∞ヘロン「水野氏ルーツ採訪記」

  ―― 水野氏史研究ノート ――

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A-3>水野右京進清忠

2005-05-29 18:04:55 | A-3>景家系水野氏
水野右京進清忠

『東春日井郡誌』によれば――
 川村の人、織田信長に仕え川村城に居る、長命寺に其の碑あり、五世孫水野永重の建つる所なり、塩尻に曰く、(前略)長命寺に入てやすらふ、水野右京進某此地の城主として、時に名もいちぢるしかりしとなん、今は昔の井竈(いそう=井戸やかまど)の跡だになくなれり、死後無復餘、一世異朝市と吟して云々と見ゆ。

『尾張徇行記』では――
 右京進は、元亀・天正年間(1570-92)の頃の豪族で、織田信長に仕えていた。歴代水野氏が城主。牛牧村の項に「城山見取畠三反三畝……是ハ水野内蔵助古城跡ノ由土人申伝ヘリ、延享三寅年畠ニ開墾ス、此畑山ノ嶺ニアリ」と記載されており、
同じく川村の項には「水野内蔵助茅庵ヲ営ミ、仏像を安置シケレトモ、経年暦ニ随ヒ庵室トモ破壊セシニヨリ、内蔵助三代ノ孫水野保信再建セリ…」云々と有り、長久手の合戦により炎上した長明(命)寺を三代の孫水野保信が再建したと書かれている。
長命寺の水野氏石碑には「医王山長命寺再興施主享保五庚丑年 … 川村城主水野右京進五代孫水野保信源永重」と記されているようだ。
城主水野右京進について、天野信景が天明2(1782)年頃著した随筆集「塩尻」に、織田信長に仕え、詳らかではないが水野景家の子、家継右京進と号す、志段味城水野高家の従兄弟にて鎌倉時代の人也、若しくはその子孫に非ざるやなきや…云々と有る。
 また東春日井郡誌には「河村城主水野右京進清忠-右衛門佐忠正-内蔵助久重-兵左衛門忠重-保信永重」と系譜をあげているが詳細はよく解っていない。

守山市史では――
この城を「南ノ城」いい、愛知県中世城館調査報告Iでは縄張りなど不明で長命寺の東丘陵、小幡緑地(西園)の北西、白沢町と城土町、旧牛牧村と川村境あたりを示している。

――などとある。
いずれにせよ、水野氏の系図の中では、最も古い時代の人物の内の一人であり、当史上、重要な人物といえる。

桓武平氏水野系図
http://blog.goo.ne.jp/heron_goo/e/777ff67bab506fc94b32ecf3b04681f4

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