平和エッセイ

スピリチュアルな視点から平和について考える

原爆が戦争を終わらせたのか(8)

2007年07月20日 | 原爆が戦争を終わらせたのか
【ソ連の役割】

アメリカが広島・長崎に原爆を投下した背後に、日本の無条件降伏を求める強い反日憎悪があったことはすでに述べました。それともう一つ大きな役割を演じたのは、ソ連の存在です。

ルーズベルト、チャーチル、スターリンの3巨頭は、1945年2月、大戦終了後の世界を見すえて、クリミア半島のヤルタで会談しました。すでにナチス・ドイツの敗北と降伏が確実になっていたころです。この会談では、米英側とソ連の間で、戦後のヨーロッパと極東での勢力圏の線引きが行なわれました。

ヨーロッパで最も重要であったのは、ドイツとポーランドの扱いです。ドイツを米英とソ連で分割占領することは合意されました。問題はドイツとソ連の間に位置するポーランドでした。米英はポーランドに自由主義的な政権を作りたかったのですが、結局、ソ連の謀略によって、ポーランドにはソ連の傀儡政権が作られました。

1945年2月にはアメリカの対日勝利は明白でしたが、長引く戦争に、アメリカではルーズベルトに対する批判も出はじめていました。ストも起こりはじめていました。厭戦気分が広がってきたのです。このころには、原爆は開発中でしたが、完成できるかどうか、実戦で使用可能かどうか、まだまったくわかりませんでした。米軍の損害をなるべく少なくし、対日戦争をなるべく早く終えるためには、ルーズベルトはソ連の協力を必要としました。彼は、千島列島をソ連に渡す代わりに、ソ連が日本との中立条約を破り、対日参戦することを求めました。そのほかにも、中国の代表がいないところで、満州に対するソ連の権益も認めました。たいへん卑劣な取引です。これがヤルタの密約と呼ばれるものです。

ルーズベルトは、自国の損害を少なくして早く戦争に勝利するために、ソ連にあまりにも多くの譲歩をしてしまったのです。

ソ連は、東ヨーロッパからナチス・ドイツを駆逐すると同時に、そこに次々と共産党の傀儡政権を作っていきました。これは米英の怒りと疑念を招きました。大戦終了後には、米英側とソ連側の対立が起こることは明らかでした。すなわち、のちに冷戦と呼ばれる対立構造が始まっていたのです。

ルーズベルトの死によって大統領に昇格したトルーマンは、最初、ルーズベルトと同じように、ソ連の対日参戦による戦争の早期終結を期待していました。しかし、共産圏を拡大するソ連の出方に強い警戒感もいだいていたのです。極東におけるソ連の影響をできるだけ排除するためには、ソ連が参戦する前に対日戦争を終え、日本をアメリカだけで単独占領することが必要です。

グルーらのアメリカ政府内の知日派は当初から、天皇制の承認によって日本を早期に降伏させることができる、と主張していました。アメリカ政府は、日本の無線を傍受・解読して(マジック作戦)、日本政府が「国体護持」を唯一の条件として、ソ連にアメリカとの仲介を依頼することを検討していることも知っていました。ですから、ポツダム宣言に天皇制保持のことをはっきりと打ち出せば、日本は降伏交渉に応ずるだろう、ということもわかっていました。しかし、トルーマンとバーンズは、日本への憎悪に燃え、無条件降伏を主張するアメリカ世論に押されて、天皇条項を決して認めないで、あえて日本側にポツダム宣言を拒否させたのです。

なぜなら、ソ連の助けも借りないでも、天皇の問題で日本に譲歩しないでも、日本を無条件降伏させる新しい手段が手に入ったからです。それが原爆でした。それは、いかなる「悪」(日本、ソ連)にも譲歩しない強いアメリカという、自尊心を満足させてくれる武器でした。

トルーマンはポツダム会談の日程を7月半ばに設定しましたが、これは近づいてきた原爆の実験のスケジュールにしたがって設定されたものです。7月16日、ニューメキシコ州のトリニティで史上初の原爆実験が成功しました。翌17日からポツダム会談が始まりました。トルーマンは原爆という最強のカードをもってスターリンとの会談に臨んだのです。

この会談で、トルーマンはソ連の影響をできるだけ排除しようとしました。会談はトルーマン、チャーチル、スターリンの3者(3国)の間で行なわれたにもかかわらず、トルーマンは日ソ中立条約を理由に、スターリンをポツダム宣言に署名させませんでした。ポツダム宣言にソ連が参加していないことを知った日本は、ソ連が日ソ中立条約を守り、日米の間を仲介してくれるだろうという、誤った期待感を高めました。このことが日本の降伏を遅らせた原因の一つになりました。もしポツダム宣言にソ連の名があれば、日本は米ソという二大国と両面で戦争を続けることは不可能だ、ということを早期に悟ったかもしれないからです。

ソ連を排除し、アメリカだけで日本を早期に降伏させるためには、原爆の投下はトルーマンにとって既定の道だったのです。

ソ連の参戦が予想されなければ、沖縄を陥落させたあと、アメリカは日本をじっくり兵糧攻めにすれば、ほとんど損害なく日本を降伏に追い込むことができました。しかし、時間をかければ、そのうち、欧州戦線のソ連軍が極東に配備されます。ソ連の参戦は一度はアメリカが要請したものです。スターリンはその約束を忘れてはいません。ソ連の参戦を防ぎ、極東におけるソ連の影響をできるだけ抑え込むには、早期の日本の降伏が必要だったのです。アメリカは焦りました。

米ソの角逐が原爆投下の引き金になったと言えます。日本は、東西に分断されたドイツと並んで、米ソ対立の最初の痛ましい犠牲者になりました。

8月6日に広島に原爆が投下されたあと、ソ連は9日、ヤルタの密約をたてに、日本に侵攻しました。これは、日本が降伏する前に参戦して、自分の取り分をできるだけ多く確保しようという駆け込み的、火事場泥棒的な行為でした。8月15日に日本がポツダム宣言の受諾を発表すると、翌16日、スターリンはトルーマンに電報を打ち、千島列島だけではなく、北海道の釧路と留萌を結ぶ線の北半分をソ連に占領させろ、と要求しました。トルーマンはこのあつかましい要求を即座に拒否しました。

ここで、久間前防衛相の

「(米国は)日本が負けると分かっているのに、あえて原爆を広島と長崎に落とした。これなら必ず日本も降参し、ソ連の参戦を食い止めることができる、という考えだった。間違えば北海道まではソ連に取られてしまった」

という発言を考えてみます。

これまで私のブログをお読みいただいた方には、この発言の内容自体はかなり真実であることがおわかりでしょう。

しかし、この発言にはいくつかの歴史的前提が欠如しています。それは、

(1)アメリカ世論は対日憎悪の復讐心に凝り固まっていた。
(2)そのため、アメリカ政権内には、天皇制存続を認めれば、日本を早期に降伏させることができる、という知日派の意見が強く存在していたにもかかわらず、トルーマンとバーンズは世論に迎合する形で無条件降伏にこだわった。
(3)米ソ対立(冷戦)の開始。
(4)きざしはじめたアメリカの厭戦気分が広がらないうちに戦争を終えるために、ルーズベルトがソ連に譲歩しすぎた。

という歴史的文脈です。

そして何よりも忘れてはならないのは、必ずしも「原爆が落とされたから日本が降伏した」というわけではない、という事実です。なぜなら、日本の軍部は広島・長崎とソ連参戦のあとも、本土決戦を叫んでいたからです。戦争終結は昭和天皇の強い意志と決断がなければ不可能だったのです。


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