平和エッセイ

スピリチュアルな視点から平和について考える

マグダラのマリアの謎(3)

2006年05月29日 | Weblog
先に(1)で、マグダラのマリアがイエスにとっても初期キリスト教教団にとっても非常に重要な人物であったらしいことを述べました。しかし、その評価に関しては、各福音書で微妙な違いがあります。この点について、岡田温司氏の『マグダラのマリア』(中公新書)は以下のように指摘しています。

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 ここでさらに注目に値するのは、四人の福音書記者たちのあいだで、マグダラのマリアに対する態度が微妙に異なっているという点である。たとえば、キリストの十字架の磔に立ち会う場面において、マグダラのマリアたち女性は、マタイとマルコとルカの三人によれば、ただ「遠くから眺めて」いただけだが、ヨハネによれば、「十字架のそばに」立っていた。つまり、キリストとマグダラのマリアの関係は、ヨハネでは、より親密なものとして描かれているのである。言い換えるなら、ヨハネにおいては、主の犠牲の証人として、マグダラのマリアたち女性にもそれ相応の役割が与えられている、ということである。 つづくキリスト復活の場面において、福音書記者のあいだのこうした見解の相違は、いっそう顕著なものになっているように思われる。マタイとマルコとヨハネによれば、マグダラのマリアと「ほかのマリア」たちは、キリスト復活の最初の証言者となるばかりか、その出来事を弟子たちに伝える者ともなる。つまり、マグダラのマリアは、キリスト教信仰におけるもっとも中心的な教義である「復活」の最初の証人となるばかりか、それを弟子たちに伝える最初の「使徒」にもなる、という特権を得ているのである。彼女は、いわば「使徒たちの女使徒(アポストロールム・アポストラ)」とも呼べるべき存在として、きわめて重要な役割を担っているのである。
 ところが、ルカでは、この位置づけに疑念がさしはさまれている。もちろんルカもまた、マグダラのマリアが、主の復活の場面に居合わせ、しかも主本人から、そのことを弟子たちに伝えるように託されたという経緯を、大筋で認めてはいるようである。しかし、ルカはすかさず、「使徒たちには、この話はたわごとに思われたので、彼らは女たちを信用しなかった」(24:11)と付け加え、マグダラのマリア(と彼女に象徴される女性)の役割をできるだけ引き下げようとしているのである。・・・・
 しかも、二人の使徒のひとりとはシモン・ペテロであり、ルカは、わざわざ「ほんとうに主はよみがえって、シモンにお姿を顕わされた」(24:34)という一文を加えることによって、そのことを念押しまでしている。まるで、マグダラのマリアをおとしめることで、使徒ペテロの威信をあえて持ち上げようとしているかのようである。このように福音書間には、復活の証言をめぐってひじょうに興味深い異同が見られるが、そのことが暗示しているのは、おそらく原始キリスト教において、マグダラのマリアに象徴される女性の位置づけについて異なる立場が拮抗していたらしいということである。ルカにとっては、主の復活の証言者という、キリスト教信仰の根本にかかわる特権が、一女性に帰せられうるものであってはならなかったのであろう。
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ルカやペテロ、そしてそのほかの男の弟子たちの中には、男性優位主義があったことは確実だと思われます。もともとユダヤ人社会は男性中心主義的です。イエスが選んだ12弟子もみな男です。しかし、放浪のイエス教団には常に女たちが加わっていて、教団を経済的に支えていたようです。ペテロをはじめとする男の弟子たちは、自分たちこそイエスの高弟であるとして、マグダラのマリアやベタニアのマリアをはじめとするイエスの女弟子の権威と役割をできるだけ過小評価したかったのでしょう。

私の推測では、そのような態度が、ルカの「罪深い女」の記述に影響を与えたものと考えられます。この記述はどう見ても、ラザロの家、あるいは「らい病人のシモン」の家の出来事に起源を有しています。しかし、ルカはそれを「ファリサイ派のシモン」の家に置き換え、しかも香油を注いだ女を、ベタニアのマリアから名もない「罪深い女」に変えています。ベタニアのマルタとマリアの家の出来事は、別の箇所に移し、マルタが家事をしているときにマリアがイエスの話を聞いていたということしか報告しないのです。ルカはベタニアのマリアをできるだけ陰に置こうとするのです。

「ルカ」8:2には、マグダラのマリアはイエスによって7つの悪霊を追い出してもらった、という記述があります。「マルコ」16:9にも同じ記述があります。7つの悪霊とはどんな悪霊かよくわかりませんが、キリスト教の伝統の中では、それは「7つの大罪」と同一視されていきます。「7つの大罪」の中には「邪淫」もありますから、マグダラのマリアは邪淫の女性、すなわち「罪深い女」ということにされていきます。

そして、マグダラのマリア=「罪深い女」は、イエスに香油を注いだ女性ですから、この女性はベタニアのマリアと同一視されていきます。このようにして、キリスト教の伝統の中では、マグダラのマリアとベタニアのマリアと「罪深い女」は同一人物ということにされ、そこから、マグダラのマリアはかつては娼婦であったのだが、改心してイエスの弟子になった、というストーリーが生まれます。