎が彼を待ちうけていました。

それは中国でも同じでした。1989年5月に中国を訪問したゴルバチョフは、中国の学生・若者たちに民主化の旗手として熱烈歓迎されました。その熱気の中で、6月4日の天安門事件が起こりました。

中国では民主化要求は武力で圧殺されましたが、東欧圏では見事に、ルーマニアを除いては無血で成功しました。ベルリンの壁が開く直前に書いたコラムを紹介します。

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東欧圏の自由化(1989年11月)

 東ヨーロッパが急速な勢いで変化しつつある。ポーランドでは共産党員ではない、自主労働組合「連帯」の首相が登場した。ハンガリーでは共産党が解体され、社会党になり、国名も「人民共和国」から「共和国」に変わった。東欧圏の中では最も保守的と目されてきた東ドイツでも、若者の大量出国がきっかけになって、長年にわたって最高権力者として君臨してきたホーネッカー国家評議会議長が退陣した。政治学者やジャーナリストは、現在の東欧圏には信じられないようなことが次々に起こる、と言うが、昨今のこの地域の変貌ぶりはまさに奇跡的とさえ言える。

 こうした一連の出来事は、言うまでもなくソ連のゴルバチョフ書記長のペレストロイカがきっかけになって開始されたのであるが、ゴルバチョフ氏自身でも、事態のこれほどまでの急展開は予想していなかったであろう。これまでソ連の軍事的圧迫のもとに抑え込まれていた東欧諸国民の自由への願望が、ソ連の改革を契機に、いま表面に一気に浮かび上がり、怒涛のごとく国家体制を変革させつつあるのである。この動向の行き着く先には、東西の分裂がない一つのヨーロッパという姿が見えるが、それはまた米ソの軍事的対立のない平和世界への第一歩ともなるであろう。

 これまで文字通り鉄のカーテンとして東西を分断してきた戦後のヤルタ体制が、今になって急激に崩壊してきたのはなぜであろうか。政治的・経済的には、社会主義経済の行きづまり、という理由があげられるであろうが、もう一つ考えなければならないのは、人びとの自由を求める願望の高まりである。たとえば、東ドイツの若者たちは経済的には他の東欧諸国民よりもずっと豊かな生活を送っている。彼らにとっては、西ドイツに移住することは、それまで築き上げてきた地位や財産をすべて捨てることを意味する。それまでして彼らが手に入れたかったのは、人間としての自由である。この自由への願望が共産主義を拒否させる。しかし、今になってこのように自由への願望が高まってきたのはなぜだろうか。

 イソップに「北風と太陽」という物語がある。北風のように風を厳しく吹きつけるよりも、太陽のように体の中から温めてやる方が、旅人がまとっているマントを脱がせることができる。共産主義という誤ったイデオロギーを脱がせるのにも、共産主義を敵視し、攻撃するよりも、内部から温めてやるほうがはるかに効果的である。温めるとは、人間の本来的な願望である自由への願いを強化してやることである。その方法が祈りということになる。

 人間は本来神の分霊として自由に生きたいと願う存在である。私たちの世界平和の祈りは、東欧の人々の本心に神の光明を流し込んで、彼らの自由への願いを強め、社会体制を根本から変革させつつあるのである。東欧の変動の原動力は、実は目に見えない祈りの力なのである。
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東欧革命は、共産党政権が、民主化を要求する民衆を武力で弾圧しなかったからこそ、平和的に達成されたのです。

しかし、東欧の共産党政権は、なぜ民衆に銃口を向けなかったのでしょうか? それさえすれば、彼らは自分たちの権力の座を守れたというのに?

それは、彼らが、天安門事件のあまりのむごたらしさにショックを受け、自国で同じことをすることに躊躇したからだと言われています。中国の若者たちの犠牲が、東欧圏の無血平和革命を助けたのです。世界の人類は、天安門事件のことを決して忘れず、犠牲となった中国人のみたまに深い感謝の祈りを捧げなければならないと思います。

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