平和エッセイ

スピリチュアルな視点から平和について考える

原爆が戦争を終わらせたのか(7)

2007年07月17日 | 原爆が戦争を終わらせたのか
【日本国民の自由に表明する意思】

8月9日には長崎に原爆が投下され、同時に、ソ連が中立条約を破って満州に侵攻しました。ソ連の参戦は日本に大きな衝撃を与えました。というのは、それまで日本はソ連に、国体護持を条件としてアメリカとの停戦交渉を仲介してくれることを依頼していたからです。ところがソ連はアメリカとの間で、1945年2月に開かれたヤルタ会談で、ドイツの降伏後、中立条約を破って対日戦に参加することを密約していたのです。

そもそも、日露戦争の恨みを持ち、ナチス・ドイツと戦っているソ連が、日米の間を取りなしてくれるだろう、などという期待が甘かったのですが、当時の日本の指導者はそんなことにさえ考えが及びませんでした。

8月9日に開かれた最高戦争指導会議では、国体護持だけを条件にポツダム宣言を受諾すべきだとする鈴木貫太郎首相・東郷茂徳外相側と、そのほかに、戦争犯罪人の処罰は日本側で行なう、などの3条件を付け加えた阿南陸相らの軍部側の意見が対立して、最後まで結論が出ませんでした。この議論は、10日の深夜にもつれ込み、結局、昭和天皇の御聖断を仰ぐことになりました。昭和天皇は、

「本土決戦本土決戦というけれど、一番大事な九十九里浜の防備も出来て居らず、また決戦師団の武器すら不充分にて、これが充実は九月中旬以降となると云う。・・・之でどうして戦争に勝つことが出来るか。・・・しかし今日は忍び難きを忍ばねばならぬ時と思う。明治天皇の三国干渉の際の御心持を偲び奉り、自分は涙をのんで原案に賛成する」(勝田龍夫『重臣たちの昭和史』下)

と述べ、結局、「天皇の国家統治の大権を変更するの要求を包含しおざることの了解の下に」ポツダム宣言を受諾することが決定されました。

「本土決戦本土決戦というけれど、一番大事な九十九里浜の防備も出来て居らず、また決戦師団の武器すら不充分にて、これが充実は九月中旬以降となると云う。・・・之でどうして戦争に勝つことが出来るか」という昭和天皇のお言葉は痛烈です。ここには、天皇に正しい情報を伝えず、天皇の意志に反していたずらに中国大陸で戦線を拡大し、ついには日米戦に突入し、日本を破滅の淵にまで導いた軍部に対する厳しい批判が出ています。このような昭和天皇が、A級戦犯の靖国神社合祀に不快感をいだいたのは当然ですが、この問題については「富田メモと昭和天皇」で詳しく述べました。

「天皇の国家統治の大権を変更するの要求を包含しおざることの了解の下に」というのは、日本側がポツダム宣言に条件を付けたわけです。

日本の返答は、米政府内で議論を呼び起こしました。スティムソンは降伏に際して天皇の権威を利用すべきだ、と主張しましたが、バーンズは無条件降伏にこだわりました。最終的には、

・降伏の瞬間から、天皇および日本政府の国家統治権は、連合国最高司令官に従属する(subject to)。
・日本政府の最終的形態は、ポツダム宣言に従い、日本国民の自由に表明する意思によって決定される。

という回答(バーンズ回答)が作られました。つまり、バーンズ回答は天皇制保証の言質を最後まで与えなかったのです。

日本側がこの回答を受けとったのは、8月12日の午前1時ですが、天皇制の保証について言及せず、しかも天皇が「連合国最高司令官に従属する」と述べているこの回答は、日本側に多大の議論を引き起こしました。これでは国体護持にならない、と軍部が激しく抵抗したのです。そのためにポツダム宣言の受諾がまたまた遅れ、その間にも多くの日本人が死にました。

木戸幸一内大臣がバーンズ回答について昭和天皇に報告すると、天皇は、

「それで少しも差支えないではないか。たとえ連合国が天皇統治を認めて来ても、人民が離反したのではしようがない。人民の自由意思によって決めて貰って少しも差支えないと思う」(勝田龍夫『重臣たちの昭和史』下)

と答えました。昭和天皇は、百尺竿頭一歩を踏み出し、ご自分の身柄を国民の「自由意思」にゆだねることを覚悟したのです。

鈴木貫太郎首相は、8月14日に第2回目の御前会議を開きました。ここでも議論は紛糾し、天皇の御聖断を仰ぐことになりました。天皇陛下は、

「このまま戦争を継続しては、国土も、民族も、国体も破壊し、ただ単に玉砕に終わるばかりである。多少の不安があったとしても、今戦争を中止すれば、また国家として復活する力があるであろう。どうか反対の者も、私の意見に同意してくれ。忠良な軍隊の武装解除や、戦争犯罪人の処罰のことを考えるならば、私は情においてはどうしてもできないのであるが、国家のためにやむを得ないのである」(同)

と涙ながらに語り、居並ぶ者たちはみな嗚咽しました。昭和天皇は、ご自分の身の安全の保証よりも、国民、国家の存続のほうを優先したのです。

この御聖断によってようやく日本のポツダム宣言の受諾と降伏が決定しました。

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