∞ヘロン「水野氏ルーツ採訪記」

  ―― 水野氏史研究ノート ――

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B-1 >建中寺梵鐘

2005-05-14 16:36:51 | B-1 >水野太郎左衛門系
徳興山 建中寺
愛知県名古屋市東区筒井1丁目7-57  visit :2005-05-10 13:30

天明七年 1787 第九代水野太郎左衛門政武作 梵鐘500貫(1.923kg)
天明年間の再建で、鐘楼(しゅろう)に、五百貫(1,923kg)の梵鐘がつるされている。


慶安四年(1651)、尾張藩主徳川光友が、藩祖義直のために当寺の建立を始めた。
翌五年(1652)主要堂宇が完成し、その規模の壮麗さは当時、府下寺院第一といわ
れた。承応二年(1653)、境内を拡げ、元禄十一年(1698)以降は、光友の生母を始め、
藩主綱誠、光友の御霊屋(おたまや=先祖の霊や貴人の霊をまつる殿堂)が次々造
営され、さらに合祀のための一屋が建てられた。天明五年(1785)、火災により本堂、
塔頭および御霊屋などを焼失し、総門、三門のほかは、塔頭、御霊屋の一部が焼け
残るに留まった。直ちに再建が始まり、二年後の天明七年(1787)に落成した。当時は
別図のように、およそ三丁半(381m)四方(763平方メートル)の境内を有していたが、
第二次世界大戦後、総門と三門の間を公園とされ、三門前には道路が通されたこと
で、旧観の一部を失った。御霊屋は愛知県指定文化財、総門・三門・鐘楼・御成門は
名古屋市指定文化財である。

 三門を潜った東方右手にある鐘楼は、天明の火災後の天明七年(1787)、本堂などと
併せて再建されたもので、長さ三間(5.45m)、幅二間(3.63m)、入母屋造の本瓦葺、袴
腰付である。敷地は当寺の経営する建中寺幼稚園内にあり、柵で仕切られているため
楼の下までは近づけない。遠目に鐘楼内部を望むが梵鐘の形態は伺えなかった。





水野太郎左衛門家系図
http://blog.goo.ne.jp/heron_goo/e/42f77dfdd91dfcd69ef3357f3d0bfd06




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