∞ヘロン「水野氏ルーツ採訪記」

  ―― 水野氏史研究ノート ――

     本ブログの記事、画像等の無断複製および転載を禁じます。

C-3 >三河吉田城

2005-05-21 15:51:57 | C-3 >山川山形水野
三河吉田城
 愛知県豊橋市今橋町 豊橋市役所東 Visit :2005-05-19 10:20

 吉田城略歴史によれば、
「当吉田城は、はじめ今橋城と称し、永正二年(1505)牧野古白によって構築された。以来、東三河の要衝として今川・武田・徳川ら戦国武将の攻防を経て、天正十八年(1590)に池田照政が入封し、十五万二千石の城地にふさわしい拡張と城下町の整備が行われた。しかし照政は在城十年で播州姫路に移封され、のちに入封した大名は譜代ながら少禄のため照政によって大拡張された城地も未完成のまま明治に至った。
この城の縄張りは背後に豊川をひかえ本丸を中心に二の丸・三の丸を配置しそれで堀が同心円にとりかこむ半円郭式の後堅固の城といわれるもので、本丸は3931平方メートル(1189坪)二の丸は15154平方メートル(4584坪)三の丸は50142平方メートル(15168坪)腰郭は1864平方メートル(564坪)堀土手敷は53534平方メートル(16194坪)総面積は124629平方メートル(37699坪)である。現在見られる遺構は照政時代の旧態を残している。」
とある。
照政(輝政)が播州姫路に移封されると、松平家清が3万石で入封、その後松平忠清に嗣ぐが継嗣がなく、天領となるが後、松平忠利が3万石で入り、忠房に嗣ぐものの三河刈谷に転封。同三河刈谷から入れ替わりで水野忠清が4万石で入り、後、信濃松本へ移転。駿河田中から水野忠善(父は水野忠元=山川水野祖)が4万5千石で入り、三河岡崎に転封となった。この山川水野の末裔に天保の改革で知られる老中忠邦が居た。


小河水野系図
http://blog.goo.ne.jp/heron_goo/e/694986f5283c9212e7114538de019f95

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。