平和エッセイ

スピリチュアルな視点から平和について考える

一神教と多神教

2006年05月17日 | 最近読んだ本や雑誌から
現在の世界の問題の一つは宗教の対立です。その中でも、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教の、いわゆる一神教どうしの対立は、なかなか根深いものがあります。

一神教は排他的になるので、他の宗教と共存できない、これに対して多神教は異なった信仰に寛容だ、という議論が時々見られます。このような議論は正しいのでしょうか。

『一神教とは何か』(東京大学出版会)の中で、東京大学の黒住真教授は、各宗教が主張する自己の普遍性について、次のような問題提起をしています。

********************
 私は、バイブルにしか一神教が顕現していないというのだったら、一神教にとっては自己矛盾ではないかと思うのです。そうであれば、一神教であることの元来の論理を実は裏切っているのではないかと思うからです。それは別に一神教に限らず、多神教でも、自分たちの神が、この組織、このテキストに顕現されているとは言えると思うのですが、「にしか」顕現されていないということは論理的におかしい、間違っていると私は考えています。ですから、バイブルでも、仏典でも、それを尊重したいと思うのですが、これしかない、ほかはない、ほかではありえないというのは、「普遍」の定義からして、誤りではないかと考えております。
 そういう意味で、従来の一神教の絶対性あるいは脱比較性を相対化することが、一神教的なものそのものにとっても非常に大事だと考えますし、これに対して、多神教が優位であるとか、あるいは劣等であるという考え方、あるいは一神教と無関係なものとしてあるという考え方も、相対化しなくてはいけない。このような意味で、一神教や多神教の批判的な位置づけ直しが必要だと思っています。
********************

これに対して、仙台白百合女子大学の岩田靖夫教授は、こう応じています。

********************
 大変面白くうかがいました。それで、私の質問はちょっと理屈っぼいですが、一神教と多神教を互いに相容れないものとして鋭く対立させることは、世間の常識になっています。しかし、今、黒住さんの話を聞きながら、そのように鋭く対立させる必要はないのではないか、あるいは対立させるのは間違いではないか、という感を私は持ったのです。
 一つは、一神教は自分が普遍的だと主張しています。ところが、普遍的だと主張しているのに、自分の啓典だけが絶対だというのは自己矛盾だとおっしゃいましたね。これは実に適切なことを言っておられます。キリスト教を例に取ると、神が天地万物の創造主であるというなら、イスラーム教徒も仏教徒もヒンズー教徒も、みんな神の子なのです。キリスト教徒だけが神の子ではないわけです。そうであれば、イスラーム教徒、仏教徒が信じていることも、神の御心に沿って成り立っているはずなのです。それでなくては、天地万物の創造主だということと自己矛盾します。そういう点から言えば、唯一神教はまさにいろいろな多様性の中に普遍的なものがあるのだと主張していることになると、私は思うのです。それは一神教のほうから言ったことですが。
 今度、多神教のほうからいうと、今のお話だと、例えば何かヌミノーゼのようなものがいろいろな形で現れてくるとか、根源的な生成力がいろいろな神様の姿になって現れてくる。そうすると、多神教のいろいろな神様も、なぜ共存できるかというと、何か根源的な力のようなものを共有していることによって、多神として成り立っていると思うのです。そう考えると、まさに多の中における普遍が大事なので、その根源の何か力みたいなものは、単純に一つの形で出てくるのではなくて、実に文化も伝統も違ういろいろな民族の中で、様々な形で出てくる。けれども、それが一つの根源の力なのだと、我々がかなり自覚的に認識すれば、多神教と一神教はけんかする必要はない。私は、むしろ、それらはお互いに、お互いのいいところを取り合って、自分を豊かにしていくものであって良いのではないかと思うのですが、いかがお考えでしょうか。
********************

黒住教授の議論も岩田教授の議論も、きわめてまっとうですね。こういう考え方を、世界の諸宗教が受けいれてくれることを期待します。

五井先生は、神とは「一即多神」だと言っています。