平和エッセイ

スピリチュアルな視点から平和について考える

原爆が戦争を終わらせたのか(6)

2007年07月15日 | 原爆が戦争を終わらせたのか
【真珠湾への報復】
ポツダム宣言以前に、原爆投下の命令書がスパーツ陸軍戦略航空隊司令官に下されていたことはすでに述べました。広島に原爆を投下した直後の大統領声明も、その1ヶ月以上も前の7月2日にその草案が作成されていました。

8月6日にトルーマンが発表した声明はこうでした。

「16時間前、米軍機が日本の重要な陸軍基地である広島に爆弾を落とした。この爆弾はTNT火薬2万トン以上の威力を持つ。これまで実戦で使用された最大の爆弾である英国の「グランドスラム」の2000倍以上の爆発力がある。
 日本は真珠湾への空からの攻撃で戦争を開始した。日本はその何倍もの報復を受けた。だが、戦争が終わったわけではない。この爆弾によって、わが国は成長を続ける軍事力を補足し、破壊力において新たに革命的な増強を遂げた。この種の爆弾は現在も製造中で、さらに強力なものを開発中である。
 これは原子爆弾で、宇宙の基本的な力を利用している。太陽がその力の源とする力が、極東に戦争をもたらした相手に解き放たれた。・・・
 ポツダムで7月26日に最後通告が出されたのは、日本国民を完全な破壊から救うためであった。日本の指導者たちは、この最後通告を即刻拒否した。もしも彼らがアメリカの出している条件を受け入れないならば、この地球上でかつて見られたことのないほどの空からの破壊力の雨を覚悟したほうがよい。こうした空からの攻撃のあとには、彼らがまだ目にしたことがないほどの海上および地上部隊による攻撃が、彼らの十分承知している戦闘技術によって実施されることになるであろう」
(仲氏著書下、214頁、リフトン/ミッチェル『アメリカの中のヒロシマ』上、岩波書店、3頁)

「ポツダムで7月26日に最後通告が出されたのは、日本国民を完全な破壊から救うためであった。日本の指導者たちは、この最後通告を即刻拒否した」とありますが、声明文が7月2日に作成され、原爆投下命令書が7月25日に下されていることを考えると、トルーマンははじめから日本がポツダム宣言を受諾しないと見越していたことがわかります。つまりトルーマンとバーンズは、グルーとスティムソンが作ったポツダム宣言の草案から天皇制維持に関する文言を取り除き、あえて日本が受諾しがたい内容にしておいたのです。ポツダム宣言は原爆の使用を正当化するための単なるアリバイづくりだったのです。

声明文で原爆投下の第一の理由にあげられているのは「真珠湾への報復」で、これがアメリカの本音です。

ポツダムでチャーチルが、日本の降伏を早めるために、日本のなにがしかの軍事的名誉を守ってやってはどうか、とトルーマンに言ったところ、トルーマンは、「日本には、守ってやるべき軍事的名誉なんてないですよ。少なくても真珠湾攻撃のあとではね」と答えたといいます。(上巻113頁)

アメリカ世論は真珠湾攻撃に激昂していて、トルーマンもそのアメリカ世論に支配されていたのです。

駐米日本大使館の不手際により、宣戦布告書の手渡しが行なわれる以前に始まった真珠湾攻撃は、アメリカにとってはたしかに卑劣な不意打ちでした(ただし、アメリカ側は日本の無線を傍受して、事前に察知していたという説もあります)。しかし、日本は真珠湾の軍事基地だけを攻撃したのであって、ハワイの一般住民を攻撃対象にしたわけではありません。ところが、アメリカは原爆によって非戦闘員である一般市民を無差別に大量虐殺したのです。

上の声明文に「日本の重要な陸軍基地である広島」という語句がありますが、原爆は軍事基地ではなく、一般人が居住する広島市のど真ん中に落とされたのです。広島は真珠湾ほどの重要な軍事基地ではありませんでした。

原爆の開発と製造に重要な役割を演じた人物の一人に、ジェームズ・コナントという人がいます。40歳でハーバード大学の学長になったという秀才です。彼は、原爆の使用について検討するスティムソンの「暫定委員会」のメンバーでしたが、そこで彼は、最も望ましい原爆投下の目標は、「労働者たちの家々にすぐ近くまで囲まれている重要な軍事基地」にすべきだ、と提案しています(仲氏著書上、102頁)。つまり、軍事基地であると同時に、その周辺に大勢の民間人が住んでいる場所がいい、と言っているのです。「陸軍基地」というのは、一般人への原爆投下を正当化するための理屈にすぎなかったのです。

長崎への原爆投下のあと、アメリカ軍部は、もし日本がそれでもまだ降伏しないのであれば、次は東京に原爆を投下すべきだ、と主張していました。東京はもちろん軍事基地ではありません。

原爆は、最初から民間人の大量殺戮をねらったものでした。

実はそれは原爆に始まったことではなく、すでに東京大空襲をはじめとして、米軍が行なってきた、日本焦土化作戦の延長線上に行なわれた行為でした。この焦土化作戦は、1945年2月のドレスデン大空襲を手本にして行なわれました。戦争が、軍だけの戦いではすまずに、民間人の無差別大量虐殺へと拡大したのです。その極点が広島・長崎への原爆投下だったのです。

ドレスデン大空襲は国際法違反の戦争犯罪だ、という声がヨーロッパでは強まっています。そうであるならば、東京大空襲も広島・長崎への原爆投下もそれ以上の戦争犯罪です。

戦争に勝利するためには、復讐を遂げるためには、いかなる手段でも許される、という狂気にアメリカが支配されていたことがわかります。日本の軍部も、広島・長崎のあとでさえも本土決戦を叫んでいたのですから、狂気の度合いではどちらが上かわかりませんが。

ハード・ピース派で、その狂気からいち早く目がさめたのはトルーマンでした。トルーマンは当初、原爆の成功に狂喜していましたが、広島・長崎の破壊についての情報が入ってくると、明らかに良心の呵責をおぼえはじめました。

リチャード・ラッセルという上院議員がトルーマンに、この機会に日本を徹底的に破壊してほしい、という手紙を出したとき、トルーマンは、

「日本人が野蛮であるからといって、われわれも同じように振る舞うべきだと自分の信じさせることはできません。ある国の指導者が「一徹」だからといって、その国のすべての人たちを抹殺する必要に迫られることは、私としては間違いなく残念に思っており、絶対に必要にならない限り、自分はそれをやるつもりはないことを、あなたにお伝えしておきます」

と返答しました。(仲氏著書下、239頁)

8月10日の閣議ではトルーマンは、「今後さらに〔原爆で〕10万人の人間を抹殺するなど、考えるだけでも恐ろしすぎる」と述べました。(同254頁)

トルーマンの中にも、かすかに良心がよみがえってきたのでしょう。このことが、のちの朝鮮戦争のときに、彼が原爆の使用を拒否することにつながります。


最新の画像もっと見る